星屑のドレス
「無限のピアノ、と呼ばれているんですけどね」
知らない異国、知らない夜。闇のような町をさまよい、少しでも落ち着ける場所を求め入った酒場で、俺は安らぎを見つけた。所詮そこも親近感のない薄暗い酒場であったが、一つだけ親しみを感じるものがあった。
「無限のピアノ、ですか」
カウンターに座る俺は、説明してくれたマスターの言葉を舌の上で転がしてみた。
仮に、これが酒であるなら大仰な味わいであろう。
なぜならそのピアノは外見上、立派なものではなかった。上蓋などは別にいい。いつもならカバーが掛けられ大切にされているはずだ。問題は、足元。もはや表面に艶はなく、金属部分も劣化が激しい。
まあそれでも、音は名前相応に一流なのかもしれない。
「今晩の演奏は?」
「明日なら、奏者が来ます」
商売が上手い。
「なぜ、無限のピアノと呼ばれている?」
次の晩、俺はまた例の薄暗い酒場を訪れた。
「さあ。私が店を継ぐ前からそう呼ばれています」
演奏は、悪くない。おそらく奏者は一流だろう。音に表現力が乏しい気がするのは、奏者の力量というよりピアノの問題。音域が狭い。響きも悪い。これでは奏者が可哀想だ。
演奏が、終わった。
「……また、腕を磨いて来ます」
奏でた男性はマスターに一礼してから、引き上げた。
「なぜだ?」
俺としては、納得がいかない。明らかに、奏者の腕はいいだろう。
「無限の音階が広がるとか、無限の世界が目の前に広がるとか言われています。……先代から継いでかなり長くたちましたが、私も経験したことがありませんがね」
バーテンは、最初の疑問の回答で、応えた。寂しそうに破顔している。
「あの……」
突然、知らない女性が会話に割り込んできた。
「明日は、私に演奏させていただけないでしょうか?」
「またアンタかい。……確かに明日の予定はないが」
名の知れた奏者でない限り駄目だよ、とバーテンの表情。
「明日も、来よう」
俺はぼそりと呟いておく。
「……分かった。せめてお客さんに失礼のないよう、着飾ってきな」
「あ、ありがとうございます!」
人助けというのは気持ちのいいものだ。
「どうして、この酒場にきたんです?」
また次の晩。マスターが俺に聞いてきた。
「なぜだか、ピアノが気になってね」
もしかしたら、ピアノだからかもしれない。町並み、言葉、民俗衣装、風習、酒の味――。何もかも違う中、ピアノだけはピアノだった。
「よ、よろしくお願いします」
そのうち、例の女性が登場した。
黒いドレス。
「その衣装は……」
「星屑のドレス、と私の母は呼んでました」
舌の上で転がしてみる。大仰だ。くたびれて風合いが失われ、お世辞にも見栄えのする服ではない。聞いたマスターは後悔しているようだ。
「それじゃあ、始めます」
女性の指が動き始める。
瞬間、店内に闇が――否、宇宙が広がった。星々が煌めく。まるで豊かな音階。流れ星が行った。清く高い音。星団が霞む。腹に低音が響く。繰り返される瞬き、動き、色合い。それらは一過性のものではない。奏でられる世界観。生きて――そう、生きていた。宇宙の鼓動。心の共鳴。
はっと、我に返る。
酒場。薄暗い。
「ありがとうございました。帰ります」
奏でた女性は一礼すると、きらびやかな星屑のドレスを翻して去った。無限のピアノも、輝いている。
「……そういえばお客さん。お名前は?」
惚けていたマスターが、今さらながら聞いてきた。
「創世の堕天使」
舌の上で転がすが、我ながら大仰だ。
酒をあおる。
翻ったドレス、そしてピアノの眩しさがまぶたに焼き付く。
くたびれている自分が、無性に身にしみた。
いまだ、旅は終わらない。
おしまい
ふらっと、瀬川です。
他サイトの同タイトル企画で執筆、発表した旧作品です。
場末の酒場のけだるい雰囲気をお楽しみください。