五十三. 惑星
──本を読んだことがある。それはまだ小さな頃だった。
あれは、クラレッタとディアーナとかくれんぼをしていた際に見つけたものだ。
まだ書きかけのものであったが、一目でその内容に心を奪われたのを鮮明に覚えている。
「シグマ! 見ーつけた!」
それを初めて読んだ時、まるで体を半分に千切られたような衝撃を受けた。そう、"世界"というものを意識させられた瞬間だったのだ。外の音が不思議なくらいに遠くから聞こえていたのは初めての経験だった。
「シグマ、駄目だよ。そこはお父上のお部屋だもの……怒られちゃうわ」
残念なことに、その物語はまだ未完成のようであった。しかし、そんな事には構いもせずに何度も何度も読み返していた。書き綴られた世界、すなわち、自分の知らない冒険譚に心を奪われてしまったからだ。
本当なら我が儘を言ってでもそれを持ち出してしまいたかったものであるが、それにより完成することがなくなってしまうのも憚られる。
散々迷った末に、ただひたすらに完成を待ち望むことを選んだ。
ところが、いつまで経ってもそんな本が出回る様子が感じられない。そもそも、そんな話が書かれているという噂ですら聞こえてこない。仕方がないので直接本人へと訊ねてみようと思い、クラレッタに取り次いでもらうよう頼んでみる。どうしても自分で聞いてみたかった。
常々彼女から父は多忙であると聞いていたが、意外にもすぐに件の人物とは会う機会は訪れた。
「わはは! あれを読んだ、と? わはは! それで続きが気になった、と? ……ふむ。ならば、一つ問わせて頂こう。王子よ、まさかあれを物語のように思われたのではなかろうな?」
笑いながらも、どこか真剣な瞳で聞き返されたのをよく覚えている。
「よう? 違うのか?」
まるで夢物語だった。まるで知り得ない環境の惑星が実在すると、そう言われたような気分になった。
「そんなことは知り得ませんが、かつて、存在したかもしれぬ。そう思うだけで、また違った楽しみも得られるかと思いましてね」
そう言うと、わはは、と笑う。
「知り得ない? そんな訳ないだろう。子供だと思って嘘をついているな」
ただ、知りたかった。あるならば、いつか自分も行ってみたい。ないならば、いつか自分で作ってみたい。心からそう思ってしまったからだ。
「物事には知らなくていいこともある。また一つ大人になりましたなぁ、王子」
その言葉を聞いた時、子供ながらに、もう答えは返ってこないのだろうと悟ってしまう。しかし、諦めるにはまだ幼すぎたようで、飲み込むべき言葉は口から漏れる。
「何故だ?」
少し言葉足らずであったかもしれない。本当は、何故教えてくれないのだ、と問いたかった。
「人生とは選択の扉で繋がっている。つまりは、人は絶えず選択を強いられているといってもいいでしょう」
答えてくれたのだろうか。何のことかはわからなかったが、当然、物語の話をしているとは思えず、かといって意味のない話をしているとも思わない。とすれば……
「その扉が、今あるというのか?」
そんな気がした。そして、察する。彼は"何故"という言葉を始め、単に他人の質問に答えることが好きではないのかもしれない。
そうだとしても、無知な自分は答えを求めて問い掛けずにはいられないのだろう。
「如何にも」
短く、そして自信たっぷりにそう答えると、少しだけ表情を和らげた。
「本当に、と訊ねると失礼だろうか?」
それはふと彼の噂を思い出した為だ。父である王も頼りにしている反面、周囲からは様々な話も耳に届く。
「わはは! 残念なことに、私が"嘘つき"と呼ばれているのは、私という存在を選び得なかった人々がそう感じた為に起こってしまった一つの結果に過ぎないわけで。わからぬ王子が気にする必要はないでしょうなぁ」
豪快に笑われ、やはり相手にすらされていないのではないか、と少しの戸惑いが生じる。それは、自分というものが認められていない、まるで相手に見られていない。そんな不安になるような感覚だった。
「では嘘などつかない、と?」
そんな時、意外なことに咄嗟に口から出たものは疑問ではなかった。本当にそれが知りたかったわけではなく、単に自分というものを認めさせたい。なけなしのそんな感情が生まれ動いたのだ。
「生まれてこのかた嘘もつかずに育った者を知っているというのならば、それは随分と真っ直ぐに育たれた証拠に他ならないでしょう。誇るが宜しい」
そんな気持ちを知ってか知らずか、欲しい答えは返ってこない。良くも悪くも、自分は"王子"という存在でしかないのだろう。
「では、つくと?」
それでも、挑むように問い続ける。
「作戦とは、相手を欺く為にある。それを私は嘘だと選ぼう」
「敵であれば、そうするということか?」
食らい付いたら、もう離さない。もちろん、敵と認識したわけではない。知りたいから、詰め寄るのだ。
すると、屈むように視線を合わせ、諭すように肩に手を置くと改まって話を始める。
「少しだけ、お勉強をするとしましょう。御存じかと思われますが、敵を欺くにはまずは味方からも欺くものです。宜しいな? おっと、これは誰も信じないということではありませんぞ。信じているからこそ、欺く時もあるという、一種の教訓のようなものと思えば良いでしょうなぁ」
それだけ言うと再び立ち上がり、少しだけ楽しそうに貯えた髭を指で撫でる。
「わからない。他にわかる者はいるのか?」
いつか自分を認めさせたい。不思議とそんな気持ちが湧き上がっていた。
「そうですなぁ、リリク殿かオーディナルなら分かるかもしれませんなぁ」
その名前に覚えはないが、きっと自分の望む答えを持っている。何故だかそう確信は持てた。
「そいつらはどこにいる?」
会いたい、話が聞きたい。知らないことを知ってみたい。そして、何より確かめてみたい。
「……マーキュリアス。まずは彼の地を勉強をされるが宜しいでしょう」
マーキュリアスを知ること。それはクレフォンがシグマへと選び出した答えだった。
「わかった。また教えて欲しい」
そう言うと、今度は返事も聞かずに飛び出した。やることは決まった。
しばらく経った頃、商人に頼んでは取り寄せるようになった種がある。育つと信じて蒔き続けているそれは、初めて抱いた夢かもしれない。
いつの日か、あの景色をクラレッタやディアーナ、そして皆にも見せてやろう。そうすればきっと醜い争い事などじきに収まることだろう。
この先いつか花を咲かせる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。それは誰にもわからない。それでも、やってみなければなにも始まらないのだろう。だからこそ、俺がやるのだ。何度だって種を蒔こう。この生涯を懸けてやり遂げると大地に誓おう。
何故ならば──
夢にまで見たあの惑星は……小さな魔法の惑星は、ここであるかもしれないのだから──
◇
目を覚ますと辺りはすっかり紅に染まっており、どうやら休憩というには少し長く微睡んでしまったようだ。
「シグマ、そろそろ行くか?」
「……寝てた?」
一気に覚醒すると、ムッツリとした声に応え、呟くような問い掛けにも返事をする。
「ああ。少し夢を見ていた」
それからシグマは天と、そして地を睨み付けると一息に起き上がった。
「行くぞ。ここからはマーキュリアスだ」
──花は、未だ咲かず。
「了解した」
「……わかった」
二分する大地の境目を前に、一度だけ立ち止まる。これが夢ならどれほど笑えたのだろうか。
「狼煙が上がっているが、いいのか?」
「……ダンガルフ砦」
男が指すほうにちらりと目を向けると、少し目を閉じる。脳裏では先程の夢で見た、幼き日のクラレッタが小さく微笑んだ。
「喰らうぞ。……マーキュリアスを!」
シグマの眼前には嫌味なくらいに豊穣の大地が広がっていた。
こんばんは、流手と申します。
今年も四月が巡ってきました。暖かくなってきましたので、コートやマフラー姿の人々も段々と減ってきたようにも感じます。かくいう私はコートこそ脱いだものの、マフラーだけは手放せずにおります。もちろん、朝方だけで良いのですが。
話は変わって、実は昨年末に花壇を作りまして、そこでチューリップを育ておりました。それが最近開花を始め、四色ほどの鮮やかな花が可愛く庭を彩るようになりました。ささやかな楽しみではありますが、毎日帰宅するとスマホのカメラを片手に巡回するのが充実する瞬間になりつつあります。皆さんもどうでしょうか?
さて、五十三話ですが、唐突な回想回となりました。
実は冒頭の一コマとするつもりが、ついつい長引いてしまして結局ほぼ一話となりました。とはいっても丸々一話にするのは憚られまして、その辺りは気持ち程度の修正を加えております。それでは、シグマ目線でお楽しみください。
では、また次回お会いしましょう!




