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出かけた先は少年の住むバラック。周りに住むのは罪人や、罪には問われなかったもののかつての居住には戻れない、少年と似たような人間達が住んでいて、治安はとても悪い地域。そこに赴く事はとても恐ろしかったが、目的を果たすことさえできればそれでよかったし、何より魅霞には時間がなかった。
少年がこの地域を離れてしまう事も勿論そうだが、発症してしまっていたら死ぬのは時間の問題だ。どうしても魅霞の手で引導を渡してやりたかった。それに何より、少年が老婆たちの様に優しくなって罪を悔い改めて謝罪するような姿を見たくはなかった。少年が心から悔い改めてそう言うなら聞き入れもしようが、病に浮かされて病によって出てくる言葉など聞きたくもなかった。それほど魅霞にとって、少年が病にかかろうが一切の同情の余地はなかったのだ。
が、覗き込む窓の内側は、魅霞の予想に反した光景が広がっていた。部屋の中を埋め尽くす仏像や護符、数珠を握った手を合わせて大きな仏像に少年が祈りを捧げている。蝋燭の炎に照らされたためか少年の顔色は悪いわけでもなく、優しくなってしまった病人たちから奪ったであろう空の財布が仏像の隙間にいくつも転がっていた。
魅霞の黒い瞳に映る蝋燭の炎が、一際燃え盛った。その瞳の中で燃え上がる炎は姿を変えて、魅霞の瞳と脳の中で激しく暴れのた打ち回る。
救いを求めるというの、水萌をあんな目に遭わせておきながら。こんな人でも救われるというの、水萌は救われなかったのに。
その光景は魅霞の復讐心を更に炎上させるには十分で、また神を呪うには十分すぎた。
少年の姿は、魅霞にはあまりにも悔しかった。悔しさのあまり泣きたくもなかったのに涙が出た。泣いてその場を走り去って、アパートに戻り老婆に泣きついた。
「酷い、酷いよ。神様は酷い。どうしてあんな奴が救われるの。どうしてあんな奴を救うのに、ミナちゃんを救ってくれなかったの」
泣きつく魅霞の髪を撫でて、老婆が諭すように言った。
「神様って言うのはね、本当はね、誰も救いはしないよ。誰でも救うように見えるけどね、本当は沈黙して何もしないんだよ。ただ傍にいて見ているだけだよ。一緒に苦しんだなんて、神様は言うんだろうけどね。世界って言うのは理不尽で、神様って言うのは残酷なんだよ」
神に問う。信頼は罪なりや。
果たして、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや。
神に問う。無抵抗は罪なりや?
その問いかけを幾度も魅霞は神にしてきた。その返答はいつも帰って来なくて――――あぁ、沈黙しているのだ、と。
神はいつも沈黙している。この世界は残酷な神が支配している。
ならば世界も神も棄てるしかないではないか、自分の世界で生きて行かなければ、無垢な信頼は裏切られてしまうから。
それから数日後、やはり神は信頼を裏切る。もう少しだけ頑張ると言っていたのに、老婆は容体が急変した。泣き縋る魅霞に老婆は震える手を伸ばして、息も絶え絶えに言った。
「指輪……魅霞に、あげるよ。あたしの事を、忘れないでおくれ」
泣きながらひたすらに頷いて、忘れないと約束する事しかできないことが、とても悲しかった。
震える指先から指輪を受け取ると、老婆はそれに安心したように静かに息を引き取った。
役所に連絡をして、老婆が残していたお金で小さなお葬式を開いた。アパートの人たちも老婆の死を悼んで、恐らく次は自分の番なのだろうと、先に逝った老婆の後を追いかける支度をしたいと魅霞に言い始めて、魅霞は一層悲嘆に暮れた。
「なんで、どうしてみんな死ぬって言うの」
泣きながら訴えてはみたものの、発症した以上は死は確定している。今更どうにもならないことを魅霞も知っている――――それでも。
「魅霞、ゴメンね。魅霞を悲しませたいわけじゃないのよ。だけど……」
「俺達はもう生きるのに疲れたから、いいんだ」
「いいんだよ」
「いいのよ」
「いいんじゃよ」
もう、いい。
その言葉はこの町で、毎日聞こえてくる諦観の合唱。
「最後に魅霞に出会えたから、それで満足。どうか、忘れないでね」
ただ彼らの諦めを受け入れて、ただ彼らの優しさに涙して、ただ彼らを忘れないと約束する事しかできない自分が、悲しかった。
神に問う。信頼は罪なりや。
果たして、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや。
神に問う。無抵抗は罪なりや?
いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
理解するには早すぎる14歳と言う年齢で、魅霞は太宰の言った言葉を、痛いほどに理解した。