タベル
家は真っ暗だった。
いつもは、帰宅するとすぐに玄関まで美佐子が満面の笑みで迎えてくれるはずだった。
不審に思い、俺は、名前を呼びながら、真っ暗な台所の灯りを点けた。
テーブルの上には、一枚の紙がぽつんと置かれていた。
離婚届。
そこには、丁寧な文字で美佐子の名前が書いてあり、判子が押してあった。
「なんで?」
俺はカバンも置くのも忘れ、茫然と立ち尽くした。
俺たちは、うまくやっていたはずだ。
会社の仲間からも羨まれるほど、仲が良かった。
すぐに、俺は美佐子の実家に電話したが、彼女は実家にも帰っていないという。
何かあったのかと問われたが、実家の両親をいたずらに心配させるのも心苦しいので、たぶんどこかに遊びに行って遅くなっているのだろう、と説明し電話を切った。
いったいどこに行ってしまったんだ。
家にいても、落ち着かなかった。
俺は、不安から、家を飛び出していた。
今までこんなことは、一度たりともなかった。
どこに行くにも、美佐子は必ず連絡を怠らなかったし、夕方にどこかへ出かけるなんてことも一度もなかった。
俺が帰宅したときに、美佐子が家に居ないということは、結婚して一度もなかったのだ。
遠くから、祭囃子が聞こえる。
そういえば、そんな時期か。今日は近所の神社の祭りのようだ。
ふと俺は、人混みの中に美佐子の後姿を見た。
「美佐子!」
俺は、彼女の名前を呼びながら、追いかけた。
思った以上に、人混みの中は前に進めず、焦燥感からか、額にはびっしょり汗をかいていた。
ついに見失った。はたして、あれは美佐子だったのだろうか。
途方に暮れて、立ち尽くしていると、煌々とした屋台が並ぶ中、ひとつポツンと薄暗い、白い卵のみを並べた店を見つけた。
そこには、男とも女とも若いとも老いてるともわからない者が佇んでおり、俺に声をかけていた。
「おや、お兄さんはこの店が見えるんだねえ。」
笑っているのか、そうでないのか。その者はぼんやりと背景に透けているようにも見えた。
「お兄さんは、第四の色を見ることのできる、特別な目を持った人間と見受けた。」
それは不思議なことを言う。
「第四の色?」
「そう、第四の色。世の中ってのは、赤、青、黄色の三つの色でできているだろう?つまり、第四の色ってのは、それ以外の色ってことさ。」
「言っている意味がわからない。」
そう切り捨てて立ち去ろうとすると、その者はさらに畳みかける。
「お兄さんは、今、大切なものを無くしてお困りなのだろう?」
俺は思わず、核心を突かれ振り向いた。
「持ってお行き。」
そう言うと、その者は、白い卵を差し出して来た。
「悪いが、卵を買っている場合じゃないんだ。」
そう顔をしかめると、その者の口が明らかに笑った。
「願いが叶う卵だよ。お代はいらないよ。ただし、タダではないけどね?」
お代はいらないのに、タダではないということはどういうことなのだろう。
俺は、関わりあう時間が無駄なので、さっさとその卵を受け取り、また美佐子を人混みの中に探しに行った。
結局、俺は美佐子を見つけることができず、手には卵を持ったまま帰宅した。
テーブルの上には、現実がまだ横たわっている。
俺は離婚届の上に、静かに手にした卵を置くとつぶやく。
「どこへ行ってしまったんだ。」
せめて、何か一言でもいい、メッセージが欲しかった。
俺は、突然、祭りで置いてけぼりにされた子供のように、頭の中は真っ白になった。
こんな時でも腹が減るのか。とにかく、何か食べて考えよう。
俺は、見知らぬ者にもらった卵を、熱したフライパンの上に落とした。
確か、美佐子はこんな風に、蓋をする前に差し水をしていたっけ。
見よう見まねで目玉焼きを作った。たったそれだけのことなのに上手くいかない。
熱しすぎたフライパンに卵は焦げ付き、まだ固まっていない黄身がどろりと流れて、皿を汚した。なんでこんなことになったんだ。俺は、黄身がほとんど流れ出して、味気ない目玉焼きに箸をつける。
美佐子なら、こんなことは簡単にやってのけた。俺の好み通りに、綺麗な半熟の目玉焼きを毎朝出してくれたのだ。俺は、ふと思い出した。たまに、黄身が固まっていたときは、俺は彼女に何と言っただろう?
アイロンが苦手な彼女に、俺は何を言った?
味の薄いみそ汁を出された時には?
何一つ覚えてはいないが、彼女は笑って「ごめんね」と言ったのだ。
当たり前のことだと思っていた。
ああ、俺は、なんてバカだったのだろう。
一つ一つの言葉が、きっと彼女の心には澱のように積もっていったのだろう。
その時、玄関から「ただいま」と声がした。
俺は、箸を置くと、玄関に走った。
「美佐子!」
俺がそう言うと、彼女は驚いたように顔をあげた。
「どうしたの?」
彼女は何事も無かったかのように、俺の前を通り、リビングへと向かった。
「なあ、美佐子、これ、どういうこと?」
俺は離婚届を、彼女の前に突き出した。
彼女は無表情に
「ああ、冗談よ。それ。それよりお腹がすいたでしょう?」
と言いながら、台所に立った。
俺は唖然としながら、彼女の後姿に問いかけた。
「なあ、美佐子。何か不満があったら言ってくれ。」
「別に。」
「じゃあ、これは何なんだよ。」
「だから、冗談だって言ったじゃない。」
「冗談にしてはキツイぜ。」
そう言うと美佐子は、無表情に振り向いて
「ごめんね」
と言った。
俺はもうそれ以上は何も言えなかった。
食卓には、俺の好物がずらりと並んだ。
どれも、美佐子が作ったとは思えないほど、プロ級に美味かった。
「料理の腕、上げたね。」
そう俺が美佐子に話しかけても、彼女は無表情のまま
「そう?普通よ。」
と答えた。
「やっぱり、何か怒ってるんだろう?正直に言ってくれ。」
と俺が言うと、美佐子は心底不思議そうな顔をした。
「怒ってなんてないよ?」
美佐子は俺に、本当のことを何も言ってはくれなかった。
「美佐子は食べないの?」
俺がそう彼女に問いかけると、
「うん、作ってたら食欲なくなっちゃって。また食べたくなったら食べるわ。」
と言って、さっさと調理に使った器具の洗い物を始めた。
俺は、その日、もやもやした気分のまま眠った。
朝起きると、すでに美佐子は起きていて、枕元には、きちんとアイロンをかけられたシャツが置かれていた。袖を通してみる。完璧だ。彼女がアイロンをかけると、必ず袖口や肩のあたりにしわがついているのだが、しわ一つない。
「ねえ、このシャツ、クリーニングに出してくれたの?」
「違うわよ。私が洗って、アイロンをかけたんだけど?」
「そっか。ありがとう。」
それからというもの、彼女は何もかも完璧に家事をこなした。何をやっても、まるでプロのようで、まるで美佐子が美佐子ではなくなったような気がした。
俺は、ある夜、いったん眠ったものの、いろいろ考えると眠れなくなり、水を飲もうとキッチンへ向かった。美佐子がまだ、起きており、台所で何かゴソゴソしている。
俺がぼんやりと彼女の後姿を見ていると、突然キィーという機械音がし、彼女の首がグルリと180度回転し、真後ろを向いた。
「うわああ!」
俺が叫ぶと、彼女は平然と首が逆のまま俺を見おろして、首の後ろから、何か小さなチップを取り出して、、新しいチップを挿入した。
「な、なななな、なに?」
俺は慌てて口から意味不明の言葉を発していた。
「カードエラーが出てたから新しいのに取り換えてたの。」
彼女は、ケロっとしてそんなことを言った。
「お前、美佐子じゃないな?」
「私は、美佐子よ。私は、美佐子。私は美佐子、美佐子、美佐子、美佐子美佐子美佐子美佐子美佐子美佐子。」
彼女は壊れた。
美佐子は、いまだに行方不明のままだ。
もう寂しいという気持ちはとっくの昔に薄れてしまった。
夫婦なんてこんなものなのだろうか。
俺は、今日も完璧な料理を食べ、しわ一つないシャツを着て会社に出かける。
そうだ、美佐子をアップデートしてから出かけなくちゃ。