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8.好きな人

 その週の後半になっても、ソフィアは気を抜くとあの日の舞踏会のことばっかり思い出してしまっていた。

 気を抜けばメロディーが勝手に口から流れ、足は自然とステップを踏み出す。

 ルーカスに触れられていた指先の感触だって思い出せる。


 ――練習、しましょうって言われたわ。それに、大切な従妹って。


 ソフィアは開いているだけになっていた辞書を閉じると、紙にシミを作るだけだった羽ペンを置いた。はぁ、とため息を吐いて目を閉じる。

 高価な紙を無駄にしてしまったけれど、今はそんなことはどうでも良いことだった。

 大切な思い出として胸に刻まれた舞踏会の記憶は、この先どんなことがあったとしてもソフィアの中で輝き続けるだろう。

 

 ソフィアはインクのシミがついた指先をぼうっと見つめた。

 

 ソフィアはもう、間違いなく自分がルーカスに恋をしていることを認めざるを得なかった。

 男爵家の未亡人でしかないソフィアに長年の友人のように振舞ってくれて、ソフィアの失敗も優しくカバーしてくれた。

 

 ――気難しい? いいえ、むしろとても優しい人だわ。


 社交界の人たちは今までルーカスのことを誤解していたとしか思えない。そのことは多くの人にとって、勿体ないことだっただろう。

 

 もう引き返せないところまで思いは育ってしまっていた。

 この恋を捨てろと言われたら、ソフィアの心は粉々に砕けてしまうかもしれないとさえ思う。

 

 ――奥様を愛していらっしゃるのにね。


 叶う見込みのない恋だ。

 たとえそうだとしても、ソフィアはこの恋をしたことを後悔なんて絶対にしないと思った。

 こんなに素敵な人を好きになった自分を誇らしくさえ思うのだった。





 ソフィアは親友、メルトランド子爵の家でもガレアントの恋愛物語を読み上げていた。

 予想通り、フローラ同様シエナも本に興味を持ち、ソフィアの翻訳に熱心に耳を傾けている。

 ふたりの為に用意されたビスケットやサンドウィッチはひとつも手を付けられていない状態だ。

 

 シエナは時折、翻訳に対して鋭い質問もしてくれるので、ソフィアも自分の書いた文章の違和感に流されず直すことができている。


「とっても面白い本だわ。うちの国の言葉では発売されていないの?」

「出たばかりだからないみたいね」

「勿体ないわ! この物語を読みたい女性はたくさんいると思うの。きっと皆夢中になるわ……」


 ソフィアもそうだと思う。現に、ソフィア、フローラの次にシエナも続きが気になっている。

 シエナがソフィアの翻訳ノートを手に取り、めくりながら言う。

 

「特に心理描写が巧よね」

「わかるわ。本を読んでいると、私も主人公と同じように心が苦しくなるのよ」

「著者は女性かしら?」

「そうみたいね。だからお姫様の気持ちに感情移入できるのかしらね?」


 シエナはわかるわ、と言いたげに大きく頷くと紅茶で喉を潤した。

 目を細めてうっとりと微笑む。

 

「私の子どもにも大きくなったら読んであげたいわ」

「是非読んであげて。女の子だものね? きっと喜ぶわ」

「まぁ、私はガレアント語を読めないのだけどね。ソフィアは凄いわね」


 ソフィアは顔を赤らめて首を振る。


「たまたまよ。家庭教師の女性が語学に堪能だったから教えていただいていたの。他の言葉も習ったけど忘れちゃったし」

「みんながガレアント語を読めればいいのだけど」

「それは難しいわね。自国の言葉さえやっと読めるくらいの人たちも多いもの」


 シエナが両手をぱちんと合わせると言った。

 

「そうよ、ソフィーが翻訳しているのを出版すればいいのよ」

「えぇ? 素人のダメダメ翻訳よ。販売なんてできないわ」

 

 苦笑するソフィアだったが、シエナは本気のようだった。


「何でも最初は粗削りなものよ。精査されて輝いていくんだから」

「……確かにそうね」


 うまい事を言うと思ってしまった。

 それを前向きな発言ととらえたのか、シエナが嬉々として喋り出した。

 

「そうなるとさっきのセリフちょっと直したいわね」

「”私の瞳の中にあなたがいる”のところ? 私も違和感があったのよね」

「そう、そこよ。ここは騎士が姫に愛を伝える場面でしょう? もっとロマンチックなセリフを言っているはずよ」

「確かに。少し直訳し過ぎたわ。”私の瞳にあなたが映ってる”とか?」


 シエナはほっそりとした手を唇に当てて考える。

 目を閉じて唇をすぼめて唸る。


「最初と変わらないじゃない。……うーん。”私の瞳に映るあなたへ愛していると伝えたい”とか?」

「それじゃ原文より長くなってるわ」

「だって、好きな方には情熱的な言葉を言っていただきたいじゃない?」


 ソフィアは少し悩んで、そうね。と呟いた。

 愚直に翻訳してつまらない物語にするよりも、もっと全体の雰囲気を大切にすべきかもしれない。


「例えばソフィーはどう情熱的に口説かれたい?」

「うーん。難しいわね」


 情熱的にルーカスに口説かれたら。ありえないけれど、考えるだけでソフィアの心臓は早鐘を打ち、瞳にはうっすらと涙の膜が張った。榛色の瞳が室内の光を反射しキラキラと煌めいている。

 

 シエナは目の前に座っている長年の友人をまじまじと見つめた。長年の友人だと思っていた人が、まるで知らない人のように見えたからだ。

 ほっそりとした肢体に白い肌。ドレスも仕立てたばかりの物だろう。髪の毛は流行りの髪型に結い上げられていて、先日会ったときよりもずっと垢抜けたような印象がある。

 

 でもシエナの感じる違和感には当たらなかった。

 眼差しや声色に、今までにない艶めきを感じるのだ。

 シエナは、淑やかに口元に手を当てると言い当てた。

 

「もしかして、あなた好きな殿方ができたの?」

 

 ソフィアは唸り声をあげると視線を窓の外にそらした。

 外はいい天気だった。


「そうなのね!」


 シエナはほとんど悲鳴のように叫んだ。ソフィアはますます視線を合わせられなくなり、俯いて膝のスカートの皺を睨みつける。


「どんな方? 私も会ったことがあるかしら?」

「……どう、かな」


 シエナがまるで10代の少女のような声を上げた。きっとさっきの恋物語を聞いているときのように瞳を輝かせているのだろう。

 でも残念なことにシエナの期待するような結果にはならないのだ。

 だって好きな人には好きな人がいるのだから。

 だからソフィアは眉を少し下げて伝えた。


「でも、結ばれることのない方だわ」


 何か事情があると伝わったのか、シエナはさっきまでの浮足立った様子から一転、切なそうな表情になった。

 そして、ひとことだけ呟いた。


「そうなのね」


 余計なことを聞かない親友の聡明さがありがたかった。

 ソフィアは少しだけ瞼の奥が湿るのを感じた。


 シエナは空気を変えるように明るく言った。

 

「ソフィー、さっきのセリフだけど良いのが浮かんだの」

「なあに?」

「”あなたしか見えない”」

「とっても素敵だわ」


 あなたしか見えない。そう言われたかった。

ここまでお読みくださってありがとうございます。

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