紅葉前線の二人
十月下旬。東北百名山に数えられる岩手山と姫神山が遠くから見下ろす国道を、一台の自転車が南下していた。細身の自転車に取り付けられたリアとフロントのキャリアには、合計四つのサイドバッグが左右均等に引っ掛けられている。
ペダルを漕ぐのは、赤く色づき始めたモミジよりも鮮やかな発色のサイクルウェアに身を包んだ女性だった。年齢は二十歳前後か、タイトなサイクルウェアが女性の曲線美をくっきりと浮かび上がらせている。
荷物が満載された自転車はぼってりと重い印象だが、淀みない一定のペダリングで軽やかな走行音を立てながら道路を疾走する。風を具象化したような流線型のヘルメットの下からは、短く切りそろえられた栗色の髪が風になびいている。
「今日もいい天気! 絶好のサイクリング日和ねー!」
この日既に五十キロメートルを走っていた女性は、疲れを感じさせない笑顔で頬を伝ってきた汗を拭った。
軽く視線を上げれば、彼女を迎え入れるように赤と黄に色づき始めた山々が視界に入る。雲一つない青空に浮かぶ太陽が、冬支度を始めた東北地方の自然を鮮やかに照らし出していた。
「ん? あれは……」道の端に黒い塊が見え、彼女はペダルを踏み込むのを止めた。「人だよね?」
彼女と同じ、荷物を満載した自転車がガードレールに立てかけられ、その傍で一人の男性がうずくまっていた。年齢は七十代か、サイクルウェアから覗く皮膚には染みと皺が目立つ。顔にはより深い皺が刻まれているが、それは苦痛を我慢していることが原因のように見えた。
「大丈夫ですか!?」
彼女は自分の自転車も立てかけると、老人の傍にしゃがみ込んだ。
彼は右膝を押さえていた。しかし転倒したわけではないのか、外傷はない。
「ちょっと待っててください!」
彼女はサイドバッグから冷却スプレーを取り出すと、老人の右膝に噴射した。さらにテーピングを施し、手早く応急処置を完了させた。
「はい、これで一丁上がり! どうですか?」
「あ、ああ……悪かったな、お嬢ちゃん。だいぶ痛みも引いてきたよ」
「それなら良かった! それにしても」彼女は老人の自転車を見た。「わたしと同じ、ツーリング用自転車のランドナー。それに、これだけの大荷物。ひょっとして、おじいちゃんも日本縦断中ですか?」
老人の黒いランドナーはところどころ塗装が剥がれ、銀色の下地が見えている。バッグにも汚れや傷が目立ち、かなり長期間使い古されたことが見て取れる。
老人は「別に、自分でどうにかできたがな」と強がりながら立ち上がる。一般的な七十代より肌の艶も四肢もたくましく若々しく見える。
「確かに日本縦断中だが、『おじいちゃんも』ってことは、お嬢ちゃんもなのか? 今の時期、学校か仕事があるんじゃねえのか?」
「その『お嬢ちゃん』って呼び方やめてくださいよー! 何だかこそばゆいじゃないですか」
「そうかい? 儂は源内。それで、あんたは?」
「わたしはノギカ! ユーチューバーのノギカです!」
老人は目を丸くし、宇宙人にでも出会ったかのように困惑の色を見せた。
「ゆ……ゆーちゅーばー? のぎか? 外国人か何かか?」
「ユーチューバーっていうのは、YouTubeっていうサイトに動画を投稿している人のことで、ノギカはそのサイトの中での名前です」
「はあ……?」
「……まあ、要は個人が作っているテレビ番組ってイメージでしょうか。人によって投稿している動画は違うんですが、わたしの場合サイクリング動画を投稿してるんです」
「……まあ、YouTubeとやらはどうでもいい。お嬢……ノギカさんの邪魔をして悪かったな。儂はもう少し休んでから出発するよ。気をつけてな」
源内は端に寄って道を譲ったが、彼女はその場を動こうとせず、じっと彼の顔を見ていた。
遠慮せずに行きなさいと促すと、彼女は親指を進行方向に向けた。
「ここで出会ったのも何かの縁ですし、せっかくだから一緒に行きませんか?」
「はあっ!?」
「実は、一人で走るのもちょっと寂しいかなーって思い始めてたんですよ。でも、自転車で何千キロも走れる友達なんていないし。それに、自転車仲間の源さんがまたトラブったりしたらと思うと、わたしもこの先安心して走れませんし」
「源さんって……急に馴れ馴れしいな、あんた」
「それに、源さんも心配じゃないですか? 若い女の子が一人旅して、熊や下劣な男に襲われたりするかもしれないじゃないですか」
「いや、儂が一緒にいたところで熊や若い男に勝てるわけないし、そもそも旅自体やめておけばいいんじゃ……」
「そういうわけにもいかないんですー!」
「はあ……面倒な女に助けられちまったなあ」
源内は腕を組んだり天を仰いだりしながらしばらく逡巡し、覚悟を決めたかのように大きくため息をついた。
「分かったよ。ただ、儂はあまり速く走れんし、逆にノギカさんが遅くても待ったりせんからな。それに、正確には儂の目的は日本縦断ではなく、紅葉前線に乗って各地の名所を見て回ることだからな。何度も寄り道するぞ?」
「全然構いませんよー! むしろ、わたしも紅葉目当てなのでちょうど良かったです! じゃあ、次の目的地は岩手公園じゃないですか?」
「まあ、そうだな」
「やっぱり! 運命感じちゃいますね!」
「……好きに感じてろ。なんだかんだで脚は休めたし、そろそろ出発するぞ」
「はーい!」
こうして、赤一色の女性サイクリストと、黒一色の高齢サイクリストは、紅葉を追う日本縦断の旅に向けて再びペダルを漕ぎだした。
その日の夜。
ノギカは源内と共に、郊外にある小さな公園の一画にテントを張っていた。この日の走行距離は百キロメートルを超え、全身に汗をかいたことでそよ風が吹いただけでも体温が奪われる。風に撫でられた脚が冷え、ウインドブレーカーを羽織った上半身までぶるりと震える。
「なあ、ノギカさん。一つ訊きたいんだが」
「はい。何でしょうか?」
「このテント、儂のなんだが。どうしてあんたも張ってるんだ? 手伝ってくれるのはありがたいが、あんたは泊まる所を探さなくていいのか? 見たところ、テントを持っていないようだが」
「ああ、それなら」ノギカはテントを指差した。「源さんのテントに入れてもらおうかなーって。いいでしょ?」
「はあっ!?」
源内はこの日二度目の素っ頓狂な大声を上げた。
「昼に『男に襲われないか』って心配していたくせに、矛盾しとるだろうが!」
「そんなことないですよ。源さんって結構紳士的っぽいし、若い女の子を襲う感じしませんから」
「後半は男として若干否定されている気もするが……」
「それに、源さん結婚してるんでしょ? 左薬指に指輪はめてますし。奥さんは一緒に来られなかったんですか?」
「……ああ。あいつは今、走れる体じゃないからな。昔は一緒に走っていたものだが」
「源さんみたいな立派な漢が浮気するわけないですもんね! それじゃ、寒いんで先に入っちゃいますよ!」
「いや、あんたに儂の何が分かって……ああ、テントが狭くなる……」
言い争うのも時間と体力の無駄だと悟ったのか、源内も自分の自転車を柵に二重ロックして荷物を中に入れた。
源内のテントは、妻と二人で使うことを想定して購入したものだったのか、ノギカが入っても二人が密着するほど狭くはなかった。
「いやー、助かりました! おかげで宿泊費が浮いたので、その分源さんに還元しますね」
「別にいいから、早く寝なさい。儂は今日、特に疲れた」
「その前に汗拭いて着替えておきます。泊めてくれたお礼に見てもいいですけど、襲っちゃだめですよ。源さんも汗拭きシート使います? わたしは汗臭い男の人も嫌いじゃないですけど」
「いいからさっさと終わらせろ。どこにそんな元気があるんだか」
「わたしの体は特別製ですからねー。汗はかいても、怪我や疲労とは無縁ですから!」
「はあ……若いってのは素敵なことだね。儂はもう寝るから、せめて寝てる間は静かにしてくれよ」
「失礼ですね! いびきかいたりしませんから!」
* * *
どこか噛み合わない二人のサイクリストだったが、大きなトラブルもなく、二人は紅葉を楽しみながら順調に日本を南下していった。
栃木県日光市はいろは坂。
東京都大東区は上野恩賜公園。
神奈川県箱根町は芦ノ湖。
静岡県浜松市は浜松城。
愛知県名古屋市は白鳥庭園。
京都府京都市は高台寺。
自転車で立ち寄りやすいルートを選びながら各地の景勝地を駆け抜けていく。
そして、岡山県総社市は宝福寺。室町時代に活躍した水墨画家の雪舟が、子供の頃に涙でネズミを描いたという逸話でも知られる寺院に立ち寄った時だった。
半月に渡って共に走り続けてきた源内に、ノギカはずっと疑問に思っていた彼の行動について訊ねた。
「ねえ、源さん。ずっと思ってたんですけど、スマホのカメラの向きが逆じゃないですか?」
目的地に着いてからは別行動も多い二人だったが、ノギカは何度か源内の様子を見守っていた。
彼は決まって、ごく普通に何枚か風景の写真を撮ると、その後必ずカメラを自分の方に向けていた。
はじめは自撮りをしているのかと思った。しかし、それならインカメラを使えば済むし、彼は自分の背後の風景には無頓着だった。それに何より、シャッター音は一度も聞こえなかった。
「……あんたには関係ねえだろ」
「それはそうですが、気になるじゃないですか! ちょっと見せてくださいよー」
「触るんじゃねえ!」
ノギカが伸ばした手を、源内は思い切り弾いた。パンと破裂するような音が響き、ノギカはほのかに赤くなった手を眉尻を下げながら見つめた。
「あっ、いや……」源内は我に返ると、手を宙に迷わせながら狼狽し、頭を下げた。「すまねえ、ノギカさん。痛かったよな」
「……いえ、わたしこそ。源さんには源さんの旅の仕方があるんだから、不躾でした」
肩を落とすノギカを前に、源内はさらに困惑した。常にテンションが高く、しかも孫ほどの年齢の女性を気落ちさせてしまったという点も大きかったのかもしれない。
手をさする彼女に、源内は下を向きながら、その場を取り繕うように語り掛けた。
「ノギカさんには感謝してるんだ」
「えっ?」
「一人旅ってのは初めてなんだが、これが思いのほか心細くてな。だから、あんたが一緒に行くって言ったとき、少し嬉しかったんだ。儂と妻の間には結局子供ができなかったから、あんたが孫のように思えたっていうのもあるかもしれねえ」
ノギカは頭を下げる源内を見下ろす。地面の落ち葉を靴先でいじる彼の顔は少しずつ赤く染まっていた。
「それに、大げさなんだが、最近はあんたのことが秋の神様か何かだと思い始めてよ」
「神様?」
「今年は紅葉が遅いのか、儂が地元の青森を出発してしばらくは、木々は青々としていた。だけど、あんたと一緒に走り始めてから、驚くほど素晴らしい紅葉に出会える。若い頃はサーフィンもやってたが、まるで、紅葉前線って波に乗っている気分だ」
照れ隠しするように語る源内を見て、ノギカは思わず吹き出してしまった。
「あっはは! わたしは神様じゃないですよー! それに源さんがサーフィンって、似合わなーい!」
「うっ、うるせえ! くそ! あんたがしょげかえるから余計なことまで口走っちまった! やっぱりあんたは、ただの図々しい小娘だ!」
「うわっ、ひどーい! あんまり言うと泣いちゃいますよ?」
「勝手にせい!」
無言で鎮座する少年雪舟像に見送られながら、二人は騒がしく口論しながら宝福寺を後にした。
* * *
十一月下旬。ノギカと源内の旅が始まって一ヶ月が経っていた。
二人は広島県尾道市からしまなみ海道を渡って愛媛県に入った。青く輝く瀬戸内海の上を疾走する間に、二人の間に漂っていたわだかまりは振りほどかれていた。
愛媛県は木々が左右から挟み込むような佐田岬メロディーラインを疾走し、フェリーに乗って九州に入った。
「ちょっと険しいが、どうしても行きたい所がある。ついてくるか?」
源内が行き先を提案することは、一ヶ月間の旅の中でも滅多になかった。ノギカは一瞬目を丸くしたが、すぐに「今までわがまま聞いてもらいましたから」と賛同した。
そして二人は、九州を横断して熊本市に向かう道を外れ、阿蘇くじゅう国立公園を横目に南下を始めた。すぐに建物は姿を消し、木々や枯れ草が織りなすアースカラーの海に敷かれたアスファルトの道を駆ける。国道二一八号線から横道に入ると道路のひび割れが自転車を揺らし、より深い自然に入り込んでいくことを自覚する。
目的地直前の駐車場に自転車を停め、二人は並んで歩き出した。
「源さん、大丈夫ですか?」
「…………」
「源さん?」
「……あ? ああ、大丈夫だ。ちょっと疲れただけだ」
「おじいちゃんなんですから、無理しちゃだめですよ」
「うるせえな、伊達に七十年以上生きていねえ。自分の体のことは自分がよく分かってる」
そう嘯くと、源内はペースを上げて坂道を上る。
実際に、彼は同年代の男性と比べても力強い足取りで、発達した脚だけを見れば二十歳以上若々しく見えた。
そのため、ノギカが声をかけた理由は別の所にあった。念願の目的地に向かう源内の背中からは、ゴールに向かう勇ましさではなく、寝支度を終えて寝室に向かう安らぎのような空気を感じていた。
しばらく歩くと、頭上を覆っていた梢は減り、空が開ける。目の前には、老人のように染みだらけの古びた展望台が待ち構えていたかのように佇んでいる。
蘇陽峡の長崎鼻展望台。それがこの旅の終着点だった。
「うわあ、すっごい景色……!」
展望台の先頭に立ったノギカが感嘆の声を上げた。
「九州のグランドキャニオン」と称される蘇陽峡は、二百メートルという高さの絶壁が十キロメートルに渡って続く。真夏の最中のように青く茂る木々に、赤と黄に彩られた木々がモザイク模様を描く。油絵のように細かな立体感を持つ絶壁の間には、雲一つない澄んだ青空を映す五ヶ瀬川が静かに流れる。
人々の喧騒は遥か遠く、時折吹く強い風が草木を揺らすさざめきしか聞こえない。花の香りも、草木の青臭さも運ばない無味無臭な風は、ここが日本の一部という事実を忘れさせるようだった。
この景色を前に、二人は一ヶ月のルーティンをこなした。ノギカはスマートフォンで何枚もの写真と動画を撮り、源内はスマートフォンで何枚か写真を撮った後、やはり最後はカメラを自分に向けていた。
「いやー、楽しかった! 源内さんとの旅が終わっちゃうのは寂しいですけれど、最後に最高の景色が見られて良かったです! 動画の素材もたっぷり手に入りましたし、帰ったら編集が忙しくなりそう~!」
展望台の手すりにもたれかかって景色を眺めていた源内に、ノギカは満面の笑みと、無数の写真と動画データが蓄積されたであろうスマートフォンを見せた。
そんな彼女に、源内は自分のスマートフォンの画面を見せた。その瞬間、ノギカは源内の不審な行動の理由を悟った。
「儂の妻だ」画面には、年齢を重ねているが若々しい笑顔の女性が写っていた。「去年死んだ。『走れる体じゃない』ってのは、そういうことだ。骨になってちゃ、走れねえよ」
源内は、カメラを自分に向けていたのではなく、画面に写る妻に紅葉を見せていたのだ。
彼は、ここまで付き合ってくれた礼だ、と前置きして語り始めた。
「変わった女でな。花を見るより葉っぱを見るのが好きな奴だった。九州出身だったせいか、特に蘇陽峡の景色が好きでな。どんなルートで紅葉を追いかけても、終着点は必ずここだった」
「奥さんが亡くなったのに、どうして今年もここに? 奥さんに景色を見せるために?」
源内はそれだけじゃねえと首を振った。
「棺桶に入れる花みたいなものかね。あいつとの思い出が詰まったスマホのフォルダを、紅葉の写真でいっぱいにしてやりたかったんだ。自己満足でしかないが、あいつが少しでも寂しさを紛らわせられるようにってな」
ノギカは改めて彼の妻の写真を見た。アイコンをほとんど排除されたホーム画面には、柔らかな笑みを浮かべる女性と、背景には彼女を華やかに際立たせる真っ赤なモミジが写っている。
ふと、ノギカは自分の横に源内が立っているように感じた。燃えるようなモミジを背景に、自分にしか見せない妻の笑顔を写真に収める彼の幻が。
「三人で写真を撮りませんか?」
その言葉が彼女の口を衝いて出た。
「三人で?」
「わたしと源さんと奥さんです。ほらほら、遠慮しないで!」
「わっ、馬鹿! くっつくんじゃねえ!」
ノギカはスマートフォンのカメラをインカメラに切り替えると、源内の肩を抱いて密着した。二人の顔の間には、変わらない妻の笑顔を表示する源内のスマートフォン。
カシャ!
鮮やかな蘇陽峡を背景に、笑顔の二人の女性と、困り顔の一人の老人の写真ができあがった。
偶然の出会いで始まった二人の旅は、三人の笑顔で幕を閉じた。
* * *
「最後に訊かせてくれねえか?」
展望台を後にしようとするノギカを源内が呼び止めた。
なんでしょうか、と振り返った彼女が見たのは、一ヶ月間を共に過ごしたとは思えない源内の冷たい目だった。
「ノギカさん……いや、お嬢ちゃん。あんた、一体誰なんだ?」
声色も冷たくなった源内に、彼女は思わずつばを飲み込んだ。「何言ってるんですか? わたしはノギカですよ!」と答えるどころか、口も開けない。
黙り込む彼女に、源内は再び自分のスマートフォンを見せた。しかし、今映し出されているのは妻の写真ではなく、YouTubeのトップ画面だった。
「『ノギカ』という名前のユーチューバーはいねえ。いろんな漢字やローマ字でも検索したが、YouTubeどころかどこのサイトにも引っ掛からねえ。お嬢ちゃんが無名のユーチューバーだったとしても、そんなことありえるか?」
「……源さん、そういうの疎いんじゃなかったんですか?」
「あれはわざとだ。知らない奴が話しかけてきたときは、何も知らない振りをして情報を引き出すようにしている。儂がガラケーじゃなく、スマホを持っている時点で察することもできただろうに」
「騙していたんですか?」
「それはお互い様じゃないのか? だがな、別に意地悪をしたいわけじゃない。儂は自分のことを正直に話した。だから、最後にお嬢ちゃんの正体も知りたい。それだけだよ」
言い終えると、源内の冷たい雰囲気は和らいだ。
それで悟った。彼は問い詰める気はない。そして、自分の正体に見当をつけている。冷たい雰囲気は、彼の緊張感の表れだった。
かつてノギカと名乗った女性は、正体を明かすことが彼への礼儀だと思った。
「源さんに『秋の神様』って言われたとき、びっくりしたんですよ。当たらずといえども遠からずだったので」
彼女は足元に落ちていた緑色の葉をつまむ。すると、みるみるうちに葉は黄色く色づいていった。
「人間に分かりやすく言えば、秋を司る精霊の一体といったところでしょうか。精霊は自然界に無数に存在し、その役割は各々異なりますが、わたしはこの国の植物たちに秋の終わりと冬の始まりを告げる役割を担っています。言ったでしょう? 『わたしの体は特別製』だって」
「じゃあ、お嬢ちゃんと旅を始めた途端、タイミングを見計らったかのように儂の周りで紅葉が始まったのは……」
「わたしが傍にいたからです。そういう意味でも、源さんにはわたしに感謝して欲しいですね」
正体を明かした彼女を前に、源内はさらに何かを訊ねようとして、それを止めるという行為を何度か繰り返した。
「……ああ、もう。頭が痛え。七十過ぎのジジイにゃ、こんなファンタジーは到底受け入れられねえ。もう旅も終わりだってのに、どうしてこんな……」
混乱する源内に、彼女は笑顔で歩み寄る。そして、彼の皺だらけの手を握った。
人外からの握手に源内は一瞬顔を引きつらせたが、やがて平静を取り戻した。彼女の手のぬくもりは人間のそれと変わらない。
「わたしの仕事は終わりました。それに人間に正体を明かしてしまった。もう、人間の姿ではいられません」
そう告げると、彼女は源内の頬に口づけした。
「源さん。また来年の秋にお会いしましょう」
直後、突風が吹いた。風は落ち葉を舞い上げながらつむじ風となって彼女を覆い、源内を引き離した。無数の木の葉を纏う風は赤と黄の柱のようになり、彼女の姿を覆い隠す。
それも長くは続かず、風は止んだ。舞い上がった木の葉がひらひらと舞い落ち、腰を抜かしていた源内に降り注ぐ。
「……あれは?」
よく見れば、彼女が立っていた場所に紙のようなものが落ちていた。おそるおそる手を伸ばして、それを手に取る。
それは写真だった。源内と彼の妻、そして姿を消した秋の精霊。たった一枚の写真が、この一ヶ月間は夢ではなかったのだと証明していた。
「……ああ。だからノギカだったのか。『禾』に『火』で『秋』って字になるからな。まさか精霊なんて思わんが、儂も間抜けだったな」
手にした写真を見つめながら、源内は自嘲気味に笑った。その視線は妻に向いている。
「儂はな、この旅で気力も体力も使い果たして、死んじまいたかった。お前のために写真を撮ってたのも、ただのご機嫌取りでしかなかった。後を追う儂を、お前は許さないだろうからな。それが分かっても、儂は寂しくて仕方なくて、耐えられなかった。赤ん坊みたいなこと言って情けねえよな」
源内は自分の手足をさすった。
日本縦断の旅は、心身共に衰弱した彼にとっては自殺に等しい行為だった。それが終着点の蘇陽峡までたどり着いたのは、ノギカが励まし、怪我を手当てし、入念なマッサージで疲労を取り除いていたおかげだった。
「あのお嬢ちゃん、『また来年の秋に』って言いやがった。精霊様にそう言われちゃ、無下にはできねえよなあ。それとも、ひょっとして、お前があの子を儂の元に送り込んだのかい? いや、それは考え過ぎか」
源内は写真を丁寧に折りたたむと、ポケットに入れて歩き出した。その足取りは、展望台に向かったときよりも力強い。
「せっかく熊本まで来たんだ。馬肉をつまみに地酒でも飲みまくるか。うるせえ小娘もいなくなったことだしなあ」
彼が豪快に笑うと、強い風が吹き、背中を押すと共に木々の梢がさざめく。明朗快活な秋の精霊が思わず吹き出したのかもしれない。