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湯巡のみせる夢現

作者: 西瓜立秋



 東に湾、他の三方を山々に囲まれた場所にある温泉地。無明館はその山際にあった。最寄りの駅からはやや遠く、バスやタクシーを使う必要があるのだが、歩けない距離ではないと瑞樹桂は重い荷物を持って徒歩でやってきた。これがとんだ間違いだった。道中はひたすら坂道を上るばかりで、緩急こそあれど道が平らになることはなかった。桂は資料にと持参した分厚い書籍を恨んだ。続けて、自身の体力のなさを憎んだ。大学生になって三年経つが、高校生の頃と違い、意識して運動というものをしていないのが原因かもしれない。もっと意識的に運動をしよう……と小さく反省した。

 そうしてようやく辿り着いた無明館は歴史を感じさせる古い二階建ての温泉旅館だった。

 敷地いっぱいにコの字型の建物が広がり、古くとも手入れが行き届いている。不便はあったとしても、心地の悪さはなさそうだった。

 間口の広い玄関では作務衣姿の若そうな男が深々と頭を下げている。どうやら旅館の支配人らしい。羽織の襟の部分に『支配人』と刺繍がしてあった。


「いらっしゃいませ。薬湯旅館・無明館へようこそおいでくださいました」


 黒々とした頭をあげ、髪と同じ色をした目が真面目そうに桂を見つめた。桂はどこからともなく湧き出る自分の不安をひた隠し、口を開く。


「予約した瑞樹桂と申します」

「瑞樹殿。お待ちしておりました。お手数ですがこちらで宿帳に記入をお願いいたします」

「……殿?」

「なにか?」

「いえ……」


 つい、口から漏れた言葉を誤魔化しながら、足早に受付のデスクへ向かう。元は大木であったであろう一枚板のカウンターデスクで宿帳にペンを走らせた。書き上げたものを確認した支配人は小さく頷き、宿帳をしまうついでに鍵を取り出す。


「――お疲れさまでした。それでは、本日のお部屋へご案内いたします。お部屋は『蜻蛉弟』です。こちらへどうぞ」


 支配人は足音も衣擦れもなく、きびきびと先を歩きだした。

 一方で桂は、疲労で重さが増したリュックや上着をがさがささせながら追随した。辺りは物音をたてるのが申し訳ないほど静かだった。建物内にはBGMはおろか、生活音や人の気配が一切感じられない。まるで桂自身が入ってきてはいけない場所に迷い込んだ異物のようだ。

 建物を通り抜け、日本庭園を臨む廊下を渡り、やがて独立した家屋のような特別な場所まで入り込む。急こう配の階段を上り、さらに上り、上って……。

 支配人は右側のドアの鍵を開けた。


「こちらがお部屋になります」


 ドアの先は、硝子戸を多用した書院造りだった。

 板の間、次の間、本間、化粧間と、一人で宿泊するには十分なほどの部屋が展開されている。本間と次の間には広縁が設けられ、庭の景色を眺めるためのテーブルと椅子が置かれていた。

 書院の欄間、手の込んだ障子、歪なガラス……よくよく観察すると繊細な職人の技があちこちで見受けられる。現代の一般的な洋室ではもちろん、和室にも滅多に使われないような技法が巧に使われているのだ。流石に水周りは使いやすいように改装されているようだが、他の部分は建てられた当時のままを残していた。

 作業場として、これほどまでに雰囲気のある場所はないだろう。同時に佇まいに圧倒される――大学生の身には余るほどの高級旅館の一室だ。本当に二泊食事つき一万六千円の部屋なのだろうか。頭をよぎった疑問を掘り下げようとした瞬間、支配人から声をかけられた。


「気に入っていただけましたでしょうか」

「……はい。おかげで作業がはかどりそうです」

「作業?」


 桂はリュックを床に下ろしながら「ええ」と返事をする。


「実は趣味で小説を書いているんですよ。今回予約したのは場所を変えて執筆をしようと思い立ちまして」

「なるほど、そういうことでしたか。それではお声がけはなるべく最小限にした方がご都合よろしいでしょうかね」

「そうですね……いや、でもあまりお気遣いなく。締切があるわけではないですし、声をかけてもらえた方がありがたいこともありますから。実のところ、サボっている時間の方が長かったりするので」


 桂が苦笑すると、支配人もつられて微かな笑みを零した。


「ははあ、わかりました。ではお食事をお運びする際にはお声がけさせていただきます。瑞樹殿は本日より二泊の宿泊で予約を承っております。朝食、夕食はお部屋にお運びする予定ですが……瑞樹殿、昼食はご希望されますか? 簡単なものでよろしければご用意させていただきますが」

「可能であればお願いしたいですね」

「かしこまりました。では、昼食もこちらのお部屋に運ばせていただきます。また、お布団なのですがご自分で上げ下ろしをなさいますか?」

「はい、自分でやりますよ。布団はあそこの、大きな押し入れの中でしょうか」

「はい、その通りです。シーツは既にかけてありますので、ご自由な場所にお広げください。他になにかご不明点などは?」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」


 支配人は最後に内線電話の場所を教えると、腰を低くしながら、やはり音を立てずに去っていた。

 人がいなくなると途端に空気が冷たくなった気がした。

 桂は広縁に出た。窓の下は見事な日本庭園が広がっていた。葉の落ちた木々。巨大な岩を伝って作られた池泉。周囲を取り巻く石灯篭。今は季節の関係で随分と寂しい色合いをしているが、あたたかい季節には見事な色の移り変わりを見せてくれることだろう。

 ふと、窓を開けてみたくなって窓枠の鍵を開けた。

 手に力を込めたが、木製の窓枠は微かな歪みのせいか、なかなか開かない。苦労して半分ほど開けると首筋に冷たい空気が触った。

 ふるりと身を震わせたタイミングと同じく、視界の端に金色の動くものを捉える。

 目を細めてよくよく見てみれば、「きゃっ、きゃー!」と黄色の声をあげて走り回る着物姿の幼い子供だった。動きがおかしいと思ってさらに観察してみると、どうやら二人組らしい。桜のような花柄に一方は水色、一方は灰色の着物で、転げるように追いかけっこをしている。子供特有の、甲高い声に煩わしさが先立ったが、今にも池泉に落ちてしまいそうな危うさに苛立ちどころではなくなった。

 どうしようかと視線を外した直後、ドアを控えめにノックする音が聞こえた。続けて可愛らしい声。


「お仕事中に失礼いたします。お伝え忘れていたことがありまして、お部屋に入ってもよろしいでしょうか」

「あ、ああ……どうぞ」


 入ってきたのは着物に前掛けを付けた若い女性だった。色素の薄い金髪をリボンのようにまとめ、後頭部には赤い組紐がちらりとのぞいている。


「失礼します、瑞樹殿。御挨拶が遅れまして、わたくし、薬湯旅館・無明館の女将でございます」

「……殿」

「なにか?」

「いえ……」


 敬称に殿と付けられることに慣れていないだけだ。

 この旅館では一貫して、客に『殿』と付けるらしい。


「瑞樹殿。御食事の時間についてですが、夕食、朝食共に七時からでよろしいでしょうか」

「ああ、構わないですよ。でも、それだけのために部屋まで?」


 食事の時間の確認だけであれば、内線電話で事足りたはずだ。桂が尋ねると、女将は微笑みながら答えた。


「あ、いえ……それと、お湯をお持ちいたしましたので、こちらに置かせていただければ、と。よろしければお茶をいれさせていただきますが」


「それじゃあ、せっかくなのでお願いします」

「承知いたしました」


 女将は廊下からポットを持ってくると、本間のテーブルの脇に置いてお茶の用意をはじめた。しばらくすると急須から湯飲みに熱い茶が注がれる。


「こちらもよろしければどうぞ。春に摘んだ蓬を使った草餅です」

「ああ、いただきます」


 ポットと一緒に持ってきたのであろう、小皿にのった和菓子を茶に添えられた。茶請けの草餅はきなこがまぶしてあり、驚くほど餅によく合った。ほんのりとした甘みが蓬の味を際立たせている。


「それでは瑞樹殿、お邪魔いたしました。御用がありましたら遠慮なくお申し付けくださいませ」

「わかりました」

「小説のご執筆、頑張ってくださいね」

「はは……ありがとうございます」


 支配人同様、深々と頭を下げた後は音もなく部屋から立ち去っていった。

 桂が溜息をつくと、再び冷たい空気が部屋に流れ込んできた。

 それにしても。

 支配人といい、女将といい、随分と年齢が低いところが気になる。見た目だけで判断するならば桂と同年代か――女将に至っては年下のようにも見受けられた。

 旅館の外観や内装からして、歴史ある建物であることは間違いない。いかにも古式ゆかしい温泉旅館を若い二人が切り盛りしているというのは違和感を覚えた。敷地に入って以降、彼ら二人以外に従業員らしき姿を一切見かけないというのもおかしなものだ。しかし、なにかの海外小説で、執事や給仕、サービスを提供するプロフェッショナルというものは気配をまったく感じさせない――という話を読んだことがある。旅館に自分以外の人間がいないような空間作りもサービスの一環なのだとしたらぐうと言う他にない。

 そういえば、先程の子供たちはどうしているだろうか。窓を閉めるついでに外を覗き込む。端正な庭園は、最初から子供たちなどいなかったかのように静寂に満ちていた。




 軽快なタイピング音が部屋の中に響く。

 客室に入って二時間ほど。桂は執筆に集中していた。

 支配人に告げた通り差し迫った締切はないが、なにか書いていないと落ち着かない。今は、以前にストックしておいたプロットを短編にまとめ直したものを書き起こしている。おおよそ、文庫六十ページほどの量になる予定だ。

 切りのいいところで手を止め、書き上げた文章にざっと目を通す。誤字脱字を修正したところで保存をかけ、窓に目を向けた。

 チェックインをしたときには明るかった空が宵に入っている。はるか遠くに黒い影と化した山々の連なりがうかがえ、微かに海の波音も聞こえてくる。石灯籠には明かりが灯り、池の周りを縁取って水面にも光が映り込んだ。二時間前とは異なる幻想的な日本庭園が広がっていた。思わず溜息をついて眺めてしまう。


(こんなところに住んでいたら、目が肥えるだろうな……)


 照明の届かない庭の境界がどの辺りだったのかわからないが、明るくなったら庭をじっくり散歩するのも悪くないだろう。

 ラップトップを閉じた。

 少し休憩だ。できれば夕食前にもう一度原稿に向き直りたいところだが、どうだろうか。桂はそんなことを考えながら、うっかり机の上で両腕を組んでしまった。自然と頭がその上に乗り、うつ伏せの体勢になる。


(なんだか、眠たくなって……いや、夕食の時間までは……けど……しかし……だが……)


 今日はこの宿に来るために割と早起きをして、移動していた。実際に動いた時間は微々たるものだが、慣れない電車移動は緊張感だけで疲れるものだ。なにより、駅から宿までの徒歩移動は運動不足の身にしたらかなりの運動量で、睡魔に襲われるのは当然の結果といえた。

 桂は自分で自分を納得させると、目を閉じた。

 もう、なにも考えられない。






 夢を見た。


『技法の面からすれば構成は――』

『独創性というべきなのか――』

『割と印象が――』


 自分の前に文字が並ぶ。ただの文字列ではなく、意味を持った文章だ。

 印刷された明朝体や、丁寧につづられた細い手書き、あるいは赤く滲んだ殴り書き。ひとつひとつを丁寧に読み進んでいるはずなのに、何故か目が滑る。読んでいるつもりで読み飛ばしている。ただ文字を眺めているだけで頭の中には意味として流れてこない。だというのに読んだ気になっているのは、この文章を一度目にしているからだ。

 自分の作品に対する校正。感想。講評。優しく甘い言葉もあれば、目にするだけで痛みが走るようなきつい言葉もある。だがどれひとつとして、否定できるものはない。


「この章はもう少し、先に持ってくれば余韻を出すことができたかもしれないね」

「君の言う通り、ここは実験的に書いたところだよ」

「ありがとう。そう言ってくれると悩み抜いて書いた甲斐がある」


 僕は白い紙の象形文字のような言葉たちに、いちいち声を返した。

 返事はない。しょせんは独り言だ。

 文字から目を離すと、そこは巨大なスクリーンとバーカウンター、ダーツマシンのある広めの会場だった。僕が所属しているさかしま文芸サークルが長年使っている貸切パーティ会場だ。歓迎会や飲み会、お祝い事。パーティとは名ばかりでサークルのメンバーが集まるときには大抵利用させてもらっている。先程までの文字は消え、代わりに目の前には色とりどりの酒瓶が並んでいた。どれもが見知らぬ異国の酒だった。


「瑞樹くん、君も来てたんだね」


 背後から声をかけられる。

 振り返ると先輩が立っていた。卒業して社会人になり、サークルから遠ざかっていた島崎葛だ。立ち姿が美しく、常に舞台に立っている演劇人のように真っ直ぐだった。

 僕は彼が苦手だ。声をかけられて、緊張で腹がぎゅっと押さえ込まれたのがわかる。振り返るんじゃなかったと思ってももう遅い。目を背けたくても逃げられない。


「久しぶりだね、元気だったかい」

『文章に覇気がないんだ。元気がないというより、血の通った人間のリアルさがない。つまりね、人の心をわかっていないんだよ』

「まだ、あの本屋のカフェでバイトを? この前、たまたま寄らせてもらったんだ」

『忙しそうなバイトをしている割に、小説には活かせていないようだ』

「そうだ、君の書いた話。また読ませてくれないかな。君の小説は雰囲気があって面白いから、担当さんにも見てもらいたいんだ」

『面白いかどうかと言われたら微妙だね。結局なにが言いたいのかわからない。独り善がりな言い回しは絶妙だけれど』


 実際の声の下に、白い字幕の文字が浮かんでいるようだ。

 目の前の人間がひどく恐ろしいものに思えて、体がすくんだ。重力が倍になったかのように動けない。

 恐怖の中、微かに異なる感情が湧いているのがわかる。

 僕は堪らなくなって声をあげた。




 勢いよく起き上がった瞬間、意識がさっと戻ってくるのが感覚でわかった。まるで今さっきまで寝ていたのが嘘のように思考がすっきりしている。


「夢……?」


 目覚めの爽快感とは真逆に、心音はひどく高ぶっていた。

 耳の中に心臓が生えたかのように音が全身に伝わっていく。深く息を吸うと、続けて何度も息を零した。

 組んでいた腕よりも手の方が気になって腕組みを解く。

 両手は指の節々が痛むほどに強く握り込んで固めていた。そっとこぶしを開こうとしてもなかなか広がらない。


「だいじょぶ?」

「へーき?」


 両側から声をかけられ、桂は慌てて顔を上げた。

 見知らぬ幼子が二人、同時に桂から飛び退く。


「えっ……なっ、なんだ、君たち……!?」

「なんでしょう!」

「君たち!」


 二人は桂の言葉を反芻した。小さな手足を大きく動かし、なにが面白いのか笑い声をあげてテーブルを回遊し続けている。二人は着物の色以外はそっくり鏡写しの双子のようだった。幼児らしい丸っこい顔立ちに、大きな目がくりくりと愛らしい。だが、声をあげて本間を走っている姿は可愛い追いかけっこというより不気味な儀式の最中といった方が相応しい。激しい動作に翻弄され、金色の髪は流動し、着物の桜柄は上下に揺れた。着物には見覚えがある。庭で遊んでいた子供たちが着ていたものだ。

 桂がぽかんとしていると、部屋の外から「瑞樹殿、失礼してもよろしいでしょうか……!」と切羽詰まった声が響いた。桂が返事をすると慌ただしくドアが開いて、女将が本間に入ってきた。


「やっぱりここにいた……! 申し訳ありません、瑞樹殿……うちの子供たちなんです。客室に入ってはいけないと言ってあったのですが……」

「ごめんなさーい」

「ごめんねー」


 まるで後悔のない、軽妙な言葉が桂に向かって投げかけられる。「こらっ」と女将が小さな声で叱り、改めて深々と頭を下げた。


「あとでよく言い含めますから、ご勘弁を。どうか、申し訳ありません」

「だってぇ」

「だってぇ!」


 不服とばかりに二人がふくれっ面になる。


「夢、見てたから起こしてあげたかったんだもん!」

「もうすぐごはんだから、起きないといけないんだもん!」

「だからって勝手にお部屋に入っちゃ駄目でしょ。怖いことなのよ、いきなり知らない人が入ってくるのは」

「んむぅ……」

「むー……」


 するとようやく観念したのか、桂の傍まで歩み寄り、渋々といったように「ごめんなさい」と小さな頭を下げた。二人同時、左右からのステレオのような謝罪だ。

 桂はそんな幼子の仕草に苦笑しながら、まずは女将に向かって言った。


「特になにかあったわけではありませんし、気にしていません。今後、気をつけてもらえればそれでいいです」


 ほっとしたような女将を横目に、今度は二人に話しかける。


「……起こしてくれてありがとう、でも今度からは勝手に入らないでほしいな」

「はぁい!」

「はーい!」


 本当に反省しているのかどうかは定かではないが、彼女たちは元気な返事をして、またぐるぐると部屋の周遊を再開した。走っているだけで楽しい年頃なのだろう。女将は困ったように二度目の「こらっ」を発した。


「ごはん、食べてね!」

「お風呂、入ってね!」


 絡まりそうな足を上手に弾ませて、今にも倒れそうな幼子二人組は部屋から出て行った。小さな二つの台風のような二人だ。


「瑞樹殿、申し訳ありませんでした。改めまして……お食事のご用意ができましたので、こちらにご用意してもよろしいでしょうか」

「あ……ああ」


 女将が立ち上がり、桂は急いでテーブルの上のラップトップをどかした。夕食の熱気がすぐ近くから漂ってくる。途端に急激に胃液が溢れ、空腹を思い起こす。微かに出汁と磯の香りが桂をくすぐる。

 今夜は鍋か、と息をついた。






 夕食後。桂は風呂を堪能することにした。

 せっかくの温泉宿だ。休憩と称して風呂に入らなければもったいない。食器が下げられると、まずは手荷物を減らそうと浴衣に着替えた。最低限の洗面道具をひとまとめにし、大浴場へ向かった。部屋にあった館内案内図によると、地下に巨大な浴場施設があるらしい。

 急な階段を下へ下へと降りていく。

 一階に降りてきた際に辺りを見回してみるが、他の客はおろか従業員さえも見つからない。夕食の残り香も、風呂上がりの洗い立ての匂いも、冷たい空気からはなにも嗅ぎ取れない。階下へ進むにつれてその不気味さはより濃密になっていった。

 地下へ降り、『大浴場はこちら』と書かれたプレートに従い歩くと、細くて暗い廊下の先へと誘導された。端に置かれた小さな行灯のおかげで足元はなんとか視認できる。だが、道行きの先はまったくの暗闇だ。どこまで続いてるのか、どこへ向かっているのか、方向感覚を狂わされている気分だ。三半規管の弱い人間ならば吐き気さえ覚えるような気がした。

 どれほど進んだだろうか。後方の灯りも届かなくなったところで突風が吹いた。息を吹きかけられたような風に圧倒されながらも歩みを止めずに進む。やがて、表札のように『大浴場』と書かれたプレートが下げられた、引き戸が現れた。お待ちしておりましたとばかりに引き戸の向こうはこうこうとした照明がついており、その向こうには脱衣所を分ける赤と青の暖簾がかかっているようだ。桂は安堵の息をつき、勢いよく引き戸を開けた。

 風呂場特有の熱を帯びた湯気が出迎える。

 引き戸を閉め、青い男性用の暖簾をくぐると、曲がり角のすぐ先に脱衣所があった。籠が備わった四段ほどの棚。鏡付きの洗面台。人が着替えるスペースには大きめのマット。そして浴場へ続くアルミ製のドア。脱衣所は最低限のものだったがどの籠にも衣服は入っておらず、完全に桂の貸切だ。

 少しだけ気分がよくなり、誰もいないのをいいことに悠々と鼻歌を流しながら服を脱ぐ。

 寒い寒いと口にしながら、浴場へと急いだ。

 入った瞬間、目の前の簡素なシャワー台は見えなくなった。その奥――川の中にある巨大な露天風呂に視線は奪われた。


「これは……!」


 見た目は川だが、立ち上る湯気は確かに温かった。露天風呂には何度も入ったことがあるが、川自体が天然の風呂と化しているものは珍しい。今すぐ湯へ浸かりに行きたい欲求を抑え、まずは体や頭を手早く洗うことにした。童心に帰ったような気分で急いで泡を立ててすぐに洗い流し、川へ近付く。おそるおそる、爪先で水面に触れてそこまで熱い湯ではない。長時間浸かるにはもってこいの、まさしく湯温だ。

 どうやら川の下に源泉が出てくる穴があるらしく、そこから湯が湧いているらしい。元はとても入浴できないような温度を川の水が冷ましているのだろう。

 桂は適温を探して川の中をうろうろと歩き回った。奥まった川の上流に源泉の集中している場所を見つけたときには、シャワーで濡れた肩がすっかり乾いていた。

 湯の中で腰を下ろした途端に自分の冷えに気付き、肩まで浸かると脱力感に襲われる。

 温かい布団の中に入ったような居心地のよさに包まれた。目を閉じればこのまま眠ってしまいそうだ。


「はあ……」


 息を吐いて頭の後ろの岩に頭を寄りかけた。首が反り返らず、高さも桂にぴったりだった。

 岩を隔てた隣は川の本流がごうごうと音をたてている。音だけに留まらず激しい振動までもが体を微かに揺らした。そういえば、と、昨日の雨を思い出す。降雨によって川の水かさが増したのだろう。だというのに湯は適温を保っているということは、本来の湯温はもっと高いのかもしれない。

 汗とも水滴ともいえない雫が頭皮を流れる。頭を軽くかきながら、ふと、夢のことが浮かんだ。


「……嫌な夢、見ちゃったなあ」


 夢というものは記憶の整理だ。自分が連想した記憶の中の物事を再現していることが多く、同時に付随した感情や感覚を呼び起こす。たとえば夢の中で団子が出てきたとして、苦いと思った記憶が前面に出れば団子は苦くなる。連想ゲームのように苦いということは毒が入っていて、自分は誰かに殺されそうになっている、ああこれは怖い夢だ――と、続くわけである。目が覚めたときには、別に苦いからといって毒が入っていると思うのはひどく短絡的ではないかと冷静な分析ができる。悪夢だと飛び起きても、後からよくよく思い返すとそうでもない夢も多い。

 だが、あれは間違いなく――少なくとも桂の中では――悪夢に分類される夢だった。


(もう乗り越えたと思ったんだが……いや、自分の想像以上に根は深いのかもしれない)


「島崎先輩か……」


 島崎葛。

 さかしま文芸サークルの先輩。今はもう大学を卒業したのでOBという立場だ。

 彼は『すごい』先輩だった。

 作品をひとつ仕上げる先輩は数いれど、その作品を商業流通にのせられるクオリティに仕上げ、また賞を獲得できるまでに内容を高められる先輩はそういない。在学中、新人賞のひとつを得た彼は、当時の話題の人であった。サークル内でも自慢の先輩と、彼の名前が出る度にまるで自分のことのように人柄や作品を語る人間もいた。

 だが、桂は本心から彼を祝福することはできなかった。

 作品は読んだ。確かに受賞するにふさわしい、いい作品だった。ネタも切り込みも問題提起も、統括する構成も、羨ましいほどに美しく、なおかつ面白い――手放しでそう告げるだろう。

 しかし、どうしても書き手である葛の姿が立ちはだかる。彼に対して、面と向かって自分の感想を言いたくない。喜ばせたくない。嫉妬や焦燥といった仄暗い感情を差し引いてもまだ、喜びの言葉を出し惜しむのは葛個人に対しての問題が大きいのだ。

 たとえ作品と作者の評価は別だとわかっていても、心がそれを受け付けない。

 今でも葛のことを思い返すだけで、口の中に苦いものが広がったかのように眉間の皺が深くなる。


「……やっぱり苦手だねぇ、あの人」


 足の先が急に冷えた気がして湯の中でさすってやる。あたたかいはずなのにいつの間にか肌は粟立っていた。




 桂は白んできた空を尻目に、欠伸を零した。薄らと靄がかかったような薄紫色の天上を部屋の窓から見上げる。

 風呂に入れば眠気に襲われると思っていたのだが、逆効果だったらしい。体温が上がって気が昂ったのか、驚くほど筆がのった。むしろのりすぎてしまって、時々ブレーキをかけるように手を止めて確認しなければならないほどだ。たまに指の動くままにとんでもないことを書いていたり、はてしなく遠い脱線をしてしまったりと後の修正が大変だった。

 どうやら執筆が楽しくて夜を明かしてしまったらしい。

 立ち上がって伸びをしていると、ドアをノックされる。


「おはようございます、瑞樹殿。朝食をお持ちいたしました。お部屋に入ってもよろしいでしょうか」

「はい。どうぞ」

「失礼いたします」


 返事をしてしまってから、テーブルの惨状に気付いて片付けはじめた。資料のメモや書籍の山を整えてテーブルから退かし、ラップトップも蓋を閉めて畳の上に置く。ゴミをくずかごに入れたところで、お膳を持った女将が現れた。


「おはようございます」

「あっ、おはようございます……」


 慌てて片付けたテーブルの上に、お重や盆、小皿が並ぶ。

 ごはんと味噌汁、干物に茶わん蒸し、サラダ、卵焼き、お浸し、香の物、かまぼこ、豆腐、刺身の盛り合わせ、苺と甘夏……桂にわかるものはこんなところだ。細部については食べてみないことにはわからない。

 牛乳とトマトジュースを置いて、女将は再び口を開いた。


「ごはんとお味噌汁はおかわり自由です。お手間をおかけいたしますが、内線にてお申し付けください。それではごゆるりとお召し上がりください」


 音もなく、流れるような動きで女将が去っていく。

 桂は手を合わせて「いただきます」と呟き、箸を手に取った。

 まず味噌汁に手をつける。しっかりと昆布出汁をとった汁と甘めの合わせ味噌は存外心地よく喉を潤した。次にごはんを一口、塩分濃度が高まった口の中に放り込む。噛むより先に米から甘みが広がっていく。

 咀嚼した途端に、体が空腹を思い出したように音をたてた。

 あっちを一口、こっちを一口、これは手を止められない、あれはどうだろう……と、気付けば、テーブルの品々は空になっていた。

 残っていた牛乳を煽ると、微かに寒くなった気がしてぶるりと身震いする。桂が「ごちそうさまでした」と手を合わせると、まるでどこかで見張っていたかのようなタイミングで、女将の声がけが入った。


「失礼いたします、瑞樹殿。おかわりはよろしかったですか?」

「はい。ごちそうさまでした。美味しかったです」

「それは結構でした。よろしければあたたかいお飲み物はいかがでしょうか。コーヒー、紅茶、ほうじ茶をご用意できますが」

「じゃあ……紅茶をお願いします」

「かしこまりました。少々お待ちください」


 テーブルの上をすっかり片付けてしまうと、すぐに紅茶が運ばれてきた。ミルクを付けてもらってミルクティーにして口をつける。柔らかな苦味と温度に、つい、長い溜息をついてしまった。お腹が温まったことで眠気が襲ってきたのか、欠伸を噛み殺したような歪な溜息だ。

 不気味に歪んだ顔を見て、女将は不思議に思ったのか、首を傾げて尋ねてきた。


「瑞樹殿……もしや、よく眠れませんでしたか?」

「いえ、逆に居心地がよくてずっと起きてました」

「まあ……!」

「おかげで執筆の方は進みましたよ。この調子ならここを発つまでに書き上げられるかもしれません」

「それは、よかったです……」


 どこか歯切れの悪い返事をする女将。困ったように目を背け、二の句を続けるべきかどうか言い悩んでいるようだ。なにか気にかかることでも言っただろうか。桂が口を開きかけると、意を決した女将が言い被せるようにして告げた。


「あの、瑞樹殿。僭越ながら、ご忠告をさせてください。日中、転寝などはせぬようにお気を付けて」

「それは、どういうことです?」

「ええと、その……」


 口から出したものの、その先のことは考えていなかったようだ。しばらく待っていると、女将はようやく返した。


「悪夢を見ることになるかもしれません」

「悪夢……? それは、夢を見ていたら見ることもあるでしょうけど……」


 だからといって必ず見るとも限らない。そもそも、転寝をして夢を見るかもわからないのだ。夢を見ずに眠りに没頭していることもあり得るし、逆にレム睡眠に至る前に目を覚ますこともある。

 だが――心当たりがないわけではない。

 実際に桂は転寝で悪夢を見ている。女将の言葉はまさしく事実を言い当てたともいえるだろう。故に彼女の言葉を上手く聞き流せなかったのだ。


「……大丈夫ですよ。悪夢なんて、怖くありませんから」


 桂は微笑を作って女将に言い聞かせた。

 女将はなおも心配だとばかりに眉を下げたまま、「さようですか」と話を終わらせた。


「お昼の十二時に軽食をお持ちいたします。もしお出かけになられます際はお声がけください。それではごゆるりとお過ごしくださいませ」


 頭を下げ、女将は部屋から出ていった。憂慮に曇った表情は最後まで変わることはなかった。

 桂はしばらく、なにも考えずに窓の外を見つめていた。光の加減と傾きだけで庭の雰囲気が変わる。昨日と同じ景色だというのに使われている色が異なるようだ。ゆっくりとした変化を眺めているうちに、再び眠気がにじり寄ってくる気配を覚える。


(まあ、確かにまたあんな夢を見るのはこりごりだ)


 転寝をするな、という彼女の忠告を心に留めながら、桂は再びラップトップと資料をテーブルの上に広げた。






 夢を見た。

 巨大なスクリーンとバーカウンター、ダーツマシンのある広めの会場にいる。いつもの、さかしま文芸サークル貸切パーティ会場だ。なにかの祝いの席なのか、サークルの面々が騒がしくしていた。酒も入っているのか唐突に大きな笑い声があがる。

 僕はどうすればいいのやら、立ち位置に困っていた。酒を飲むか、談笑に交わるか、それとも一旦座ろうか。やけに緊張している。


「瑞樹くん、君も来てたんだね」


 背後から声をかけられる。

 首をめぐらせると島崎葛が立っていた。

 同時に周りの景色もぐるりと変わる。見知った会場から、ホテルの大広間へ。部屋の面積は広がり、バーカウンターもダーツマシンもサークルの面々も途端に歳をとった業界の重鎮たちに早変わりした。雰囲気も背丈も大きく動いた。

 ここは受賞記念パーティーの会場だ、と、唐突に気付かされる。

 そして、会場には美しく直立した先輩がいた。

 彼はずんずんと容赦なく僕に近付いてきて、親しげに話しかけてきた。


「久しぶりだね。元気だったかい。この前、たまたま寄らせてもらったんだけど、まだあの本屋のカフェでバイトをしているんだね」


 僕はなにも答えられなかった。恐ろしいものと対峙しているのだ。鼻呼吸というものを忘れてしまったのか、口でパクパクと息をしている。呼吸に必死で会話どころではないのだ。

 先輩の後ろからひょこ、ひょこ、と二つの顔が生えた。知らない人だ。一人は眼鏡をかけ、一人は髪を刈り上げていた。


「誰ですか、先生」

「お知り合いですか、先生」


 二つの顔はほぼ同時に声をかけた。


「彼は僕の友人だよ」


 友人。

 ……友人?

 恐怖の中で微かに湧いていた感情が強く反応した。


『文章に覇気がないんだ。元気がないというより、血の通った人間のリアルさがない。つまりね、人の心をわかっていないんだよ。心がない。こういうのを書く人っていうのは大抵日常生活からして人への気遣いが滞っている人だ。君は忙しそうな接客バイトをしている割に、小説には活かせていないようだね。人にいじられているのは間違いなくそのせいだ。人と衝突するのは無神経さからだと自覚した方がいい。それで、この話について面白いかどうかと言われたら微妙だ。結局なにが言いたいのかわからない。独り善がりな言い回しは絶妙だけれど共感はないね。読む上で苦を感じることはないが惹きつけるものもない。読めなくはないがそれだけだ』


「そうだ、君の書いた話。また読ませてくれないかな。君の小説は雰囲気があって面白いから、担当さんにも見てもらいたいんだ」


 にこにこ笑った口元から、彼の声が二重になって聞こえた。

 僕は堪らなくなって声をあげた。


「やめろ!」


 先輩は笑顔のまま固まっている。

 喉が張り裂けるような解放感を覚えながら、僕は叫んだ。


「面と向かって人を傷つけておきながら、都合のいい言葉は聞きたくないんです」


 先輩も、後ろの顔も、会場にいる誰もが僕に動じない。時間が止まってしまったように硬直していた。空気か、空間が、ゼリー状になったようにねっとりとしていて、僕の出す音を吸収する。必死の大声もどこか無様な悲鳴に変わってしまった。

 だというのに、先輩の声はどこまでもまっすぐ伸びて、すっきりと僕の耳に届くのだ。


「傷つけた? 僕がいつ、君を傷つけた?」


 僕はこんな場で告白すべきか一瞬迷った。それでもはっきりと口を開く。


「小説の講評です。サークルの講評会。僕はあなたの小説を読み、講評を発表した。あなたも僕の小説を読んだ。その中で、小説以外の僕自身について言及したでしょう」

「そうだったかな。申し訳ないが忘れてしまったね。けれども、小説について辛い批評がくるのは君も覚悟していただろう。少し強い口調で言われたからといってそれを未だに根に持つくらいなら、その悔しさを小説の方に反映させたらどうかな」

「では、あの講評の後も、あなたが僕に対して言い続けていた言葉はすべて作品に対してだったということですか。僕個人への攻撃ではなかったと」


 先輩は笑顔を崩すことなく、なんともなしに告げた。


「すまないね、覚えてないんだ。忘れた」


 ぐっと歯に力がこもる。力が強すぎて奥歯がごりごりと砕けたようだ。顎を大きく動かしてそれでもなお歯を食いしばる。歯茎に砕けた破片が刺さり、出血する。口の中に血と歯の破片が溜まって、ぷっとその場で吐き出した。

 それでも、一度湧いた激高は収まらない。


「あなたがいくら誤魔化しても僕の中であなたの言葉は消えないんだ。僕の中にずっと残っているものを忘れたなんて言葉で終わりになんかさせない!」


 僕は彼に駆け寄った。全速力で走っているつもりなのにゼリーの空間のせいで上手く動けない。幸いなことに先輩はその場から動く気配はなかった。


「くたばれ!」


 僕は思い切り、その綺麗な顔に躊躇うことなく正面からこぶしを振るった。




「瑞樹殿」


 はっきりとした声に呼びかけられて、一気に覚醒する。

 目を開けると困り顔をした支配人が床に転がっていた桂を見下ろしていた。


「あ……ああ、す、すみません……いつの間にか、寝てしまって……」

「……大丈夫ですか。うなされていたようですが」

「はあ……」


 桂は曖昧に返事をした。歯が痛くて上手く喋れないのだ。よほど強く噛み締めていたのか歯茎がじんじんと痺れている。呼吸も滞っていたのか鼻呼吸で入ってくる空気がやけに新鮮で、握り締められていたこぶしは指の関節が痛んだ。体全体に力が入っていたのは間違いない。

 支配人はきちんと正座をした状態で、真剣な顔つきで言った。


「悪夢を見たのですね」

「…………」


 指摘を受けた瞬間、呪いが解けたように、ぞっと体全体に悪寒が走る。肩が冷たく、指先が冷えていく。なにがあったわけでもなく、体が震えているような気がした。落ち着かせようと一度深呼吸をするも、そのまま呼吸が続いてしまう。


(怖かった……)


 まるで本当に人の顔を殴りつけてしまったような感触が手の甲に残っている。思わず手のひらで擦り合う。


「どうぞ、ほうじ茶です。程よい熱さになっています」


 寒がっている桂を見て、支配人はすかさず湯飲みを差し出した。桂はありがたく湯飲みを持つとゆっくりとすすった。温かいものを口にすると寒さは瞬く間に薄れていく。不思議なもので、一口飲むと心地よさからまた次が欲しくなる。気付けば喉を鳴らして中身を飲み干していた。自分でも気付かないうちに喉が渇いていたようだ。


「すみません……ありがとうございます」

「いえ……」


 支配人は何事か考えているようだった。女将と同じように困り眉を作り、言葉に悩んでいる。

 ややあって、支配人が口を開いた。


「瑞樹殿。その悪夢はいずれ現実のものとなるでしょう。心してお過ごしいただくことをおすすめいたします」

「えっ……?」

「『夜に見る夢は福夢。昼に見る夢は予知夢。朝に浸かる湯は厄除け』……当館に伝わる逸話でございます。信じられないでしょうが、これは事実なのです。お泊りになる方のほとんどが福夢か厄除け、もしくはその両方の恩恵を受けておかえりになられます。ですが、中には転寝で予知夢をご覧になる方もおられるのです。瑞樹殿のように……」


 桂は否定しようとした口をゆっくりと閉じていった。その様子を見て、支配人は表情を変えずにゆっくりと続ける。


「もちろん予知夢といっても警告を発する夢であったり、幸運を掴む夢であったりと、人によって様々です。中には夜の福夢の方が悪夢であったと語る方もおりました。その辺りは解釈次第でしょう。ともかく共通しているのはおかえりになった後必ず予知夢が的中することです。喜んだ方、得をした方、不幸になった方、あるいは二度と当館をご利用いただけなくなった方がいらっしゃいます。 ……不思議と、予知夢が悪夢であったという方のほとんどが逸話について信じようとしていただけませんでした。良い夢を見た方々には受け入れていただけたのですがね」

「それは……皆、悪夢が現実に起こると言われたら、信じたくないと思うのが普通でしょう」

「瑞樹殿は違うのですか?」

「信じているかと言われると信じていませんが、ここで似た悪夢を二度見てますからね。なんとも言えません」


 桂は肩をすくめてみせるが、心中では支配人に対してかなり警戒していた。次は壺やら水やらが出てくるのではないかと顔には出さずに身構えた。


「予知夢を変えることはできないのですか。たとえば、予知されたことが起こらないように回避するとか、自分がその場にいないようにするとか……予知夢を使って上手くやってのけた方はいらっしゃらないんですか」

「そうですね、上手くやってのけた方はいらっしゃるのかもしれませんが、私の知る範囲で予知夢の出来事をなかったことにした方は存じ上げません」

「……そうですか」


 つまり、桂が先輩をどこかの会場で殴るという未来が、近いうちに起こりえるということだ。


(僕が、あんなことをするのか。先輩に)


 あんな形で先輩に己の憤りをぶつけても気持ちも気分も晴れない。他人から与えられるストレスと人を傷つける恐怖。夢であってよかったと思うと同時に、もう二度と体感したくない出来事でもある。今度は現実で味わうことになるならなおのことだ。夢には行動に対する責任や常識は伴わないが、現実ではそうはいかない。一方的に殴ったとなればどんな理由であれ非難されるだろうし、おそらく傷害罪にも問われる。起訴されようと不起訴であろうと、どのような形であれ事件が広まれば、人権は一時、『無』にも等しくなる。

 小説はおろか、生活するのもままならなくなるだろう。それが酷く恐ろしい。自分の感情が自分を破滅させるのは想像するだけで震える。今こうして怖がっているというのに、そのときになれば怒りは恐怖を超えてしまう。現実に起こるのだと言われればさらに不安は腹に落ちた。

 夢から覚めた直後の、荒い息が再び喉を圧迫する。

 桂は人目もはばからず溜息のような呼吸を繰り返した。


「ひとまず、昼食をおとりになるというのはいかがでしょうか。味噌汁を温め直してまいります。少々お待ちくださいませ」


 支配人は立ち上がり、昼食をのせていた盆を持って廊下へ戻っていった。

 一人になると、途端寒さが身に沁みる。鼻先の冷たさに桂は小さく鼻をすすった。

 空には朧と羊を合わせた雲が広がっている。

 そのせいか外は暗さが目立った。


「あれー?」

「あれぇ?」


 ふと、小さな甲高い声が部屋の外から響く。

 体を曲げてドアの方を見やると、小さく開いたドアの隙間から小さな頭がひょこりひょこりと姿をみせたところだった。二人の幼女たちだ。


「ててやーん?」

「ててやん、どこぉ?」

「ててやん……?」


 下手に応えたせいか二人は部屋の中に入ってきた。

 今日は着物ではなく、セーラーデザインのワンピースを着ている。小さな素足が軽快に跳ねる度に、大きな襟が上下に揺れた。

 『ててやん』を探して、二人はテーブルの下を覗き込んだり、押し入れを開けたり、洗面所を見に行ったりと忙しい。探索している二人を尻目に、桂はひとりで首を傾げていた。


「ててやんって……ててやん? 父親のことか」

「ててやん、ここにいたのにいなーい」

「ててやん、いなくなっちゃったぁ」


 どうやらあの支配人と女将は夫婦であるらしい。桂の中で人物相関図が更新された。


「ててやんは味噌汁を温め直してくるって言ってたよ」

「ほんとー?」

「ほんとぉ?」


 二人が桂の近くに寄ってくる。小動物を思わせるつぶらな瞳が年相応に可愛らしい。桂の次の言葉を待っているのか、じっと見つめてきた。


「ああ、だから、すぐに戻ってくると思うよ」

「んー?」

「んんー?」


 首を傾げつつも、桂の顔を見つめ続けている。

 視線が圧のように思えてきたとき、ドアの方から気配を感じた。


「瑞樹、ど、の……あっ、こら! お前たち!」

「ててやーん!」

「ててやん!」


 お盆を持った支配人に二人が突撃していく。微かに開いていたドアを不審に思っていたのか、お盆をひっくり返すことなく襲撃に耐えていた。


「部屋に入ってはいけないとあれほど……瑞樹殿、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「いえ、大丈夫です。お子さん、可愛いですね」

「かわいいー?」

「かわいいって!」


 許されたとばかりにはしゃぐ二人。

 支配人は「こら!」と一声あげながら、お盆をテーブルにのせた。


「……改めまして、梅と鮭のおにぎりと味噌汁です。おかわりも可能ですので、内線で遠慮なくお申し付けください。ほら、行くぞお前たち」

「やーん」

「やぁん」

「嫌じゃない。瑞樹殿、子供たちが申し訳ありませんでした。失礼いたします……こらっ、逃げるな!」


 きゃー! という甲高い悲鳴があがった。支配人への拒絶ではなく、支配人の反応を見て楽しんでいる歓声に近い。その証拠に二人は満面の笑みをたたえて和室を走り回っていた。やがて、彼女たちは桂の前で足を止め、両側から顔を覗き込むようにして呟いた。


「ちゃーんとお風呂入って?」

「ちゃぁんと、お風呂入ってぇ」

「お風呂? 地下のお風呂なら、昨日入ったよ」

「もー一回、入るのー、朝」

「もっかい、入るの! 朝!」


 腕をぐいぐい引っ張りながら「お風呂! お風呂!」と連呼される。


「うおっ、ととと……ちょっ!?」

「お風呂―」

「お風呂!」


 桂に立ち上がる意図はなかったが、いつの間にか彼女たちによって立ち上がらせられていた。まるで今から入ってこいとばかりに、地下へ連れていこうとしているようだ。


「こら! いいかげんにしなさい。瑞樹殿は今からお食事をとるんだ。勝手に連れ出そうとするんじゃない!」

「ててやん怒ったー!」

「ててやん怖ぁい!」


 支配人が強めの口調で叱ると、二人はぱっと桂から離れた。だからといって怯んだ様子はなく、笑い声を高らかに、部屋から飛び出していく。


「重ね重ね、本当に申し訳ありません……瑞樹殿。これから、よくよく言い聞かせますので……失礼いたします」


 静かにドアを閉めた先で、初めて支配人の足音を聞いた気がした。今頃、二人の娘を捕獲するために全力で追いかけていることだろう。

 急に静かになった室内で、桂はテーブルの前に座り直した。せっかく温めてもらった味噌汁が熱いうちに口をつけたかったのだ。手を合わせ、「いただきます」と口早に呟く。

 味噌汁は朝飲んだものとはまったく別のものだった。赤だしの濃厚な味噌とあおさのシンプルな汁物は飛び抜けた美味さがあるわけではない。だが、不思議と桂の五臓六腑にしみじみと沈んで落ち着いた。

 汁物を何口か頂いたところで、桂は自分の鼻が痛むのを感じた、慌てて瞬きを繰り返した。






 なにもせずとも腹は減り、腹が膨れれば眠くなる。

 すっかり執筆の興が削がれた桂は昼食後、散策することにした。動いていれば少なくとも昼寝をせずに済む。旅館の外に出てもよかったが、行きの道中を思い出すとどうにも躊躇いがあった。あの道を往復するのかと思うと少し気が滅入る。ただでさえ精神が疲弊しているというのに、あまり心身に負担がかかることはしたくなかった。

 そこで、旅館の庭を歩くことにした。

 外へ出るに問題のない恰好に着替え、上着を着込んだ。そこから庭へ出るにはどうすればいいか、迷ったものの、結局玄関から回り込むことにした。コの字の建物の外側を回ると、整然とした雑木林が広がっている。細く、鬱蒼とした獣道を辿ると、ようやく部屋から見ていた景色に辿り着いた。

 実際に立ってみるとわかるが、かなり広い日本庭園だ。岩の隙間から湧いた池泉はどこまでも広がっている。草地は刈り込まれて緑の絨毯と化していた。と、そこへ赤い毛氈を広げている三人を見かける。

 女将と二人の娘だ。

 桂に気付いた女将は小さく頭を下げ、背中を向けて準備を進めていた。一方、母親が頭を下げたことで二人の娘たちも桂を見つけたらしく、小さな足を勢いよく動かして近付いてくる。桂はぎょっとして逃げ腰になったが、ワンテンポ遅かった。


「瑞樹殿―」

「瑞樹殿!」

「あっ……うん、さっきぶりだね」


 言葉が返ってきただけでも嬉しいのか、二人は顔いっぱいに笑みを作り、交互に飛び跳ねている。


「今からかかやんとお茶するの」

「おやつも食べるのよ」

「一緒に食べよ!」

「いっぱいあるの!」

「うわ、あっ」


 それぞれが桂の両腕に絡み、ぐいぐいと毛氈の敷かれた場所まで引っ張っていこうとする。無理に振りほどくと二人を傷つけるような気がして遠慮していると、流れるように毛氈の上に座らされてしまった。両脇にくっつくようにして二人も座り込む。


「こらっ、瑞樹殿を困らせるんじゃありません! 瑞樹殿、失礼を重ねて本当にすみません」


 女将が小さく頭を下げた途端、娘たちはより桂に密着した。


「……でも、もしよかったら、一緒にお茶でもいかがですか。今からここでおやつにしようと思ってたんです」


 遅い昼食で腹が膨れているというのに、何故かお茶の誘いを断る気にはなれなかった。不思議と甘いものを欲する口になってくる。


「はあ、お茶は構わないのですが……いいんですか、家族団らんのところを、部外者が入ってきてしまって」

「いいんですよ。湯飲みとお菓子、持ってきますね」


 女将は着物の裾をぱたぱたと揺らしながら旅館の方へと駆けていった。母親がいなくなったところで、すかさず、右に陣取った娘が桂の顔を覗き込んで話しかける。


「いいお天気ですねー」


 すると、山彦でも返すように、左側の娘が同じように顔を覗き込む。


「おやつ日和ですねぇ」


 くすくす、ふふふっ、と笑い声が桂の耳元をくすぐった。


「いいお天気……?」


 桂は空を見上げた。

 どんよりとした曇が空全体を覆っている。まだ雨が降っていないだけでいつ降りだしてもおかしくない空模様だ。いい天気の定義は人それぞれだろうが、桂はこの状況で『いい天気だ』と断言はできなかった。

 桂が首を傾いでいると、その所作を真似して二人も首を傾いでいた。角度も向きもほぼ同じだ。


「あれ? なにか、あったんですか?」

「いえ……」


 戻ってきた女将が不思議そうにしているので、桂は取り繕うように姿勢を正した。二人もくっついたまま姿勢を正す。

 まずは朱塗りの盆にのせられて、温かい緑茶が入った湯飲みが置かれた。幼い二人には冷たい緑茶が出される。外は風もあって少し寒さがあったが、この二人には関係なかったようだ。茶が出されるとすぐに手を伸ばし、飲み干していた。

 茶を飲んでいる間に今度は細々としたお菓子が並べられた。大きな星粒のような金平糖に、つやつやの栗甘露、色とりどりの一口団子、お砂糖と醤油のついた煎餅、ふっくらとした黄色の眩しいカステラ……ひとつひとつが、まるでおままごとの玩具のように可愛らしい。つい、目を輝かせ、どれから手を付けようかと頭の中で算段をつけてしまう。


「どうぞ、召し上がってください」

「いただきます」

「いただきまーす」

「いただきまぁす」


 一斉に手を出したが、誰も最初のお菓子を被らせることはなかった。

 こりこり、もりもり、ぽりぽり。しばらく、咀嚼の音が響く。ただ一人、女将だけがお菓子を食べる三人を静かに見守っている。空気は冷たかったが、風が止んでいるおかげでひどく快適だった。

 桂がお菓子ではなく、湯飲みに手を伸ばしたところで、女将は口を開いた。


「瑞樹殿。予知夢を見たそうですね」

「……ご主人から、聞いたんですか」

「ええ。大層心配していました。福夢や厄除けはともかく、その、予知夢はけして良い夢とは言えませんので……差し支えなければ、どのような夢だったのかお話していただけませんか」


 桂の中で夢の出来事がぼんやりと再生される。誰かに話せればどれだけ楽か、と思うと同時に、誰にも話せないから夢にも出るのだ、とも思った。途端にずけずけと聞いてくる彼女に対して苛立ちはじめた。


「話したところで、どうなると言うんです。回避もできないのに」

「できるかもしれません。瑞樹殿は二度予知夢を見ていらっしゃいます。予知夢は予知であると同時に夢でもあるのです。瑞樹殿、絵を描いたことはございますか」


 まともに描いたのは高校生の頃までだが、と突っ込みを入れながら頷く。


「絵を描く際に下描きをすることもあると思います。どんな形を作るか、どういった線を引くか、まずは様々な線を引いて試行錯誤なさるはずです。ときには同じ場所に似たような線を引くこともあるでしょう。複数引かれた線がまとまってそれらしく見える下描き。それが夢と呼ばれるものです。夢から覚め、現実に戻って考えてみれば、道理ではあり得ないことに気付くこともあるでしょう?」

「……なるほど。主線で描かれたものが現実だということですか。だからこそ起こることは変えられないが細部は変わる可能性がある……まだ、どの下線が主線になるか決まっていないから、と」

「その通りです、瑞樹殿。一度目の夢と二度目の夢に共通していたこと。それはおそらく、実現する可能性が高い部分です。逆に、どちらか一方にしか起こらなかったところはこれから可変する部分かもしれません。些細なことかもしれませんが、少し考えてみるのも手ですよ」


 タイミングよく雲間から光が差す。

 分厚い雲の向こうにうっすらと快晴の空が垣間見えた。お菓子を食べて満悦な笑い声が、再び耳元をくすぐる。


「いいお天気ねー」

「晴れてるー」

「そうね、綺麗なお空」


 湯飲みを両手で持ち直し、桂はぼんやりと空を見上げた。地上では無風でも、上空ではかなり強い風が吹いているようで雲がものすごい勢いで動いている。

 光が差したのは束の間だった。

 またすぐに暗さが戻ってきたが、親子三人は変わらずお菓子を摘まみながらお茶を楽しんでいる。桂は口が開きにくくなって、口を付けることなく湯飲みを盆に置いた。

 気分は晴れそうにない。

 夢とは関係のない、桂にとって後ろめたい部分が露呈されようとしているからかもしれない。どのように切り出すか悩んでいる間に、盆の上に七色の金平糖が一列に並んでいた。


「食べてー」

「食べてぇ」

「……お言葉に甘えて」


 かりり、と齧ればどろりと溶けた砂糖の味がした。

 喉がひりつくほどの甘さに眉をしかめながら湯飲みのお茶に手をつける。一口飲み込むと、意識せずとも言葉がついて出てきた。


「……初めは、本当になんとも思っていなかったんです」


 話しながら目を上げる。

 女将はこちらをじっと見つめていた。話を聞いていることがわかると、桂はまた視線を湯飲みに落とす。

 とりとめもなく、先輩とのエピソードを語った。時折言葉を探して詰まらせたり、思い出したことを後から追加したりと、物語は話のていを成しておらずぐちゃぐちゃだった。それでも女将は熱心に耳を傾けていた。双子は話に興味があるのかないのかわからなかった。ただ、無関心に庭を走り回っていたかと思うと、桂の話に突っ込みのような短い相槌を打ち、揃ってけらけらと笑った。

 最後に夢の内容を語った。

 時間が経った今となっては、夢の内容は実際にあったことのようにすっかり記憶に馴染んでしまった。実際にはなかったはずのやりとりが、先輩に対して実際に発したように記憶がすり替わっているともいえた。桂の中で、恐怖は既に罪悪感へと形を変えていた。

 女将に話しているうちに、少しずつ腹の中身が少なくなっていくような感覚になって、桂は仕事のようにしてお菓子に手を出した。

 話を終えたところで、女将は熱いお茶を桂の湯飲みに注いでくれる。すすらなければ飲めないような熱い茶だった。


「朝、お風呂に入ってくださいまし。朝に浸かる湯は厄除け、瑞樹殿ならきっと乗り越えられるでしょう」

「何故そう思うんですか。もしかしたら、僕は感情に任せて先輩を殴ることを望んでいるかもしれませんよ」

「いいえ、瑞樹殿。瑞樹殿は予知夢をみて大層弱っているではありませんか。疲弊し、困窮し、不仕合せに喘いでいらっしゃる。そんな方がその夢を肯定するとはとても思えません」


 女将はまっすぐ桂を見据えていた。黒々としたつぶらな双眸は愛玩動物を思わせる。どこまでも深みにはまっていくような瞳の深潭に桂は目が離せなかった。


「厄除けは瑞樹殿に力になってくれるはずです」


 いつの間にか冷たい風が庭園に吹き込んでくるようになった。桂は黙って表面が冷めた茶を喉に流す。騒がしい双子は建物の中に入ったのか、楽しげな笑い声が鈍く響いていた。






 夢を見た。

 穏やかな雨が降っていた。空は朝とも夕ともいえない薄明に染まっていて、空気が澄んでいるのかやけに高さを感じる。

 僕は正方形に切り出された灰色のコンクリート造りの中で空を見上げて佇んでいた。シャワーを浴びる感覚よろしく、顔に水滴が当たる。不思議と息苦しさや雫が顔面を這う鬱陶しさは感じない。

 ふと、滴ったものを手に取る。金色に光り輝く、やけに重みのあるものだった。

 溶けた金だ、と連想した瞬間、それは熱を帯びた溶湯に変わる。

 慌てて手の中のものを振り落とし、逃げるようにその場から離れた。灰色の建物の中を通過していくと、いつの間にか暗いトンネルに繋がっていた。足元を見やれば、覚えのない白い靴を履いていることに気が付く。もしや自分ではないのか。考えたところで暗がりを抜けた。建物から飛び出してきたところを見て、やはり白い靴を履いているのは自分だと納得する。

 先にあったのは、竹藪と化した喫煙所だ。立派な青竹が何本も喫煙所の周りを囲うように成長している。

 そこでようやく、ここが大学の一角であることに思い至った。だがはたしてこんな竹が茂っていたのかは疑問だった。

 まだ雨は降っている。けれども溶けた金の熱さは、もうない。

 足元になにかが擦り寄るのを感じた。見下ろすと、白い靴だと思っていたものは生き物に変化している。顔が真っ白で体は金色の、小さく愛らしい顔立ちをした……イタチか、テンか。ぷぅ、とも、ぐぅ、とも聞き取れる鳴き声をあげて、甘えるように体全体を使って僕の足に擦り寄っていた。

 そういえば、ここには数匹ばかり野良猫が居ついていたか。同じように、この生き物もなんらかの経緯でこの場所を寝床にしているのだろう。初対面の人間にまず甘えてくるのも納得がいく。そう思っている間にも細長い生き物はするりするりと僕の体をよじ登り、右の肩から左の肩へと忙しなく移動している。生き物からは、いぐさのような匂いがした。


「ないでるねえ、ないでるねえ」


 あやすような口調で遠くから声が聞こえた。まったく知らない誰か、あるいはこの動物、またあるいは自分が喋っているようだった。

 判断させる間はなく、耳には風が吹く音が広がる。

 目の前に眩しい焼けの景色が広がり、僕は思わず目を瞑った。空の色が瞼の裏に張り付いて、とてもではないが目を開けていられなかった。




 次の日の早朝は不思議な気分で、桂は体を起こした。

 自然と目が開き、頭が冴える。早起きをしたというのに眠気は一切感じさせない。自分が眠った後とは思えなかった。体が勝手にてきぱきと動く。布団を畳んで風呂の支度をする流れがスムーズに運ぶ。

それから静かに桂は部屋を出た。女将たちの忠告に従って、朝風呂に入りに行くのだ。

 地下の巨大な浴場施設を目指して、急な階段を降りていく。

 やはりどこにも人の気配はない。不気味な階下は細くて暗い廊下へと続いた。冷たい風が吹き込み、鼻水が垂れそうになって慌てて顔を下に向けた。板張りだと思っていた足元は岩肌に変わっており、記憶違いかと微かに声を漏らす。

 やがて、『大浴場』の引き戸に辿り着き、青の暖簾をくぐった。熱い湿気と共に一昨日とは違う香りが漂う。心なしかひっきりなしに波の音が聞こえるようだ。


「潮の香りがする?」


 急いで服を脱いで、はやる気持ちのまま浴場へと足を踏み入れた。

 川の中にある巨大な露天風呂はまったく別の風呂に変貌していた。あの雄大な風景は消え失せ、暗い洞窟が広がっている。洞窟の奥からは波の騒ぐ音が大きく響いていた。小さな行灯の灯りを頼りに奥へ進むと、唐突に深い露天風呂が現れた。風呂はさらに続いている。


「あっつ……」


 軽くかけ湯をして湯船に入り、浸かったまま洞窟の終点を目指して進む。湯船が海のように波打ち、湯から出ている部分には風が吹きつけてくる。まるで嵐の中をかき分けて先を進んでいくようなものだ。桂は溺れないように上を向いて風呂の中で立ち泳ぎをした。

風が吹いてくるということはこの先は外に通じているのだろう。そしてさらにその先は――


「海、だ……!」


 ぽっかりと空いた三角の天然窓。

洞窟の先では海が荒波を打ちつけていた。

 波の音が聞こえるというより、湯や洞窟の壁を伝って響いてくる。体にも振動が伝わってきて洞窟の岩から少し離れて座った。

 体を深く沈め直し、桂は外を覗き込んだ。

 日が出る前の暗い景色も次第に目が慣れてくれば、岩肌の輪郭がはっきりと見えてくる。暁から東雲へと移る時間帯なのか水平線上がほのかに明るく、雲が平べったく漂っていた。

 時間が早回しのように過ぎていく。まだ体が温まりきっていないのに、もう朝が来ようとしている。橙と紫青が空いっぱいに広がり、瞬きをしている間にも色は変わった。橙は赤に、紫青は黄へと明るくなっていた。東の空の向こう側からぷつりと、巨大なものが顔を出そうとしている。

 夜明けの瞬間だった。

 眩しくて目を開けていられない。風が吹く音が収まり、波打つ音も微かなものに変わる。夜明けの波打ち際、浸かる間だけ温度を感じなかったような気がした。

 ふいに、先程見ていた夢のことを思い出した。

 目が覚める寸前の眩い情景はまさにこの夜明けではなかったか。きつく強い輝きを放つ陽の光を浴びながら、桂はほのかに笑みを浮かべた。


「厄除け、か。これで厄が除けてくれるといいんだけど」


 陽光は次第に柔らかく優しい光に変わる。

 ゆるゆると目を開けると、もう眩さは落ち着きを取り戻していた。

 天井から雫が垂れてきたのはそんなときだった。


――ないでるねえ、ないでるねえ

 

 肯定とも否定とも、投げかけとも受け取れる優しい声。

 姿はないが、洞窟の天井から聞こえてくるような不思議な声音が雫と共に降ってきた。


(夢で聞いた……夢の中の声だ)


――どうしてないでるの


「ないで……? それは」


 ぴちょん、と額に雫が落ちる。温泉とは違う雰囲気の冷たい水滴が、顔の表面に沿って流れていく。

 耳の奥で波の音が聞こえてくる。

 さざ波に紛れて先輩の言葉が再生される。


『すまないね、覚えてないんだ。忘れた』


 冴えていたはずの思考が一気に曇り、ずんと重たくなった。

 先輩は自分のことを踏みにじった。言葉で、態度で、じわじわと。人にはそうとわからないようなやり方で、作品だけではなく、その先にいる桂自身を貶めた。

 悔しかった。

 間違いだと言い返せない自分が。指摘通りに到達できていない技量が。ままならないまま流れる時間の経過が。

 桂が夢で恐怖を抱いたのは先輩を殴ろうとしただけではない。

 自分の剥きだしになった未熟さと矮小さが露呈したからだ。浅ましい気持ちが少しでもあれば一瞬で悪に染まってしまう。自分は悪くない。作品は悪くない。

 悪いのは先輩だ。

 ほら、今もなお。


――ないでるの?


「……」


 桂は答えられなかった。

 ただ黙って、体を深く深く、湯の中へ沈めた。


 


「瑞樹殿、瑞樹殿。聞こえますか、しっかりなさってください。瑞樹殿」

「……?」


 気が付くと、桂は脱衣所の天井を見上げていた。

 傍らには作務衣姿の支配人が桂の顔を覗き込んでいる。桂が目を覚ましたことに気が付くと、心底ほっとしたように肩の力を抜いた。困り眉はそのままに、緊張していた表情筋が一気に緩んだのが見てとれる。


「ああ……よかった。気が付かれましたか」

「あの……僕はどうなってたんですか」

「お部屋にいらっしゃらなかったので浴場だと思い、お声がけをしに来たところ……倒れていたのですよ。おそらく湯あたりでしょう。居心地がよいのでうたた寝をしてしまったり、長湯をしてしまうお客様は多うございますので」

「湯あたり……」


 いまいち、自分の置かれた状況が飲み込めない。

 露天風呂で朝日を拝んだことは覚えている。海が、波が、空がよく見える、熱すぎない温泉に浸かっていた。そしたら洞窟の天井から声がして、夢のことを思い出して――もしかしてそれらすべて夢だったのだろうか?

 思い至ってはたと我に返る。


「今、何時頃でしょう……?」

「午前八時を過ぎた頃でしょうか」

「八時……」


 夜明けから午前八時となると、長時間風呂場で転がっていたことになる。タイミングよく、ぐしゃん!と派手なくしゃみをしてしまった。


「お寒いでしょう。まずは水分補給を。その後、体が動くようでしたら、まずは着替えを済ませましょうか。気分が悪くなったらおっしゃってくださいね」


 グラスに入った水を手渡され、桂はちびりちびりと唇を湿らせた。冷えた水を一気に飲める気がせず、時間をかけてグラスの中身を空にさせた。

 支配人は桂が支度を整えるまで近くで待機していてくれた。再び倒れることを恐れてのことだろう。幸い、体は冷えているが頭痛も眩暈もなかった。湯あたりの割に軽い症状で済んでいるのは不幸中の幸いだろう。


「ではお部屋に戻りましょう。朝食の準備ができておりますよ」


 先導して支配人が歩きだすと、桂もその後を一歩離れてついていく。

 日中だというのに廊下や階段はやはり暗く、ささやかな灯りだけが通路を照らしていた。のそりのそりと歩く支配人の足音が異様に頼もしく思えた。

 倒れていたところを助けてもらった羞恥から声をかけるかどうか迷っていたが、桂は羽織を着た丸い背中に向かって話しかけた。


「……あの。朝風呂に入ったことで本当に厄除けになったんでしょうか。予知夢が回避できるのか……不安で」

「予知夢で見た未来をどのように扱うかは瑞樹殿次第です」


 支配人は振り返らず、静かに答えた。


「瑞樹殿は予知夢を見てどうしたいと思ったのか。どうなりたいと思ったのか。予知は多かれ少なかれ、逃れることができません。では、どうすればいいのか。厄除けはその補助にすぎません。わたくしどもがどうにかできることではないのです。回避をしたいと瑞樹殿が望むのであれば、瑞樹殿自身が行動をおこさねば」

「……」

「未来を見るということは常人ではけして起こり得る出来事ではございません。改変するも、利を得るも、それをゆめゆめお忘れなきよう、お気を付けください」


 階段を上がり切ったところで支配人が振り返る。

 夢の中で聞いた声に相応しい、優しげな顔をしていた。




「小説は、完成しましたか?」

「はい、なんとか。三日間お世話になりました」


 カウンターデスクで退館手続きを終え、瑞樹は丁寧に頭を下げた。

 支配人はより深く頭を下げ返し、「とんでもございません。ご滞在ありがとうございました」と告げる。


「また来ます。来られたら」

「さようでございますか。ではまたご縁がありましたら、ご利用くださいませ」


 頭を下げたまま、意味深に営業文句を口にする。

 そのまま支配人は顔を上げることはなかった。瑞樹はこれ以上の会話はのぞめないと悟り、踵を返す。何故か来たときよりもずっしりと重くなっている荷物を背に、瑞樹は駅に通じる道へと歩を踏み出した。

 双子のはしゃいだ甲高い声が聞こえないことに気付き、どこか寂しさが心を掠める。が、車の行き交う車道に出たところで、心は現実へと帰っていった。






 どこかで見た光景だった。

 一度ここへ来たことがある。もしくは、この場所を既に知っている。そんな既視体験を何度か体験したことがあった。幼い頃に一度訪れた場所であったり、似た場所を見たことがあったり、テレビや動画で見た映像を来たことのある場所だと勘違いしたりと、種を考えればなんてことはない自分の記憶のトリックだ。

 だが、これは違う。

 桂は高い天井へと見上げていた視線をおもむろに下ろしていった。ホテルの大広間、歳をとった業界の重鎮たちの頭が広がる。

 そして、美しく直立した男を見つけた。

 どうやら遠巻きながら様子を伺っていた彼は、目が合ったと判断したらくずんずんと桂に近付いてきた。


「久しぶりだね。元気だったかい」

「……先輩。お久しぶりです」

「うん、久しぶり。 ……といっても、この前、たまたま君がバイトしているカフェに寄らせてもらってね。実はそのとき君を見ていたんだ。君は気付かなかったみたいだけど」

「そうだったんですか。すみません、気付かなくて」

「いやいや、忙しくしていたみたいだったから、こちらも声をかけなかっただけだよ」


 なんでもない世間話を短い受け答えでかわす。

 上手く表情を作れているか不安だったが、それ以外は呼吸も安定している。この状況があり得ると予想していただけに、ひどい緊張に縛られることはなかった。

 先輩の後ろからひょこりと近付く男がいた。眼鏡をかけ、髪を刈り上げている。


「お知り合いですか、先生」

「ああ、彼は僕の友人だよ」


 友人。

 感情が微かに反応した。薄く開いていた唇が閉じ、腹の奥底にぐっと力が入る。


「そうだ、君の書いた話」

 息を静かに吸い、ゆっくりと吐いていく。誰にも気付かれないように。


「面白かったよ。演出も雰囲気もよかったし、最後の複線回収も鮮やかだった」

「え……」


 心臓が一際大きく鼓動した。


「読んだ後の先生、すごかったんですよ。興奮して部屋の中で大暴れして」

「そりゃあそうだろう。あの話はすごかったよ。なのに、こんな端の賞だなんて審査した側はどうかしてる」

「先生、しーっ。審査員の先生もいらしてるんですよっ……いい意味でも悪い意味でも率直に発言するんで困りますよ。ねえ?」

「はあ……」


 苦笑いでこちらに話を振られ、一度は言葉を詰まらせた。

 が、桂は意を決して引き結んだ唇を震わせ、声をあげる。後頭部の毛がぶわりと逆立つのを感じた。威嚇する犬とはこんな気持ちなのかもしれない。それでも言葉を練り上げて、推敲して添削して、やっとこさ絞り出したものは短いものだった。


「……その率直さで傷付く人もいるんですよ、先輩」


 先輩は目を丸くして、驚いたように固まっていた。

 それから数回瞬きをすると、苦笑気味になんともなく告げる。


「ああ。そうだね、気を付けるよ。ありがとう」


 桂の中でなにかがかちりとはまったような、ぽっかりと穴が開いたような感覚が湧いてくる。望みは叶ったはずなのに、あまりにも呆気ない。呆気なさすぎて、逆に先輩にとってこの程度のものだったのかと思えてきてしまう。虚しさとはこんなものなのかもしれない。


(先輩がなにを言おうと、一度発した言葉は消えない。僕の中にずっと残っているものをなかったことになんかさせない)


 先輩と男はなにやら談笑をはじめた。どうやら審査員の先生方に桂を紹介する段取りを整えようとしているようだ。

 桂はそれをぼんやりと見ていた。

 誰も自分を見ていない。そう判断して、喧騒に紛れて小さく呟いた。


「くたばれ」


 躊躇うことなく、先輩の綺麗な顔から眼を背けた。



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