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魅霞は家出して、逃亡した少年の後を追った。そしてダニエルと出会って、人間であることを放棄したその時から、運命が変わった。
水萌が死んで半年が経過し、魅霞は14歳になった。魅霞が辿り着いた地域は「諦観者の箱庭」と呼ばれていた。そこに住む人達は生きる事や祈る事をやめてしまった人や、一度でも犯罪を犯し裁きを受けた者達が住んでいる。この国は平和であることが当たり前なので、一度でもどれほど軽度でもいかなる理由があれど、犯罪を犯した者は社会的には人間として見られることはなくなる。雇ってくれる所などありはしないし、金も家も借りることは不可能だ。その事は子供に至るまで周知の事実で、犯罪を犯す者はある程度人生を棒に振る覚悟は決めている。「諦観者の箱庭」は、人間であることを放棄した、あるいはそうせざるを得なくなった人たちの溜り場なのだ。
だが、たまり場である為に犯罪の温床でもある。悪い人間たちが徒党を組んで新たな犯罪を起こす可能性は高い。しかしながら、政府としても不穏分子が一塊になっていた方が監視はしやすい。このあたりの地域は常に衛星や街頭カメラによって監視されており、近くには警察や消防の詰所もある。
魅霞は家出をしてから、諦観者の箱庭でエンジェルが発症してしまった人々と共に暮らしていた。最初に出会った老婆は70歳くらいで、寂れた公園で鳩に餌をやっていた。
老婆が鳩に餌をやりながら涙を零すので、傍に寄って話を聞くと、子供も孫も出来たが、交通事故で娘の家族が死んでしまった。だからもういいのだと言って、祈ることをやめた。それを聞いて魅霞は自分も独りぼっちなのだと言って、老婆と生活を共にするようになった。老婆の住むアパートにはそう言った人たちが老若男女問わず多くいて、彼らが年金や貯金を全部魅霞に渡してくれるものだから、老婆を初めとしてアパートの人たちの看護をしながら少年を探した。
アパートの住人達はみんな魅霞に優しい。ウイルスの影響もあってか、誰もが優しくて魅霞に礼を言って褒めてくれる。魅霞が手を滑らせてご飯をこぼしてしまっても、お風呂のお湯の温度が熱くても、いいのよ、いいんだよ、いつもありがとうね。そう言って何をしても許してくれる。
ただ死を待つだけの彼らが、ただひたすらに優しくなっていく事がとても悲しかった。だがエンジェルの効果は善人になるというだけではなく、世界平和の為に悪を淘汰する思想が生まれると言う作用を持ち合わせている。その為に魅霞の家出の理由を知った彼らは、魅霞の敵討ちを応援してくれた。
「悪い奴はやっつけなきゃいけないよ」
「魅霞、頑張れよ」
そう言って、見舞いに来た人たちにまで聞き込みをしてくれたりして、お陰で少年を見つけ出すことが出来た。
「ヴェロニカばあちゃん」
少年の元に行く決意を決めて、老婆の皺だらけの手を取った。既に白濁した、盲いためし瞳を向けた老婆は魅霞の手の上に温かく、大きなルビーの指輪が輝く手を重ねて、優しく微笑んだ。
「気を付けて行ってくるんだよ。ミハイルのとこの倅と一緒に行きなさい。一人だと危ないからね」
最後まで優しい老婆の笑顔に、涙が出た。
ヴェロニカばあちゃん、もうさよならなの。あたしは帰って来れないの。アイツを殺したら警察に自首するから、あたしは死刑になるから。
老婆の笑顔を見ていると、その言葉を言う事がとても辛くてなかなか言い出せずにいた。すると老婆はルビーの指輪がはまった手を離して、少し宙を探る様にして、ようやく見つけた魅霞の頬を撫でた。
「魅霞はいい子だね。あたしみたいな年寄りにも優しくしてくれて、魅霞に出会えると知っていたら、祈るのをやめたりなんかしなかったのにねぇ」
孫が帰ってきたようで嬉しかったんだよ、そう言って笑う老婆の笑顔にまた涙が零れた。
「ヴェロニカばあちゃん、もう少し長生きして。あたしまだここにいるから」
堪らず涙が溢れてきてしゃくりあげながらそう言うと、老婆は頬を撫でながら涙を拭ってくれた。
「魅霞がそう言うんなら、もうちょっと頑張ろうかねぇ。じゃぁ魅霞も、死んだりしちゃいけないよ。世の中にはねぇ、死にたくても死ねない人もいるんだからね」
そう言うと老婆は手を離して、そっと指輪を引き抜くと魅霞に差し出した。それを受け取ると、老婆はまた微笑んで言った。
「台座がね、ロケットになっているんだよ。開けてごらん」
言われて見て見ると、台座と指輪の付け根が開くようになっていた。中から出てきた写真は、金髪の30代くらいの女性と赤毛の20代半ばの男性が映っていた。女性は面影があったので、若い頃の老婆だろうという事は察しがついた。
「この人はヴェロニカばあちゃんの旦那さん?」
「いんや、友達だよ。この人とは魅霞くらいの年ごろからの友達でねぇ」
「へぇ……」
「最後に会ったのはもう20年以上前かねぇ。どこで何をしているやら知らないんだけどね」
そう言って老婆は、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「出会ってから最後に会った時まで、全然姿形が変わらなくてねぇ。死んでない事だけは確かなんだよ」
思わず目を見開いて、写真を見ていた視線を老婆に向けた。
「うそ」
「本当だよ。その人は人間じゃなかったからね。ウチの裏の森の廃屋に住んでたのさ、ずーっとね」
ずぅっと昔からそこに住んでいて、たまにある怪異の原因がその男性であることを知ったのは結婚して家を出てから。人に会いたくはないと彼は言っていたけど、とても寂しそうにしていた。だから彼は老婆を手にかける様な事をしなかった。
どこか懐かしむような顔をして、老婆が言った。
「その人は死なないからね、あたしみたいな友達が出来ても辛いだけさ。何度も友達の死に顔を見なきゃいけないからね。最後に顔を見て見たかったけど、どの道あたしにはもう何も見えはしないし、覚える死に顔が増えるのも可哀想だからね。生きたくても生きられない人もいれば、死にたくても死ねない人もいるもんだよ。あたしは死にたくて死ぬんだから、いいんだけどね」
言って老婆は少し可笑しそうに笑った。
「妹の敵討ちを頑張ってほしいって思うんだけどね、魅霞が死んでしまうのは嫌なんだよ……なんて、あたしは何を言ってるんだろうね。矛盾してるね」
そう言って老婆が笑う物だから、魅霞もつられて笑った。
そう言われて「じゃぁ敵討ちをやめる」という選択は魅霞には全くなくて、死ぬ事をやめることにした。
もっと老婆やアパートの人たちの傍にいたいという気持ちもあったが、そもそも魅霞がこの町にやって来たのは少年を追跡し殺害するためだ。その目的は完全に遂行したいと思っていたし、もたもたしていたら少年がまたどこかへ流れていくかもしれない、と思った。
「ヴェロニカばあちゃん、ちょっと出かけて来るね。ちゃんと帰ってくるから」
そう声をかけて指輪を返すと、老婆はそれを指にはめて魅霞を送り出した。
「気を付けるんだよ」
「うん、いってきます」
逝ってくるつもりだったがやめた。征って、帰ってこよう。せめて老婆を看取ってやりたいから。死ぬ事はいつでもできるから。