─しずかな、くろ。
黒い。
今まで、バスが走っていたところはいつも白くて、明るくて温かだった。
今バスが走っているのは、川の反対側。前は懐かしい感じがしたのだが、今はとても怖い感じがすると、少年は感じていた。
嫌な事ばかりが思い出される。
その思い出を押し込めようとするのだが、どうしてか、その思い出に引きずり込まれていく。思い出したくない。拒絶の思いが、少年の心を占めていく。それでもなお、その願いは叶わなかった。
――目を背けないで。
運転手の声が聞こえたかと思うと、少年の意識が遠のいた。
「いってらっしゃーい」
「おう、行ってくるな。今日はお土産、買ってこようか」
「ほんとうに!?」
「もちろん! じゃあな、満希」
満希の父親は、ニカッと笑って、家を出て行った。そんな父親の姿がドアの向こうに消えてしまうまで、満希は手を振っていた。
少年―満希―は父親が大好きだった。いつもどこかに連れて行ってくれて、笑う、父親が大好きだった。
まさか、その笑顔が、もう、見られる事が出来なくなるとは思わなかった。
少年は虹色のパスポートを眺めていた。
父親がくれたものだった。
――今度の日曜日、そのパスポートでどこでも連れて行ってやるからな。
その日曜日は明後日までに迫っていた。それが待ちきれなくて、満希はもらってからそのパスポートをいつも眺めていたのだ。
「満希、遅れるわよ?」
台所から、母親が顔をだした。そして、パスポートを眺めている満希を見て、苦笑いする。
「また、見ていたの? あの人もなかなか面白い事するわよね」
「うん、待ちきれないんだ」
「それは、分かったから、早く朝ごはん食べちゃいなさい」
満希は返事をして、朝食の並んだ、テーブルに着いた。
学校に行って、土曜日は家で留守番をして、日曜日になったら父親と出かけられる。日曜日なんてあっという間に来てしまう、とワクワクだった。
「いってきまーす!」
満希も元気よく家を飛び出していった。
パスポートを渡されたのは1週間前。満希の誕生日だった。
バスの運転手である、父親が用意していたのは、虹色のパスポートだった。パスポートもきれいなものだったから嬉しかったが、2人で出かけられるという事がさらに嬉しかった。
今までは、家族で出かけるために、自分の好きなところばかりではなかった。好きなところに連れて行ってもらえる、そんなわがままが満希には嬉しかったのだ。
そんな嬉しさからか、満希はいつもそのパスポートを持ち歩いていた。
そして、それを学校で自慢し、家に帰って来るのだった。
「ただいまー。母さん、今日のおやつは――」
リビングに入るなり、満希は母親に抱きしめられた。
いつもなら、リビングに入ろうとすると、手は洗ったのか、うがいはしたのかなど言ってくる母親だったのに、今日は様子がおかしかった。
「どうしたの……?」
「満希……行くわよ」
「どこに――」
尋ねようとしたが、母親はその前に、満希の手を取って、外に出た。
そして、母親は、タクシーを捕まえた。
「――病院までお願いします」
病院、という言葉に満希は母親を見つめる。しかし、母親は何も言おうとはしてくれなかった。その目に涙を浮かべていた事が、満希にとって、不安だった。
病院に着いて、満希は、現実を知った。
そこにいたのは、ただ眠っているように見える、自分の父親の姿だった。
頭に包帯を巻いていたり、足が、吊られていたりしたけれど、見れば見るほど、自分の父親に他ならなかった。
「父さん? ケガしたの? ねぇ、母さん、父さん、ケガ――」
病室の入り口で父親を見つめる母親の目からは、涙があふれて、頬を濡らしていた。
事故だった。
その時、バスに乗っていたのは満希の父親だけ。そのバスは、回送中だったから。
突然、すぎる事だった。満希はなかなか現実が受け入れられずに、その日を過ごした。その日から、母親は満希に笑顔を見せる事が多くなった。
涙を見せたのは、あの時ぐらい。
日曜日、父親との約束。
しかし、それは果たされる事はない。父親との本当の別れの日になってしまった。黒い服を着せられ、満希の母親もまた、黒に身を包んでいた。
その日の母親もまた、笑顔だった。
その笑顔が、どうしても、満希には理解できなかった。やり場のない思いが、怒りへと変わっていったのだった。
「ぼくは、行く。今日は父さんとの約束の日だもん」
「満希、お父さんはね、もう――」
「そんなの嘘だ! ぼくは信じない。母さんの事なんて、きらいだ」
満希はあのパスポートを持って走り出した。
約束の、あの場所へ。
少年が目を覚ますとそこは、あの公園だった。
空は、赤と黒が混ざってしまいそうになっている。
意識がはっきりしてくると、膝の上に、微かな重みを感じた。公園のベンチに腰掛けている少年は自分の膝を見る。
そこには、ガラス玉、四葉のクローバーその他、あの場所でもらったものがあった。そして、右の手の中に何かあるのを感じ、そっと開いてみると、紫色のお守りが1つあった。
少年は目が急激に覚め、辺りを見渡した。
そこには、バスも、小人の姿もない。ごく自然にある、公園の景色が広がっていた。
それは、少年が、帰ってきたことを意味していた。
「満希―!」
満希は、お土産を抱え、声のする方へ駆けて行った。
家に着くなり、母親から怒られてしまった。当然と言えば当然だった。
満希は素直に謝った。不思議な世界へ行った時に、後悔していた事も一緒に謝った。そして、母親に不思議な体験をした事を話した。その時、満希の母親は黙って話を聞いてくれていた。
「お父さんにも話してあげなさい」
優しい表情の母親に促され、部屋の一角にある、その場所に座った。
ニカッと笑った父親の写真の前に、四葉のクローバーが1つ、置かれていた。
「母さん、これ……」
「あら、満希が見つけてきたの? 素敵ね」
「え、だって、ぼくのは……」
満希はそこで、1つ分かったことがあった。だけど、それは、2人の秘密。
「……ありがとう、父さん」