9.出版したい!
翌日ソフィアはフローラとの約束のために、ラーディントン伯爵家へやって来た。
頻繁に行き来しているおかげで、すっかり顔見知りになった執事に珍しく戸惑い顔で出迎えられた。
「お嬢様は今買い物に出ております」
「まぁ……約束をしていたのだけれど……」
執事は何度か瞬きをして、考えるような仕草をしてから言った。
「おそらくそう遅くなる前に、戻ってこられると思いますのでよろしければお待ちくださいませ」
ソフィアを客間に案内をすると、室内にはたっぷりのビスケットとスコーン。そして果物を用意していった。退屈しないようにいくつかの本も持って来てくれた。
――こんなにビスケット食べないのだけれど。
食いしん坊と思われたのだろうか? 伯爵家の出来る執事の不思議な行動に少し笑みがこぼれた。
誰もいないので椅子に深く腰をかける。
今日読み聞かせる予定の、翻訳を読んで出来を確認しているとドアがノックされた。
「やあ。ソフィアが来てると聞いて挨拶に来させてもらったよ」
「ルーカス! フローラと約束があって待たせてもらってましたの」
挨拶を交わすとルーカスも長椅子に腰を下ろした。
フローラが来るまでの暇つぶし相手になってくれるようだった。
なるほど、出来る執事はこれを予想していたのだ。
「外出予定だったんじゃありませんか?」
「まだ時間に余裕はあるよ」
ルーカスは腰に下げていた懐中時計で時間を確認して微笑む。
椅子から投げ出された足の長さに、ソフィアの目が引き付けられる。ブーツはつま先までピカピカに磨き上げられていた。
すると何かに思い至ったのかルーカスはああ、と声をあげた。
「足は大丈夫だよ。確認するかい?」
いたずらな色を瞳に宿してにやりと笑う。
「何なら今からダンスの練習でもしようか」
「ええと、フローラと会う前にダンスで冷や汗をかいたら悪いからご遠慮させて……」
ルーカスと踊れるなんて! 想像するだけで頬が赤くなるのを感じた。
それを先日の羞恥心からだと判断したルーカスは、声を上げて笑う。からかわれたと知ったソフィアはルーカスをねめつけた。
ルーカスは機嫌をとるように優しい声で軽く謝罪をすると言った。
「へそを曲げないでくれ。君の機嫌を損ねると娘に怒られそうだ。……そういえばフローラに物語を読んでくれているそうだね」
「ええ。隣国の恋愛物語よ」
「どんなものか見せてもらってもいいかい?」
「良いけれど、殿方には面白くないと思うわ……」
自分の好きな物語を貶められたくなくて予防線をはる。女性達に好まれる物語というのは往々にして男性には不評なものなのだ。
ソフィアが渋々渡すとルーカスは頁をめくり始めた。
最初は羞恥に悶えるような心地だったが、頁が進むにつれて妙な度胸のようなものが出てきていた。
真剣にノートに視線を落とす彼は、ソフィアにとって滅多にないプライベートな姿だった。
せっかくなので紅茶を飲みながらルーカスをちらちらと盗み見る。
ルーカスは熱心に字面を追っていて、ソフィアの少々不躾ともいえる視線には気がついていない。
そしてだいたいを読んで満足すると、ソフィアにノートを返しつつ言った。
「なかなか面白い物語のようだね。君の翻訳も読みやすかったよ」
「ありがとう。けれど、殿方はこういう物語お好きじゃないでしょう? 無理して肯定的なことを言わなくてもいいのよ」
「確かに普段読まない話だね。でも女性がこういうのを好むことは知っているし、それを否定するつもりはないよ。それにフローラはあまり本を読まないんだ。だから本人が楽しんで読むような本があればそれだけで嬉しいよ」
ソフィアはぎゅっと両手を組んで胸元で握りしめた。
シエナと妄想していた出版の話だが、本当に誰かが読みたがっているのか。出したら買ってくれるのかわからないと思っていた。けれど、伯爵家なら義理で買ってくれるのではないか? そして伯爵家の蔵書に迎えられるような本なら、他の貴族女性だって興味を持たないとは思えなかった。出版が、夢物語から急に現実味を帯びてきたように見えたのだ。
「それは……もしかしてこういう本があったら欲しいって思っていらっしゃる?」
ルーカスはソフィアの意気込みに驚いたようで目を瞬かせた。
「ああ、そうだね。あればフローラに買ってもいいかもね」
「実はね、私この本を翻訳したものを出版したいと思っているのよ」
「君がかい? それはすごい!」
ルーカスは本当に驚いたといった顔をしていた。そして嬉しそうな顔も。
「違うのよ、何も決まってないわ。だから、その、もしルーカスに出版に詳しい方がいたら教えていただけないかしら? 私でも翻訳したものを出版できるのかしら?」
「ああ、そういう事か。わかった。出版社にどうすればいいか聞いてみるよ」
「ありがとう! もう作者には本の感想と、翻訳して出版したい旨を書いた手紙を送ったの!」
ルーカスは目を大きく開いて、心底驚いたような顔をした。
「そうなのか!? 驚いた。ソフィア、君は意外と大胆な行動力のある女性だったんだね」
「何それ。向こう見ずだって言ってる?」
ほんの少し眉を上げて怒ったような表情を作ると笑われた。
「違うよ、意外な一面を持ってるんだなって思ったんだ」
「うーん。きっといい意味で言ってくれてるのよね? それなら許しますわ」
怒ったような表情のまま、澄まして言うと我慢が出来ないと言った様子で口を開けて笑われた。
そしてとろけるような美しい瞳を細めてこう言ったのだ。
「もちろん、素敵な一面だと思ったさ」
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