4.出会い
伯爵家への訪問は、ソフィアの人生の中で忘れられない出来事になった。
まず、一等地の大通りに面した大きなお屋敷の前に馬車が止まったとき、その大きさと美しさに圧倒されてぽかんと口を開けてしまった。
義父には申し訳ないがソフィアの住んでいる、集合住宅のような男爵家のタウンハウスとは全く違った。
ホールには代々の家族の肖像画が飾られていて、案内された客間に向かう途中でも廊下に柔らかな絨毯が敷かれていた。花瓶には新鮮な花も生けられていて、かぐわしい香りが漂っている。
多分きっと庭も持ってると思う。そんな大きさだったから。
持っている服の中で一番ふさわしいと思うものを着て行ったが、明らかに見劣りしていたと思う。対照的に義父は堂々と歩いていて、ソフィアには彼こそがこの家の主人のようにも見えるくらいだった。
完全にソフィアは屋敷の雰囲気に飲まれていた。
そして案内された客間ではこの家の主人である、伯爵がいたのだけれど……。
義父よりも背が高く、黒髪は太陽の光を浴びて輝いていた。しかしそれ以上に、魅力的だったのは、あのエメラルドのような緑の瞳だ。まるで宝石が命を持って輝いているよう。
その瞳がソフィアを捉えて微笑むと。
それがもう。
「本当に、素敵だったのよ……」
そこまで聞いて、ソフィアの親友のシエナは我慢できずに笑い出してしまった。
大きな形の良い褐色の瞳が糸のように細くなる。
薄桃色の唇からは小鳥の歌声のように、綺麗な声が笑い声となって響く。
ソフィアははっと夢から覚めたように瞬きすると、シエナを軽くねめつけた。
「どうして笑うの?」
「ごめんってば。違うのよ、可笑しかったからじゃないの。ソフィーの目がとっても輝いていたからきっと本当に素敵だったんだろうなって思ったのよ」
「そう見えなかった気がしたけれど」
シエナの白く美しい手が頬に添えられ、小首をかしげる。さらりと頬に髪の毛が一房落ちた。
ソフィアとシエナは少女時代からの親友だった。実家の領地の近くにシエナの実家の領地もあって、シーズンが終わった後にシエナが王都から領地に帰って来るとよく一緒に遊んだものだった。
光を集めたような見事なブロンドの髪のシエナに、栗毛で地味なソフィアは最初は気後れしてしまっていたけれど、話してみるととても気が合った。
シエナはソフィアよりもひとつしか年上じゃなかったので、もちろん舞踏会には出たこともないのだけれど、王都でのキラキラした街並みやお茶会の様子を聞くのがソフィアは大好きだった。
そしてソフィアは一足早く男爵家へと嫁入りし、シエナもその2年後に子爵家へと嫁いでいった。
シエナとは、結婚している間はそれなりに会う機会もあったが、夫が亡くなって喪に服している間は領地にこもりきりだったので会うのは久しぶりだった。
もちろん、近況は手紙で報告しあっていたが。
シエナは久しぶりに会ったが相変わらず淑やかで美しい女性だった。
ソフィアは過去を懐かしみながらビスケットを口に運んだ。
「そのビスケット美味しいでしょ。こっちのケーキも美味しいから是非食べてね」
「美味しいわ」
「よかった。シェフに伝えておくわ。それで、ソフィー、さっき私に何か相談があるって言ってたわよね」
「ええ、そうなのよ」
打算で受けた付き添い役だったけれど、伯爵家が想像以上に立派すぎてこのままでは伯爵家にふさわしくないと不安になったのだ。
ソフィアはフローラの事を思い出していた。
栗色の髪は緩くウエーブを描いていて、毛先が鎖骨の上でくるりと形をとっていた。緑の瞳は父親譲りで、新しい人との出会いにキラキラと輝いていた。
受け答えには機転がきいていて、快活さと思いやりも感じた。一言話せば気難しい男性でも彼女の朗らかさの虜になるだろうなと思った。
「私ずっと夜会に出てなかったから、殿方の情報を知りたいの。フローラ嬢にふさわしい方っているかしら? もちろん伯爵が考えていらっしゃるだろうけれど、ふさわしくない方と踊りそうになったら止めないといけないでしょう? それに、私ドレスが少し、アレなのよ。ちょっと古いの。お直しできるものはしたいのだけど、新しく作ってもいいってお義父様からお金をいただいたから良い仕立て屋があったら教えて欲しいわ」
ソフィアはそこで言葉を切ると一旦紅茶で口を湿らせて続きを言った。
「それからね、まだ先の話なのだけど家庭教師の職をいただけそうなところってあるかしら? 将来的に必要だから……」
シエナは聞き終えると思いやり深い口調でゆっくりと口をひらいた。
「ソフィア、もちろんあなたの状況は理解しているわ。その時が来たらできるかぎり力になるって約束する」
「ありがとうシエナ! 助かるわ」
「でも今はフローラ嬢のことよね。そっちも任せて! リストを作ってあげるわ。それから仕立て屋も。夜会はもうどこに出席するか決めているのかしら? もし決めかねているのなら私も出るのがあるから一緒に出ましょう」
「助かるわ。本当は不安だったの。久しぶりなんだもの」
「衣装は仕立て屋もいいけれど、すぐにはできないでしょう?よければ私のものを貸してあげるわ」
「そこまでは悪いわ」
首を振って遠慮するソフィアにシエナは瞳を瞬かせて言った。
「作ったけれど、やっぱりイメージじゃなかったドレスがあって。背格好は同じくらいだし、きっとあなたに似合うと思うのよ。ドレスも着てもらった方が喜ぶわ」
魅力的な申し出だった。お直しも新しく仕立てるのもすぐには出来上がらない。
ソフィアは瞳をくるりと回して考え込み、遠慮がちに言った。
「借りてもいいかしら?」
「ええもちろん!」
そしてシエナは淑女らしく控えめに笑うとつづけた。
「ソフィア、あなた今とっても素敵な顔してるわよ」
「え?」
「あなたのもうひとつの目標も私応援してるからね!」
恋のことだ。
モーリン夫人への愚痴の流れと勢いでつい口走ってしまったが、いまさら恥ずかしくなり頬が赤くなる。
「からかわないで」
ごまかすように、ドレスの皺を直すふりをする。
「いいじゃない。少しくらい。だってこんな時間、久しぶりなんだもの」
そう言って彼女は表情を柔らかくした。褐色の瞳には懐かしさが浮かんでいて、ふたりで夢や希望を繰り返し話していた少女時代を思い出していることは明らかだった。
親友と会った翌日、早速ソフィアはフローラと一緒に買い物へ行くことになった。
ソフィアも新しい年下の友人と仲を深められたらと思っていたので嬉しいお誘いだった。
昼用のドレスを身にまとい、スクエア型の襟には胸元を見せすぎないようにタッカーを装着してから上着を羽織る。帽子と綿の手袋、それから傘を持つ。フローラに時間があれば公園を散歩したいとも願われていたからだ。雨が降りそうな曇天だったし、陽が強すぎても役立つはずだ。
迎えには伯爵家の馬車をよこしてくれると言っていた。
義父が昼から馬車を使いたがっていたのでありがたく申し出を受ける。
馬車がフォルス男爵家の前にとまり、乗り込んだ時にソフィアは驚きで声をあげてしまった。
フローラだけでなく、伯爵本人が乗っていたからだ。
フローラはいたずらが成功したように茶目っ気たっぷりに笑っているし、伯爵は眉を下げて微妙な表情をしている。
驚かせたことを申し訳なく思っているようだった。
「伯爵も仕立て屋にご一緒なさるの?」
ソフィアは誤魔化すように咳ばらいをして、礼儀正しく馬車の対面に座ると問いかける。
「お父様とも一緒に街を歩きたくてお願いしましたの」
クスクスと笑いながら伯爵より先にフローラが答える。
今日も若く美しいフローラに似合いのドレスと揃いの胸元までの上着を羽織っている。白とピンクの小花の刺繍が施されたドレスは、けばけばしくなく彼女の純粋さや若々しさを際立たせていた。
――綺麗なドレスだけど、洗うのが大変そうだから私には注文できないドレスだわ……。
ソフィアは無意識に彼女のドレスの裾を見つめて思った。泥汚れのない完璧な美しさだった。
外出用の手袋にもシミやほつれも見えなかった。
使用人の数やドレスを用意できる伯爵家との財力の差をこんなところでも感じてしまう。
ソフィアは場違いなことを考えているのは感じていたが、自分が付き添い役として相応しいのかを自問自答してしまうのだった。
「お父様がいると馬車も自由に使えるから便利よ!」
「フローラが何も伝えてなかったようで申し訳ない」
帽子を軽く上げてお辞儀をされ、慌てるソフィア。よく考えたら、大事な娘なのだからソフィアの人間性を見極めておきたいとも思うはずだった。
「いいえ、謝る必要なんて。伯爵がついていてくださるなんて心強いですもの」
「君たちの買い物の邪魔をするつもりはないんだ。仕立て屋に居る時は私も他の店に行っているから、2人は好きなだけ買い物を楽しむといいよ」
「もちろん!流行りのレースも見てみたいの」
フローラが若い女性らしく、溌溂と答える。
王都の若い貴族女性の関心事の1つは綺麗なドレスだ。伯爵もそれは理解しているのか、余計なことは言うまいと思っているのか、ひとつ頷くだけに留めた。
「ドレスなんてどれも同じだろう」と男性が言いそうなことを言わずにいる様子に、ソフィアは密かに好感を持った。
そして、そういえばと付け加えてさりげなく話題を変えた。
「私のことは伯爵ではなく、ルーカスと呼んでくれて構わない」
「え、でも……」
ソフィアは困惑して言葉を詰まらせた。
失礼では? そう言う前にルーカスは微笑んで言った。
「伯父上の息子の妻なのだから、君は私の従妹だろう。身内なのだから気にせず呼んでくれ」
「私もフローラと呼んで。ねぇ、お父様たちがいとこ同士なら、私との関係って何になるのかしら?」
「フローラはソフィアの従姪になるんだ。だからフローラにとっては従伯母だろうか」
「なんだか聞きなれないわ。私はソフィアお姉様って呼ぶわね」
飛び切り可愛らしい女の子に、いいでしょう? と期待を込めて尋ねられて、一体どこの誰が断れるだろうか。そんな人はきっと心を悪魔に取られてしまったに違いない。
それに、名門伯爵家に親近感を持って接してもらって嬉しくないわけがないのだった。
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