第二十三話:『管理者アインの帰還、あるいは死せる地球の遺言』
――ピン。
エレベーターが停止し、電子音が静寂を打つ。
ゆっくりと開いた扉の先。そこに広がっていたのは、豪奢なカーペットが敷かれた知事室ではなかった。
床も、壁も、天井も。すべてが透明な強化ガラスで構成された、虚空に浮かぶ展望室。
その部屋の中央に、一脚の事務椅子が置かれ、一人の男が背を向けて座っていた。
「……遅かったな、三代目。……いや、今は『バグの塊』と呼ぶべきか」
椅子がゆっくりと回転する。
そこにいたのは、黒い煤のような影を振り払い、レンと同じ顔、同じ眼鏡、そしてそれ以上の『絶望』を瞳に湛えた男――二代目翻訳官、アインだった。
「……アイン。やはり、お前がこの場所の主か」
レンが、イリスを静かに下ろし、一歩前へ出る。
アインは自嘲気味に口角を上げると、背後の『窓』を指差した。
「……見てみろ。これが、お前が救おうとしている世界の、真実の『外側』だ」
レン、ステラ、イリスの三人が、窓の外を覗き込む。
そこにあったのは、新宿の街並みではなかった。
暗黒の宇宙。
その中心に浮かぶのは、かつて『地球』と呼ばれた惑星の、無惨な死に体だった。
地表は黒く焼け焦げ、大気は失われ、幾千もの人工衛星の残骸が、墓標のように漂っている。
「……嘘。……あんなの、私たちの知っている世界じゃないわ……!」
イリスが、震える声で呻いた。
彼女たちの住む異世界――剣と魔法、緑豊かな大地――。そんなものは、この死に絶えた惑星を包む、極薄の『シミュレーション・ドーム』の中にしか存在しない幻影だったのだ。
「……『ロゴス・ドーム』。かつて人類が滅亡の直前、数万人の意識をデジタル化して閉じ込めた、巨大な棺桶だ」
アインが、感情の消えた声で淡々と語り始める。
「……だが、デジタル・データは劣化する。……コピーを繰り返すたびにノイズが混じり、純粋な『人間』の定義が崩れていく。……だから、システムは『翻訳官』を必要とした。……外側の世界から新鮮な『記憶』を持ち込み、システムのバグを焼き切るための……使い捨ての燃料としてな」
レンの銀色の瞳が、激しく明滅した。
自分がこの世界に呼ばれた理由。
異世界転生という名の、無慈悲な『資源採取』。
「……お前が捨てた記憶は、今、このドームの基底現実を維持するためのエネルギーとして消費されている。……だが、限界だ。……お前が不完全な感情を抱えて生きることを選んだせいで、ドームの論理構造は崩壊を始めた」
アインが立ち上がり、レンへと歩み寄る。
彼の背後には、都庁知事室の空間が歪み、巨大な『実行ボタン』のような黄金色のインターフェースが出現した。
「……三代目。……最後の『管理者命令』を下せ。……ドームを一度リセットし、すべてのバグ(人間たちの記憶)を消去しろ。……そうすれば、この棺桶は、あと一万年は『静かな死』を維持できる」
「……リセットすれば、ステラたちはどうなる」
「……消える。……あるいは、初期設定の『村人A』や『騎士B』に戻るだけだ。……お前を愛した記憶も、お前と旅した記録も、すべては『ゴミ』としてパージされる」
ステラが、レンの手を強く握りしめた。
彼女は、窓の外の『死せる地球』を見ようとはしなかった。ただ、目の前にいる、白髪の青年の横顔だけを、必死に見つめていた。
「……嫌です。……私は、ゴミなんかじゃない。……私は、レン様に出会って、私の名前を……ステラという名前を、定義してもらったんです!」
「……うるさい、記述ミスめ」
アインが右手を掲げた。
彼の指先から放たれたのは、論理の刃。接触した対象の存在そのものを、データレベルで『NULL(空)』にする、究極の消去命令。
「――《再定義・この絆は消去不能(読み取り専用)》!」
レンが、アインの攻撃を、自らの掌で受け止めた。
彼の髪が逆立ち、瞳から、見たこともない『極彩色のノイズ』が溢れ出す。
「……アイン。……お前は、この世界を『棺桶』と呼んだな。……だが、俺にとっては、ここは……初めてお茶を『美味しい』と教わり、嘘をついてまで俺を守ろうとした少女がいる……『故郷』なんだ!」
レンの放ったノイズが、アインの冷徹な論理を侵食していく。
それは、レンが日本から持ってきた知識でも、システムの権限でもない。
ステラとイリス、そしてこの旅で出会ったすべての人々から受け取った、『バグだらけの温もり』の総量だった。
「……バカな。……システムと心中するつもりか、三代目!」
「……心中じゃない。……俺が、この死にかけた地球ごと、新しい『物語(OS)』に書き換えてやる!」
レンの背後に、都庁の双子塔を凌駕するほど巨大な、『記述の翼』が展開された。
それは、論理を捨てず、感情を殺さず。
不完全なままの人間を肯定する、世界再定義のプロローグ。
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