第五話:『共犯者たちの叙述(シンタックス)』
地下書庫から戻った三人を待っていたのは、静寂ではなく、張り詰めた殺気だった。
アカデミーの廊下には、松明の炎が不自然に揺らめき、レンの視界には無数の「監視用サブルーチン」が浮遊しているのが見える。
「……気づかれたようですわね。中央評議会の老人たちが、システムの異常を検知したのでしょう」
イリスが忌々しげに杖を振るい、追跡してくる魔力の糸を切り裂いた。彼女の顔には、かつてのお嬢様然とした余裕はない。真実を知ってしまった者の、悲壮な覚悟がそこにはあった。
「私の個人研究室へ来なさい。あそこなら、アストレア家の秘術で遮断されていますわ。……話はそれからです」
案内されたのは、塔の別棟にある、本と魔導具に埋め尽くされた部屋だった。
レンは椅子に沈み込むと、先程手に入れた『二代目翻訳官』の手記を机に広げた。
「イリス。君たちが学んでいる魔法言語……『言の葉』の体系を、俺に見せてくれ。構造、文法、そして定義されている関数の一覧。すべてだ」
「関数……? また貴方の専門用語ですのね。……ええ、いいでしょう。これが、この国で最も完成されていると言われる『アストレア流魔導大系』の原典ですわ」
イリスが差し出した重厚な魔導書。
レンがそれを開いた瞬間、彼の脳内で凄まじい速度の「パース(構文解析)」が始まった。
(……酷すぎる。何だ、この非効率な入れ子構造は)
レンは絶句した。
彼らが「高位魔法」と呼んでいるものは、実際には数千行にも及ぶ「無意味なコメントアウト」と「回りくどい例外処理」の塊だった。
例えば、『火の鳥』を呼び出す魔法。それは「鳥の形を定義する」「熱量を設定する」「飛行軌道を計算する」というシンプルな命令で済むはずだ。
しかし、この世界の言語では、そこに「神への賛美」「過去の英雄の叙事詩」「使用者の血統の証明」といった、物理現象には一切関係のない膨大な「ゴミコード」が強制的に挿入されていた。
「イリス、君たちはわざわざ、動くはずの機械に重りを括り付けて走らせているようなものだ。この魔法言語……意図的に『劣化』させられている」
「劣化……? まさか。これは数千年の歴史の中で、より美しく、より厳格に洗練されてきた……」
「違う! 洗練じゃない、暗号化(難読化)だ。……この世界を構築した『何か』が、人間に本当の権限を握らせないように、わざと魔法を使いにくく、非効率なものに書き換えたんだ」
レンの指摘に、イリスは言葉を失った。
彼女が信じてきた「積み上げられた知の歴史」が、実は「無知を強いるための監獄」だったのだ。
「……じゃあ、レン様がさっき使った魔法は、そのゴミを全部取り除いたものなのですか?」
傍らで日記を綴っていたステラが、不安げに尋ねる。
「そうだ。俺は、冗長な記述をすべて削ぎ落とし、最短経路で『実行命令』だけをシステムに送り込んでいる。……だが、その代償は変わらない。……いや、より効率的に、俺の記憶を『燃料』として抽出しやがる」
レンは自分の胸を強く押さえた。
先程、地下の扉を開けた際に失った「親友の顔」と「絵本」。
その欠落感は、鋭利な刃物で魂を削り取られたような、冷たい痛みを伴っていた。
今、レンが「親友」という単語を思い出そうとしても、そこには霧がかかったような空洞があるだけだ。かつて彼と交わした約束も、一緒に笑った理由も、もはや概念としてしか存在しない。
「……イリス。この『難読化された言語』を、俺が『翻訳』し直す。君がその講師役だ」
「……本気ですの? それは、アカデミーの……いえ、この世界の常識を根底から覆す、最悪の冒涜になりますわよ」
「冒涜で結構だ。……俺は、俺自身が完全に消える前に、この世界の『管理者』の喉元に、致命的なバグを叩き込んでやりたいんだ」
レンの冷徹な言葉に、イリスは恐怖を覚えながらも、抗いがたい魅力を感じていた。
彼女はゆっくりとレンの隣に座り、魔導書の一行目を指差した。
「……始めましょう。まずは、存在の最小単位……『根源的実体』の定義からですわ」
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それから数日間。レンは睡眠を惜しみ、イリスから世界の記述を吸い上げ、それを自らの言語学のフィルターを通して「再構築」し続けた。
ステラは、その様子をずっと傍で見守っていた。
レンが時折、何かに怯えるようにペンを止め、自分の名前や、故郷の食べ物の名前を呟くのを聞くたびに、彼女の胸は張り裂けそうになった。
「……レン様。少し休んでください。お茶を淹れました」
ステラが差し出したカップを、レンはぼんやりと受け取った。
一口啜り、彼は眉を寄せた。
「……ステラ。これ、何だ?」
「え……? 貴方の好きな、カモミールのハーブティーですが……」
「……カモミール。……ああ、そうか。……匂いは分かる。でも、これが『美味しい』という感覚が、どういうものだったか……思い出せないんだ」
レンの指が、かすかに震えた。
味覚そのものは死んでいない。しかし、その味がもたらすはずの「安らぎ」や「幸福感」という情報のディレクトリが、先程の難解な構文解析の代償としてパージされていた。
「……そんな。……ひどい……」
ステラがレンの手に、自分の手を重ねた。
その手の温もり。
レンは、それすらもいつか失うことを、確信に近い予感として抱いていた。
「……ステラ、書いておいてくれ。……カモミールのお茶は、君が淹れてくれた温かい飲み物だ。それだけでいい。意味は分からなくても、事実だけは残しておきたい」
ステラは、溢れそうになる涙を堪え、震える文字で日記に記した。
『レン様は、お茶の味を忘れた。でも、私が淹れたことは、まだ覚えていてくれている』。
その時。研究室の重い扉が、外側から激しく叩かれた。
「――イリス・フォン・アストレア! 禁忌の立ち入り、及び異端者への協力の疑いがある。開けなさい!」
評議会の直属部隊――『戒律の騎士』たちの声だ。
「……来たようですわね。不格好な結界ですこと、もう破られましたわ」
イリスが立ち上がり、杖を構える。彼女の周囲には、レンとの修行で「最適化」された、かつてより数段密度の高い光の陣が展開されていた。
「レン様。……準備はいいですか」
ステラが長剣を抜き、レンの前に立つ。
レンは、書きかけのノートを懐にしまい、ゆっくりと立ち上がった。
彼の瞳には、扉の向こう側にいる騎士たちの武装に刻まれた魔法回路が、透けて見えていた。
「ああ。……デバッグの時間だ」
レンの指が、虚空の記述に触れる。
また一つ、大切な「自分」が削れる音を聞きながら、彼は無慈悲な笑みを浮かべた。




