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共同生活開始。

「お帰りなさい」

 これは一体どういうことだ。

 学生の勤めを終えた俺はアパートへと帰り着き、鼻歌交じりに玄関の扉を開けた。

 扉を開けると、エプロンの部分がないただの黒いメイド服のように見える服を身に纏った見知らぬ女性が居たのだ。

 その女性の存在は一瞬にして俺の頭から冷静さを失わせる効果があった。

「ふう……」

 一度、玄関の扉を閉めると大きく深呼吸。

 さぁ、海よりも深く深呼吸だ。脳内に酸素を送り込め、失った冷静さを取り戻すために。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。よし、東小松市一の名探偵、久遠寺久喜の失われた冷静さが戻ってきたぞ。

 しかし、その代償は大きい。

 玄関の扉の前で何度も深呼吸をする姿を、たまたま外出のために部屋から出てきた同じ階に住む主婦が「一体何をやっているんだ、こいつは」と言いたげな表情で見ていた。

 きっとあの主婦は俺に対して好青年だけど変な子、というイメージを持ったに違いない。

 くそ、必死に好青年としてやって来たというのに。これはいつか挽回せねばなるまいな。それはそうと、先の挽回の事よりも今の事を考えなければ。

 まず、この扉の向こうには見知らぬ女性が居る。

 女性の特徴は雪のような白い肌に、ふっくらとしていて弾力性がありそうなグミみたいな唇。そして髪は長い髪を後ろで一つに纏めていて、何となく神社の境内にぶら下がっている鈴のような髪形をしていた。

 そう、例えるなら……大地に降り積もった雪。それを照らす太陽。そしてきりっと釣り上った瞳は北風だな。彼女の顔つきは冬そのものだ。風情の中に温かさも厳しさもある。

 ……自分でなにを考えているのか解らなくなってきたぞ。脱線しているし、冷静に扉の向こうに女性が居る事を考えなければな。

 考えられるのは二つの可能性。

 一つは俺が部屋を間違ってしまい、他所様の玄関を開けてしまった可能性だ。

 俺の借りている部屋は202号室。二階の右から二つ目の部屋だ。改めて周囲を見渡してみても右隣に部屋は一つしかなく、目の前の扉にも202とプレートが付けられている。どこをどう見てもこの部屋は202号室で間違いない。

 残る可能性としては部屋の中に居た女性は泥棒である。

 俺が留守の間に家に忍び込み金目の物を盗んで、減から外に出ようとした所を俺と鉢合わせになったと考えるのが普通か。

 いや、そうだとするなら「お帰りなさい」と俺を出迎えるだろうか? 見つかってほしくない相手に見つかった場合にそんな反応を浮かべる奴はいない!

 はっ、久遠寺久喜……一生一度の不覚、彼女は泥棒なんかじゃない。

 きっと彼女は俺が散々頭の中で考えてきた『妄想嫁』ではないのだろうか。人の想いは奇跡を起こすというし、東小松市一の妄想神、久遠寺久喜の願いが天に届いたんだ。

 名探偵? 何それ、おいしいの?

 頭の中で描いてきた嫁の外見とは違うが、その辺りには目を瞑ろう。奇跡に対して文句なんて言うもんじゃない。

 そうとなればこんな所でモタモタしている暇などはない、妄想嫁……いや、彼女は実在して、もう妄想などではない。いざ行かん、嫁の元へ!

「ただいま、マイハニー!」

 勢いよく玄関の扉を開け、嫁と感動のご対面。

「……」

 呆気に取られた表情を浮かべて俺を見つめる嫁。

 むっ、やはり最初に「お帰りなさい」と言われて返事をせずに扉を閉めたのが不味かったか?

「……お、お帰りなさいダーリン」

 躊躇いながらも嫁はそう口にする。

 うおぉぉぉ、やはり、やはり奇跡は起こったのだ! 妄想じゃない、実物の嫁が今、俺の目の前に!

「ご飯にする? お風呂にする? それとも……」

 信じる者は救われる。神様ありがとう、奇跡をありがとう!

 俺の頭の中では急遽脳内議会が開催された。

 示された三つの選択肢のうちどれを選ぶのか、各党が一斉に意見を述べ始める。

『手作りの飯だぞ、飯! お湯を注いで三分、自身の愛情とメーカーの愛情が半々のインスタントラーメンではなく、久遠寺久喜への愛情百パーセントの手作りの料理だぞ! それを今食べないでいつ食べると言うのだ!』

『いや待てぃ、バスタオル一枚でお背中流しますと入浴中に急に訪れるサプライズ! これぞ男の浪漫、「きゃっ、タオルずれちゃった」と嬉し恥ずかしハプニングチャンスもあるんだ、断固入浴だろう!』

『お前らは甘い、甘すぎる! 俺達は男だろ? 男が望むものはただ一つ。男が漢となるための最大の試練だろう。見たいだろう? モザモザした修正の入った写真ではなく、実物の桃源郷を。恐れては駄目だ……踏み出そう、一歩を。夢への一歩を!』

 どの意見も正しい。この中で一つだけを選ぶなんて出来るのだろうか?

 いや、決めねばならん。優柔不断な決断が全てを滅ぼしてしまう元凶になった事は、長い歴史の中でも数多い。

 先人達と同じ轍を踏まないためにも、俺は涙をのんで決断をせねばならぬ!

「そろそろこの流れ終わらせてもいいかしら?」

 玄関先で静かに佇む嫁はそう呟いた。

 はっ、俺はまた先人達と同じ過ちを犯してしまったのか……悩むが故、勝機を見逃すとは……久遠寺久喜、一生二度目の不覚!

「ちょっと待ってくれ、まだ俺は決断できてない。これは人生において重要なターニングポイントとなるんだ、安易な気持ちで決断したくない!」

「まだ続ける気なの? まぁ面白いからいいけど……」

 そう言うと嫁は手の平を俺に向け続きを促してくる。若干呆れた雰囲気を漂わせているがきっとそれは俺の弱き心が見せる幻影だろう。幻影がどうであれ嫁は一刻も早い決断を待っているし、これ以上焦らすわけにはいかない。

 だがそう簡単にこの悩み所多き選択肢のうち一つをなかなか選ぶことができない。

 考えろ、考えるんだ、俺……どれも捨てきれない三つの選択から一つを選ぶなんて厳しすぎる……そうか、選ばなければいいんだ! まさにコロンブスの卵!

「ここは……すべてを選択するね、俺は!」

「欲を出すと人生損するって知らないの?」

 俺が出した最善の選択を聞いて、嫁は呆れたように、はぁ……っと大きなため息を一つ。この話はもう終わりとばかりに咳払いをする。そして、じっと俺の目を見つめてきた。

 もしかしてこれが世に言う「目で会話する」か。さぁ、読み取るんだこの曇りなき眼の奥に秘められた言葉を!

「お、か、え、り、な、さ……」

 俺が嫁の言葉を読んでいると嫁は唐突に俺に手の平を突き出し待ったをかける。

「もう少し茶番に付き合いたかったのだけどそうも言っていられないようね。そこ、一歩右斜め前に動いた方がいいわ」

 急にそんな事を言われ、戸惑いはしたが、何より嫁の言葉だ。素直に指示に従い動いたほうがいいだろう。

 足元を見つめ言われるがまま一歩斜め前へと移動した。

 ……のはいいものの、言葉で一歩右斜め前と言われても加減が解らないな。言われるがまま右前に進んだが、進み具合はこれで問題ないだろうか。

「此処にいたか、フーコメリアッ!」

「痛ッ!」

 背後で急に大きな音を立てて開かれた扉が俺の右足の踵を襲い、すぐさま踵発の痛みが全身を駆け巡る。

 クソ、誰だ人の家のインターフォンを鳴らさずに扉を開け放つ無法者は。俺がもう少し後ろにいたら大惨事になっていたところだろうが。

「ちょっと大丈夫?」

「なんてことない、平気元気!」

 一歩前へと身を乗り出してくる嫁。そんな嫁を手で制すると俺はゆっくりと踵にぶつかり、三分の一ほど開いたままになっている扉に手を掛けた。

「最近は物騒だからな、帰宅直後を狙っての強盗の押し入りも珍しくない。ゆっくりと二人だけの甘い時間を過ごそうか」

 扉を閉めて鍵を回し、念のためにチェーンロックも掛け準備は万端、さぁ行こうか。多少踵に痛みがあるがこれぐらい我慢できる。そう俺は東小松市一のやせ我慢の達人!

「正直、貴方のその精神の図太さには驚きを隠せないわ……」

 何やら感心した面持ちで俺を見つめてくる嫁。お、なんか高感度アップの予感?

『ちょっと待て、なんだその反応は? 冷静に対処しているのだ! くそ、扉を開けんか!』

 背後でガチャガチャと扉を開けようとする音が聞こえる。さすが強盗……生活が懸かっているだけあって必死だな。

『ちょっと、お願いだから話を聞いてくれ……』

 徐々に扉を開けようとする音が弱まり、終いには扉越しに泣きそうな女の声が聞こえてくる。

 今にも泣き出しそうな声を聞いていると、流石に哀れに思えてきた。話だけでも聞いてやるか。

「解った解った、話だけでも聞くからそう扉をガチャガチャしないでくれ。近所迷惑だし、扉が壊れるかもしれないから」

 扉に向かってそう言うと扉を開けようとする音はパタリと止む。なかなか聞き分けの良い強盗さんだ。

 殊勝な心掛けに感心した俺は扉の鍵を開けた。

「良い心がっ……」

 強盗は意気揚々と扉を開けた……が、扉は数センチほど開く事はできたがチェーンによってそれ以上は開かない。

「なんだこれ!」

 扉を開けてはチェーンに邪魔をされ扉を閉める。そんな動作を壊れたロボットのように繰り返しているが強盗さん。

 チェーンロックというものを知らんのかこいつは。

「うちの扉そこまでしか開かないんだ。中に入りたいならその隙間から入ってきてくれ」

 流石に見ていられなくなり俺はヒントを与えてみた。

「ぬっ、きつい……こ、こんなのどう考えたってこの隙間から中に入れなんて無理だ、貴様はこの隙間からいつも出入りしているのか!」

 僅かに開いた隙間に片腕を突っ込んで、なんとか中に入ろうとしている不審者。

 いや、普通に考えて無理だから。でもちょっと面白くなってきたぞ、これは。もう少し行けるとこまで行ってみよう。

「当り前じゃないか。現に中に居るだろう? これには少しコツがあってな、「スモール、スモール、ミクロンサイズ」と言いながら入ると入れるぞ」

「なんと、そんな仕掛けがあったとは。流石は『鋼の都』だな……えっと、すもーる、すもーる、みくろんさいず!」

 こいつ、本当にやりやがった。なんの疑いもなく呪文を口にするとは……聞いているこっちの方が恥ずかしくなってきた。

 本当にチェーンロックを知らんのかこいつは? 最初はそれ以上扉は開いただろうに。

「ぐっ……なんだ、全く通れんではないか!」

 隙間から家の中に入れた左腕だけが虚しく宙でもがく。なにかを掴もうとしているのか、常に指が閉じたり開いたりを繰り返している。

 その腕にはブレスレットには見えないような鉄の塊が付いており、アクセサリーというよりも防具のようにしか見えない。

 なんだこれは。最近の流行か? 見覚えはないかと鉄の塊を見るが、こんな金属の塊をファッションとして身に着けている人間は今まで見た事がない。

「はっ、まさか心の奥底でこんな言葉を言うだけで本当に通れるのかと猜疑心を持っていたから駄目だったのか! 次は心を込めて、す……」

「いや、無理無理! これをしてあるからそれ以上扉開かないんだって!」

 慌ててチェーンロックの鎖を揺らして、これ以上扉が開かない事を、もう一度俺が適当に考えた呪文を唱えようとする不審者に教えた。

 チェーンロックを知らないようだから少しからかってやろうと思っただけなのに……何を間違えたせいなのか、このままでは本当にその隙間から中に入れるまでやりかねん。そうなれば近隣家庭に甚大な迷惑をかけてしまう。

「なに、謀ったのか! 確かに最初扉を開けた時はこれ以上開いたな……いや待て、最初に扉を開けた時になにかにぶつかった感覚がして慌てて手を止めてしまったが、まさかその時に扉が開かなくなってしまったのでは!?」

 衝撃の事実を知った不審者は目を丸くし驚きの表情を浮かべているだろう。だろうとはっきりしない物言いなのは俺が見えているのはこの不審者の手のみ。流石に手だけじゃ表情はわからないよ。

「触った感じではどこもおかしな所は無いようだし……」

 心配そうに壊れたんじゃないかと扉の様子を探る不審者。安心しろ、そんな簡単に玄関の扉は壊れない。最初にぶつかったのは俺の可愛い右足の踵ちゃんだ。今すげぇ痛いんですけど。

「私を逃がそうと時間稼ぎをしてくれているようだけど、その子は大丈夫よ、中に入れて貰えるかしら?」

 え、何を言っているんだ、嫁よ。俺は時間稼ぎなんかしようとは思ってないんだが?

 見当違いな方向に捉えられそれをほめられると少しくすぐったい気もするがまぁいいや。嫁が入れてくれと言っているんだから中に入れてもいいか。

 あれ? ここは俺ん家だよな?

「すまん。まさかマジで信じるとは……中に入れるようにするからちょっと待って」

「くっ、この策士め。まんまと騙されたではないか。次は騙されんぞ」

 一度扉を閉め、チェーンロックを外そうとチェーンに手をかけたのだが、再び閉め出されると勘違いした不審者は扉を開けようとドアノブを引っ張り始める。

「くそ、また謀ったな貴様! 優しい言葉を掛けて油断させまた閉め出すつもりか!」

「馬鹿、違ぇよ! こうしなきゃ開けられないんだって! 閉め出したら飯でも何でも食わせてやる!」

「何、嘘ではないな?」

 期待するような声で不審者は言うとドアノブから手を放したようだ。純粋すぎる。あいつすぐ騙されるだろ。

 願わくば、あいつがこの先マルチ商法などに引っ掛かりませんように。

 まだ見ぬ不審者の行く末を憂いながらも俺は嫁に向き合う。

「しかしどうするかねぇ……今の口ぶりからすると閉め出さなければならない流れなんだが……」

「とんだ意地悪思考ね……気持は解らなくもないけど」

 嫁はそう言うと小さく笑った。

 この笑顔、すげぇ可愛い。微笑む嫁の顔を見て俺はクラリとした。女性に微笑まれた事がないわけではないが、今まで見てきた微笑みのどれよりも可愛い。嫁であるという事実が効果を相乗させているようにも思える。

 おっと、そういえばチェーンロックを外さなければいけなかった。見とれている俺を不思議そうな眼で嫁も見ていることだし。

 もう一度閉め出してもいいが、そうなれば不審者は先ほどよりも大声で騒ぎたてるだろう。夕方とはいえ、あまり騒がしくして後日お隣さんや近隣住民から苦情が来ないとも限らない。

 今まで築き上げてきた好青年のイメージを崩したくはないので素直にチェーンロックを外し、扉を開けた。

 律儀にも扉の前で不審者は手を組んで扉が開くのを待っていたようだ。

 不審者はポニーテールの髪形をした女の子。

 声から女の子である事は解っていたが、声を聞くだけで顔が解るような能力は残念ながら持ち合わせていない。

 女の子は瞳が大きく、左右に揺れるポニーテールが活発そうなイメージを助勢している。

 他に特徴といえば背が小さいように思えるぐらいか。

「むっ……偽りなどではなかったか」

 玄関の扉を自身が入れるぐらいまで開けた不審者だったが、その表情は非常に残念だと言いたげだった。

 やっぱり閉め出されたかったのかお前。とんだ「どえむ」だな、おい。

 ツッコミを抱きつつも不審者の姿をじっと見つめると頭の中にある言葉が浮かんできた。

「つか、何その格好……コスプレ?」

 不審者の格好を見て頭に浮かんだ感想を素直に口にする。

 白いワンピースのような服の上に中世の騎士とかが身につけていそうな鎧や小手を身に着けている。

 扉の隙間に入れていた腕に付けられていた装飾具を見て防具みたいだと思ったのは間違いではないようだ。腰には剣をぶら下げていて、どう贔屓目に見てもコスプレにしか見えない。

「こすぷれ……とは?」

 きょとんと首を傾げる不審者。

「コスプレとはそうね、物語などに出てくる人物の姿を真似る事かしら?」

「そういう意味か。『鋼の都』の言葉はよく解らないな。説明すまない、フーコメリア」

「こちらに来るのなら必要最低限の知識は覚えておかなきゃいけないわよ?」

 嫁と不審者は知り合いのようだ。恐らく、不審者の口にする「フーコメリア」という単語は嫁の名前だろう。

 嫁の名前は俺を愛してくれるから「あい」ちゃんだったのだが、フーコメリアという外人風の名前も悪くないな。

「そんな無駄な知識を覚える暇があるなら私は剣術を磨く」

 不審者はそう言いながら落ち着きなく周囲を見渡している。なにか珍しいもんでもあるのだろうか。

「その結果がさっきのあれでしょう?」

「あ、あれは……そ、そう。ここに居る策士に謀られたのだ! 見よ、この表情を悟られまいと髪で顔を隠している姿を」

 嫁に何かを指摘された不審者はバツが悪そうにそう言って俺に人差し指を突き付ける。

 策士って俺の事なのか? あと、前髪の事はほっとけ。別に表情を悟られないようにと前髪を伸ばしている訳じゃない。それに前髪は眉毛が隠れるぐらいの長さで、表情を隠しているとは言えないだろ。俺が前髪を伸ばしているのは、額が広く生え際がMになっているのを隠したいだけだ、畜生!

「そう言う事にしておこうかしらね」

 嫁は不審者の話に頷くと小さく笑った。

「あなたが何故ここに来たのか、おおよその予測は出来ているけど……とりあえず中で詳しい話をしましょうか。さ、上がって」

「う、うむ……」

 嫁の言葉に促されるように、不審者はそのまま玄関先からフローリングの廊下に足を踏み入れる。

 あれ、ここ俺ん家……いや、嫁は俺の嫁だから此処は嫁の家でもあるのか。

「って、ちょっと待てーい!」

「ぐえッ!」

 靴を脱ぐ素振りなど微塵も見せないまま、自然に家の中に上がろうとする不審者のポニーテールを掴む。

 当然、不審者の頭が後ろに引っ張られる形となった。

「何するか貴様! 貴様の長い前髪を同じように引っ張ってくれようか!?」

 突然の事態に不審者は顔を真っ赤にして俺へ詰め寄る。

 おお、ここまで接近されるとやはりこの不審者……小せぇ。

 不審者の身長はいいとこ百四十センチぐらい。

 それと悪気はなかったんだ。ただ、土足で家に上がろうとするのを止めようとしただけで……お願いだから大切な前髪を引っ張るのだけは勘弁してください。毛根の弱い俺の髪はきっと耐えられない。無駄に髪を散らしたくはないです。

「わ、悪い……でも、家に上がる時は靴は脱ごう?」

 結構な割合で俺が悪いので此処は平謝り。割合としては俺が三で不審者が七ぐらい? あれ? 俺あまり悪くないんじゃね?

 それでも何とか許してもらわねば、前髪が危うい。

「なぜその様な無駄な事をせねばならん。靴を脱ぐときは湯を浴びる時か寝るときだけだろう?」

「家に入る時は靴を脱ぐ、これこの国の文化!」

 何故家に入る時に靴を脱がなければならないか、そんな質問をされたのは初めてで、俺にはそんな答えしか返せない。この手の質問って案外答えが難しいんだよな。

「そう言うことだから大人しく従った方がいいわよ。私だってそうしているし」

 一足先にリビングに足を踏み入れようとしていた嫁がそう言って、自分の足元を指差す。

 それを見てしぶしぶながらも、不審者も靴を脱ぎ始めた。

「靴はここに置けばいいのか?」

 不審者は玄関タイルを指さして言う。

「あぁ、そこで構わない」

「まったく、面倒な国だな此処は。うぅ、足下が冷たい」

 そう言いながら踵を上げて嫁が先に入っていったリビングへと向かう不審者。やはり何かを盗むつもりか、頭は忙しなく左右に動いていた。

 俺もこんな所に突っ立っていないで早くリビングに行こう。その前に靴ぐらい並べておくか。

 玄関先に脱ぎ散らかされた不審者の靴を揃えて置く。

 うわ、やっぱ靴も小せぇ。隅に並べて置いてあるのは嫁の靴か。うん、これが標準的なサイズだよな。

 自分のスニーカーも並べて、俺はリビングへ急いだ。

「な、なんだこの椅子は。腰が落ち着かんぞ」

「そう? 慣れればかなり座り心地いいわよ?」

 少し遅れてリビングへ入ると四人掛けのソファーに腰掛ける二人が目に入った。

 嫁の方は落ち着いてソファーに座り足まで組んでいる。おぉ、おみ足が。これは脳内HDDに記録しておかねば。勿論保護付きで。

 それに比べ不審者は落ち着きなくソファーの背もたれを叩いている。叩く分は問題ないが、隙間に指を突っ込もうとするのだけはやめてくれ。

「さて、本題に入る前に、まずは自己紹介からでもしましょうかしら。私はフーコメリア」

 嫁……フーコメリアはそう言うと組んでいた足を崩し、両膝を揃え膝の上に手を置いた。

「私はレン。レン・クレックスだ」

 不審者はそう名乗るとソファーから立ち上った。ソファーの座り心地が気に入らなかったのだろうか。

 確かに奥深くまで座り込むと足が浮き気味になってバランス取れないもんな。

「クレックス……なるほどね」

 フーコメリアはフーコメリアでレンの名前を聞いて一人頷いている。

「えっと、俺は久遠寺久喜」

 俺も場の雰囲気に合わせて名乗ると、レンがいきなり吹き出した。

「ぶっ! へ、変な名前だな。クオンジクキ……クオンジクキ、ぷぷっ!」

 久遠寺久喜という名前のどこに笑いのツボがあったんだ?

 何故だか解らんが何度も俺の名前を口にして笑うレン。久遠寺久喜……なにがそんなに面白いんだろうか。

 自己紹介で久喜と言うと確かに珍しい名前とは言われるが、レンみたいな反応は初めてだ。あからさまに笑われると凄くムカつくぞ。

「レン。クッキーからしてみたら私たちの名前だって十分変なのよ。いくらおかしくともそういう反応しちゃ駄目じゃない?」

 フーコメリアがそう言ってレンを注意するが、レンは相変わらず腹を抱えて笑っている。笑い過ぎて呼吸が苦しくなってきたのか、息も絶え絶えだ。

「おかしいものはおかしいのだからしょうがないではないか。クオンジクキ……ぷっ」

 あぁ、もういいよ。なんか此処まで名前一つで笑われたら、怒りを通り越して関心するよ。笑うなら存分に笑ってくれ、チビ。

「つか、クッキーって……」

「あら、皆そう呼んでいるじゃない? 久遠寺君とか久喜君とかの方がよかった?」

「いや、別に構わないけど、やっぱそうなるわけね、俺の呼び名」

 久喜という名前を付けられた俺の逃れられないあだ名、『クッキー』

 十数年このあだ名で呼ばれていたら、久遠寺クッキーが俺の本当の名前なのだと思ってしまうほどだ。

「さて、お互いの名前が解ったところで、クッキー。私と一緒に暮らさない?」

「当然じゃないか!」

「いや待て、クオンジクキ! おかしいだろ!」

 勢い良く俺に詰め寄って来たレンが俺のYシャツの襟を持って躊躇うことなく頭を前後に揺さぶってくる。

「うわ、なにをする、やめろ! 脳が、脳が揺れる!」

「貴様とフーコメリアは今しがた会ったばかりだろ。先ほどからの反応で思っていたのだが、少しは我々についてもう少し疑問を持たんか! この国の人間は皆そうなのか!」

 俺の脳を揺らす手を止めないまま、レンは一気にまくしたてる。

「俺は俺、他人は他人だ! 頭の中で思い描いていた嫁が奇跡の力で具現化したんだ。そうとなれば嫁と暮らす、当然の結論だろ!」

 胸を張ってレンの言葉に答える。

「お  前  は  馬  鹿  か!」

 更に強く頭を揺らしてくるレン。

 何故だ。今の俺の台詞で会ったばかりの奴に何故そこまで強く馬鹿と言われなければならん。俺の出した結論のどこに綻びがある?

「こんな天才を捕まえて馬鹿とはなんだ。東小松市一の天才と言われた俺だぞ!?」

「お前を天才と言った奴に合わせろ!」

 ピタリとシェイクが止み、じっとレンが俺の目を見つめている。どうやら、俺を天才と謳う奴の名前を教えろと言っているのだろう。

 俺はじっとレンの目を見て堂々と言い放った。

「目の前に居るぞ?」

「自称か貴様はぁぁっ! やはり貴様は馬鹿だ、大馬鹿だ! 自称でそこまで強気になれる奴は初めて見たぞ、私は!」

「ちょ、やめ、やめ……」

 レンがシェイクを開始させ、先ほどよりも勢いよく視界が揺れる。揺れの激しいジェットコースターにでも乗っているような気分だ。一回800円ぐらいのアトラクションに乗っていると思えばこれぐらいなんてこと無い。まぁこの程度で800円はぼった繰りすぎだが。

 しばらくすると怒鳴り揺らし疲れたのか、レンは肩で息をしながらYシャツから手を放した。

 ふう、ようやく解放されたか。まだ視界が上下しているぞ。訂正、800円程の価値は十分にありました。

「はぁ、はぁ……フーコメリアよ、今すぐ戻るぞ。こいつと居ては魔族一の天才術者と謳われたお前の名が泣くぞ」

「十分面白いじゃない? ここまで自らの想像に自信を持って話を進められるのは一種の才能よ。それに名なんて私にとっては何の価値もないわ」

 レンの問いかけにフーコメリアはあっさりと答える。答えたフーコメリアは堂々としていて、発した言葉に偽りなんかないって事を態度が物語っている。

「なぁ、フーコメリアさんよ。フーコメリアさんは俺の信じる心が奇跡を起こし、現れた嫁ではないのか?」

 フーコメリアとレンとの会話に割り込むようにして、俺は今しがた浮かんだ疑問を口にした。

「当  り  前  だ  こ  の  大  馬  鹿  者!」

 フーコメリアが口を開くより早くレンがそう叫ぶと、再び俺のYシャツに手を掛けシェイクを再開させた。

 シェイクは最初から激しい。ジェットコースターのスタートから一気に急降下だ。てっぺんに上り詰める時間すら与えてくれない。

「どこの世界に信じる心が嫁を召喚するなんて奇跡があるか! 自身の嫁なら自身で捜さんか!」

「なんと……現実はかくも厳しいものか」

 くそ、目の前に居るフーコメリアが嫁なんだと思っていたのに……俺は人生の勝ち組になれると思っていたのに。クソ、こんなに可愛い子が嫁になってくれるならどんなに良いことか。

 レンに指摘され、名残惜しくフーコメリアの顔を見つめる。

 透通るほどの白い肌に整った鼻梁。その瞳で射抜かれればたちまち骨抜きになってしまいそうな視線。そしてぴんと尖った長い耳。

 あぁ、世界中を探してもこんな絵画の絵から飛び出して来たような美しい人には出会う事はないだろう。

 ん……尖った耳?

 フーコメリアの耳を注目して見てみると、その耳はぴんと尖っていている。

 体力ゲージが切れたのか、Yの襟元を掴んだまま荒い呼吸を繰り返しているレンの耳を見る。

 レンの耳は丸く小さく俺の耳となんら変わりない。

 フーコメリアの耳はレンや俺に比べ長く、耳の先が尖がっていて、ファンタジー映画に出てくるようなエルフのような耳をしている。

「フーコメリア、その耳……」

「今更その事について触れるか貴様はぁぁっ!」

 本日三度目の脳内シェイク。三度目となればある程度は耐性が出来ており、ちょっとやそっとのシェイクじゃ俺の脳は揺れない。

 ごめん、嘘。耐性が付くどころか、シェイクのダメージが蓄積され気持ち悪くなっている。

「今まで気にも留めてないなんてある意味すごいわね。レン……それ、やめた方がいいわ。クッキーの顔色が見るからに悪くなっているわ」

「はぁ、はぁ……フーコメリアよ何故貴様ともあろう者がこんな馬鹿を選んだんだ……選ぶならこいつより賢しい者など掃いて捨てるほど多いだろうに。と言うより、ここまで馬鹿な者を探す方が大変ではないか?」

 本日三度目のシェイクから解放された俺は流石にグロッキー。

 耳にはフーコメリアとレンとの会話が聞こえてくるが、シェイクにより機能が低下している脳じゃ処理が追いついていない。

「時元鏡を覗いて私を助けてくれそうな人を探していたのよ。そこで一番私を助けてくれそうだったのがクッキーよ。条件もクリアしていたし」

「こいつがお前の眼鏡に適う相手だとは到底思えんが……」

「明るくてお人好し。困っている人がいたら見過ごせない。3LDKのマンションにほぼ一人暮らし。父親は仕事で家を空けていることが多くあまり家に帰ってこない。遺伝なのか父親も輪をかけたようなお人好し。母親は何らかの理由により不在」

「いつの間にそんな事を?」

 ほぼあっている久遠寺家の事情を述べたフーコメリアを見るが、フーコメリアはちらりと俺に視線を向けただけで答えようとはしない。

「それに……」

「それに?」

「クッキーは莫大な魔力を持っているわ」

「莫大な魔力?」

 レンは疑いの込められた目で俺を見る。そんな目で見られても俺には何の事か全然わからんぞ。

「ええ、私以上に大きな魔力がね」

 三つ編みに纏められた髪を払うとフーコメリアはじっとレンを見つめる。

「しかし、何故そんなに魔力を欲するのだ?」

「あらがうためかしら?」

「あらがう? もしかして例の話をか?」

 何とか脳の処理速度も正常に戻り、理解しようと黙って二人の話を聞いていたのだが、全く訳分からん。なにを話しているんだ。

「何故あらがう必要がある? お前にとっても悪い話ではないだろう?」

「ええ。魔族の中でもその力を認められたって事では非常に名誉な話よ。でも、本当に彼らが必要としているのは私なのかしらね?」

「それは……」

 思わせぶりな言葉を口にしたフーコメリア。その言葉を聞いて、思うところがあるのか、レンは腕を組んで唸る。

 俺も唸る。うーん解らん。

 一人で考えてもらちが明かない。ここは当事者たちに聞いた方が早そうだ。

「一体なにを話をしているんだ?」

 ちらりとレンは俺の顔を見る。

「確かにお前の気持ちも解らなくはない。だが、お前がこのような行動を取るのならば必ず、こいつも巻き込まれることになるぞ。無関係なクオンジクキが巻き込まれる。それでもいいのか?」

「それは……」

 フーコメリアが俺の顔を見て俯く。

 二人とも俺の質問は答えてくれないのね。

「いくら巻き込まぬようにしても、お前と一緒にいる以上、無関係ではいられない。私は手荒な事をしてまでお前を連れ戻そうとは思ってはいない。そもそも義理でこうして話をしているだけだからな。だが、かの者達はそうではないだろう。是か非でもお前を連れ戻そうとする。そうなった場合は……」

 幼子に言い聞かせるように、ゆっくりとレンはフーコメリアへと話し掛ける。

「……」

 そんなレンの言葉を聞いて更にフーコメリアは俯き、辛そうに唇を噛んでいる。

 フーコメリアの辛そうな表情を見て、胸の真ん中あたりがずきりと痛んだ。

 また……いつものか。

 俺は人が心底辛そうにしている顔や、困った顔を見るのが嫌いだ。

 そんな表情を見ると胸の真ん中あたりが痛い程ほど締め付けられ、気分が悪くなる。これは小さい頃からずっと付き合ってきた一種の病気みたいなもんだ。

 小さい頃に母親が交通事故に遭い亡くなった。その時、俺は父親の悲しそうな顔や辛そうな顔をずっと見てきた。俺も母親が死んでしまった事は悲しかったが、それ以上に手の届くところに居る父親の塞ぎこんでいる姿を見ることが悲しく、そして嫌だった。

 そんな過去の経験からか、俺は人が困っていたり悲しそうな顔をしているのを見るのが心の底から嫌なんだ。

 他人の辛そうな顔を見ると、どうしても母親が死んだあとの父親の姿と重なり、母親が死んだ時の喪失感や悲しみなんかが思い出されてしまう。

 誰だって人の悲しそうな顔を見るのは好きじゃないのは当たり前だが、俺は特別嫌いだ。

「なににも理解していない俺が口を挟んでいいかわからんが……フーコメリア、お前はどうしたいんだ?」

 フーコメリアの辛そうな表情はこれ以上見るに堪えず、気が付けば口を開いていた。

「え?」

 ぱっと顔を上げ、目を丸くするフーコメリア。

「お前の抱えている問題がなんなのか全然、これっぽっちも理解してねーけど、俺が出来る事ならなんでもする。力になる。俺の迷惑なんて考えるな、自分の思う通りにやろう。だから……」

 俺は大きく息を吸い、じっとフーコメリアの顔を見た。

「そんな顔すんな」

 はっきりとフーコメリアに向けて言った。

「でもクッキー……」

「デモもストもない! ここまで来て諦めちゃ駄目だ。本当に嫌だったから、今ここに居るんだろ。だったら最後まで突っ走ってみよう、俺も力になるから!」

「おい、クオンジクキ! お前が考えているほど事態は甘くないんだ、我々に係われば無事では済まないのかもしれないのだぞ!」

 レンが俺の肩に手を置いて、言い聞かせるように言葉を続ける。

「今ならまだ間に合う、フーコメリアも理解しこのような行動はやめようとしているんだぞ……お前もただ忘れれば良いだけだ」

「理解はしているかもしれないが、納得はしてねぇだろ。それにこんな事、簡単に忘れられるわけないだろ」

 レンの手を振りほどくと、俺はしっかりとフーコメリアの手を握る。

「大丈夫、なんとかなる。いや、俺がなんとかするから、そんな顔するなよな」

「クッキー……」

 少し潤んだような瞳で俺を見つめてくるフーコメリア。

「はぁ……大馬鹿者だな、貴様は」

 レンはため息をつくと、ソファーに腰掛けた。

「うっせ、馬鹿は死なないと治んないんだよ。でだ、この大馬鹿者である久遠寺久喜に解りやすく説明してもらえるか?」

 ずっと立ったままだった俺はソファーの開いている場所に腰掛けた。

「え、ええ」

 少し落ち着きのなさそうな様子でフーコメリアが俺に視線を向ける。

「レン……さんは止めないのか?」

「レンでいい。お前にそのような呼ばれ方をされると気色が悪い。最終的にお前とフーコメリアが下した決断だ、当事者がそれで納得しているのであれば、私はなにも止めることなどない」

 レンは黙ったまま、事の成り行きを見守るような姿勢に入っている。

 さっきまで止めようとしていたくせに。変な奴。

「じゃ、フーコメリアさん。詳しい話を聞かせてもらえるか?」

「フーコメリアでいいわクッキー。そんな他人行儀な呼び方はなし」

「わかった」

 本人がそう望むのだから、望むようにしよう。それに、日頃が他人をさん付けで呼んだりしないもんだから、ちょっと名前が呼び辛いとは思ってたんだ。

「まず理解しておいて欲しいのは、私はこの世界の人間じゃないって事かしら。これは耳とかを見てもらえばすぐに理解してもらえるでしょうけど」

 人差し指で自分の耳を弾くフーコメリア。長い耳がスプリングを弾いた時のように数回上下に揺れる。すごい弾力だ。

「……ちょっと触ってみてもいい?」

 目の前で面白そうに揺れる耳を見て、どういう感触なのか確かめてみたい。そんな好奇心が俺の中で膨らんだ。

「別にいいけど……クッキーの耳も触ってみたいわ」

「交換条件だな」

 フーコメリアも俺の耳に興味を抱いているようで、そんな提案をしてくる。人は自分には無いものに興味を抱くものだ。

 あと、気になると言えば、女の子のおっぱいがどんな感触なのか非常に知りたいものだ。知りたいのだが、こればかりは涙を呑んで機会が巡ってくるのを待つしかない。

「とりあえず、触るか。痛かったら痛いって言ってくれよ?」

「それは私にも言えることね。加減はするつもりだけど、感度が違うかもしれないから、痛かったら我慢しないで言ってね」

 なんだか妙な興奮を覚えてしまいそうなやり取りのあと、そっとフーコメリアの耳に手で触れた。

「んっ……クッキー指が冷たいわね」

「そ、そうか?」

「ただの感想だから気にしないで」

 悪い、そう言いかけて指を離そうとしたのだが、フーコメリアの言葉を聞いてそのまま耳を触り続けることにした。

 感触としてはフーコメリアの耳は耳たぶのような柔らかさはなく、耳の軟骨が長く伸びているような感じだ。付け根からずっと触ってみたが、どこを触っても耳たぶのような柔らかさはない。

 この硬さがあるから弾けば何度か上下に揺れるのだろうか。

「んっ……あっ……くすぐったい」

 フーコメリアが艶めかしい声を上げ肩を軽く竦ませる。耳の先まで感覚があるのか。

 うーん、触れば触るほど不思議な耳だ。

「そろそろ私も……」

 フーコメリアの手がまっすぐ伸びてくる。

 指先が視界の隅を通ったかと思うと耳にひんやりとした感覚が広がる。

「うぉっ……」

 耳に触れたフーコメリアの指の冷たさが一気に背中まで走り抜けたような感覚がして、反射的に声が出てしまった。

「ごめんなさい、痛かった?」

 驚いた表情を浮かべてフーコメリアは慌てて俺の耳から手を放した。

「いや、ちょっと驚いただけだ。気にするな」

 そう……とフーコメリアは呟くとまた耳を触り始めた。

 まるで割れものを扱うようなフーコメリアの耳の触り方に、絶えることなく耳から寒気が背中に走っている。

 自分で耳を触ってもこんな感じなど一度もしなかったのだが、触り方一つでこんなにも感じ方が違うのか。

「上の方の感触は私と大差ないわね。でも、この下の部分の丸みを帯びた場所は触っていて何となく気持ち良いわね」

 フーコメリアは耳たぶが気に入ったのか、耳たぶを摘んだり少し引っ張ったりして耳たぶのぷにぷにっとした感触を楽しんでいる。

 俺は俺でフーコメリアの耳を軽く弾いた時の耳の動きがちょっとお気に入り。

 バネみたいに跳ねる耳が面白い。

 俺とフーコメリアは向き合ったままお互いの耳を触り続けている。何となくシュールな光景だ。

「お前らはなにをやっているんだ……」

 盛大な溜息を吐いて額に手を当てたレンが冷ややかな目でこちらを見ている。

 お互いに耳を触り合っている光景はシュールだな、なんて当事者である俺ですら思ったことだ。レンはそれ以上の感情を抱いたに違いない。

「なんというか、異文化コミュニケーション?」

 取り繕うようにレンにそう言うと、レンは首を傾げた。

「こにゅ……こにゅにけーしょん?」

 言えてねー。確かに発音し辛い言葉だが、こうはっきりと「こにゅにけーしょん」なんて言うとはな。悔しいが少しキュンって来たぞ。

「コミュニケーション。意思を伝達すること。この場合だと触れ合うという行為が、意思を伝達するって意味かしらね」

「お、おう……そうだな」

 自信満々にフーコメリアの問いに答えたが、コミュニケーションってそんな意味だっけ? と不安になっている俺が居る。

 英語の成績レッドラインギリギリの学力を見くびるなよ。

 フーコメリアとレンじゃかなりお頭の出来が違うようだ。

 チェーンロックや靴の件といい、フーコメリアはずっとこっちで暮らしていたかのような振る舞いで、生活に必要な知識は頭に入っているようだが、レンはようやく歩き始めた赤子のように知らないことが多い。

「なんだその目は! 言いたい事があるのならはっきりと言わんか!」

 レンにちょっとした親近感を覚え、レンを見ていたのだが、俺の視線に気が付いたレンは顔を真っ赤にして左右にポニーテールを揺らしながら声を荒げる。

「いや……仲間だなぁっと思ってさ」

「お前と一緒にするなぁ!」

 すっとレンは立ち上がり、またもYシャツの襟元を持って本日四度目のシェイク。何気に気に入ってないか?

「まったく、そう悠長に構えている時ではないだろうに」

 思ったよりも短い時間でシェイクを終了させたレンは腕を組む。

 時間がないのならわざわざ俺を揺さぶらなくてもいいだろうに。あー気持ち悪い。

 頭を振りながらもフーコメリアへと視線を向ける。

「それもそうね、えーっと……」

「で、どこまで話したっけ?」

「ま だ 話 し 始 め て い な い だ ろ!」

「ちょ、ま……なんで俺だけ!」

 強く揺さぶられながら不満を口にする。

 今のフーコメリアの反応はおおよそ俺と同じだろ。絶対フーコメリアもどこまで話したか? なんて言う気だったぞ!

「私達はこの世界の人間じゃないって事ね」

「あ、それ聞いた……レンてめぇ!」

 なにが話し始めてないだ、きちんと話し始めていただろ。何故俺は今シェイクされなければならなかったんだ!

 レンの勘違いにより暴行を加えられた俺は復讐をすべく、レンのつむじを親指で思いっきり押し始める。

「痛たたたっ……な、何をするか!」

 レンはポニーテールを暴れさせながらもがいている。もっと苦しめこの野郎。

 さらに俺は親指に込める力を増す。指先からはしっかりとレンの堅い頭蓋骨の感触が伝わってくる。

「お前の暴行により死んでしまった脳細胞の仇討ちだ! ふはは、この背の小さくなるツボを刺激され今以上に背が小さくなるといい!」

 もちろんそんなツボはない。つむじは色々といわくがある場所で、人によっては『下痢ツボ』と言う人も居るみたいだ。

「ぬわっ、やめろ、やめんか! これ以上私の背が小さくなったらどうしてくれる! ただでさえつま先で立たねば棚の上の方に手が届かぬというのに、これ以上小さくなってしまったら、つま先で立っても手が届かぬではないか! もしかすれば、中段にも手が届かなくなるかもしれないではないか! 痛たたたっ!」

 俺に頭を押さえられた状態でレンが思いのほか必死に手を振り払おうと、もがき暴れる。

 背が縮むなんてありえないから安心しろ。

 それよりも、つま先立ちしなければ高い所に手が届かないのか、お前は。いや、確かに届きそうにないな、この身長では。

「くそ、背が縮んだらお前から背を貰うからな、これぐらい!」

 俺の手からようやく抜け出したレンは両手の幅を縦に二十センチぐらい広げて宣言する。

「いくらなんでも貰い過ぎだろ、それは!?」

「なにを言う、私の本音としてはこれぐらい欲しいところをこれで我慢しているのだぞ!」

 レンの両手の幅が二十センチから三十センチに増大。

 身長百七十ちょいと、そこそこ背の高い俺でもレンに三十センチも身長を奪われれば、今のレンと同じぐらいか、それよりも少し低いぐらいの超小柄な青年になってしまう。

「断る、絶対断る! そもそも、頭のてっぺん押したぐらいじゃ背は小さくならねぇよ!」

「なに、本当か、残念!」

「残念って言ったよねぇ、今!」

 安心二割、残念八割といった様子で落胆するレンに思わずツッコミを入れてしまった。

「そもそも、身長はそう簡単に人にやれるわけねーだろ」

「私は、今以上に背が欲しいんだぁぁぁっ!」

 レンの切実な願いがリビングに響いた。

 言うな、切なくなる。

「だ、大丈夫よ。レンはまだ成長するでしょ。私と同じ十七になれば……」

「私はもう十七だぁぁぁっ!」

 フーコメリアがフォローに入るが、逆効果だったようでさらに声を荒げる。

 十七歳でパッと見、百四十ちょいか。男より成長が早いといわれる女だ、これ以上の成長はもう望めないだろうな。

 って、ちょっと待て。

「フーコメリアは別にそう言われても大して驚かないが、レンが十七だって!? 俺よりも年上なのかよ、その身長で!」

「なに、お前は私よりも歳が下なのか、その図体で!」

「身長関係なくない!?」

「お 前 が 先 に 言 っ た ん だ ろ う が!」

 レンお得意の脳内シェイク。

 本日何度目なんでしょうね。今日は脳内シェイク記念日とでもカレンダーに記しておこう。来年には絶対忘れているだろうが。

「まったく、歳が下ならもう少し目上の者を敬わんか。クオンジクキ、茶」

 腕を組んで偉いんだぞと言いたげに胸を張るレン。

 お茶まで要求してくるとは、なんでこんなに態度でかくなってんだ。

「解りました、ロリババア」

 結構騒いでいたから俺も喉は渇いている。飲み物ぐらい出してもいいか。

「今非常に不愉快な事を言われた気がするのは気のせいか!?」

 背後で聞こえてくるレンの声を無視してキッチンへと急ぐ。

 ババアが婆と解りはするが、ロリータのロリの意味は解っていないようだ。

 もし、レンの知識がもう少しあるならば、今頃きっと俺は脳内シェイクを受けているだろう。俺の言葉の真意が伝わったのはフーコメリアだけ。

 フーコメリアは小さく笑っていて、レンがフーコメリアを問い詰めているようだが、『ロリ』の意味はきっと教えないだろう。いや、教えないで頂きたい。俺の脳細胞の為に。

「クッキーはいくつなの?」

 スペックを持て余している冷蔵庫の中から麦茶を取り出してコップに麦茶を注いでいた俺にフーコメリアが聞いてくる。

「今年で十七かな」

 手に三つコップをもってリビングに戻り、フーコメリアに麦茶を手渡しながら自分の歳を答える。

「じゃあ同い年じゃない。私も十七になったばかりよ」

 ありがとうとお茶を受け取りつつフーコメリア。そうか、今年で十八歳になるかと思っていたのだが、同い年か。雰囲気から年上っぽく感じていたんだけどな。

「うむ、私も先日十七になったばかりだ」

 手を差し出し早くよこせと態度が物語っているレンに麦茶を渡し掛けて思いとどまる。

 先日十七になったばかり?

 それは今年で十七になる俺と同い年という事ではないか。

「なにをしている、早く渡さんか」

 レンが指を開いたり閉じたりして催促をしてくる。

「てめーにはやらん」

「なんと、それが目上の者に対するお前の態度か!」

 目を丸くし憤るレン。目上……ねぇ?

「お前が本当に年上ならもう少し気を使っただろうが、結局は俺と同い年じゃねーか! なんでそんな奴に気を使わねばならん。お前こそもう少し謙虚な態度なら渡していたがな!」

 なにが悲しゅうて、少しばかり早く生まれた奴に部活の後輩のように使われなければならん。

 両手に麦茶が注がれたグラスを手にソファーに腰掛ける。

「おぉう、冷たくて喉が潤う」

 レンに見せつけるように右手に持った麦茶をあおる。レンは餌を目の前にしてお預けと命令された犬のような潤んだ瞳で俺を見つめてくる。効果はばつぐんのようだな。

「くそ、早くよこさんか馬鹿者! 私も喉が渇いているのだ」

「年上年下以前に、人から何かを貰おうとするにはそれなりの態度ってもんがあるだろ?」

 うぅーっと犬のような唸り声をあげながら、レンは葛藤しているようだ。

「よく冷えてて喉の渇きが更に癒されるぅ!」

「調子に乗った私が悪かった! クオンジクキ、お願いですから私にもそれをくださいませ」

 今にも泣き出しそうな顔でそう懇願するレン。

 変わり身が早いなぁ。もう少しからかってもいいが、下手をすれば泣き出しそうだからな、ここらで手を打っておくか。

「解ればいいのだよ、レン君」

 麦茶を手渡すと泣き出しそうだったレンの顔がぱぁっと明るくなる。

 レンに尻尾が付いていたなら今頃高速で左右に揺れていることだろう。尻尾の代わりにポニーテールは揺れているが。

「扱いが上手いわね」

 俺とレンのやり取りを眺めていたフーコメリアが感心した様子で呟く。

「うへぇ、苦い……なんだこの水は……」

 麦茶を一口飲んだレンは舌を出して麦茶を見つめる。

「文句あるなら飲むなよ」

「こ、これは感想だ。文句などではない」

 俺がレンに渡したコップを取り上げると思ったのだろうか、レンは慌てて残りの麦茶を飲み干した。

「さて、一息ついた所で再開しましょうか」

 飲みかけの麦茶をソファー前のテーブルに置くと、フーコメリアは長らく止まっていた説明を再開させる。

「私達がこの世界の人間じゃないって事はいい?」

「まぁな。特殊メイクってわけでもなさそうだしな、その耳」

 触った感じからも作り物のような感じはなかったし、耳も温かかった。

 フーコメリア達が身に纏っている衣服にしたってそうだ。何となくこちらの衣服とは作りが違うように思える。

「そして、私はその世界から逃げて来たってわけ。でも安心して、悪い事をして逃げて来たわけじゃないから。どうしても受け入れられない事があって逃げて来ただけだから」

「どうしても受け入れられない事?」

 聞いていいことなのか一瞬迷ってしまったが、これだけは聞いておかなきゃいけない気がして、疑問を口にした。

 フーコメリアは眉間にしわを浮かべて考え込む。

「なんて説明したらいいかしら……私の意志を無視し、勝手に私の人生を決められたってところかしら」

 解るような、解らないような。

 とにかく、フーコメリアは周囲の人達が勝手に重要な事を決めて、それが嫌だったからこっちの世界に来た。そういう事だろう。

「……」

 レンは黙ってフーコメリアを見つめると、その視線に気が付いたフーコメリアがレンに静かに頷く。

「私も急な事で随分と戸惑っているんだと思うわ。私と私の周囲が冷静に考える時間が欲しいの。その間だけでも私をここに住まわせて」

 重大な決断をするには一度冷静になって一から考えなきゃいけないもんな。

 俺、馬鹿だから話の深い意味なんて考えてられない。目の前にいるフーコメリアが困っている。助ける理由はそれだけで十分だ。

 幸い使ってない部屋もあるし、一番の問題となる親父はほとんど家に帰ってこないし、帰って来たとしても「困っている人は見過ごすな」が口癖の親父だ。どうとでもなる。

「解った。そのフーコメリアやその周囲の奴らが決断を下すまで居ていいよ。悔いのない選択ができるといいな」

 そう言ってフーコメリアに笑い掛ける。お世辞ではなく本当に心からそう思っている。

「ありがとう。絶対に悔いのないようにはするけど、クッキー自身も危ない目に遭うかもしれないけど……それでもいいの?」

「男に二言はない。大丈夫、俺を頼ってくれ」

 再三、本当にいいのかと聞いてくるフーコメリアに大きく頷く。

 説明なんていらなかったのかもしれない。今更なにを言われた所で、フーコメリアの辛そうな表情を見た時から俺は手を貸すって決めていたんだから。

「意思は変わらない……か」

 呆れとは少し違った、なんとも言えない表情を浮かべ呟くレン。

「悪いわね、レン……」

「それがお前達の決断ならそれでいいさ」

「いえ、あなたに悪いって事よ」

「私に?」

 きょとんとした表情でフーコメリアを見つめるレン。

 フーコメリアの言葉の意味が解らないらしく、しきりに首を傾げている。

「私を連れ戻しに来て何の収穫もなしに戻ればなんて言われるか……最悪クレックスの名に傷がつくかもしれないのに」

 レンはフーコメリアの言葉を聞いて、ようやくフーコメリアの言いたい事を理解して、胸の前で手を叩く。

「なんだ、そんな事か。先ほどからずっと言っているだろう、私がお前を連れ戻しに来たのは形だけだと。私はお前の意志を尊重する。なに、言いたい奴には好きに言わせておけばよい。お前がそうであるように、私も私にとって最善の選択をしたつもりだ。私の中のクレックスの名は傷つかん」

 誇らしげにレンは胸を叩く。

 レンは鎧を身に付けている事を忘れてはならない。思いのほか強く胸を……いや、鎧を叩いてしまったのか、顔をしかめて手を振っている。馬鹿だなぁ。

「形だけなら来なくともよかったんじゃないか?」

 話を聞いて思ったのだが、形だけという事は本気で取り組む気がないという事だ。

 例えるなら、資格は欲しくないのに、思いつきで漢検や英検を受けるのと同じではないだろうか。受かる気がないのに試験だけ受けるなんて無駄過ぎる。

 レンの話を聞いてそう思った俺は思った事を素直に口にする。

「いや、そうも言ってられないんだ。義理があるからな……」

 苦笑いを浮かべて俺の質問に答えるレン。

「義理?」

「そう、この問題は魔族と人間族との問題だが、同じ世界で生きている精霊族としても無関係ではいられないからな。それに、魔族一の天才術者と謳われるフーコメリアを見てみたかったし」

「ちょっと待って。二人って知り合いじゃなかったのか? 親しげに話しているからてっきり……」

『いや、今日初めて会ったわ(ぞ)』

 二人して声を揃え全否定。なにこのコンビネーション。

「フーコメリアは魔族一の天才術者と謳われるほどの実力の持ち主だ。話は種族が違うけれどもよく耳に入ってきたし、私の名もそれなりに有名だからな。会った事がなくとも名前だけ知っていてもおかしくはない」

 フーコメリアが凄いってのは二人の会話の中で『天才』とか一度は言われてみたい単語が出ていたから何となくは想像ができていたのだが、レンの名前が有名って一体……?

「フーコメリア達の世界で最も背が低いとか?」

「子供とか赤子は私よりもずっと小さい」

「じゃあ十七歳の中で一番背が小さい?」

「身長から離れんか!」

 脳内シェイク。もうYシャツの襟がよれよれになって修復不可能なんだが。

 そして私よりも背が小さい奴が居るとは一言も口にしなかったレン。知り合いの身長も全員がレンよりも大きいという事なのだろう。

「クレックスという名前が有名なのよ。レオ・クレックスは誰もが知る精霊族の英雄よ」

「誰?」

「私の祖父だ」

 つうことはあれか、フーコメリアは自分の実力で有名になって、レンは祖父が凄いってだけか。

 例えるならフーコメリアはオリンピック選手金メダリストとか、世界的有名な賞を獲得した学者で、レンは身内が芸能人ってとこか。そう考えると雲泥の差だな。

「クッキーが余計な事言って頭揺らされる前に付け加えると、レン自身の実力もあるわ。流石は英雄の血縁ってことね」

 危ねー。フーコメリアのフォローなければ俺は迷わず、「なんだ肩書だけか」なんて言うところだった。実際に喉元まで言葉出かけていたし。

「そもそも、そのレオ・クレックスってなにした人?」

「レオ・クレックスは共同歴前二十年に生まれ……」

「フーコメリア、頼む」

 レンの口から聞いても良いかななんて思っていたのだが、レオ・クレックスの生誕から話されそうな雰囲気になったので、手短に説明してくれるであろうフーコメリアを慌てて指名する。

 よほどレオ・クレックスの事が話したかったのか、レンは怨みがましい視線を俺に向けて唸っている。機会があればお前の口からも聞いてやるから。

「レオ・クレックスは私達の世界を一つにした人ね」

 フーコメリアの説明を纏めるとこうだ。

 フーコメリア達の世界は今より四十年ほど前までは種族によって分かれ争っていた。

 その当時一番力のあった種族が魔族。魔族とは言っても派閥が分かれていてわかりやすく言うなら穏健派と強硬派に分かれていたらしい。

 魔族は当時強硬派が力を持っており、周囲の他の種族の領土を奪い、強大な勢力となっていたそうだ。

 そしてこのままでは世界が全て魔族のものになってしまうという時、伝説の剣に選ばれた勇者達が打倒魔王を掲げ立ち上がり、種族間の争いを止め、穏健派の魔族とも手を組み魔族の王と戦い、勝利した。

 そしてその後、悪魔族との戦に勝利した穏健派の魔族、精霊族、人間族など様々な種族は手を取り合って暮らし、種族間の調停者として活躍したのが、勇者パーティーの一人レオ・クレックスらしい。

 勇者ではなかったようだが後の働きとかを聞くに相当重要なポジションに居た人物でいることはわかった。

「すげぇ人だな。で、普通に聞き流してたが、魔族とか精霊族ってなに?」

「魔族って言うのは人の中にある魔力を使い、術を使う事に長けた者よ。魔法使いって説明した方がわかるかしら?」

 流石、説明が上手い。一発で理解できた。

「オーケー理解した。フーコメリアは魔族なんだよな、魔法とか使えんの?」

「当然よ。機会があれば見せるわ」

 フーコメリアは勿体ぶるように答えた。機会があれば……か。凄く見たい。早くその機会が巡ってこないものか。

「精霊族と言うのは私の種族で特徴としては……」

「みんな背が小さい?」

「言うとは思ったが、期待を裏切らない奴だなぁ、貴様は!」

 笑顔でレンが答える。

 俺がレンに何をされているのか今更説明する必要もないのだが、当然頭をがっくんがっくん揺らされてる。

「気を取り直して……精霊族とは精霊達に力を借り、共に生きている種族だ」

 マンネリ化してきているのか、早々に頭を揺さぶるのを終わらせたレンは説明を再開する。

「力を借りる?」

「私達はフーコメリア達のように大きな魔力を己の内には持っておらん。私達は魔力を剣に変える術を持っているのだが、肝心の魔力が少なくてな。だからこそ精霊と呼ばれる大きな魔力を持った精から魔力を分けて貰っているのだ」

「寄生虫みたいだな」

「寄生虫言うな。何も我らは精霊から魔力を貰うだけではない。精霊は我らと契約を結ぶことによってさらに成長する。お互いの利が一致した上での協力関係だ」

「精霊ってどんな姿をしているんだ?」

 人の姿をしているのだろうか。それとも動物のような姿だろうか。どちらにせよ、見てみたい。

「姿なぁ……」

 レンは言い辛そうに答えると頬を指で掻き始める。

 まさか、人型であられもない姿をしているんじゃないんだろうか。そう、全裸で。

「非常にいやらしい顔しているから言っておくが、お前の想像しているようなものではないぞ?」

 呆れた表情を浮かべ溜息交じりにレンが言う。あれ、顔に出ていたのか?

「先も言ったが、精霊は契約を結ぶことにより成長すると言っただろう。光の球みたいだった精霊が、成長することによって精霊の望む姿になる。人だったり、獣だったりとな」

「レンの精霊はどんな姿しているんだ?」

「まだ私の精霊は球の状態だな。どんな姿になるのか楽しみだ」

 そう言ってレンは視線を俺から逸らし、何もない所を愛おしそうに見ている。

「その精霊剣っての凄く気になるんだけど、見せてくれない?」

 精霊剣がどういうものが気になって聞いてみるが、レンは静かに首を振る。

「それは無理だな。この世界は精霊の力が極端に弱くなっているようだ。私と契約を結んでいる精霊も姿を保つ事は出来ぬようで、そんな状態では剣は出せん。だからこそ、これを代わりに持っている。精霊剣の代わりにしては頼りないのだがな」

 そう言ってレンはソファーに立て掛けてある剣を叩く。

 あの剣は本物かよ。そして、何もない所を見ていたのはもしかしてレンの精霊がそこに居るのだろうか。

「さて、人間族は聞いて解るとおりクッキー達と同じ種族よ。とはいってもこれじゃ解りづらいわね」

「え、そうなのか? 人間は人間じゃないか? 確かに魔法を使ったりとか精霊と意思疎通を図ったりできないだけの種族……あれこう考えると人間ってかなり脆弱な種族なんじゃ?」

 フーコメリアはクスリと笑うと指を顔の前で振る。いわゆる『チッチッチッ……』ってやつだ。仕草が可愛すぎる事は言うまでもない。

「いいえ、人間ってのは一番不思議な種族なのよ。私達にも個体差……生まれ持った魔力の大きさとかそういうのはあるけれど、人間は更にそれが顕著なの」

「え、どういうこと?」

「魔力の大きな人間も居れば、精霊と意思疎通が出来る人間も居る。そしてその力はまれにその種族すらも凌駕するのよ。例えば魔族以上に魔力を持った人間とか、精霊と一心同体といって良いほどの相性をたたき出す人間とか……ねぇ?」

 フーコメリアはそう言ってレンに話を振る。あれ、今の流れってもしかして?

「レン……まさかお前って実は精霊族じゃなくて……」

 俺がそう問いかけるとレンは静かに首を振る。

「私ではなく、祖父レオ・クレックスがそうだ。人間族でありながら、精霊達の中で一番力の持っていた精霊と契約を交わした。祖父レオ・クレックスが英雄と呼ばれる所以の一つはそれだ」

 あれ、それってどういう事? レンのおじいさんは人間族で、レンは精霊族?

「……聞いちゃいけない事だったか?」

「何を言う、我々クレックスの名を持つ者はその事実を誇りにしている。中には混血がどうだと騒ぐ愚者も居るがそんなのはごく一部だ。多くの精霊族はレオ・クレックスという男が成した事を誇りに思っているからこそ、私や父を精霊族として認めていてくれる。いや……クレックスが特別ではない。他の種族であっても精霊と契約が出来る者が居ればそれは精霊族として迎えるだろう」

 色々と込み入った事情もあるようだが、なんとなくは精霊族がどんな考えを持っているかってのはわかった気がする。

「っと、すまん、話が逸れてしまったな。まぁ、そう言う様に人間族は他種族と違い様々な可能性を持った特殊な種族だ。だからクオンジクキ、お前も人間族であることに誇りを持つんだ」

「そうね、レンの言うとおり、人間族は無限の可能性を持つ種族よ」

 レンやフーコメリアにそう言われ、俺はなんとなく自分自身が誇らしく思えてきた。ありがとう父さん母さん、僕を人間に生んでくれて!

 あれ、なんか違う方向に感謝してる気がするが、まあいいか。

「さっき聞いた話だとまだ他にも種族居たよな、それについては?」

「まだあるにはあるのだけれど、必要な知識じゃないわね。クッキーが私達の世界に行くって言うのなら話は別だけど、とりあえず私に関わってきそうなのは魔族、精霊族、人間族の三種族ね」

 もう少し種族の事に聞きたかったのだが、記憶できるかは別問題。そう遠まわしに言われた気がして俺は言葉を引っ込めた。

 別に今急いで聞かずとも、気になったときに聞けば教えてくれるだろうし。

「一通りの話はこれですべてか?」

「ええ、気になることが出来たらまた聞けばいいだけだし、こんなものよね」

 フーコメリアも俺と同じ事を考えていたらしくそう答えると、話疲れたのか大きく伸びをする。俺は一部分に釘付けになっていたからこそレンがそーっとフーコメリアのグラスを手に取ろうとしている事に気が付くことが出来た。

 もしかして麦茶のおかわりが欲しいのかレンは。

 飲みかけのフーコメリアの麦茶を取ろうとしないで、おかわりが欲しいと言えば用意してやるのに。

 レンの行動に気が付いたフーコメリアはそのままグラスをレンの方に動かす。なんて優しい。

『久遠寺君、その人達と関わっちゃ駄目よ!』

 これからどうしようかと考え始めた矢先、声とともにベランダ側の戸が勢いよく開かれる。

「何者っ!」

 レンがそう言ってソファーに立て掛けられた剣に手を伸ばし、フーコメリアが身構える。

 ベランダには制服姿のツインテールの女の子が立っていた。

 女の子が着ている制服は紺色のブレザーにチェック柄のプリーツスカート。真っ白なYシャツの胸元には真っ赤な紐のリボンが結ばれている。

 嫌でも毎日目にしている俺の通う東小松高校の女子生徒の制服だ。

 そのツインテールの女の子には見覚えがある。同じクラスで『委員長』というあだ名のクラスメイト、春日野桜花だ。

 あだ名の由来は勿論「性格が委員長っぽい」からだ。本人はそのあだ名が気に入らないようだが、俺達は気にしてない。嫌も嫌よも好きのうちってね。

「委員長?」

「委員長じゃないって何度言ったら解るのよ、委員長はわたしでない事ぐらい知ってるでしょう!?」

 即座に委員長であることを否定する。この反応はまさしく委員長で、そっくりさんではないようだ。

「なに、クッキーの知り合いなの?」

 委員長を訝しげに見ていたフーコメリアが聞いてくる。

「おう、クラスメイトだ」

 フーコメリアの質問に答えるとベランダに立ちつくしたままの委員長を家の中に招き入れ、席を立つ。

 レンがまだお茶を物欲しそうにしているし、レンに飲み尽されたフーコメリアの分も用意しなければならない。

 三人分用意するのも四人分用意するのも手間はほとんど変わらない。委員長のお茶も用意して三人にお茶を配る。

「あ、悪いわね、気を使わせちゃったみたいで」

 お茶を受け取った委員長はそう言いながら麦茶を一口飲む。

「……ってこうしている場合じゃないのよぉぉっ!? てかスルー!? 普通「どういう事?」とか少しは疑問が浮かぶでしょ!?」

 麦茶をテーブルに置いて声を荒げる委員長。ツインテールが勢いよく揺れる。委員長の心情とリンクしているような激しい動きだ。

 声を荒げた理由は麦茶が口に合わなかったからだろうか。

 俺は濃い味が好きだから濃いめに麦茶を作ってるのだがな。そうか、委員長はもう少し薄い味の方が好みなのか。

「すまん、委員長……家には濃い味の麦茶しかないんだ。口に合わなくて申し訳ない」

「いや、気にしないでいいわよ。わたしも麦茶は濃い味の方が好きだし。風味が強いわね、これどこのメーカーの?」

 委員長は麦茶を見ながら俺にどこのメーカーの販売している麦茶か聞いてくる。麦茶の味が口に合わなくて声を荒げたわけではないようだ。だとしたら何故?

「あぁ、それは駅前のスーパーに置いてある大容量……」

「違う、違うわ! 麦茶の味を気にするよりも、もっと気にする事があるでしょ、久遠寺君!」

 メーカーが解らなく、売っている場所を教えようとした俺を委員長の声が遮る。

 麦茶よりももっと気にする事? おぉ、そういえばそうだな。

「委員長、どうやってベランダまで登ったんだ? 二階まで外から登る方法を教えてくれないか。結構便利そうだな。もしかして蜘蛛男?」

「下から登るなんて出来るはずないじゃない。横の部屋から来たのよ。って、違う、違うわ、久遠寺君! もう少しでわたしが聞いてほしい事にたどり着けそうなの、がんばって考えて!」

 ゴールまではもう少しか。考えろ、考えるんだ、俺。麦茶でも蜘蛛男でもなくて、委員長に関わること……。

「ふ、二人と関わっちゃいけないって一体どういう事……だ?」

 今までの委員長との会話を思い出しつつ、恐る恐る問いかけると、委員長は満面の笑みで頷いた。

「それよ、それ! 久遠寺君、この二人と関わっちゃ駄目なの、いい?」

 ツインテールを揺らしながら委員長が数学の公式を教えるような調子で言う。

「まるで先が見えるかのような物言いね。何か根拠でもあるのかしら?」

 俺が委員長に聞く前にフーコメリアが俺の言いたかった事を代弁する。

 委員長にフーコメリアが問いかけると、委員長は言い辛いことでもあるのか、言葉を濁し始める。

「根拠などないではないか」

 委員長の態度を見たレンはそう言って麦茶を口に運ぶ。そんなにがぶがぶ飲んでトイレ行きたくなっても知らねぇぞ。

「あ、あるにはあるんだけど……その、笑わないで聞いてくれる?」

 人差し指と人差し指を擦り合わせ、もじもじと恥ずかしそうに委員長が口を開く。

「約束はできないけど、極力笑わないよう努力するわ」

 フーコメリアは煮え切らない態度の委員長に話の続きを促す。

「い、言いたくないけど言わなきゃ信じてもらえないし、ええい、覚悟を決めなきゃ!」

 委員長は自分に言い聞かせるようにそう呟くと、自身を落ち着けるためか深呼吸を二度繰り返し、俺達三人を見つめて口を開いた。

「わたし、人の未来が見えるの!」

 委員長のカミングアウトに目を丸くする俺達。リビングを沈黙が支配すること三秒。

「ぶっ、うはははは!」

「く、クオンジクキこれ、笑うでない! ぶふふふっ……」

「そ、そういうレンだって……くく……」

 リビングを盛大な笑い声や押し殺したような笑い声が支配する。無理、笑わないで聞いてくれなんて言われてもこれは無理。

 俺とレンは互いの腕を肘で小突く事で必死に噴出しそうになるのを堪えているぐらいだ。

「努力の欠片も感じられない反応よねぇ!」

 委員長は顔を真っ赤にして声を荒げた。

 しょうがないじゃないか。いきなり委員長が人の未来が見えるなんて突拍子もないことを口にするんだから。それを真面目な顔で言われて、笑うなって言う方が無理だ。これなら、話を盗み聞きしてて危ないと思ったって言われた方がまだ笑わなかったぞ。

「いやぁ、良いギャグセンスだ、委員長」

「ギャグじゃないんだって、信じてよ!」

 なんとか俺達に信じてもらおうと、委員長は何度も本当だ、信じてと言う。そんな事を言われても無理なもんは無理。

「言葉だけではそうそう信じられるものじゃないからな……」

 レンは呆れ気味に委員長に言う。

「そうね……未来が見えると言うのなら、これからすぐ起こる事を三つ予言して頂戴。そのうちの二つが見事的中したら信じなくはないけど?」

「いいけど……二つ当たれば信じてくれるのよね」

 委員長はそう言うとじっと俺達三人の顔を見つめ始める。

 その視線は顔全体を見るというよりも目を見ているといった感じだ。

「ッ!」

 委員長が短い悲鳴のようなものを上げ、身を竦ませる。

「どうした、委員長?」

 瞬きを繰り返す委員長の顔を覗き込むと、委員長は俺の肩を強く叩いて身構える。

「いや、変態! 久遠寺君……見損なったわ!」

「えぇ、なにその反応!?」

 心配して顔を覗き込む事は変態行為なのか。心配しただけなのに見損なわれるって、かなりショックだぞ。

「で、未来は見えたの?」

 フーコメリアが委員長に問いかけると、委員長は戸惑い気味に頷いた。

「み、見えたのは見えたけど……言わなきゃ駄目?」

「当然だろ、お前だけ知っていて、「あ、こんな未来になるの見えてたわ!」なんて言ったところで私は信じないからな」

 レンの言葉を聞いて諦めたように委員長はため息をつくと、未来予知を口にしようとするが、フーコメリアの名前が解らないらしく、言い淀む。

「私はフーコメリアよ。で、こっちのがレン・クレックス」

 フーコメリアが委員長の態度で事情を察し、自分とレンを指差して順番に名前を説明する。

「ありがとう、フーコメリアさん。わたしは春日野桜花って言います」

「ぷっ、カスガノオーカ……なんか丘の名前みたいだな」

 委員長の名前を聞いてレンがまた吹き出す。ほんと、何が面白いんだか。いや、確かに繋げてみるとカスガノオーカ。確かに丘っぽいが。

「気にするな、委員長。こいつの笑いのツボはどこか変なんだ」

 委員長が気を悪くしないようにフォローを入れると、委員長は戸惑った様子で頷いた。

 何となく委員長の態度が余所余所しくなった気がするのは気のせいだろうか。

「じゃあ言うわね……今から八分後、十七時三十三分、久遠寺君がフーコメリアさんの胸を揉む。それから四分後、十七時三十七分……久遠寺君がレンちゃんを押し倒すような形でキスをする。それから三分後十七時四十分、久遠寺君がその……わたしのスカートの中に顔を突っ込む……」

 予言を言いながら段々と顔を真っ赤にしていく委員長。

「ちょっと待てーい! なにそれ、なんで未来の俺そんな犯罪まがいな事やってんの!?」

 これは突っ込まずにはいられない。どう贔屓目に見ても変質者としか言いようがない。

「知らないわよ、見えちゃったんだからしょうがないじゃない!」

 声を荒げ泣きそうな表情で語気を荒げながら言う委員長。逆ギレか? いきなり変態扱いされた俺の方がキレたいよ。

「フーコメリア達はどうなんだ、こんな未来信じられるか?」

 たまらずフーコメリア達に意見を聞こうとしたが、フーコメリアは苦笑を浮かべ、首を横に振る。

 レンは委員長の言った予言の意味の中に解らない単語が混じっていたのだろう、いまいち理解できてない様子だ。

「今からなにをどうやったらそんな面白い状況になるか知りたいぐらいよ。レン……キスは口付け。スカートはレンとか桜花ちゃんが穿いているヒラヒラした布の事よ」

 レンに説明を付け加え、フーコメリアは壁に掛けてある時計に目をやる。

「く、口付けだと! なんで私がクオンジクキにそんな事をされなければならん! えぇい、寄るな、この破廉恥漢!」

 しっしと手で俺を追い払う仕草をするレン。安心しろ。フーコメリアの胸は別として、お前を押し倒してキスをしようなんざ、これっぽっちも考えてねぇから。

「壁掛け時計じゃ確かな時間が分らないな。テレビの時計でいいか」

 リビングの壁に取り付けている時計は細かい分が刻まれておらず、正確な時間を計るのは不可能だ。正確な時間を計るならアナログよりもデジタル時計の方は向いている。

 テレビの電源を入れると、画面左上に現在の時間を表示しているローカル番組が映し出された。

「あっ……」

 電源を入れた途端、委員長が声を上げる。

「なんだよ、委員長……テレビ消してなきゃ駄目か?」

「そう言うわけじゃないけど……」

 委員長は眉間にしわを寄せて画面を見つめている。もしかして画面に映っているレポーターが嫌いなんだろうか。

 そうだとすれば俺は委員長と戦わなければならない。彼の喋りは独特で面白いというのに。そんな彼を喋り方がムカつくと言う心ない輩を俺は許せない。

「とりあえず時間が来るまで待機だな。最初は三十三分。今から約七分後ぐらいだな」

 左上に表示されている時計を見て、あと七分後にフーコメリアの胸を揉めるのかと一人期待に胸を躍らせる。い、いや、未来予知なんて信じてないんだけどな!

 ローカル番組はデパ地下のデザート特集をやっているようで、思わず食べたいなぁと思えるようなデザートが紹介されている。

「へぇ、これがテレビね……知ってはいたけど実際に見ると違うわね。まるで目の前にその場所があるみたい」

 フーコメリアは感心した様子で、四十二型の薄型の液晶テレビを眺めている。

「なんだこれは……むぅ、どうなっておるのだ!」

 レンはそう言って液晶画面を指で触る。

 それだけはやめてくれ、レン。触った部分が一瞬だけ周囲の色よりも暗くなるし、画面に指紋が付く。

「やめろ、それは遠くの映像を映しているだけだ。実際に触ろうとしても触れない」

「そ、そうなのか……てっきりこの中に入っているものかと思ったぞ……」

 残念そうにテレビから離れると、ソファーに腰掛け、口を開いたままテレビ画面を見つめるレン。口は閉じよう。アホの子に見えるから。

「しかし、フーコメリア。今俺に唐突に胸を揉まれたい衝動とかあるか?」

「まさか。発情期でもあるまいし。これに私を興奮させる薬が入っているのなら話は別だけど」

 フーコメリアは麦茶の入ったグラスを揺らしながらそう答える。

 麦茶には何もいれていない。というよりそんな薬なんて持ってないし。

 レンがテレビを眺め大騒ぎしながら刻々と最初の予言の時間が近付く。

「……委員長。予言外れたな。そもそも今日出会ったばかりの奴の胸を揉むなんて常識的に考えておかしいって。俺そんなに悶々としてないし」

 時刻が三十二分を示している。この調子ならば委員長の第一の予言は外れるだろう。

 そもそも、予言の内容自体がおかしいし。そんなシチュエーションに遭う事が出来るのならば俺は額を隠している前髪を切ろう。

「レン、またお茶飲み干したか。またいるか?」

「うーん、水ばかりでは少々口寂しい。なにか口にできるものはないのか?」

 確か戸棚の中に煎餅が残っていたはずだ。

 麦茶のおかわりと煎餅を取って来ようと席を立つ。

「ちょっと、久遠寺君! 今、動いちゃ危ないって!」

 委員長が慌てて俺のシャツの裾を掴む。

「ちょ、危なっ……」

 ソファーに座らせようとしたのか、かなり力強く裾を引っ張られたようで、思わずグラスを手放してしまった。

 慌ててグラスに手を伸ばしなんとか右手でグラスは掴んだものの、バランスを崩しソファーに倒れてしまう。

「なにすんだよ、委員長……」

 ろくに受け身も取れずにソファーに倒れこんだのだが、思いの外痛みはない。

 柔らかいものがクッションになってくれたおかげで胸部や鼻をソファーで強打するのを避けられた。

「ちょっと、クッキー、重い……」

 頭の上からフーコメリアの声。クッションになった柔らかいものの正体が解った。

 委員長に引っ張られ、バランスを崩した俺はそのままフーコメリアの座っている方へと倒れてしまった。そう、柔らかいクッションはフーコメリアだった。

「わ、悪い!」

 すぐさま立ち上がろうとグラスを持ってない左手に力を入れ、身体を起こそうとするが、

「ちょ、クッキー……」

 左手に広がる柔らかい感触。ソファーの背もたれよりも更に柔らかい。

 視線を左手の掴んでいるものに向けると、左手はしっかりとフーコメリアの胸を掴んでいた。それも鷲掴み。

 ちらりとテレビに視線を移すと、十七時三十三分。これは委員長の未来予知が一つ当たった事になるのか?

「ちょっと、クッキー……手、動かさないで……」

 右手には強弱をつけた優しい感触。あぁ、なんて癒される。

 時速八十キロで走る車から手を出せば、胸とほぼ同じような感触が味わえると聞くが、これが時速八十キロの感触なのか?

 八十キロと言えばイメージ的には危ない感じがするのだが、こんなにも幸せなものなのか、八十キロ。見直したぞ。

「いつまでそうしてるのよ、早く離れなさいよ、久遠寺君!」

 襟を委員長が掴んでフーコメリアに密着している俺の身体を引き離す。

「ふ、フーコメリアすまん!」

 身体が離れた事で視界にしっかりと胸を掴んでいる俺の手が見えて、ようやく悪い事をしていると思い左手をフーコメリアから離す。

 リビングには妙な空気が支配する。これは事故だ事故。決して意図的に行ったんではない。様々な要因が積み重なりこんな悲劇を生んでしまったのだ。

「これは予言通り……なのか?」

 雰囲気に耐えられなくなり少しでも雰囲気を変えるために口を開く。

「結果論から言うとそうね……」

 フーコメリアは少し乱れた衣服を直しもみあげを指に巻きながら苦笑いを浮かべる。

 過程がどうであれ、結果的には俺がフーコメリアの胸を揉むという事実は変わらない。

 あれ、と言う事は俺は前髪を切らなくてはいけないのか?

 いや、無理。前髪を切ったなら俺のあだ名は『クッキー』から『デコハゲ』にシフトチェンジしてしまう。そんなあだ名嫌だ。絶対泣いてしまう。

「く、クオンジクキ! つ、次は私の唇を虎視眈々と狙っているのか!?」

 急にレンの怒鳴り声が聞こえてくる。一体なにを言っているんだこいつは。

「いや、なにを……」

 俺が問いかけるよりも早く、レンが俺に飛びかかってくる。

「く、口付けは将来を誓い合った者同士で行う行為だ、私はお前と将来を誓い合おうとは思わぬ、自らの唇を守るためにお前を打倒してくれる!」

「ちょ、ま……俺……話を……」

 レンは俺の話なんて聞こうともしない。左右の襟をしっかりと掴んで小柄の身体に似合わない馬鹿力で俺の頭を強く揺さぶる。

「ちょっと、レン! やりすぎよ極まっているわ!」

 揺れる視界の隅で慌ててフーコメリアがレンを止めようとしている姿が見える。

 レンは頭を揺らしているだけのように思っているかもしれないが、レンはYシャツの襟で間接的に俺の首を絞めている状態だ。

「なにがやり過ぎなものか! クキの息遣いをみろ、先ほどよりも荒くなっているだろう。息が荒くなるほどこいつは興奮している証拠ではないか! 今頭の中でどうやって私の唇を奪うか考えているんだろう!」

 最初は耐えていたのだが、満足に呼吸ができない状態が続くと俺の息も荒くなってきている。それをレンは興奮していると勘違いして更に力を強める。

 お前は馬鹿か。俺は痛い思いをして気持ちイイなんて思えるような人間じゃない。

 本気で酸素が足りてないから、より多くの酸素を得ようとしているだけだろ。

「ええい、止めるなフーコメリア、これは……」

 レンがフーコメリアに何か話しているがその内容が理解できないほど俺には酸素が足りていない。このままじゃマジで絞め落とされかねん。

「い……いい加減に……しろぉっ!」

 レンの小さい両手を右手で掴み、左手でレンの身体を押す。俺が出来る精一杯の抵抗だ。

「うわっ!」

 レンの短い悲鳴が聞こえる。

 身体からレンを引き剝がす事に成功したのだが、レンは勢いよく後ろに倒れようとしている。

 このままでは床に強く頭を打ち付ける形になりそうだ。

「危ねぇ!」

 酸素のありがたみをかみしめる暇もなく、咄嗟にレンの頭をかばうように手を伸ばす。

 なんとか頭を掴む事は出来たが、後ろに倒れようとする勢いを止められずに、俺もレンに覆いかぶさるように倒れてしまう。

 顔面に強い衝撃。顔を堅いものにぶつけたようで、唇を切ってしまったのか、口の中に鉄の味が広がる。

「むーーっ、むーーっ!」

 レンの口を噤んだような声が顔の下から聞こえてくる。

 恐る恐る目を開けるとレンの顔が俺の顔と触れあいそうな……いやすでに触れあっている位置にある。

 唇にはレンの呻き声の震動が伝わってくる。

「三十七分……クッキーが押し倒すような形でレンにキスをする……当たったわね」

 感心した様子のフーコメリアの声。慌てて顔を上げ、時計を確認。十七時三十七分。

「れ、レン、大丈夫か?」

 レンの頭部を右手で抱えるように掴むことが出来たから強く頭を床にぶつける事は避けられたのだが、別の所を強く打ち付けたのではないかと、反応のないレンを心配して声を掛ける。

 だが、レンは心あらずといった様子でぽーっと天井を見つめている。

「れ、レン?」

「痛かった……や、柔らかかった……」

 なにが?

 レンの顔の前で手を振るが、反応はない。レンは自分の唇を人差し指でぷにぷにと触っている。

「って、なにをするか貴様っ!」

 レンががばっと起き上がると俺のYシャツの襟に手を伸ばす。

「いや、今のはどう見ても不可抗力よ……それにどちらかが悪いと言うのなら、ハッキリ言ってレンの方に責任があるわ……」

 フーコメリアがそうレンを諭すと、レンは「うぅ……」っとうめき声をあげてソファーにどんよりとした様子で座り直す。

 あまりの落ち込みように今のはノーカウントなんて言えそうにもない。

 レンの様子から今のがファーストキスだったんだろう。ファーストキスと言うのなら俺もそうだが。

 つか、誰だファーストキスがレモンの味とか言った奴は。鉄の味だったぞ、おい。

「三つ中二つ的中……」

 フーコメリアがどうしたものかとレンと俺に視線を向け、顎に手を当て考え始める。

「ど、どう? 未来が見えるって話は嘘みたいだけど本当なのよ! それで、フーコメリアさんやレンちゃんに久遠寺君が関わると大変な事が起こるって見えたんだから!」

 これ幸いにと委員長が一気にまくしたてる。

「ちょっと待て、先ほどから思っていたのだが、なんでフーコメリアが「さん」で私が「ちゃん」なのだ?」

「いや、だってレンちゃんのその身長で考えると、いいとこ十三歳ぐらいでしょう?」

 踏んだ、確実に地雷を踏んだぞ、委員長。

「私は十七だぁぁっ!」

 レンはソファーから飛びあがると委員長のYシャツの襟を掴み掛り、俺と同じように頭を揺さぶろうとしている。

 俺はまだ身体が頑丈な方なのでレンの攻撃に耐えることが出来たが、委員長は耐えれるか解らない。

 フーコメリアもそれに気が付いたようで慌ててレンの腕を押えに入る。

「待てレン、落ちつけ! 今しがたそれで痛い目に遭っただろう、なにを言われても受け流せるほどの広い心を持つべきだ!」

 委員長を庇うようにレンと委員長の間に割って入り、なんとかレンをなだめようとするが、かなり気にしていると思われる身長の事を言われたレンの怒りは収まらない。

「私は十七なんだ、この背丈でも十七年生きているんだぁ!」

 でこピン一発でもされれば号泣しそうなほど、目に涙を溜めてレンは叫ぶ。

 レンの叫びは悲痛で委員長もバツの悪そうな表情を浮かべている。

「いい加減落ちつけよ、ソファーの上で暴れるな!」

 俺とフーコメリアの二人掛でレンを押さえつけているのだが、レンの小柄な身体のどこからこんな力を出せるんだと思うような力で暴れていて、手を振りほどかれないようにするだけで精一杯だ。

「謝る、謝るから落ち着い……きゃぁっ!」

 委員長がレンに対し謝罪の言葉を述べようとしたのだが、座り直そうとしたところ、勢い余ってソファーからずり落ちてしまう。

 当然、委員長に密着するようにしてレンを止めていた俺も巻き込まれる形となり、そのまま床へとダイブ。

 床に倒れこんだ俺がいったいどんな態勢で居るのかまったく想像がつかない。

 自身の感覚からは、右足が高く上がっていたり、左手にはソファーの上にあったり、右肩と額は床と熱い抱擁を行っていたりと、相当愉快な格好である事は確かだ。

「お、おい……大丈夫か?」

 レンの声が聞こえてきて、咄嗟に閉じていた目を開けると目前にはフローリングの溝が映った。委員長の制服が俺の顔に覆いかぶさっているのか、かなり薄暗い。

 最近掃除の手を抜いていたからか、砂のようなものが溝に挟まっているのをドアップで確認できた。今週の日曜日には気合いを入れて掃除しようか。

「ちょっとクッキー……今、凄い音したけど頭大丈夫?」

「だいじょーうだ……」

 床に顔面を付けた状態では喋り難い。顔を持ち上げるようにしてもう一度、何ともない事を伝えようと口を開く。

「大丈夫だ、何ともない」

「ちょ、息が……太ももに!」

 委員長のくすぐったそうな声が聞こえたかと思ったら、薄暗い視界の中で俺の顔を柔らかい物体が左右から挟み込む。

「ぬわ、なんだこりゃぁ!?」

 妙にぷにぷにしていてかつ、すべすべ。そして人肌みたいに温かい。

なんだこの物体は。異星人の侵略でも始まったのか?

「喋らないで……い、息が……」

 俺の顔を挟み込む物体の力が更に強まる。

「はな……はながつうれる……」

 片方の物体が鼻と唇を圧迫し上手く言葉を喋れない。

「だから喋らないでって!」

 上から頭を押さえつけられる。布越しであるがこれは手だろうか?

 じゃあ俺を挟み込んでいる左右の物体は一体……?

 薄暗い視界の中、闇の奥に存在するデルタゾーンを俺は目撃した。

 最初は一体なんなのかよく解らなかったが、目を凝らして見ると、ちらりと見えるだけで幸せな気分になれるデルタゾーンであると理解できた。

 デルタゾーンからまっすぐに伸びる二つの物体は太もも。

 そう、俺の顔は今太ももにプレスされている状態なんだ。つうことは、俺は今委員長のスカートの中に顔を突っ込んでいる状態なのか? これはまずい、俺としてはもう少しこうしていたいのだが、早く脱出しなければなんて言われるか解らんぞ。

「ぬぐっ……」

「ちょ、動かないで! 髪の毛が……んっ!」

 殺せ、煩悩を殺せ。

 委員長の悩ましげな声をなるべく気にしないように、首に力を入れて一気に顔を太ももから引き抜く。

 ばっと、スカートの中から頭を出すと周囲がやけに明るい気がした。そして以外にスカートの中は温かかった。まだ顔が火照っているし。

「ふう、すまなかった委員長……これは事故だ。犬にでも噛まれたと思って忘れてくれ」

 委員長に誠意を込めて謝り頭を下げる。

「こんなの犬に噛まれたぐらいじゃ済まないわよ、馬鹿ぁぁっ!」

 委員長は顔を真っ赤にしてツインテールを揺らしながら、脱兎の如くリビングから出て行った。

「……」

 と、思ったらもう一度リビングに戻ってきて、ベランダに置いてあった自分の靴を手に取るとまたリビングから出て行ってしまった。

 そういえばベランダから登場したからな。そりゃ玄関に靴はないよな。

 ガチャンと金属製の扉の閉まる音を聞きながらそんな事を考えていた。

「……一体なんだったの、彼女?」

『さぁ……?』

 フーコメリアは不思議そうに委員長がなにをしたかったのか俺とレンに聞いてきたが、俺とレンは揃って首を傾げるだけだった。

「と、とりあえず、少しの間だけお世話になるわ、クッキー」

 委員長の事は極力気にしないようにフーコメリアは話を進める。

 俺も委員長の事は今は極力考えないでおこう。

 それにしても痛くもあったが、なかなか良い経験をさせてもらったなぁ。三人には少し悪い気もするけど。

「うむ、こ、今回の口付けは事故としてなかった事にするが……次同じような事をしようとすれば容赦なく叩き斬るからな」

 レンは顔を真っ赤にしながらモゴモゴと口付けの所だけを小さく言うと、大きな瞳で俺を睨みつける。

「え? お、お前もか?」

 今のレンの口ぶりからすればレンも暮らすと言っている事になる。

「は、破廉恥なお前がフーコメリアに妙な事をせぬか、見張っておくためだ。それに私だけ先に戻るわけにもいかんからな。体裁上としては説得しているという事にしておかなければ」

 一気に捲くしたてると、レンはふんぞり返ってポニーテールを揺らしながらふふんっと鼻を鳴らした。

 事故だと言っているだろうに。なにを言っても聞き入れてくれそうにないがな。

 なんだかなぁ……そう思いつつも、二人との共同生活が始まった。



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