道化師(ピエロ)
蛇口を捻ると、冷たい水が一気に出てくる。この蛇口はどんなに捻っても逆にどんなに少ししか捻らなくても水は一定量しか出ない。調節ができないのだ。もちろんお湯にする機能なんてものはない。築五十年の襤褸アパートにそんな期待はしてはいけない。この冷たい水を百均で買ってきた盥に溜めた。白狗は盥の中に顔を浸けた。手は無気力にだらんと洗面台から落ち、暫くただ立っているだけであった。「んん、ん。んぷは、ハーハー。ふー。ハッ」勢いよく顔を上げ、ガサガサのタオルで拭く。多分どこかで粗品としてもらったものだろう。白狗は、タオルを籠に入れ、冷蔵庫を漁った。あるのは、缶ビールと魚肉ソーセージ、納豆のパック、玉ねぎぐらい。仕方ないので、缶ビールと魚肉ソーセージを取り出し、貪り食った。魚肉ソーセージの包装を捨てると、なんだか無性にもう一本缶ビールが飲みたくなり、プルタブを起こした。
この男は「***になる素質があるなぁ」
白狗は生まれた時から保護されてきた。これは、彼の家が金持ちで常にボディーガードが付いて守られていたというわけではない。白狗は家族に守られていた。着る服も住む家も食べるものもきちんと与えられた。ただそこには自由がなかった。欲しい服なんてなかった。ただ、会話を合わせていただけだ。白いTシャツさえあればよかった。白狗は、家にいてずっとテレビゲームをしていたかった。彼の友人は、キャラクターを育てるための薬草や宝を集めるのに必死だった。白狗は、父親に一度だけ今日は友達と遊びたいと恐る恐る言ったことがある。しかし、彼の父親は、白狗を抱きかかえながら、「よく聞きなさい。今日は、日曜日だろ。日曜日っていうのは、家族の日なんだ。家族みんなで楽しく幸せに過ごそうっていう日なんだよ。なにも、父さんは学校のある日まで遊びに行くなとは言ってないだろ。だけど、今日は日曜日だから、お前の友達も家族と過ごしたいんだ。そこに、家族じゃないお前が遊びに行ったら、友達や友達のお父さん、お母さんはどんな気持ちになると思う?そうだよな、嫌な気持ちとか悲しい気持ちとかになるよな。だって、友達は家族と過ごしたいんだから。だから、今日は遊びに行ってはだめだ。父さんや母さんと一緒にどこかへ行こう」と諭した。白狗がうんうんと頷いたので、その日も近隣の県の大型ショッピングモールへと連れていかれ、洋服選びや、インテリア選びに付き合わされた。先ほど、白狗の家は金持ちではないといったが、かといって貧乏なわけではなかった。貯蓄ができない散財気味の両親であったので、同額の年収の家庭よりも幾倍か裕福に見えた。この家族は、ショッピングモールを一階から最上階まで歩き回り、目的の店が並ぶフロアでは、まるでローラー作戦を実行しているかのように一店舗ずつ横に移動していった一方、大人にとって有益であるか無益であるかが入店の基準であったので、おもちゃ屋の前を通った時は、白狗が抱いた淡い期待を当然裏切った。白狗は、金髪の男の子がブロックや空を飛ぶ羽根つきおもちゃで遊ぶ広告を見ては、溜息を洩らしたのだった。次の日、白狗は、学校で友人たちが二人で公園で遊んだ話を聞いて、大きなショックを受けた。父親の「日曜日のルール」はどの家庭でも守られるような絶対的なものではなかった。どうにか丸め込まれたようで、何とも言えぬ敗北感が胸中に広まった。
***のメイクは案外難しいものだ
白狗はいつごろからか、自分にはどんな服も似合わないと思うようになった。両親は、有名ブランドの、もちろんファストファッションも含むが、服を着せた。赤色、青色、黄色、ピンク色、緑色。色を挙げればキリがない。彼は、ピンク色のポロシャツを着ながら、等身大の本当の自分を見失っていた。何が自分で、何が嫌な服を着させられている自分なのか区別がつかなかった。まるであのおもちゃ屋の広告で金髪の男の子が遊んでいた人形みたいだった。常に心の目は焦点のあってないガラス玉だった。
「ああ、こんなところに私の服が。やっと見つかったわ」
「よかったね。ん?ちょっと待って。それ俺の服じゃないか。ほらやっぱり、お前が下敷きにしてたんだよ。全く嫌になちゃうな」
「ごめんなさいね。あ、あの子の服、これはもう着れないわね」
「そのサイズは小さいと思うよ。売ってしまえ。俺らも要らないものまとめようよ」
「ただの探し物が大変なことになってきたわね。あれも、これも。わー、懐かしい。ちょっと、来なさい。これ要るの?要る?本当に。よく考えなさい。あなたこれ着ないでしょ。ね、要らないでしょ。じゃあ、売りましょう」
「全く、この家は不用品で溢れているね。ゴミ屋敷と言われちゃうよ。あ、これも着ないね。売るよ」
耳を塞ぎたくなるような会話からずっと逃げ出したかった。不用品を生み出すサイクルを理解しない大人二人は責任と金をどこか遠くの空へ胸を張って投げるのである。
缶ビール二杯で腹がタプタプ言うので、これ以上飲むのをやめた。そのままごろりと横になった。もう半年ほど大学へは行っていない。神経衰弱と診断した医師に一発拳を見舞いしてやりたかった。しかし、朝からアルコールを摂取したせいか、頗る気分が良い。今日ならば、自分というものをはっきりと見つけられる気がした。いや、今日でないとその瞬間は永遠に来ない気がしてきた。自分というものが定まっていないので複数いるこれをそれそれ自分1、自分2・・・自分nとする。プロのカメラマンがシャッターを押す瞬間のようにある行為によってこれらは一様に収束して初めて自分になるのだ。このある行為とは、今まで母体だった自分1、自分2・・・自分nの殻を破ることだった。一直線に切れ目が入る。その姿は優美であった。中から、体液が滲みだして滑り気を帯びて、光出す。顔、手、腹、足の順で殻から新しい自分が這い出てくる。それが寸分違わず同時に起こるのだ。彼らは一人では生きていけない。すぐに集まろうとする。その顔には明日を生きる希望が表れていた。
白狗は、部屋を出て隣の部屋の扉を叩いた。しかし、応答は無かった。もう一つずれると今度は扉が開いた。男はヘッドホンを首から下げ、なんすかおたくと言った。
「すいません、ちょっとお時間いいですかね」
「いや、ちょっと困ります。俺、音楽聞きたいんですよ。ていうか、誰ですか」
白狗はボロボロのタオルを相手の口に詰め込み、そのまま部屋に押し入った。鍵を静かに閉め、顔を二、三発殴った後、胸から包丁を取り出し、男の腹を刺した。男は苦しんでいたが、やがて何も言わなくなった。白狗は、窓際に立った。まだ午前十時である。朝日は白狗の新しい自分の誕生を盛大に祝っているようだった。