第八話:『残響の渓谷、あるいは感情のデフラグ』
北への道は、峻険な岩肌が剥き出しになった「残響の渓谷」へと差し掛かっていた。
ここは古くから、旅人が「過去の声」を聞いて正気を失うと言い伝えられる禁足地だ。だが、レンの瞳には、それが怪異などではないことが明白に映っていた。
「……空間のキャッシュが溢れているな。過去の事象データが適切にパージされず、岩壁の磁気記録として定着してしまっている」
レンの指摘通り、渓谷のあちこちで半透明の「残像」が明滅していた。
数百年前にここで倒れた戦士の叫び、別れを惜しむ恋人たちの抱擁。それらが壊れたホログラムのように、音を伴って再生され続けている。
「これ、は……アストレア家の記録にもある『嘆きのこだま』ですわ。でも、これほど濃密なものは見たことがありませんわ」
イリスが杖を構え、押し寄せる情報の奔流から精神を守ろうと身を固くする。
一方で、レンは無防備にそのノイズの中を歩いた。彼にとって、それらはもはや感情を揺さぶる「記憶」ではなく、解析を待つ「生データ」に過ぎない。
その時、渓谷の奥から、圧倒的な質量を感じさせる「重厚な記述」が這い出してきた。
それは生物の形をしていなかった。
巨大な立方体の集合体。表面には銀色の文字が高速で流れ、周囲の空間を強制的にモノクロへと塗り替えていく。
「――《警告:未認可の外部プロセスを検知。これより、領域の整合性チェックを開始する》」
立方体から、無機質な合成音声が響く。
「……あれは魔物ではありませんわね。……システムの、防衛機構!?」
「ああ。この世界の『アンチウイルス』だ。俺たちの存在が、世界の記述にとっての『毒』だと判定されたらしい」
立方体が展開し、無数の光の鎖がレンたちを包囲する。
その鎖一本一本に、接触した対象の存在定義を初期化する『抹消命令』が刻まれている。触れれば、肉体も魂も、最初から存在しなかったことにされる。
「レン様、下がってください! 私が……私が食い止めます!」
ステラが前に出ようとするが、その足は重圧で震えていた。
相手は個体としての敵ではない。世界そのものが放つ「拒絶」なのだ。
(……このセキュリティを突破するには、偽装が必要だ。俺の存在を、システムの一部として認識させる『管理者偽装』。……だが)
レンは計算する。
高度なセキュリティを騙すには、相応の「価値」を持つ個人データを差し出し、それを「暗号鍵」に変換しなければならない。
『[Notification: セキュリティ・オーバーライドを実行します。必要リソースとして、以下の記憶領域をパージします]』
『[選択肢:学究の「誇り」(真理を解き明かした時の歓喜、未知への好奇心の源泉)]』
レンの動きが一瞬、止まった。
それは、彼を言語学者たらしめていた「核」だ。
難解な古文書を読み解いた時の震えるような喜び。新しい発見をした時に世界が輝いて見えた、あの知的な全能感。
それを捨てれば、レンはただ「作業として世界を直すだけの機械」になる。
(……好奇心がなければ、俺はこの世界の謎を解こうとは思わなくなるだろう。……効率的だな)
レンは自嘲気味に、その領域を削除した。
――視界から、色が消えた。
いや、色は見えている。しかし、その色が「何故こうも美しいのか」という驚きが死んだ。
目の前の未知の防衛機構に対しても、「凄い、もっと知りたい」という情熱が消え、ただ「処理すべきタスク」としての冷徹な認識だけが残った。
「――《認証偽装(権限偽称)・ルート権限行使》」
レンが静かに呟くと、彼から黄金の波紋が放たれた。
襲いかかっていた光の鎖が、レンの身体を抜ける直前でピタリと止まり、敬礼するかのように静かに地へと伏した。
「……え? 攻撃が、止まりましたわ……?」
「システムが、俺を『異常』ではなく『更新プログラム』だと誤認した。……今のうちに通り抜けるぞ」
レンの声には、もはや一片の温度も残っていなかった。
彼は防衛機構の脇を、ゴミを避けるような仕草で通り過ぎていく。
渓谷を抜けた先。
夕日に照らされた雪山が見えてきた。その絶景を前にして、イリスとステラは思わず息を呑んだ。
「……綺麗。レン様、見てください! あんなに高い山が……」
ステラがレンの袖を引く。
レンは山を見上げた。
網膜が捉える風景、大気の透明度、光の屈折率。全てのデータは揃っている。
「……そうか。標高三千メートル級か。酸素濃度の低下に備える必要があるな」
「……そうじゃなくて、レン様。……綺麗だと、思わないのですか?」
ステラの声が、悲しげに震える。
レンは、彼女の言葉の意味を検索した。
『綺麗』。視覚情報が美的基準に合致した際に生じる、快楽報酬。
「……その概念の重要性が、今の俺には理解できない。……無駄な情緒だ。それよりも、次のキャンプ地を確定させよう」
レンは振り返ることもなく歩き出す。
ステラは、その背中を呆然と見送った。
彼女は日記を開いた。
そのページには、もう「レン様と笑い合った思い出」を書く欄はなかった。
『……レン様から、輝きが消えていく。
彼は以前、難しい本を読んでいる時、とても楽しそうに目を細めていた。
あの時の彼は、誰よりも人間らしく、誰よりも美しかった。
今の彼は、正解しか言わない。間違いを犯さない。
けれど、彼が正しくなるほど、私は彼が遠くに消えていくのを感じる。
お願い、世界。
彼に、一つだけでいいから、無駄なものを残して。
何の役にも立たないけれど、彼を幸せにする「何か」を、奪わないで……』
日記の文字が、ポツリと落ちた涙で滲む。
レンの歩みは止まらない。
彼は今、自分が「何を面白いと思っていたのか」さえも、思い出せなくなっていた。
ただ、二代目翻訳官の遺した『監獄』の座標だけが、脳内で冷たく輝き続けていた。




