道羅家
木々の音が耳を掠めた。空が随分近くに感じる、背中に感じた温もりに懐かしさを覚えた。
「見てご覧」
大きな手が遠くに見える村々を指差す、どうやら此処は山の奥地のようだ。
「ぅにゃい」
同じ様に腕を前に出す、短くか細い腕は幼い子供のものだった。通りで言葉が発せないわけだ。
「おっと、そんなに前に出ると落ちてしまうよ」
支えていた手に力がこもる、眼下に有るはずの地面は遥か遠くにあった。巨木の幹の上にいるらしい。
「ぅわぁぁぁん!」
「あはは、下を見ちゃったのかな?大丈夫、俺が居るから大丈夫だよ」
両腕でギュッと抱きしめられる、安心したのか瞼が緩やかに塞いでいく。
目を覚ますと何時もの古ぼけた天井だった。妙な懐かしさを感じた、これは誰の記憶だ?
「何だったんだろ……」
「やっと起きたんか」
聞き慣れた声に弾かれてそちらに顔を向ける、右頬に痛みが走る。
「っー!痛って…」
腫れないように冷やしていた最中に眠りこけたことを思い出した。
「えらい男前になっとんな」
「…なにしに来たんだよ」
ニヤニヤと俺の右頬に視線を流した。
「馬鹿にしに来たんなら帰れよー!?」
顔を逸らそうとした矢先に口に指を突っ込まれそのまま外側に引っ張られる、痛てぇわ、阿呆!声に出来ない怒りを抱えながら、大福の手を撥ね退けた。
「…口ん中切れとんな」
「口頭で確かめろよ!痛たたた……はぁ…なにしに来た?」
「骨は折れてねぇやろ、ヒビはいっとるかもしれんけどな」
嫌味な口調は相変わらずだが状況なだけに潜めた声が妙に柔らかく聞こえる…いや、思い違いか?
「なにしに来たわけ…?」
三度目の正直、普通に無視すんな。
「…テメェと二度も面合わせるつもりは微塵もねぇんやけんど、福の代わりや」
「福、ちゃんが…?」
「チッ…気安ぅ名前呼ぶなや」
薄暗い部屋に浮かぶ金色がジロリと動いた、瞳は猫と一緒なんだなと呑気な考えが浮かぶぐらいには頭が冴えてきた。
「土橋のせがれがどうなろうとわしは知らん、せやけど生かしてもおけん」
「……」
何の前触れも無く香った死に言葉を失う、バツの悪そうな顔でその場に立ち上がり頭を出鱈目に掻いた。
「…今やない、わしらは塋六山に戻る」
「それを言うために…?」
「それとや、」
頭の耳がぴんっと跳ねた。少し経って廊下が軋む音がした、誰かが部屋に向かって来る。
「誰か来よったで」
「呑気な事言ってる場合かよ、早く猫になって」
「あぁ?何でそんなもんー」
「いいから!」
口論になると埒があかない、俺が掛けていたタオルケットで大福を包んだ。一瞬でも目晦ましになれば。その間にも思考を巡らせる、人影が襖の前で止まった。
「孝吉、少しいいか?」
よりにもよって親父だ、動揺を悟られぬよう一呼吸置く。
「…何か用?」
「その……、済まなかった、…頭に血が上ったとはいえ、手を出してしまって」
「ぇ…」
予想だにしない謝罪に言葉が詰まった、親父が家族に対しその手の言葉を投げかけたことは俺の知る限り一度もない。
「あ…いや、いいよ、良くは無いけど…謝ってくれたんなら別に…、俺も言い過ぎたし……ごめん…」
「そうか……それはそうと、今部屋に居るのはお前だけか…?」
心臓が跳ねた、バレてる?まさか、何で?
「ど、どういう事?」
「……気付いていないのか。孝吉、襖を開けなさい」
「なんで?もう話しは終わったんじゃ」
背後に居るはずの大福に意識を向ける、怖いぐらいに気配がない。何してんだよ!何でもいいから合図くれ!シャン、有るはずのない錫杖の音が響く、親父の両脇に網代笠を被った人影が現れた。
「ー!?、だ、……誰…?」
「安心しろ孝吉、今助けてやる」
襖が勢いよく開け放たれた、風が何処からともなく吹き上がった。
「ッー!?」
目を開けていられない、両腕で顔を覆った。
「助けるやて、えらい言い草やなぁ」
背中に何かが当たった、そのまま俺の横をすり抜け親父へと向き直った。
「福壽…」
「ふくじゅ…?」
「何やぁ、相変わらずしょーもねぇ面しとんのぉ」
殺気立った背中越しに親父を見た、大福に向かってそう呼んだ、本名ってことか?
「孝吉を返して貰うぞ」
「返すもなんもコイツから来よったんやでぇ?土下座でもしてもらわんと割合わんわぁ」
「……だ、大福ー」
「黙ぁっとれ」
俺との口論が本気じゃないのが痛い程分かる、これ程まで強い怒りを感じたことはない。
「所詮獣だな」
「ハッ!どの口が言うとんやぁ!」
畳を勢いよく蹴る、それが合図かのように二人のお坊さんが錫杖を振るった。
「ンな木偶坊に、殺られるかぁ!」
それをひらりと交わすと左側の一人に素早く足払いをする、乾いた音を立てそれが崩れた。低い姿勢からもう一人の錫杖を掴み横から顔を蹴り飛ばした、もげたそれが親父に向かっていく。
「っー!」
「何やぁ!もう終いかぁ!?」
猛攻を避け縁側から庭へと降りる、地面が泥濘んで体制を崩し片膝を付いた。
「親父…!」
二人を追って縁側へと向かう、まさか本気で殺す気じゃ…!
「テメェも耄碌しよったなぁ!」
「お前は変わらず単純だ」
両腕を交差し傀儡を引き寄せる、左右から二人組、挟み撃ちにする。
「あぁ!?」
軌道を逸らす為に後方へと飛んだ、同時に傀儡の口が開きワイヤーが吐き出される。
「ー!?何やぁ!?」
両腕と一緒に上半身を絡め捕られた、同時に親父が札を構える。
「大福!」
「こっち来んなやぁ!阿呆!」
駆け寄ろうと庭に足を付いた、何とか抜け出そうと藻掻いていた大福がそれを阻止する。
「これで終いだ」
「ッー!!ぐぅっあぁぁあぁぁぁァ!?」
けたたましい雷鳴と共に電流が走る、叫び声が空を割いた。
「ー!?大福!止めろ!止めろよ、親父!」
「……」
「ぁ……た、頼む、頼むから!止めてやって!親父!」
涙が勝手に流れる、大福の叫び声はまだ止まない。
「孝吉!お前は何方に居るつもりだ!此奴等の肩を持つ気か!」
「な…、何だよそれ!どっちでもいいよ!そんなの!とにかく早くー!」
「放っておけ、時期に死ぬ」
耳を疑った、死ぬ?誰が?
「何言って…」
親父が苦い顔で目を逸らす、俺はどうする事も出来ないのか?また見殺しにするのか?
「あぁぁ!?だぁぁ!れっが、死ぬっ!てぇえ!!?」
「大福!?」
「おぃ!ぁぐっ、コラァぁ!なぁに、ボケっと!しとんねやぁ!ぅぐっあぁ!さっさと、これっ取れ!やぁァ!」
身を捩って俺を睨み付ける、案外大丈夫そう?、…な分けないか。
「来るなとか言ってたのに、勝手だな!」
「止めろ!孝吉!」
親父が此方に向かって来るのが分かる、不思議と迷いはなかった。札に触れる、指先を微量な電流が走った。
「孝吉!!」
左手が俺の手首を掴みに掛かる、既の所で札を引き剥がした。
「ぁぁぁぁあ!!」
雄叫びと共に大福が上半身を後ろに反らす、反動を使って親父に強烈な頭突きを食らわせた。聞いたことのない鈍い音が響く、うわぁぁ…頭蓋骨割れたんじゃ…。
「がぁっ!!?」
そのまま地面へ尻餅をつく、うめき声を出しながら額を抑えて項垂れていた。
「…親父、大丈夫…な分けないか…」
今更ながら申し訳なくなる。
「あぁ!糞ったれがぁ!ただで済む思うなやぁ!?」
「ちょっ!大福、頭突きもしたしもう十分じゃー」
「あ?おんし何も分かっとらんなぁ?」
ジロリと俺を睨み付け溜息混じりの息を吐く。
「向こうが殺す気で来とるんやでぇ?こっちも息の根止める気でいかんとなぁ?」
「…っ」
ブチブチとワイヤーが切れる音がする、こんな親父でも親には変わりない。大福の前に立ち塞がった。
「はっ!わしと殺り合う気かぁ!面白いやねぇけ!殺ってみろやぁ!」
体からワイヤーが剥がれ落ちる、俺は勢いよく右手を振り切った。右手に何かが当たる、軽快な音も相まって平手打ちが成功したのが分かった。
「っ……」
「ぁ……当たると思わなかった…ごめ…」
肩がわなわなと震えている、やべ…やりすぎた。
「ぐぅ…、孝吉、退けっ!」
「親父!?」
振り向いた時には投げられていた、この距離じゃ避けられない。
「退けやぁ!阿呆!」
回し蹴りで横にふっ飛ばされる、大福の背に札が張り付いた。
「クソッ!懲りんなぁ!よっぽど息の根止められたいみたいやなぁ!」
「外したか…」
上半身を脱ぎながら親父に詰め寄る、まだ痛む額を抑えその場に立ち上がった。
「まぁその前に、ちぃとばかし痛い目負うてもらおかぁ?」
左手首を掴みそのまま捻り上げる。
「ぐっー!?」
空いている手で再度札を出そうと試みるも、あっさりと止められる。人間離れした力でギリギリと締められる、手首をゆっくりと反らしていく。
横腹に鈍い痛みが走る、ただの平手打ちを回し蹴りで返されると思わなかった。
「ぐぁぁ…!」
「え……何?」
親父が聞いたことのない声を上げている、酷く痛そうな。
「…自慢の札も投げられんなぁ」
「ぐっ…はぁ…」
「親父…?な…何やってんだよ」
体を起こし目を凝らす、それ程まで雨が視界を霞ませる。
「なぁ…、最後に聞かしてくれや」
「うっ…!っ…」
両膝を付いている親父の前髪を乱暴に持ち上げる、もう片方の手がそっと首元を掴む。
「アンタ等…、遊暮が死んだ時どう思った?」
「っ……過ぎた事だ、どうも思わない…それに、あれは本人が望んだことだ」
「……よう分かった…」
首元の手に力を込める。
「ぐっあ、ぁぐっぁ…」
「アンタ等全員、あン時に見殺しにしといたら良かったなぁ……」
「止めろ!離せよ!」
髪を掴んでいる左手を掴もうと手を伸ばす、それを弾かれ首元を鷲掴みにされる。
「離せ言われて離す阿呆がおるか、今してんのは殺し合いやでっー!!?」
大福が視界から外れる、首元にピリッとした痛みが走った。あれ?大福何処いった?その直ぐ後に水溜りが大きく弾かれる、地面に顔面を擦り付けた大福が視界に入った。
「…ぇ?どう言う事…?」
「やり過ぎだって、安易に殺すなって何時も言ってるでしょ?」
音もなく現れた男性は右足を下げながらそう言った、見た目から大福の知り合いだと分かった。唐傘の下にある大きな耳がぴんっと跳ねる。気怠そうに俺と親父を交互に見ると垂れた目尻を更に下げ、口元に笑みを含んだ。
「因果なもんだねぇ」
「〜ッ、三毛ぇぇ!!テメェなにしよったぁ!!」
「背後から足蹴にした」
「あぁ!?ンな事は分かっとるわ!」
「聞いたのはそっちでしょ?あ、あんまり近付かないで汚れるから」
「あぁ!!?」
大福が三毛という猫又に詰め寄る、相手にしてる感じないけど。少し遠くの方でえずく声が響く、親父がふらふらと縁側へと向かっていた。
「親父、大丈夫かよー」
「煩い!…クソッ、あれさえ有れば…!」
手を貸そうと駆け寄ったのを一喝されてしまった、良心見せると直ぐこれだよ…一生手は貸さん。
「孝吉君」
「え?あ、はい、えっと…三毛、さん?」
「三毛で良いよ、お父さん災難だったね」
「はい、いや…自業自得みたいなもんですよ」
三毛の後ろに居るであろう大福を視線で探す、見当たらない。
「…大ちゃん俺のこと嫌いだから、神社に帰ったんじゃないかな」
「大ちゃん…、そ、そうなんですね」
「うん、…孝吉君、風邪引かない?お風呂行っておいでよ」
「ぇ…、あ、そうですね…じゃあ俺はこれで、失礼します」
三毛の独特なリズムに戸惑いつつ俺は頭を下げその場を後にした。
折られた部分が腫れて熱を帯びていった。脂汗が頬を這って気分が悪い。
「……クソッ…」
廊下を歩いていると騒ぎを聞き付けた母親が駆け寄って来た、鬱陶しい。不本意だが道羅家の手を借りるしかない、これ以上彼奴等を野放しにするわけにはいかない。
「道羅家に連絡を」
母親が狼狽えながらも電話器へと向った。孝吉、お前にも業を背負ってもらうぞー。
「なんやの、もう泣き付いて来はったん?土橋さんも大した事あらへんな」
長やかな爪で唇を軽く撫でた、糸のような目が笑みを浮かべる。
「厭魅様、如何がなさいますか?」
杯に注がれた酒を一息に飲み干す、左右に侍らせた女達を宥めて立ち上がった。
「どうもせんよ、放っておいたら鴨がネギ背負って来はるで」
頭を垂れている男の横をすり抜け、続く部屋の襖を開ける、闇の中で鈍く光る物があった。
「禍々しぃて嫌やわ…。土橋さんの欲しいもんは此処に有りますで、…萩ちょっと話してきてくれる?」
「はい、承知しました」
男はそのままの体制で一礼するとフッと風と共に消え失せた。
「…楽しみやわ、永吉はんどうしてはるかねぇ」
薄い口元に嘲笑が混ざる、愚かで堪らんわぁ。
「…あんじょうおきばりやす」
青鈍色の瞳が顔を覗かせる、行灯の炎が静かに揺れた。