1-1
数百年前どこかのバカが悪魔に願ってしまった為に、人口が20億人にまで衰退した現在、世界は頑強な意志の元に統率されている。その意志とはどこかのバカが願った「世界平和」と並行して、「人間の健康的生存」を主軸としたものである。世界を支配する彼らもまた、人間の生存は死活問題であった。
支配者である彼らにとって人間は、文化的文明的にも大いなる役割を果たすものであり、また食料としても重要な存在だからだ。だが支配者階級にいる彼らが「人間ではない」事を知る人間は、ほんの一握りだけ。
どの道それを知ったところで処分されるだけの事であるし、何よりも彼らの目的が支配に留まっていない以上は、表面上世界は平和であった。
生き残っていた人間たちの中には、住んでいた土地を離れ人を求め、大陸に渡った者も多くいた。“ローエングリン”と呼ばれる広大な国、その中の日本人居住区に住む魅霞みか・小澤も、そんな一人。
魅霞がその人と出会ったのはまだ少し肌寒い春。
桜は日本人のこころだ。桜が嫌いな人はそうそういない。いたとしたら非国民と呼んでもいい。自分が純血の日本人であることを誇りに思う魅霞は、素直にそう思う。
薄紅の花弁が視界を覆った。梶井基次郎の小説ではこうある。
桜が薄いピンク色をしているのは、その下に死体が埋まっているから。
この桜が彼岸桜なら、あるいはそうなのかもしれない。視界を遮り、まるで呼吸すらも阻害されるような錯覚に陥る程の桜吹雪、桜の嵐。風が長い黒髪を攫さらうと、その髪に桜が纏わりつく。
「まるで、坂口安吾の小説みたい。桜の森の満開の下、一人なら平気。でも二人なら狂っちゃうんですって」
目の前の男性に微笑みかけた。
赤毛の首筋を覆う長髪、人ならぬ人の証、赤い瞳。雪のように白い肌は存在感さえ希薄にさせる。男性の無国籍な顔立ちに、畏怖すら覚える――――冷徹に感じるほどの美貌。
男性は一切表情を崩さない。驚いているでもなく訝しんでいるでもなく、ただその赤い瞳で見据えている。その瞳の中で様々な逡巡が駆け巡っているから、そう言った表情をしているのだろう、そう勝手に解釈した。
「あたしはずっと今日という日を待ってた。ずっとあなたに――――会いたかった」
ずっと待っていた。この時を待ちわびていた。この人と出会えることを。これはきっと運命、いや――――宿命だ。
男性が口を開いた。
「君は……僕を知っているのか?」
「知らないと言えば知らないんですけどぉ。コレをもらったんです」
そう言って右手を差し出した。彼はその手にはまった指輪を見て、気が抜けたかのように薄く瞼を瞑った。すぐに開かれたその双眸には僅かに悲哀を纏っているように見えたが、魅霞につられたように微笑む。
「……そうか。僕と来る?」
「いいんですか?」
男性は頷く。
「名は?」
「魅霞。魅霞・小澤です」
「そうか、魅霞。じゃぁ行こうか」
踵を返した男性を慌てて呼んだ。
「あの、名前」
男性は思い出したように苦笑して振り返った。
「僕はダニエル・ザイン=ヴィトゲンシュタイン・ルートヴィヒスブルク・フルトヴェングラー」
「長っ」
素直に感想を述べてしまった。慌てて口元に手をやってダニエルの様子を窺うと、案の定睨み下ろしている。瞳が赤いせいなのか、余計に怒気が籠っているように見えて怯んだ。
「あ、す、すいません……ダニエルさん」
思わず謝罪すると、ダニエルは小さく息を吐いてスタスタと歩きはじめてしまった。
「あ、ダニエルさん、ちょっと」
追いかけて後を着いていく。桜のトンネルは飽きる事もなく桜を降らせる。
まるで桜の下の死体たちが、二人の出会いを祝福しているかのように。
指輪が繋ぐ、新しい物語。