7章
七章 二人
もう、何もかもが嫌になった。学校も、人間関係も、自分に対しても……
自分の身に起きていること知らされ、雅毅は学校へ行きたくなくなり家に閉じこもるようになった。体のダルさの原因は分かったものの、治療法が全く分からず常にベッドに潜り込んでいなければならなかった。
自分の存在意義が、分からなくなっていた。
雅毅が学校を休んでから三日が経過した。
一日中雨が降ったり、風が強い日もあったりと天候が安定することがなかった。それはまるで、ある一人のクラスメートの心を映し出したようである。この日も、一日中天候が優れず小雨が降ったり止んだりを繰り返している。
「はぁ〜、今日もマーくん休みかぁ……」
授業と授業の合間の休憩時間、数日繰り返している雅毅の席を見て海涼はため息を吐く。
「もう三日になりますね。水海道君が学校に来なくなってから」
ざわざわとした教室の中、机に突っ伏している海涼の側に歩み寄る礼央奈。この数日間、元気のない友達を放ってなどおけない。
「最後に会った時は元気だったのに、急に休むなんておかしいよ……」
「体のダルさが続いているんでしょうか?」
「はぁ〜、会いたいなぁ……」
突っ伏している顔を机に押し付けながら、海涼は虚ろな眼差しで黒板を眺める。
「あの〜、聞いてます?」
なかなか話が噛み合っていないことに気づき、礼央奈は海涼の肩に手を置く。
「えっ! あっ、礼央奈ちゃん、何か用?」
ビクッと顔を上げ驚きの表情を浮かべる。
「もう、気づかなかったんですか? ずっと近くにいたのに」
話を聞かず独り言のように話している海涼の姿に、哀れのような悲しさを感じる。
「ずっと気にしてますね、柴原さん。水海道君のこと」
「うん……突然学校を休むんだもん、それも三日間。気にならない方が、おかしいよ」
それ以上思い出したくないのか、海涼は両手を机の上に交差させて置き再び突っ伏すのだった。
多分、魂の抜け殻というのはこういうことなんだろう。
突然、突きつけられた事実。
確証なんかなくったって、元々、嫌になり始めた学校を休む理由なんてごまんとあった。ただ、そのきっかけが欲しかっただけかもしれない。けど、自分において、何かしたという事実がないにも関わらず巻き込まれてしまったのは、正直気分のいいものではない。
元凶たる学校を、気づけば三日間休んでいた。両親には風邪だという口実で学校を欠席し、まだ体調が優れないとその時ばかりベッドに潜り込んで病人を演じる。厳密には病のようだが、治療法のはっきりしないだけあってどうしようもない。ずっとベッドに潜るのだって飽きが生じるし、じっとしていることに対しても嫌になる。
常にラフな格好で部屋に閉じこもり、日々の喧騒から逃避するようにずっと窓辺に座り空ばかり見ている。心の救いである青空はここ数日現れず、くすんだ心を洗い流すことができずぼおっと過ごしていた。
「おい雅毅、お前、閉じこもりなのか?」
ずっと塞ぎがちの弟のことが気掛かりで、姉の桃衣はちょくちょく雅毅の部屋を訪ねる。
「……」
話しかけられても反応を示さず、雅毅はダランと腕を投げ出したまま外を眺めている。
「どんな理由か知らないけど、あたしか親に話した方がいいんじゃないか?」
いつもは可愛らしくもない減らず口をぶつけ合う仲なのに、こうも反応がないと否応なしに心配してしまう。
「……ほっといてくれよ。オレ、何にもやる気がないんだ」
窓の外を見据えながら、雅毅は空虚な言葉を呟く。聞いても聞かなくてもいいような感じで。
「はぁ〜、そうかい……」
力なく呟いた姉は、どうしようもないとでも言いたげに肩を落とし部屋を出て行く。
「……もう、やんなっちまったよ」
姉が出て行ったドアを一瞥し、雅毅は虚ろな瞳を再び外へと向けた。
降り続く雨はない。そして、照り続ける陽射しもない。
四季の移ろいがはっきりした日本において、気温の上下は地域によって様々だが、天気の良い日も悪い日もある。
数日間優れない天候が続き、一生晴れ間など拝めないと思った休日、今までの愚図ついた空模様が嘘のように雲一つない快晴がやってきた。それまでずっと雅毅のことを思い続け、天候の悪さと相まって暗く沈んでいた海涼はこの日とばかりに学園外へと飛び出した。
気持ちの良い天気に恵まれ、海涼は普段着ることの少ないお洒落を意識した服を纏う。
髪型はそのままにピンクの肩リボンTシャツ、グレーのプリーツスカート、白いニーソックスを履いた海涼は礼央奈と一緒に行ったっきりだった雅毅の家へと向かう。
一度しか行ったことはないのに、海涼の頭の中には雅毅の家までのルートがインプットされていた。これも、思うがゆえの為せる業か。
温かな陽気に誘われ、海涼は鼻歌交じりに雅毅の家へと向かう。その目的は勿論、雅毅に会うため。
結局、雅毅は学校を五日間休み、その間の海涼はどこか幽体離脱したかのように元気がなく、何をするにも手に付かずといったことも多く、周囲からも著しい変化がありありと見て取れた。その思いを一気に発散するため、着飾った彼女は道草などせず一直線に雅毅の家へ向かう。
「おい、お前にお客さんだぞ」
ずっと閉じこもったままの雅毅の部屋を訪れる姉。
中を見てみると、パジャマ姿の雅毅はベッドの上で仰向けに横たわり天井を見上げている。起きていることを確認した姉は、訪ねてきた客を部屋に入れそっとドアを閉める。
かすかに誰か来たという気がした雅毅は、無言のまま部屋の中を見渡す。右から左へパンすると、ある一点で静止しそれを確かめるように上体を起こす。
「きっ、来ちゃった……」
突然に現れたことなのか、あるいは、服のセンスに自信がないのか分からないが、海涼ははにかんだ笑みを浮かべ雅毅を見据える。
「どうして、来たんだよ?」
「……マーくんに会いたかったからかな?」
疑問を疑問で返し、常に元気一杯の海涼はもじもじしながら側に寄って行く。
「……誰に入れてもらったんだ?」
「マーくんの、お姉さんに……」
気まずい空気が流れ、それ以上のまともな会話が成立しない。互いの心を知ることはできないが、海涼は数日振りに会えた雅毅に対し嬉しさで一杯だった。重病で苦しんでいなかったのもそうだが、何よりも、現実に姿を見れて声を聞けただけで感慨無量だった。
「あのね、さっき言ったこと、ホントなんだよ」
無言のまま見つめている雅毅を直視できず、海涼は視線を忙しなく動かす。
「ううん、何でもない、何でもないの。ただ、マーくんの体調が気になったから」
思わず口をついて出そうだった言葉を飲み込み、心を落ち着かせベッドの側に歩み寄る。
「体調か。体調なら、今日は別に」
常に襲われていたダルさが今日はなく、雅毅はベッドの上に胡坐をかいてみせる。
「そうなんだ……それは良かったね。それでさ、どうして一週間近く学校を休んだの? 体調が悪いことの他に、何かあるんじゃないの?」
雅毅の心を見透かすように、海涼は数日間心を苦しめる続けた原因を訊ねる。体調が悪いのは仕方ないことだとしても、一端を担っている苦しみから解放できるのではないかと思っている。
「あっ、あのな、学校を休んだ原因は、体調の悪さだけじゃないんだ……」
ここで素直に話したら、どれだけ心が落ち着くだろうか。心を苦しめる鎖は解かれ、開放感に浸れるなら全部吐き出したい。けど、そんな気にはなれなかった。
どうしてなのか。自分でも分からない。
「もう一つ、もう一つ……」
勢いで話してしまいそうだった雅毅は、絡まっていた視線を外す。
「もう一つって、何なの?」
不可解な尻切れに海涼も異変に気づき、ゆっくりと雅毅の顔を覘き込もうとする。
「もう一つ……クソッ、駄目だ……」
話したいという欲望よりも押さえつけようとする圧力に負けてしまい、その圧力の捌け口を拳に込めベッドを殴りつける。
思いもよらない暴挙に一瞬身動ぎをする海涼。それでも、心を苦しめ続ける原因を取り除いてあげたい彼女は、ある提案を持ちかける。
「……いっそ、出かけちゃおうよ! ずっと家に閉じこもってても気が滅入るだけだし、どこかに行こっ!」
禍々しい怒りに満ちた雅毅の右手を取り、海涼は努めて明るく振舞う。
「行くって、どこに?」
「どこだっていいよ。同じ場所じゃなきゃ、どこだって。あっ、そうだ、私の寮に行ってみない?」
勝手に行き先を決めてしまうと、海涼はベッドに胡坐をかいていた雅毅を立たせる。
「おっ、おい! このままの格好で連れて行く気かよ」
腕を振り払いベッドの端に座る。
「えへへ、そうだね。このままじゃ、マズイよね」
天然娘のゆえんたる天真爛漫な笑みを浮かべる海涼。やっと雅毅と楽しい話ができて、嬉しさが込み上げる。
「ったく、行ってやっから、家の前で待ってろ」
ぶっきらぼうに告げると、雅毅はベッドから立ち、メガネをベッドの上に投げ上着を脱ごうとボタンに手を掛ける。
「……おい、着替えまで見るつもりか?」
部屋を出ようとしない海涼の姿に気づき、外そうとしていた手を下ろす。
「えっ、あっ、ごっ、ゴメンなさい……」
自分のしようとしていたことに気づき、慌てた様子で部屋を出て行く。
「ったく、とんだ休日になっちまったな……」
独りごちる雅毅は、言ってしまった手前、渋々パジャマを脱ぐのだった。
渋々海涼に連れ出された雅毅は、自分の体調が不安でたまらなかった。倦怠感が数日間にも渡り続いているにも関わらず、外出してしまっていいのかと改めて考えてしまう。突然倒れてしまうという可能性がある中で、海涼に迷惑にならないかと逆に思っていた。
「いい天気で良かったね」
始終笑みを浮かべながら、海涼は楽しそうに雅毅の顔を見上げる。まるで自分の楽しさを分かち合うかのように。
「あっ、ああ……」
久しぶりに外出した雅毅。
学校生活の比重が一日を占める学生にとって制服以外で外を出歩くという機会が少なくなり、私服にあまり用がなくなっていた。髪には手を加えず、フード付トレーナーにジーパンというラフな格好で、雅毅は久々に履いたシューズの感触を確かめる。
「あの……無理して外に出ちゃったけど、具合が悪くなったらすぐ休もうね」
今更になり、海涼は勢いで出かけようと言ってしまったことを悔いる。視線を斜め下に向け、大人しそうに両手を組んで歩く。
「ああ、分かったよ」
自分でも無理はいけないと思っていた節もあり、海涼の気遣いはどこか心を楽にしてくれる。
「よお、お前の寮に行くって言っても、女子寮だったら男子禁制なんじゃないか?」
「ううん、別に平気だよ。無断で入るのはダメだけど、監視員の人に言えば昼間だけ男子でも入っていいの。こっそり男子を夜間に連れ込んだりする先輩とかいるみたいだけど、ホントはダメなんだよ」
「……どこまで常識が通じるかだな」
ポツリ呟いたことを海涼に訊かれたが、大したことじゃないとすぐに話を終わらせた。
この五日間を埋めるように、海涼はありとあらゆる話題を一方的に話し、それを雅毅は相槌を打ったり首を前と左右に振るだけで対応した。
案の定、いつも登校するたびに通る大きな校門は閉ざされ正面から入ることはできない。
海涼は学園に勤務している教師などが通る門を教え、監視員のおばさんに入る旨を伝えて休日の構内へ入る。
「すげぇ静かだな」
常日頃生徒や教師達でひしめき合う構内において、閑散とした風景は逆に寂しさを与え人恋しさに駆られる。
「でしょ? 休みの日になるといつもこうなるんだ。時々、庭の手入れをしてくれる業者さんとか、部活動してる生徒さんとかいるだけで静かなんだよ」
雅毅よりも学園内にいる時間の長い海涼は、物悲しさを含みながら静かな校舎を見上げる。
「構内の散策もしたいから、まずは私の部屋に行って少し休もう」
改めて笑みを作った海涼は、雅毅の体調を気遣いながら女子寮に案内する。
女子寮は、前にユークリッド達から呼び出された際に訪れたことがあり、場所はなんとなく覚えていた。しかし、今回は中へ入ることだけに、緊張しないなんて嘘になる。
「寮か……なんか、凄いな」
「どんなトコが凄いの?」
女子寮へと入る出入り口の前で立ち止まり、思いもしない雅毅の言葉に訊ねる。
「いや、一人暮らしするのって、何となく大変そうだから」
「あっ、そうだね。最近慣れちゃってて、そんなこと忘れちゃってた。でも、大変なことは大変だし、楽しいことは楽しいし、いい人生経験だったりしてね」
ちょっと得意気に、人生経験という部分を気に入った海涼は特徴づけるような言い方をする。
「じゃっ、私の部屋にレッツ・ゴー!」
作った拳を高々と上げ、元気溌剌に海涼は雅毅を寮内へと案内する。
女子寮は三階建で構成されており、学生が利用する玄関口から左側に部屋が伸びている。海涼の部屋は最上階の中央付近にあり、そこに着くまでかなりの距離を歩かされた。
「……ホントに入って大丈夫なのか?」
「だいじょぶだよ、男の子を入れるの初めてだけど、そんなに緊張しなくていいよ。リラックス、リラックス」
何の恥じらいも感じず、海涼は自分の部屋のドアの鍵を開ける。魔術を教える学園にしてはごく一般的な金属製の鍵を使ってるし、寮内には何ら魔術の類のものはない。
「さぁ、ようこそ海涼ちゃんの部屋へ」
重そうなドアを開けて目に飛び込んできた物、それは何とも説明しがたい一般社会において有り得ないものばかりだった。
「うっ……」
雅毅はとりあえず絶句した。いや、絶句せずにはいられなかった。その理由は、海涼の変わった趣味に起因している。
「凄いでしょ、私の集めたマジックアイテムの数々」
一つ一つ説明してあげると、海涼は雅毅を室内に招き入れ、室内の中で一番まともなポップデザインのテーブルの前に座る。
「これ……一人で集めたのか?」
室内をしげしげと見渡し、ただならぬ雰囲気を醸し出す装飾品の数々を目にした雅毅は、体調の良し悪しに関係なく眩暈を覚えてしまう。
「そうだよ。こっちに来る前からマジックアイテムの収集に凝ってて、今ではもうこんなに集めちゃった」
室内にはそれ相応の服や制服など、女の子っぽさを出しているものも無いわけではない。
しかし、それにも増して彼女の言うマジックアイテムの数が尋常じゃなく多く、可愛らしさより不気味さが強い。
「これは凄いんだよ! 誰だったか忘れたけど、それはそれは有名で強大な魔力を持った魔導士さんが使ってたレアな魔導書なんだって。で、こっちが、有名な女魔導士さんが愛用していたローブなんだって。世界に一着しかない代物だって言うから、思わず買っちゃった」
まるで下手な博物館の案内人のように、海涼は室内に置かれた魔法に関するアイテムを、手にとっては鼻高々に自慢話しをする。しかし、どれもこれも胡散臭く、彼女が言うところの魔力を感じるだのレアだの、貴重さが微塵も感じ取れない。
「あっ、あのさ、自慢したいのは分かったけど、そんな貴重なものを高校生なんかに売るか?」
「えっ?」
誇らしげに集めたコレクションの自慢する海涼の言葉が止み、冷静に見続ける雅毅に目を向ける。
「落ち着いて考えてみろ。本物のレア物なら、極々普通の高校生なんかに売るか? 普通の代わりに『金持ち』が付く高校生なら別としてだ。売り手は、本物か偽物か区別する前に自分の利益しか考えない。そうだろ? 金を持ってなさそうな人間に、本物なんか売り付けるか?」
「う〜ん……そう言われると、そうなのかも……」
ヒドくパニくるどころか、海涼は至極冷静に物事を捉え他人事のように呟く。どれだけお金をつぎ込んだのかも知らずに。
「でも、いいの。偽物でも本物でも、私は価値のある物だって信じてるから……」
一度ぎこちない笑みを浮かべ、海涼は紹介した品々を元の場所に戻し始める。
ここまで歩いてきた疲れが出たのか、雅毅は微量ながらダルさを感じベッドにもたれ掛る。何気に整理している海涼の後姿の近く、背の低いタンスの上にマジックアイテムと並んで一枚の写真立が置いてある。
「それ、家族の写真?」
「えっ? あっ、そう、家族みんなの写真」
整理を終えた海涼は、雅毅に言われた写真を手にする。
「お父さんとお母さん。私に……ペットのジーくん」
「ふぅん、ペットも飼ってるんだ。何歳ぐらいなんだ?」
家族揃って写っている写真。周りの雰囲気から家の庭で撮影したその写真には、海涼本人と海涼の両親、そしてペットのジーくんことゴールデンレトリーバーが一緒になって写っている。
「えっと……生きてたら、十三歳、かな」
「生きてたら?」
「三年前、病気で死んじゃったんだ。でもね、寂しくないよ。毎晩、夢の中でジーくんと遊んでるから……」
一度手渡した写真立てに目を向けながら、海涼は虚勢を張って健気に話してくれた。大丈夫だって言っても、その顔には寂しさが色濃く出ている。家族同然に暮らしていたペットの死を、彼女はまだ受けきれていないようである。
「……仲良しだったんだな」
「うん……夢の中じゃなくて、一回でもいいからジーくんと遊びたい……」
思いのたけを話した海涼は、気づくと両目に溢れんばかりの涙を浮かべていた。夢の中で会えても、現実の世界で会えないことは肉親を失ったぐらいの悲しみがある。その強い思い入れは、目尻からこぼれ落ちそうな涙が物語っている。
「……えへっ、こんなシンミリしてる場合じゃなかったね。もうそろそろ、構内を散歩しよう」
写真立てをテーブルの上に置き、海涼はいつの間にか溜まっていた両目の涙を手の甲で拭い取る。そして、雅毅に微笑みかけ、ゆっくりと立ち上がる。
「体の方はだいじょぶ?」
「あっ、ああ、なんとか……」
いつも元気が取り柄のような海涼とは違い、悲しみに沈む姿を見た雅毅は一瞬思考が止まってしまった。
「じゃっ、戸締りして行こう」
さっきまでのことが嘘だったように、海涼はいつもの笑みを浮かべ戸締りの確認に向かう。
休日の学園内は、まるで二人だけの庭のようである。グラウンドや、その他の施設を部活動の生徒が利用している以外、まったく人気はないに等しい。常に喧騒の中にある構内が静かであると、今まで行ったことのない場所でも抵抗無く行ける。
温かな陽射しは多少なりと体の水分を消費させ、喉の渇きを訴えさせる。ずっと水分らしい水分を摂取していない二人は、屋外に設置されている飲料水の自販機でそれぞれ飲み物を購入した。
ちょっとした散歩感覚で、二人はグラウンド、テニスコート、卒業パーティーが行われるという洋館、室内プール、学園の名所である大きなナラの木を見て回った。途中、雅毅の体調を気遣い休んだりしながら、今まで訪れたことのない施設を見学し、時の流れと共に、気づくと二人は外れにある古い屋敷まで来ていた。
「あっという間だったね」
「ああ、今まで行ったことのない場所を回るだけで、こんなに時間が掛かるんだな」
木立の間を抜けて射し込むオレンジの光線。鬱蒼とした木々を抜けて射し込む陽射しが屋敷の外壁に当たり、モノトーンの味気ない雰囲気の壁が油絵のような赴きある姿に様変わりする。あの悪夢のような出来事が、今では遠い昔のように感じる。
「あの、一つ聞いてもいいかな……」
隣り合って屋敷を見つめていた海涼が、そのままの体勢でぽつり呟く。
「うん?」
「血清を探しにこの中に入った時、地下室で何があったの?」
「地下室に閉じ込められた時? いや、別に何も……」
あまりの突然なことに、その日のことを思い出そうにも瞬時に出てこない。
「ううん……そんなはずない。きっと、何かあったんでしょ? そうじゃなきゃ、あの人があんなこと……しないもん……」
屋敷を眺めていた海涼が急に取り乱すようになり、雅毅の方に向き直るとそれまで楽しそうだった海涼の瞳に涙が浮かんでいる。
「なっ、何だよ急に。地下室に閉じ込められてて大変だったんだ。先輩は脚にケガしていたし、互いに協力して助け合うのは当然のことだろ?」
真琴と一緒に閉じ込められていた地下室。血清を探し出したことはいいとしても、その後の出来事が海涼にとって引っかかっているらしい。
「あのね、見ちゃったんだ。マーくんと久無先輩が会ってるトコ……」
あの事件後、唯一会ったといえば朝の校門ぐらいだ。それ以外ずっと家に居たのだ、その現場を見ていたに違いない。
「会っていたの、見たのか」
「うん……」
いつも早めに登校する海涼は、この日珍しく寝坊してしまい、ちょっと遅く登校した所を目撃したと話した。
「親しそうにない二人が、事件の後、あんな風に話してるトコ見たら、誰だって何かあったって思うよ、普通……」
間を隔てていた距離が縮まり、海涼は号泣寸前のような顔で雅毅を見上げる。
「ねぇ……正直に答えて。あの暗闇の中で……何があったの?」
いつも無邪気で笑みのたえない海涼。夢見がちで無鉄砲な部分しかないと思っていた雅毅は、一瞬にしかすぎない些細なことで、ここまで他人を嫉妬する彼女の姿を今まで見たことがなかった。雅毅に対しての思いが強いことを物語っているが、無実の罪で疑われるのは気分が悪い。
「本当に何もないんだっ! 思い込むのもいい加減にしろよなっ!」
今までの和やかな雰囲気が一瞬で打ち砕かれ、縮まろうとしていた二人の距離は離れていった。
「……わかったよ。もう、マーくんと話すの止める……」
悲しい決心を固めた海涼は、ポケットに忍ばせていたものを雅毅に無理矢理握らせ走り去っていった。涙を滲ませ、悲痛な思いを背負ったまま雑木林の中へ消えていく。
「……」
一方的な考えを押し付けられてしまった雅毅。自分に何も非がないというのに、心の中にはやりきれない靄のようなものが痞えていた。
海涼が握らせたものを確認してみると、手の中には、制服に縫い付けられている同じ五芒星のイヤリングのようなものだった。
その室内は禍々しい妖気で満ちていた。
深夜の図書室。それも閲覧禁止の部屋を一人訪れる人影。持ち合わせたランプに映る漆黒の白衣。見開かれた瞳は己の欲望で薄汚れ、温かな陽射しを取り込むことができない。
「フフフッ……あったぞ、この世の全ての魔物を封じ込めたという魔の書が。これで、私の目的も完成される」
黒衣の男、和鍋は目的の魔の書を床に開き、ランプで照らしながら呪文の詠唱に入る。
「汝、我が声、我が言葉に耳を傾けよ。汝の束縛しせり封印を解いたならば、我に力を与えよ。心身汝に捧げ、絶大なる滅の力、今こそここにいぃぃぃぃっ!」
締め切られた室内を駆け巡る負の妖気。荒れ狂う突風と共に、書に封印された魔物達が堰を切ったように溢れだし室内になだれ込む。
『オマエガ、ワガハイノフウインヲトキシモノカ? オマエノフノチカラ、ワガハイニサシダスノダァァァッ』
書の主らしき魔物がその巨体を現し、魔物の放つ畏怖に恐怖する和鍋の体へと侵入していく。質量で圧倒的な差があるにも関わらず魔物は和鍋の中へと潜り込み、体の一部となっていく。
「ぐはぁぁぁぁぁぁっ!!」
心を食い破ろうとする魔物の絶大な力に襲われ、苦しみもがきながら和鍋は魔物と一体になっていく。末端の神経、細胞の隅々まで魔物の侵入は止まることを知らず、抗おうとする和鍋の体を抑制していく。
激しい痙攣に襲われた和鍋は、最後本棚に体をぶつけられようやく静止する。
「……フハハハハッ! スゴイ、スゴイゾ、
コンコントワキデルイズミノゴトキ、マリョクガタイナイヲカケメグルゾ。コノチカラ、ツカワズシテナニニナロウ。セカイジュウニワタシノチカラヲコジスルタメ、テハジメニコノガクエンヲ、コントントキョウフノハッシンゲントシヨウ……」
解き放たれた魔物達に囲まれた和鍋は、魔物に支配され今までの姿は消え去っていた。
翌日の天気は、快晴から一転して雨模様だった。
朝から小雨ながら降り続き、空には重たい灰色の雲が敷き詰められ輝きを放つ太陽を覆い隠していた。
この日、体調の崩れがないと感じた雅毅は、数日振りに学校へ向かおうと準備を整えていた。制服に身を包み、メガネを掛け、机の上に置かれた手鏡を見ながら頭髪を整える。粗方セットが済み、手鏡を机の上に戻そうとした時、不意にあるものに目が止まる。
『アイツ……』
無造作に置かれた一組の装飾品。五芒星の形をしたそれは、先日、海涼との会話の末にどさくさに持たされたものだった。形状からして耳に付けるものだと思ったものの、付けるという行為にまで至らず今まで置いておいたのだった。
『……いや、全部、アイツの思い過ごしなんだ。オレに、罪なんてない』
過去の悪夢を振り払うかのように、雅毅は耳飾りを掴み取ると強引に引き出しに押し込もうとした。しかし、そのタイミングを見計らうかのように、ノック音が遮る。
「お〜い、今日は学校に行くのか?」
何の許可もなく、部屋に入ってくるは早朝のまどろみを楽しむようなラフな格好の姉。
「……ああ」
無断で入ってきたことを諌めようとせず、雅毅はゆっくり入ってくる姉を見据える。
「……姉貴、頼みがあるんだ。聞いてくれないか?」
「うん? 珍しいなぁ。姉に頼み事って何だよ?」
いつもと違う雰囲気の弟の姿に、桃衣は腕組みをしながら近付く。
「この付け方……教えてくれ」
握り締めていた右手の中にあるものを目にし、姉は優しく微笑んで問いの答えを返すのだった。
海涼は過ちを悔いていた。自分の抱いていた疑念に、自分のしてしまった行為に。
確証も何もないというのに、自分勝手な妄想が引き起こした深い亀裂で雅毅との関係が破綻してしまった。自分が人助けをしようと誘っておきながら、人を信用しないという不道徳な行為。そして何より、その責任を何もかも押し付けようとしていた事実。
全ての非を認め、誠心誠意を持って謝りたいと思った海涼は、登校する時間よりも早く支度を整え雅毅の家へ向かった。暗く沈んでいる心を映し出しているような雨の中、お気に入りのクマさんの傘を差して。
『マーくんにちゃんと謝ろう。身勝手な思い込みをしてたってこと……』
道に迷うことなく雅毅の家に到着しようとしたその時、白い傘を差した人物が家の外に出てきたのだった。
直感的に雅毅だと確信した海涼は、急ぎ足で玄関先に向かい、出てこようとする人物の前に立ちはだかる。
「まっ、マーくん、ごめんなさいっ! 私……私……身勝手で、他人に迷惑を掛ける最低な人間でしたっ! マーくんのことを信じてあげられなくて、自分勝手に思い込んだりして……ホント、ごめんなさいっ!」
差していた傘も、手提げカバンも雨に濡れるアスファルトの上に落とし、海涼は両手を両膝に置いて深く深く頭を下げた。制服が濡れたっていい、カバンだって中身の教科書だって濡れてもいい。マーくんを苦しめた自分が許してもらえるなら、どんな酷い目に遭ってもいいと。
「……これ、似合ってるか?」
「……えっ!」
謝って返ってきた答えに、海涼は反射的に上体を起こす。
「付けるかどうか迷ったんだ。でも、お前がくれたから、付けなきゃいけないって思ったんだ……」
切り揃えられた前髪を伝う雫の向こう、怒っているはずの雅毅の耳に付けられた見覚えのあるもの。
「……そっ、それ、付けてくれたんだ!」
喧嘩別れまでして無理矢理持たせたもをしてくれた雅毅に、言い表せない感謝の気持ちが込み上げる。
「あっ、ああ、まぁな……」
雅毅も今までこんなアクセサリーを見に付けたことがなく、恥ずかしさに顔が強張ってしまう。
「姉貴に手伝ってもらったんだけど、付け方、これで合ってるのか?」
雨に濡れたままの海涼を傘の中に入れるように、雅毅は付けたアクセサリーを見せる。
「うん……うん……それで、バッチリだよ……」
今まで抱いていた負の感情全てが浄化されたみたいに、海涼の心の中は澄んだ清水のように綺麗に素直になっていった。
「ほら、オレみたいに学校を休みたくないだろ? 早く傘差せよ」
ずっと雨ざらしになった傘とカバンを拾わせる雅毅。衣服やカバンについた水分は乾きいれないが、このまま濡れるよりはマシである。
「そんじゃあ、学校に行こうぜ」
「うっ、うん!」
わだかまりばかりあった二人の関係が修復したと思った矢先、突然、ビルを解体するようなけたたましい爆発音が轟く。周囲の民家が微震を起こし、爆音の余波を受ける。
「なっ、何だ、今の音?」
「あっ、あそこ!」
海涼が傘を持ち上げて見つけた雨の中に立ち上る土煙。あそこの方角には、二人が通っている学校がある。
「あっちって……」
「学校の方だよ!」
学園の危機を察知した二人は、合図もなく次には雨の中を走り出した。
雨の中、胸騒ぎのような不安感に襲われた二人は一目散に学校に到着した。あの高々と上がった土煙と爆音。本当にビルの解体しているなら何も問題はないのだが……
「まっ、マーくん……見て……」
息を切らせて辿り着いた先に見たもの、それは、最新鋭のホラー映画よりもグロテスクでどす黒く、直視するにはよっぽどの覚悟がなければ見れない光景だった。
「ハァ……ハァ……ハァ……まっ、マジかよ……これ……」
二人が目にしたもの、それはこの世には存在しないはずの異形な化け物達と、同数近い人間らしい骸が血みどろを浴びて横たわっていたのだ。
「うっ……うそ……」
何もオブラートを包まずして直視してしまった海涼は、反射的に両手のものを落とし顔面を覆い隠す。
光景はあまりにも残酷で、災害現場のような悲惨さと戦場のような空虚な恐怖が支配している。空には死体を貪るハゲワシのような魔物が滑空し、翼を羽ばたかせ次の標的を漁っている。
「なっ、何だよ……コレ……」
恐怖すら超越した光景に目を疑い、再度湧き上がる倦怠感に体の力が失われる。
「イヤ……こんなの……イヤ……」
目の前の光景が全て嘘であって欲しいと言わんばかりに、顔を覆い隠したまま頭を振る。
楽しくて明るいイメージしか持っていなかった海涼は、ここまで惨いありさまに気が触れそうだった。
「水海道! 柴原!」
聞き覚えのある声に揺り動かされ、動揺を隠し切れなかった二人は声の方へ向く。
「せっ、先生!」
二人が見たもの、それは所々きり傷のあるジャージ姿の典佳だった。
「無事だったか、お前達……」
傷を負いながらも、典佳は勇敢に戦った様が外見だけでも感じ取れる。
「水海道君、それに柴原さん」
「ユークリッド、アンリ先生、皆さん無事でしたか」
今まで魔物達と死闘を演じていたらしいユークリッド達とアンリも、雅毅達の側へ駆け寄ってくる。
「ええ、鹿嶋先生も無事で何より」
「みんな無事でよかったですぅ〜」
集まったはいいものの、話の輪に入らない真琴は周囲に警戒線を張り敵の襲来に気を配っている。
「あの……これって、一体、どうしてこのようなことになったんですか?」
雅毅達以外、皆が重症までいかないもののそれぞれ擦り傷や切り傷を負い、ことの重大性を知らしめている。
「和鍋……和鍋先生が、図書室の閲覧禁止となっている場所にある魔物を封印した書の封印を解いたのです」
「なぜ、あの人がこんなことを……」
「あの人の目的は、学園内を混乱に陥れ、どさくさに紛れて水海道君の命を奪おうとしているのです」
アンリの確信を突く発言に、皆の視線が雅毅に向けられる。
「おっ、オレの命を、奪う……」
「ああ、残念ながら、時間の猶予がないようだ。水海道君、一刻も早くレポートを見つけ出すんだ」
二人だけの中で交わされていた内容に、海涼はもちろんユークリッド達、担任の典佳でさえも驚きを隠せない。
「みっ、見つけろって言われても……どこにあるか……」
「大丈夫、君なら自ずと見つけることができる。道中、気をつけなさい」
優しく肩に置かれた手。それは、これから向かう雅毅の体を労わるような優しいものだった。
「敵だ!」
終始周囲に視線を配っていた真琴が、身に迫る危機を知らせる。
「さぁ、行きなさい。ここは私達で食い止めます」
「何だか知らないが、僕達は君の援護に回る。レポートを手にする役は、君に譲るよ」
「ガンバって下さいですぅ〜」
「お前達、無理はするんじゃないぞ。何よりも、命は大切なんだからな」
それぞれに敵を迎え撃つ体勢を取りながら、二人を励ます。
「マーくん、必ず見つけ出そう。みんな、きっと、だいじょぶだから……」
持ったままだったカバンを近くの草の中へ投げ飛ばし、雨にも関わらず傘を閉じ優しく話しかける。
「……分かったよ」
自分自身のことだというのに、倦怠感が原因しているか定かでないが、雅毅はひとつも理解できない。皆の思いは水海道雅毅という一人の人物に委ねられ、必ずやってくれると信じている。
「見つけ出してやるさ。必ず!」
初めてはっきりした意志のようなものを掴んだ雅毅は、海涼と同じようにカバンを投げ捨て傘をたたむ。
「敵の群れだ、急げ!」
最後、アイコンタクトで見送る真琴と目を合わせた雅毅は、敵が襲い掛かる瞬間、海涼と共に走り出した。
レポートの在り処は、自ずと見つかる。
探し出すと宣言したものの、何も手がかりのない雅毅にはどこにあるのかなんて分からない。
レポートの封印と、自分の身に起きていることには関係性がある。事件前に言ったアンリの言葉。この言葉の意味することが、レポートを見つけ出す答えなのかもしれない。
『オレが思う場所に……レポートがあるのか……』
体内を込み上げる倦怠感と戦いながら、雅毅はヒントを手繰り寄せる。哲学的な難題を目の前にして、冷静な判断が必要となるのに上手くできない。
「マーくん、思い当たる場所、ある?」
必死になって並走する海涼。雨足は弱まり、傘を必要としないのにしっかりとクマさんの傘を持っている。
「全然思いつかないんだ。思い当たる場所なんて……」
小雨になったと判断した雅毅は傘を捨て、走ることに懸命になる。できるだけ敵と遭遇しないよう細心の注意を払い、目的のレポートを探す。
「あっ、危ない!」
テニスコート前で向かい合って立ち止まった瞬間、雅毅の方を見ていた海涼が上空から迫る魔物に気づく。
「え〜っと、こういう時は……」
クマさん傘の柄をしっかり握った海涼は先端を魔物に向け、必死に念じる。
『魔物よ……どこか……遠くへ……ここから違う場所へ……」
前に習った物体を動かすという魔術を思い浮かべ、念が通じるよう柄をしっかり握る。
「うぅぅぅぅぅぅん……ハッ!」
気合一発放つと、牙をむき出しに急降下してくる魔物の体が、気によって弾き飛ばされるかのように後方へと消えていく。
「なっ、中々、お前のド派手魔術も役立つもんだな」
背後からの襲撃を防がれた雅毅は、海涼に対し皮肉交じりに褒める。
「えへへ、これも勉強の賜物だね」
海涼も負けじとこの場に不都合な満面の笑みを浮かべる。
「ここは違うみたいだ。他を探そう」
この場所でないと感じ取った雅毅は、次の場所へと走り出す。
学園内の主要な場所を当たるものの、雅毅が思う『ココ』という場には巡り合わなかった。途中、海涼に負けじと雅毅も杖のような媒体を持たずして、襲い掛かる魔物に対し手をかざし消えろと念じただけで消してしまうという力を発揮し、魔物を掃討する。
『この異常に高い力も、レポートと関係あるのか……』
これといって魔術に関しての知識がない雅毅が、魔物を消してしまうことなどできるわけがない。やはり、封印を解かなければならない状況下にあるようだ。
休む暇なく学園内を探し回った末、雅毅達はある建物の前に辿り着いた。
あの古い屋敷。
ユークリッドが呟いた、陣馬浩二郎という人物が使用していたという地下研究室がある場所。そして、何よりも真琴と一緒に閉じ込められ、不思議なことがおき始めた出発の地。
「ここだ……この中に……レポートがある……」
深刻化している倦怠感の中、雅毅は無意識に呟いた。それはまるで、レポートに導かれるように。
「ホント……ホントなんだね?」
疲れきった面持ちで、海涼は遠めに屋敷を眺めた。
屋敷内に入ると、外の喧騒が嘘のように聞こえず、まるで湖畔に建つ別荘のような静寂が包む。
直感的にこの中だと判断した二人はゆっくり室内を散策し、ユークリッドが開けた大穴のある部屋に入る。
「この下……レポートはこの中だ……」
何の根拠もないというのに、雅毅は丸くカットされた床下、地下室にあると告げる。
学校の関係者が室内を調査でもしたのだろうか、穴には下へ続く縄ばしごが掛けられている。
「分かった。じゃあ、私が先に下りるね。傘は、預けておくから」
縄ばしごの耐久性を確かめつつ、海涼は意を決してゆっくりと穴の中へ降りていく。傘を預けられた雅毅は、急激に増したダルさと戦いながら穴の中をのぞく。
地下室への移動手段が簡単に見つかり、再び忌まわしき場所に戻ってきた。室内には壁伝いにライトが設置され、暗さに困ることはなかった。
「この部屋のどこかにある……てっ、手分けして探そう……」
苦しそうな荒い息遣いの雅毅は、海涼とは反対側の壁を探し始める。数日前に訪れたときとは比べものにならないくらい室内は明るく、捜索するにはちょうどいい光量がある。
『くっ、クソッ……誰なんだ……誰がさっきから助けを求めてるんだ……』
ちょうどはしごを降りた時点から、雅毅の頭の中では聞き覚えのある少女の声が延々と繰り返し響いていた。
『早く……助けて……早く……封印を……解いて……』
幼げな雰囲気を持った優しい少女の声。前に一度聞いたことがあるものだったが、それはどこでどんなふうに聞いたのか思い出せない。
『クソッ……誰なんだよ……』
苦しさに顔を歪めながら、雅毅は照らされている壁を慎重に手探りで探す。どこか変な場所はないかと探している雅毅の目に、一枚の絵画が止まる。
内容は、スーツを着こなし年老いてもなお凛々しさをもった男性と、高級そうな大きな椅子に座る着物を着た幼い少女。二人とも表情は明るく、何かの記念で描かれたものに違いなかった。
研究室には相応しくないものだと直感的に思った雅毅は、体を襲うダルさと懸命に戦いながら絵を手にしようとした、
刹那、
「フフフフッ、ヨウヤクメグリアエタナ、ミツカイドウマサキ……」
突如聞こえる変声機を通したような奇妙な声。刺々しいまでの畏怖を背筋に感じた雅毅は、その声のする方に体を反転させる。
「あっ……」
今までに感じたことのない戦慄を覚えた先にいたのは、地球上にいる全ての動物に属さない奇妙で巨大な化け物だった。
「サア……キンジュツヲシルシタ……レポートヲ……ヨコセ……」
異形な姿をした化け物は、はちきれんばかりに隆起した腕を雅毅に向け差し伸べた。