喪失
ルーダが右目に突き刺した針を抜くと、痛みで咄嗟に右目を手で押さえた。手は血で染まり、段々と化け物の姿がぼやけていく。ロゼットが即座に治療をするも、傷が塞がり血が止まっただけだ。右目の視力は戻らない。
「ルーダくん、なんでこんな事…」
「この目は…カイルさんに、あげます。ボクの大事な物…地獄に持って行ってください。寂しく、ないように…」
化け物は酷く動揺し、がむしゃらに暴れ始めた。だがそれは誰かに害をなそうとしたのではない。ただ、化け物は苦しいだけなのだ。
「ウガガ…ギャルルル。」
「間違ッテタノ?家族ミンナ不幸ニシタノ、ワタシガ?」
化け物は咆哮を上げ、自分の肌を食い破り始めた。無数の触手を出し、魔物の首を刎ねた。化け物は心から死を望み、痛々しいほどにボロボロになるまで自身を追い詰めた。どれだけ体に傷をつけても、傷は一つも塞がっていない。
「どういう事?心臓を切り離しても生きていたのに、何故急に再生しなくなったの?」
「…心からの死を、望んでいるから?」
ロゼットは無意識にそう口に出していた。思えばアウネロは、生への執着によって精神だけでもロゼットの体で生き永らえていた。その瞬間、ロゼットの中で彼女が消滅する時の言葉が蘇ってきた。
「ロゼの思い出の一部になれたなら、もう悔いはないわ。」
アウネロはロゼットの中に自分と同じ苦悩する心を見出した。ロゼットとの出会いを通じて、彼女は自分の死を受け入れ、未練を残さずに消えてしまった。消えたい、という直接的な感情はなかったとしても、これ以上生きる意味が見つからなかったのも事実だろう。
今のアイリスも、同じなのではないだろうか。双子の兄のカイルが病死した時、彼女は消えることを願うと同時に、自分の行動の責任をとらなくては、という思いもあった。しかし今は違う。家族をなくした悲しみは長い年月を経て薄れ、本当の家族のように愛していたルーダは自分のせいで目を潰した。彼女にとって、これ以上生きる意味はもう何も無い。
「(カイルさんにとって、ルーダくんの存在はそれほど大きいものだったんだ…)」
カイルにとってルーダは自分の生きる理由も同然の存在だった。ルーダもカイルのために自分の片目を犠牲にした。二人の絆は、ロゼットの想像以上のものだったのだ。
化け物は触手を乱暴に振り回していたが、ロゼット達を攻撃しようとはしなかった。体の再生が止まった今、必ず仕留めなくてはならない。しかし化け物のどこを狙えば良いのか、全く見当がつかなかった。暫くの沈黙の中で、ルーダが手を上げた。
「…触手や針が出てくるドロドロの部分を狙うのはどうでしょう。あの化け物に有効だという確証はありませんが…」
「やってみましょうよ。ルーダくんも戻ってきたし、五人がかりならやれますって!」
「はい、それに…ポコロ達もいますから。」
最初にレペットが触手に近づき、小さい口で触手の内一本に噛みついた。化け物はこちらに気が付き、取り込んだ魔物の防衛反応により複数本の触手でレペットを捕まえようとした。レペットはその小柄な肉体と俊敏な動きにより触手を巧みに避け、触手の本数は増していった。そして全ての触手が束になった瞬間、ラヴィーネはそれをまとめて斬った。更にレゾナンスの剣刃から炎を出し、化け物の体に着火させた。
化け物は先が鎌のようになっている触手で、着火した箇所を切り離そうとした。リエーテがすかさずクナイを触手に突き刺し、リシュアが体を回転させながら回し切りで触手を切り落とした。化け物の注意は完全に着火した触手の方へ向いていた。
その時、ルーダを背に乗せたフォーゼが反対方向から距離を詰めた。ルーダはフォーゼの背から飛び降り、引っ掻いて流血した傷跡に的確に鞭を叩き込んだ。彼の鞭に塗ってある毒により、化け物は痙攣して動けなくなる。同時にポコロがルーダのポケットから飛び出し、巨大化した状態で化け物の顔面を勢いよく蹴った。化け物は仰向けに倒れ込み、ドロドロの塊が露わになった。
「フロート!」
ロゼットは浮遊魔法を唱え、化け物の頭上まで飛び上がった。正面にロゼットの四倍以上の大きさの巨大な魔法陣を展開し、幾万もの鋭い氷柱を構えた。目を閉じて深呼吸をした後、ロゼットはカッと目を見開き魔法を発動させた。
その瞬間、目に見えない速さで何万もの氷柱が化け物に襲いかかった。化け物は耳に響く程の断末魔を上げ、やがて眩い光が化け物から放たれた。
光が消えてロゼットが目を開けると、そこには血まみれで倒れているアイリスの姿があった。体中に氷柱が刺さっており、蜂の巣のようになっている。誰よりも早くルーダが彼女の側に駆け寄り、一本一本丁寧に氷柱を抜いた。
「…こんな所で寝たら風邪ひいちゃいますよ。」
アイリスは目を開けず返事もしなかった。ルーダが胸元に耳を当てても、とても静かだった。彼女は既に息をしていなかった、ルーダ達の手で息の根を止めたのだ。
「カイル、さん…」
ルーダはもう一度彼女を呼んだ。ただただ返事をしてほしかった。しかし、死人が口を利くはずもなく、虚しい静寂が場を支配した。ルーダの目、潰れてしまった右目からも大粒の涙が零れた。
「がいるざん、死んじゃやだよ!また…またいつもみたいに笑って、冗談だよって!うあぁ…ごめんあさい、ごめんなさい…」
それから暫く、ルーダはアイリスの亡骸を前に泣いていた。彼の泣きながらの謝罪と嗚咽する声だけが響いた。自分の最も近くにいた人を、自分の手で殺した。今ルーダはどのような気持ちなのだろう。悲しみ、後悔、自己嫌悪…どのような言葉で表せば良いのだろう。正解などわかる筈もなく、ロゼット達はルーダが泣いているのを見つめるだけだった。
ひとしきり泣いた後、ルーダはアイリスの亡骸を抱きかかえ立ち上がった。クルッとロゼット達の方を振り返り、泣きはらした顔でこう言った。
「カイルさんのお墓…作ってあげないとですね。」
「…そうだね。せめて家族の側で眠らせてあげよう。」
ロゼット達は先程まで激闘を繰り広げた研究所を背に歩き出した。
生前、アイリスはシャボン玉の歌が好きだった。どうして好きなのか、ルーダは一度聞いたことがある。その時アイリスは、昔家族とシャボン玉を飛ばした話をしてくれた。
「私が飛ばしたシャボン玉はどんどん空に近づいていって、ついには見えない所まで飛んでいったんだ。それでね、私の兄さんが飛ばしたら、直ぐに割れちゃったんだ。あまりにも飛ばないから、兄さんがグズって泣き出したっけ。」
もしかしたらアイリスは、二つのシャボン玉に自分とカイルの人生の長さの違いを感じていたのかもしれない。早くシャボン玉を割って自分も消えたかったのだろうか。もしそうだとするなら、ルーダは少し切なく感じてしまった。
セルスター家の墓があるところに穴を掘り、そこにアイリスを入れる。優しく土をかぶせていく内に、アイリスの顔が少しずつ見えなくなっていった。落ち着いてよく見ると、アイリスは安らかな表情をしていた。彼女が苦しまずに逝けたのなら、ほんの少しだけ、ルーダは救われた気がした。