2章
二章 天然トラブルメーカー
あの声は誰のものだったのか……
いつも、無愛想で頭の中を誰にも悟られることがない雅毅。その彼が、この学園に通うようになり徐々に変化の兆しを見せ始めた。
第一に、現実的に存在しない『魔法』というものを学ぶための学校に入学してしまったこと。これこそ、日常から非日常な世界への起因していることに変わりはない。自分の中に眠っていた才能がこの学園で覚醒し、皆が四苦八苦する授業を難なくこなしていく自分。
そして、あの事件。
自分の意思とは別に発動した目に見えない力。『自分』という人格を押さえ込み、マリオネットを操るかのように『自分』を動かした力。そして、あの時の声……
それら全てがこの学園に入学して起きたことであり、自分の意思とは違う何か別のモノが目覚め出しそうで、単なる恐怖からせり上がる生易しい怖さとは違うものを感じていた。
その一方で、自分の居場所さえ侵害してくる厚顔無恥な人物にも迷惑を掛けられていた。
「ねぇ〜、マーくん教えてよぉ。別に隠さなくてもいいでしょ? 誰にも教えたり、お金を出させて商売なんてしないからさぁ」
ああ……ウザい……
大体での一件以来、この女の子、柴原海涼は何かと雅毅の周囲をぴったりマークし、ことあるごとに質問をしてくる。
どうすれば、魔法使いになれるの?
どうすれば、力をコントロールできるの?
どうしたら、マーくんみたいになれるの?
etc……etc……
と、こんな内容の質問を学校の登校時から下校時まで、暇やチャンスがあればすぐにしてくる。例え授業中の教師から大目玉を受けようが、話をうわの空で聞いて実験を失敗させてもめげず、彼女は雅毅から魔法を使いこなせるコツを聞き出そうと奔走している。
それでもって、またしてもT・P・Oなど気にせず性懲りもなく聞いてくる。
「ねぇ〜マーくん、聞いてよぉ」
ここはというと、学園内にある実習を目的とした授業をするための教室がいくつもある別名「ラボ棟」と呼ばれる場所。簡単に言うと、小・中とあった理科室や家庭科室、調理室といったその目的の授業に合わせた部屋が多く並んでいる。
だが、一般的な公立・私立高校と違うのがやはり魔法を習得するという目的があるため、今、雅毅達クラスが使用している部屋も特別に設けられている。
「えっと、このヤマカドオオヒラソウは興奮時の鎮静剤としての効力がある。だけど、大量に服用すると呼吸困難に陥ってしまうから、注意すること、いいな」
昔ながらの深緑色の黒板の前に立ち、チョークで板書する凛々しき女性教師。彼女の名を鹿嶋典佳と言い、若い教師の中でも優秀な逸材で、生徒からの信頼も厚く悩み事にも親身になって乗ってくれる。担当の科目は地理と薬学で、常にスポーティーなジャージを着ている。さらっとしたショートカットも相まって、若き体育教師に間違ってしまいそうである。
「ちょっと黙ってくれ。センコーの話が聞こえねぇ」
席の指定がないということが災いし、雅毅の側にやってくる海涼。
実験がしやすいよう六人掛けの机を囲み、机の先頭に座っている雅毅に対して真ん中に座っている海涼。背丈の問題もあって、右ひじを突いて教師の話に耳を傾けている雅毅に話しかける海涼の姿は見えない。
「ぶぅ〜、真面目に話し聞いてるように見えないんですけど……」
ぼそっと耳打ちするような仕草で、背中を言葉で小突いてくる。
「授業中ぐらい静かにしろ。センコーに見つかっても知らないぞ」
背後に目配せをしながらも、雅毅は完全に振り返らず体勢を維持している。
他の生徒は、熱心に教師の話に耳を傾けながらもノートを取ることは怠らず真面目に授業に参加している。静まり返った教室には教師の声と、ノートを取る音、時々消しゴムで消している音しかしていない。今の授業風景はいたって平穏で、勉学のあるべき姿を映し出している。一部を除いて……
「私、別に気にしないもん。誰に注意を受けても、マーくんから魔法を使えるコツを聞き出すためなら何だってするんだから」
「それより、さっきからマーくんマーくんって何だ?」
「それはもちろん、水海道くんのあだ名だよ。水海道雅毅。雅毅だからマーくん」
何とも低レベルなあだ名……
と、雅毅は正直なところ思っていた。小学生じゃあるまいし、仲良しこよしで学校生活なんて送る気なんてさらさらない。ましてや、こんな鬱陶しい小娘などとは一緒にいる空間でさえ嫌気がする。
「……であるから、このイレーネススリーピーは焚くと睡眠作用を引き起こす。むやみに素手で触らないように。舐めただけでも睡魔に襲われるからな」
黒板の前にある台の上、それぞれ小分けにされ皿に盛ってある乾燥した葉を皆に見せる。
「この二つを混ぜると、簡単な火薬になってしまうから火気厳禁だぞ。いたずら半分で調合などしないように、いいな?」
生徒の反応を確かめ、手応えを感じる典佳。
教室に集まった生徒の目を順に見ていく教師。このクラスの担任であり、教科の担任を務めているだけあって生徒の反応を確かめるのも重要である。生徒にちゃんと理解してもらうことや、つまらない授業もできるだけ楽しく分かりやすいものにしようと、彼女は彼女なりに研究し努力し、よりよい授業を作り上げようとしている。
「ん?」
生徒の顔を順に見ているうち、普通ならこちらを見ているはずの顔が後ろを見ている生徒を見つける。
「水海道君」
一度、警告の意味も含め名を告げる典佳。しかし、反応を示したのは周囲の生徒ばかりで肝心の当事者が気づかない。
「はぁ〜まったく……」
周囲の様子にも気づかず、自分が呼ばれたことにも気づかず雅毅は後方(海涼に)向いている。
「みつかいどうっ!」
薬さじを握り締めた典佳。刹那、怒気を含んだ声と共に薬さじを投げつける。
目にも止まらぬ速さで短い距離を移動し、注意すべき人物、雅毅の後頭部に直撃……するはずだった。
「イタッ!」
それはまるで予期していたような動きを見せ、インパクトの瞬間、紙一重に回避し後ろの生徒、海涼に当たってしまう。
「えっ!」
投げた本人も驚きを隠せないでいた。瞬時にクラスの視線を集め、一人消えてしまった生徒の動向に注意が向く。
「うぇぇえぇ〜ん、どうして〜、どうして私がこんな目に……」
床に座り込んだ海涼は直撃してしまった額を、涙目に手で擦っている。
「何がぶつかったんだ?」
一人不可解に床に座り込む海涼に対し、状況が理解できない雅毅。
「ちょっ、ちょっと柴原、だいじょぶか?」
行為を起こしてしまった張本人、典佳も生徒の安否が気になり急いで駆け寄る。
「ちょっと……ジンジンしてますけど、大丈夫です……」
幸いなことにプラスチック製の薬さじだけあり、大きなケガには至らないものの海涼の額は赤くうっ血している。
「……これが当たったのか」
他人事のように座っていた雅毅は、床に落ちていた薬さじに気づき拾う。
「お前達は、一体何を話していたんだ?」
ケガを負わせてしまった海涼を気遣いながら、雅毅に対し質問をぶつける。
「おっ、オレは別に何も……」
「柴原は? 何を話していたんだ?」
「う〜ん……わっ、私は、ただ水海道君に魔法を操れるコツを聞こうとしてました」
ジンジンとした痛みが薄れていく中、海涼はこぼれ落ちそうな涙を拭う。
「何だ、話をふってたのはお前か。いいか、授業中は私語を謹んで授業に集中すること。
当てたことはあたしが悪かったと思ってるが、今度からはちゃんとするんだぞ」
「はっ、はぁい……」
「水海道、お前もだぞ」
振り向きざまに告げられ驚く雅毅。
「おっ、オレもですか?」
「ああ、一方的に話しかけられていたとは言え、話していた事に変わりないだろう」
「そっ、そうですね……」
あまり納得できない様子に、後ろ頭を掻く雅毅。
一番先に注意される対象になっていただけあって、喧嘩両成敗に事態を収拾する。
「さっ、授業を再開するぞ。みんな席に戻れ。柴原、ケガはすまなかった。後で医務室に行こうな」
ぞろぞろと様子を見ていた生徒も席に戻り、典佳は薬さじを持って中断していた授業を再開する。
「はい……」
ケガが尾を引いているようで、赤く額を腫らした海涼はゆっくりと席に戻る。その様子を見ていた雅毅は、特に赤く腫れた額に何となく目がいっていた。
クス クス クス
さっきから続いている囁き合うような笑い声。前の時間よりは幾分ボリュームは落ちたが、授業が始まったとたん急に始まり出す。
不思議なことに、それは海涼が座っている席よりも前ばかり起こっていることで、後ろに座っている生徒はピクリともせず、いたって真面目に授業に参加している。
「え〜、次の設問ですが……」
今教鞭を揮う教師も、開始当初から違和感を覚えていながら注意せずにいた。年の頃は四十代といったところだろうか。ある程度、実績や経験を積み自分自身の教育方針を固めてもおかしくない年代だ。しかし、彼はその方針すら定着しない新任教師のようにおどおどし、人の顔を伺いながら肩身を狭くし授業をしているように見える。
『……笑いの原因は、あれか?』
海涼よりも前の席に座っている雅毅は、ちらちら後方を伺い真面目に取り組んでいる彼女を確認する。
数時間前にクラス担任に薬さじをぶつけられた海涼は、授業の終了と同時に担任に連れられ医務室へ行った。そこで治療され戻ってきた彼女の姿は、いかにもアニメチックな格好で赤く腫れた額の痕には大きなばんそうこうが貼られていた。多分、それがクラスの失笑を買ってしまい、今に至るまで続いているのだろう。
『ったく、アイツは嫌でも目立っちまうな』
無愛想な表とは裏腹に、そんなことを思っている雅毅。しかしながら、自分が紙一重でかわした流れ弾が見事に額を直撃したことを思うとなんとなく面白い話で、彼女の行いの悪さを象徴しているように思える。
『まっ、話しかけてきたアイツが悪いわけだし、自業自得ってトコだな』
自分の心の中で、さっき注意された納得できなかった思いを海涼の姿で中和する。
「で……次の問い、ですが……」
トン トン
突然聞こえてくる戸を叩く音。一番近くの席にいた生徒や、多少の物音にも反応を示すようにビクッとした教師は、瞬時に誰か来たことを察知する。
教師は、自ら赴き誰が訪れたかを確認しようと戸を開けようとした。しかし、戸は自分の意思とは異なった力によって開かれ、瞬間に開けた人物と目が合ってしまい身を引くように驚く。
「あっ、あの……君達……」
教師に伺いを立てるどころか、何も言葉を発しないまま教室に入ってくる男女混合の生徒達。
戸を開け、先頭を歩くはこの辺りでは珍しいブロンドヘアーにグリーンの瞳の生徒。真ん中を歩く生徒は、長い黒髪が特徴的ですらりと伸びた手足の長いスレンダーな女子生徒。最後尾を歩くは、外見、外国のアンティークドールのような気品ある顔立ちの女子生徒で、顔の左右にある縦巻きのカールがお嬢様に相応しい印象を与える。女子生徒が付けているスカーフが空色であることから、彼らは最上級生らしい。
周囲の反応などお構いなしに、彼らは我が物顔で下級生達の間をすり抜けある生徒の前で立ち止まる。
「君が、水海道雅毅君だね?」
それまで俯いていた雅毅は、聞き覚えのない声に反応を示しようやく誰の声かを判断した。
「そうですけど、何か?」
「話があるんだけど、付いて来てもらえないかな?」
「いつですか?」
「これからだ」
冷静に感情の断片すら与えない声音で、黒髪の少女が告げる。
「あっ、あの……」
自分の眼前で展開していく事態に対応できず、おろおろしている教師。彼らの噂を耳にしてるだけあって、できるだけ関わりを持ちたくないと思っている。しかし、心の内にある一片の授業をしなくてはいけないという部分もあり、必死に葛藤をするものの次の一歩が踏み出せない。
『あの人達誰なんだろ……マーくんに何の用かな……』
闖入してきた上級生に囲まれ見えない雅毅に対し、心配の念が募っていく。
「君を悪いようにしないし、危害を加えるつもりもない。付いて来てくれないか?」
真っ直ぐメガネ越しに視線を感じる雅毅。
外見からは悪人のように見えないし、このまま授業を受けていても何も面白いことがないことを考慮し決断する。
「……分かりました」
ゆっくりと席を立ち、無言の合図の後入ってきたとは逆の順に進んでいく。雅毅は二番目と三番目の間に挟まれ教室を後にする。
「おっ、おい……君達……」
何の行動を起こせないまま、ようやく一言を絞り出す教師。
「まっ、マーくん……」
クラスの中で唯一海涼は席を立ち、連れ出されていった戸口を見続けていた。
「すまない。授業中に連れ出してしまって」
授業中にも関わらず連れ出された雅毅。連れ出され行き着いたのは、屋上にある温室ハウス。この中では温室しか育たない薬草やハーブなどが栽培され、むせるような強い香りで充満している。
「別にいいッスよ。授業、退屈でしたから」
どんな目的で連れてこられたのか知らされてないというのに、雅毅は気丈というか無神経にしてはほどがあるほど落ち着いている。
「まっ、あの人の授業ならそう思うのも無理はないか」
苦笑を浮かべる雅毅よりも背の高い少年。目鼻立ちもすっきりとし、欧米人に特徴される彫りの深さも、平均的にのっぺらとした日本人とは比べ物にならない。
「……それで、ここに呼び出した目的は何ですか?」
直球ど真ん中に切り出す雅毅。単刀直入過ぎる問いに、話しかけてきたブロンドの青年は外人らしいオーバーリアクションをする。
「まぁまぁ、そう焦らないで。これからゆっくりと話すよ」
目の前の少年は穏やかな表情を浮かべているが、左後方にいる長い黒髪の少女の表情は硬く、右後方にいる小柄な少女は絶えず笑みを浮かべている。
「僕達ばかりが君の名前を知ってるのはアンフェアだから、とりあえず自己紹介をしておくよ。僕はユークリッド・ウェルバック。アメリカ合衆国出身。みんなからリッドって呼ばれてる。専攻魔法は風魔術だ、よろしく」
穏やかな表情で自己紹介するユークリッド。専攻している魔術をさらっと言ってのける姿は、上級生の風格がある。
「君の右後方にいるのが、マリーシア・フランクベルク。ドイツ出身で、専攻魔法は氷魔術。外見的に幼く見えるが、彼女の氷魔術は侮れない」
右側の背後を一瞥する雅毅。紹介された少女マリーシアは、雅毅の右側に立つと無理矢理右手を両手で握ってくる。
「初めまして水海道君。マリーは、皆さんからマリーって呼ばれてますぅ〜。よろしくですぅ〜」
海涼と背丈がほぼ一緒であるマリーシアは、優しさをお裾分けするように、ふわっとした感触のある両手で雅毅の右手を握る。
「そして、君の左後方にいるのが、久無真琴。彼女は君と同じ日本人で、専攻魔法は飛行魔術。モデル顔負けのスタイルを誇っているが、彼女の飛行魔術を生かした体術は学園トップクラス。何でも手にしたものを高速で投げ飛ばすこともできる。ジャパーニーズで言うところのシュリケン……なのかな? そのようなことができる」
右手を開放された雅毅は紹介された少女を一瞥する。無表情で笑みすら浮かべず佇む少女。長い前髪で左目だけを覆い隠し、極端に感情表現を避けているように見える。
「……よろしく」
必要最低限な顔の動きだけをし、真琴はまた沈黙を守る。
「まぁ、ざっと自己紹介したところで本題に入る。僕は回りくどい言い方を好まない、だから単刀直入に話す。僕達の仲間になってくれるかな?」
温室で育つハーブ達に囲まれた通路の上、ホント何の取り留めない案を提示するユークリッド。こんな胡散臭い話に対し、素直に受け止め従うなどあり得る訳がない。例え深甚な人物であろうと、何の見返りもない話は乗らないだろう。
「……仲間にする理由はなんですか?」
三人の上級生に囲まれ、雅毅は見えない圧力に押されて下手に動くことができない。
「理由は簡単。僕達はある禁術が記されたレポートを探している。そのレポートを探し出すために、君の力が必要なんだ」
「魔法の『ま』の字も知らないオレでも、必要な戦力になるんですか?」
決して彼らを信じていない雅毅。ごくごく一般的な高校の上級生から呼び出され、仲間になれと言われても躊躇ってしまうのだ。こんな特殊な環境下にある学校で、何かを探し出すため協力してくれなどと言われ、素直に従うことなんてできるわけがない。
「お前の素質は十二分に分かっている。大体での件、しっかり見させてもらった」
「はい。水海道君の力は、とっても凄かったですぅ〜」
同じ女の子でも性格が違うだけで、雅毅は口調や言葉遣いに違いが生じてしまうんだと気づかされてしまう。
「君が大体で生徒を救った現場を僕達は偶然に見ている。一年であれほどの力を使えるんだ、じきに僕達に匹敵するほどの魔法を使いこなせるだろう」
「あの、言っておきますけど、オレ、魔法には全然興味ないですから」
彼らの目的が明確になり関わり合いたくない雅毅は、この場を去ろうとユークリッドに背を向ける。
刹那。
風を空気を切り裂き、動体視力の限界にさえ捕らえられないスピードで何かが首元に当たっている。
「……興味ないなどという理由で、片付けられては困る」
振り向き様のモーションに動きを阻害され、首の皮膚から全身に伝達される冷たさに悪寒が走る。
「真琴、交渉の場で武力行使してはだめだ。もっと穏やかな対応をしなくては」
「……だが、こうもしなければ、こいつは自分達に協力しないんだぞ」
諌められる真琴は、鋭い眼光を突き付けた雅毅ではなくユークリッドに向ける。
「君の気持ちも分かる。だが、このような力による圧制からは何も生まれない。ただ他人を傷つけ、服従させるなど人として道徳に反する行為だと思わないか?」
至って冷静に、ユークリッドは真琴をなだめる。今している行為が、心ある人として恥ずべきものであることを。
「……分かった」
心を落ち着かせ、首元に当てていたものを雅毅から遠ざける。
「……うん?」
自分の首元に突きつけられていたものを目で追っていた雅毅。その正体を確認したものの、不釣合いな光景に肩透かしをくらう。
「ばっ、バターナイフ?」
手元に戻した真琴は息を吐きかけ、ハンカチで丁寧に磨く。
「久無さんのマイ・バターナイフですぅ〜。パン派の久無さんは、常に持ち歩いているんですよぉ〜」
マリーシアのどうでもいい説明の最中、満足できるまで拭いたバターナイフをポケットにしまう真琴。
「バターナイフなんて、凶器でも何でもないじゃないですか!」
人の趣向はさまざまだが、パンにバターやマーガリンを塗るためのものを、脅しの道具に使うなんて馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。
「いいや、水海道君。真琴の能力を甘く見てはいけない。例えそれが幼稚で凶器として相応しくない物でも、彼女の手に掛かれば立派な殺傷能力を携えた武器になる。さっき説明したが、彼女は飛行術を得意としている。ありとあらゆるものを手にしただけで、彼女は武器に変えてしまうんだよ。運動エネルギーを与えられたものは、何であろうと破壊兵器になる。それを、バターナイフと仮定して考えてみれば、自ずと分かるはずだ」
そうなると、真琴がバターナイフを持つ理由は説明がつく。身近にあるものであるものほど、敵は呆気に取られ気を緩めてしまう。その隙を突いて、凶器と化した物を投げつけてしまえば確実に戦意を失ってしまう。そう、現実の今のように……
「わつ、分かりましたよ……」
上級生であるゆえんを知らされ、雅毅は強がっていた心が畏縮してしまう。
「それにしても、相変わらず早いですねぇ〜、久無さんのシュリケン。目にも止まらぬ速さですぅ〜」
見慣れているはずのマリーシアは、マジックを見せ付けられたかのようなシンプルな返しをする。
「べっ、別にこれは手裏剣などではないんだが……」
異文化コミュニケーションが取れていないようで、素早い武器の動きだけで思い込んでいる。
「手裏剣というのは、手元にあるものを標的目掛け投げるものであって、これだけの動作は言わない」
ちょっと面食らった様子で、簡素な説明をする真琴。
「へぇ〜、そうなんですかぁ〜」
説明を受けたマリーシアは素直に受け止め、一つ賢くなる。
「……まぁ、これぐらいにしてだ、君にはすまないと思っている。これも全て、君のためなんだ」
「オレの……ため?」
ふと疑問に思い、ユークリッドの方へ振り返る。
「生憎、レポートを狙っているのは僕達以外にもいる。彼らは君の存在を煙たがり、どんな手段だろうと構わず、君の命を狙ってくるだろう」
「どっ、どうして、オレが命を狙われるんですか! 何もしてないじゃないですか!」
ユークリッドに食って掛かりそうな勢いで喚く。
「……自分で蒔いてしまった種だ。他人がどうこうしてくれるなどと考えるな」
冷淡な言葉の中に、真琴は甘えを許さない強い意志を込めしっかりと断言する。
「……くそ」
背後に佇む真琴を一瞥し悪態を吐く。
「この学園で今、君という存在によって変わろうとしている。君の潜在能力に恐れ慄き、覚醒する前に亡き者にしようとするだろう。それでも君は拒否するかい?」
これから起きようとしているただの推測だというのに、ユークリッドはあたかも現実に起きてしまったように巧みな話術に引き込ませる。
「まぁ、どのような答えを出すのか、君の一存に任せるよ。それと、君を守れるのは僕達だけだということを忘れないでほしい」
最後、雅毅の後ろに控えている二人に対し軽く頷く。そして、それが合図のようにタイミングを見計らって温室ハウスから出て行く。
一人残された雅毅。突きつけられた脅し紛いな話に、心が揺らぎ自制心は崩壊しかけていた。
『どうして……オレは、何も悪いことなんかしてないじゃないか……魔力があるせいで……こんな、こんな学校なんて……』
後悔に苛まれ、雅毅は小刻みに揺れるほどぎゅっと拳を握りしめ立ち尽くすのだった。
『やはり、この学園には何かある』
温室ハウスの中、一人の人物が息を潜め耳を澄ませて会話を聞いていた。外見だけでは性別の判断がしづらい身なりをし、利き手には剪定用の鋏がある。
『やはり、上からの情報は正しかったわけだ。一刻も早く、禁術の記されたというレポートを見つけださねば』
ずれ落ちかけたメガネを直し、その人物は枯れかけた葉を切り落とした。カットした音に魅了されながら、切り落とした葉を指先で回していた。
「まったく、授業中に教室を抜け出るなんて、しょうがない奴だな」
その日の放課後、教科担任から授業の出来事を聞かされた典佳はデスクに頬杖を突き独り言を呟いていた。
「多少周りの生徒よりできるからって、授業態度が悪かったら元も子もないじゃないか」
生徒の成長ポイントがあるのは伸ばすべきだと思う。しかし、その対となってしまうマイナスポイントをどれだけ削減できるか、生徒を預かる教師達は常に考えなくてはいけない。完全無欠な人間などいない。ましてや、何の取り得もない人間もいない。それぞれの個性を伸ばし、それを阻害しているウイークポイントをどれだけ無くせるのか。それらは一生の課題であり、教師としての宿命である。
「仕方ない。今回は目をつむることにして、次がないように言っておかなくちゃな」
自分の中で決着をつけ、デスクに広がったテキスト類を整理する。
放課後の教務室は部活の顧問をしている教師がいるため、案外がらんとしている。残っている教師といえば、ひ弱で可憐な美人教師やバーコード頭の中年教師など数名いる。
「鹿嶋先生……」
「うわっ! すっ、すみません和鍋先生、何か用事ですか?」
突然背後から話しかけられ、反射的に驚いてしまう典佳。目上の教師の反感を買わないよう冷静に努め、回転するイスを動かし和鍋と向かい合うようにする。
「ある生徒について、お聞きしたいことがあるんです」
話しかけてきた和鍋は、学園に在籍し教鞭を揮う立場にありながら生徒との関係を育もうとしていない。一方的に授業を展開し、生徒からの質疑にさえ応答せず、決められたプログラムをこなす機械のよう早々に立ち去ってしまう。学園内の教師達でさえ敬遠し、その行動や研究している内容に一切口出しできないでいる。
「生徒……ですか。でも、和鍋先生の授業はないですよね? 研究で忙しい先生の注意を受けるような生徒がいましたか?」
「注意するほどのものではありません。鹿嶋先生のクラスに、水海道雅毅という生徒がいるはずですが……」
さっき注意を聞かされたばかりの教え子の名。授業を抜け出したことと関係があるのかと、疑問が頭をよぎる。
「水海道雅毅ですか……ええ、確かにウチのクラスの生徒ですよ。何か問題行為でもしましたか?」
「……いや、ないですが……その生徒の特徴を聞きたいのです」
和鍋の姿勢はどこかよそよそしく、他の教師に聞かれてはまずいようで小声で話す。
「特徴ですか? う〜ん、まぁ、一年にしてはなかなか魔術を使いこなしてるみたいですよ。いっちょまえに授業を抜け出すし、あたしの授業で注意されますし、まぁ、困ったカワイイ生徒ですよ」
まだ付き合いだして日は浅いものの、生徒の性格や授業を受ける態度は他の先生から話を聞いている。どの教科に得意・不得意があるかとか、何に興味があるのかとか様々なことを頭に入れなくてはいけない。
「そのようなことを聞きたいのでは……」
何か詳しいことを知りたがっている和鍋。しかし、時と場合を考えそれ以上の発言を避けているように見える。
「あっ、あの、鹿嶋先生」
遠くから聞こえる溌剌感ある声。バネの効いた背もたれに体重を掛け後ろを見ると、ジャージ姿の若い教師が手を上げてこちらを見ている。
「あっ、そうだ! 学年の職員会議があったんだ!」
肝心なことを思い出し、慌てながら予定表をまとめた手帳を探す。
「あっ、すいません。水海道のことで、何を知りたいんでしたっけ?」
待たせてしまっている和鍋に気づき、探している手を一旦止める。
「いっ、いや、別に……」
言葉尻を濁し、和鍋は自分の存在を知られるのが嫌な様子でそそくさと立ち去る。
「あっ、先生……」
突然の行動に挨拶する暇がなく、和鍋の知りたがっていたことが尻切れてしまう。
「和鍋先生……どうして水海道のことなんか知りたがったのか……」
あっというまに消えた和鍋を気にしつつも、切迫した会議に向けて、片付けたばかりのデスクを再び元の状態に戻してしまうのだった。