第六話:『存在の断絶、あるいは効率の果て』
爆鳴と共に、研究室の重厚なオーク材の扉が木っ端微塵に弾け飛んだ。
立ち込める硝煙の中から現れたのは、全身を白銀の重装甲で包んだ五人の騎士たち。その胸元には、王立アカデミーの権威を象徴する「禁じられた智恵の天秤」の紋章が刻まれている。
「――異端者レン、及び共犯者イリス・フォン・アストレア。評議会の命により、貴殿らの身柄を拘束する。抵抗は、即ち『世界の記述』への反逆と見なす!」
先頭の騎士が、長大な槍を突き出した。槍先からは、複雑な幾何学模様が編み込まれた「拘束魔法」の光が溢れ出す。
「反逆? 笑わせないで。記述を汚し、停滞させてきたのは、貴方たちの方ではありませんこと!」
イリスが叫び、短く杖を振るった。
彼女が数日間でレンから学んだのは、魔法の本質的な「軽量化」だ。以前の彼女なら、十小節以上の詠唱を必要とした防御魔法が、今や一言のトリガーワードだけで発動する。
「――《最適化・多重障壁》」
騎士たちの槍が放った拘束の光が、レンたちの数センチ手前で、まるで目に見えない壁に衝突したかのように霧散した。
それは、既存の魔法体系ではあり得ないほど薄く、しかしダイヤモンドよりも強固な「論理の盾」だった。
「なっ……詠唱なしに、これほどの強度だと!?」
「驚くのはまだ早いですわ。貴方たちの魔法は、あまりにも『無駄』が多すぎますのよ!」
イリスの追撃が始まる。
彼女の指先から放たれたのは、小さな光の礫。だが、それは敵の鎧の「繋ぎ目」や「魔法回路の接合部」を正確に射抜き、重装甲を紙細工のように無力化していく。
一方で、レンは戦いの中にいながら、一人別の次元を見つめていた。
彼の瞳には、騎士たちの背後に控える、さらに巨大な「記述の源流」が映っていた。塔の各所に配置された魔導触媒がネットワーク化され、レンたちを排除するための「広域抹消プログラム」が起動しようとしている。
(……来るか。アカデミーそのものを巨大な処刑装置として使うつもりだな)
レンは、自分の手のひらを見つめた。
この規模のシステム干渉を防ぐには、先程までの「最適化」では追いつかない。
根源的な『管理者権限(管理者権限)』を一時的に奪取し、塔の記述そのものを書き換える必要がある。
『[Notification: 広域システムへの干渉を開始します。必要リソースの確保のため、以下の記憶領域をパージします]』
レンの脳内に、無慈悲な選択肢が並ぶ。
『[選択肢A:「肉親」という概念の定義(父親、母親、兄弟という関係性の理解)]』
『[選択肢B:幼少期に覚えた「痛み」の閾値(身体的苦痛に対する恐怖心)]』
レンの奥歯が鳴った。
肉親。自分がこの世界に来る前、愛し、愛されていたはずの人々。
その顔や名前は、既に以前の魔法の代償として失っている。だが、今はその「概念」そのものを差し出せと言っているのだ。
これを選べば、レンは「親とは何か」という普遍的な感情すら理解できない怪物になる。
「……レン様。行かないで」
背後で、ステラがレンの服の裾を強く掴んでいた。
彼女は、レンが今まさに「自分」の破片を投げ捨てようとしていることを、その震える背中から察していた。
「大丈夫だ、ステラ。……俺は、俺であることをやめるつもりはない」
レンは自分に言い聞かせ、心の中で『選択肢A』をクリックした。
――。
何かが、音もなく崩れ落ちた。
レンの中で、一つの巨大な「絆」の柱が消滅した。
かつて彼を包んでいたはずの慈愛、保護、連帯。それらが、ただの「繁殖と養育のための生物学的機能」という無機質なデータへと書き換えられていく。
悲しみはなかった。ただ、胸の奥がひどく寒く、風通しが良くなったような錯覚だけが残った。
「――《全権掌握・アカデミー・セクター》」
レンが地面に片手をついた。
瞬間、白亜の塔全体が、黄金色のノイズに包まれた。
騎士たちが放とうとしていた魔法は強制終了(強制終了)され、壁を走る魔法回路は逆流し、塔の構造そのものがレンの意志に従って組み替えられていく。
「な、何だ……何が起きている!? 壁が……空間が歪んでいくぞ!」
パニックに陥る騎士たちを置き去りにし、レンたちの足元の床が、まるでベルトコンベアのように滑らかに動き出した。
「ステラ、イリス! 俺から離れるな! 塔の外へ強制転送する!」
レンの声は、以前よりもどこか平板で、感情の起伏が削ぎ落とされていた。
空間が歪み、一気に加速する。
視界が白光に包まれ、次の瞬間、三人は王都の遥か外郭、荒野を見下ろす崖の上に立っていた。
背後では、王立アカデミーの塔が、レンが仕掛けた「論理の嵐」によって激しく明滅し、沈黙しているのが見える。
「……逃げ切った、のですわね」
イリスが膝をつき、激しく喘いだ。
ステラは、レンの様子を伺うように顔を覗き込む。
「レン様……? 今、何を……何を捨てたのですか?」
レンは、崖の下に広がる夕闇を見つめた。
以前なら、この光景を見て「家に帰りたい」とか「誰かに会いたい」と思ったかもしれない。だが、今のレンには、その感情を構成するための「部品」が欠けていた。
「……ステラ。質問だ」
「はい……何でしょうか」
「『親』とは、どういう存在だ?」
ステラが、目を見開いた。
彼女の手から日記帳が滑り落ちそうになる。
「それは……自分を慈しみ、守ってくれる、世界で一番大切な……」
「……そうか。論理的には理解できる。だが、それがどういう『感覚』なのか、もう思い出せないんだ。俺には、父も母も、最初から存在しなかった……そんな気がする」
レンの言葉は、氷のように冷たかった。
ステラはたまらず、レンの身体を強く抱きしめた。
「そんな……そんなの、あんまりです……! 街を救い、私たちを救うために、どうしてレン様ばかりが……!」
ステラの涙がレンの胸元に染み込む。
レンは、彼女を抱きしめ返すべきなのか、それとも慰めるべきなのか、その「正解」を検索した。
だが、今の彼には「抱擁」という行為が持つ情動的な意味さえも、少しずつ遠ざかっていた。
「……ステラ。俺はまだ、君の名前を覚えている。君が俺を救ってくれたことも、君の温もりも。……今は、それだけで十分だ」
レンは、震える手でステラの頭に触れた。
その指先は、まだ「人間」の熱を知っていた。
「イリス。……君は、どうする? アカデミーを敵に回した以上、もう戻る場所はないぞ」
地面に座り込んでいたイリスが、ゆっくりと立ち上がった。彼女は乱れた髪を払い、不敵な笑みを浮かべた。
「戻る場所? 結構ですわ。あんなカビの生えた辞書しかない場所、こちらから願い下げです。……私は、貴方の『デバッグ』の最後まで、特等席で見届けさせていただきますわ」
共犯者は、三人に増えた。
レンは懐から、二代目翻訳官の手記を取り出した。
そこには、次に向かうべき場所が記されている。
『世界のバグが最も集中する場所――「忘却の監獄」に、真実のコンパイラが眠っている』
「行こう。俺が俺であるうちに、この世界の『記述ミス』をすべて正すために」
レンは歩き出した。
彼が歩くたび、足元の草花が、まるで彼を祝福するかのように、あるいは恐れるかのように、微かな光の粒子を放って揺れた。
日記の新しいページには、ステラの涙で滲んだ文字が躍っていた。
『レン様は、家族という愛を失った。それでも、彼はまだ、私のために笑おうとしてくれた』。
世界の夜明けは、まだ遠い。
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