第二十二話:『言葉にならない抱擁』
都庁の巨大な扉が閉まると同時に、新宿の喧騒と黒い雨の音は、嘘のように遮断された。
後に残ったのは、耳が痛くなるほどの静寂と、冷たく乾燥したビルの空気。
エントランスホールは、吹き抜けの天井まで届くほど広大だった。しかし、そこには警備員も、受付嬢も、慌ただしく行き交う都職員の姿もない。ただ、大理石の床に三人の足音が不規則に響くだけだ。
「……はあ、はあ……。冗談ではありませんわ。……エレベーターくらい、動いていても良さそうですのに」
イリスが、膝を震わせながら杖を杖として突き、歩みを止めた。
彼女の髪は先程までの戦いで色を失い、今はくすんだ灰色になっている。魔導師としての『感覚』を代償に放ったあの一撃は、彼女の生命力そのものを削り取っていた。
「イリス様! 無理をしないで……」
ステラが肩を貸そうとするが、イリスは弱々しく首を振った。
「……情けないですわね。……あれほど誇りに思っていた魔力が消えると、ただの非力な小娘ですわ。……レン、今の私は、貴方の目にはどう映っていますの? ……ただの『役立たずのオブジェクト』かしら」
レンは足を止め、ゆっくりと振り返った。
彼の瞳は、もはや管理者の銀色でも、叛逆の黒でもない。どこか焦点の定まらない、迷い子のようなくすんだ色をしていた。
「……イリス。……俺の目には、今の君に『ステータス』は見えない。……ただ、震えている君の手が見えるだけだ」
レンはそう言うと、イリスの隣に寄り添い、彼女の細い腕を自分の肩に回した。
無機質な計算に基づいた救護ではない。彼の動作には、わずかな戸惑いと、それ以上の「重み」があった。
「……っ。……貴方、本当にデバッグが下手ですわね。……女の子を支えるなら、もっとスマートに……。……でも、温かいですわ。……悔しいけれど」
イリスが、レンの肩に頭を預ける。
三人は、重い足取りで展望ロビーへと続く、巨大なエレベーターホールへと向かった。
壁のデジタル表示板には、文字ではないノイズが走り続けている。
『現在地:迷いの中』
『目的地:自分自身の終着駅』
エレベーターの前に辿り着いた時、ステラが不意にレンの服の裾を、強く掴んだ。
「……レン様。……先程のこと、まだ……」
ステラの声は、消え入りそうだった。
過去のレンとの対峙で暴かれた、彼女の『嘘』。
レンが抱いている感情は、彼女が書き換えた捏造されたバックアップに過ぎないという、冷酷な事実。
「……私は、貴方を騙して、自分を好きになるように『記述』したんです。……そんな私の手を、貴方はまだ握ってくれるのですか?」
ステラの瞳から、一筋の涙が溢れ、大理石の床に落ちた。
彼女にとって、レンが自分の嘘を『仕様』だと認めてくれたことは救いだった。しかし、それ以上に「彼を汚してしまった」という罪悪感が、毒のように彼女の心を蝕んでいる。
レンは、イリスを静かに壁に預けると、ステラの前に立った。
彼は言葉を探した。
言語学者として、あるいは翻訳官として、最適な『語彙』を検索した。
だが、今の彼のディレクトリには、彼女を慰めるためのスマートな定型文は存在しなかった。
だから、レンはただ、彼女を強く抱きしめた。
「…………」
言葉はなかった。
ただ、冷え切ったビルの中で、二人の体温が混ざり合う。
ステラの鎧の冷たさと、その下にある、激しく、しかし震えるような鼓動。
「……レン、様……?」
「……ステラ。……お前の書いた『嘘』が、俺の中に何を植え付けたのか……本当のところは、俺にもまだ分からない」
レンは、彼女の背中に手を回し、その震えを抑えるように力を込めた。
「……だが、今、俺の胸がこんなに痛いのは。……お前の涙を見て、代わってやりたいと思うのは。……これは、日記に書かれた文字じゃない。……俺が今、ここで感じている……俺だけの『バグ』だ」
ステラは、レンの胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
それは、三年間、偽りの日記を書き続けてきた彼女の、初めての『告白』だった。
捏造された記憶も、上書きされた感情も、今のこの「抱擁」という物理的な事象の前では、あまりにも無力だった。
イリスは、壁にもたれかかったまま、その光景を眩しそうに見つめていた。
「……ふん。……論理学者が聞いて呆れますわ。……言葉にならないことを、そのままにするなんて。……でも、それが一番、正しい『翻訳』なのかもしれませんわね」
イリスは、自嘲気味に微笑み、視線を逸らした。
彼女の失った才能の代わりに手に入れたのは、こうした「言葉にできない温度」を感じ取るための、ありふれた人の心だった。
不意に、エレベーターのチャイム音が鳴り響いた。
――ピン。
錆びついた扉が、重々しく開く。
その内部は、鏡張りの空間だった。
鏡に映る三人の姿は、どこまでもボロボロで、不完全で、しかし、三年前のあの日よりも、ずっと鮮やかな色彩を帯びていた。
「……行きましょう。……最上階へ」
レンが、ステラの手を握り、エレベーターの中へと促す。
ステラは、涙を拭い、強く頷いた。
上昇を始めるエレベーター。
階数表示が、猛烈な勢いでカウントアップされていく。
45階……200階……1000階……。
現実の都庁には存在しない、天へと続く無限の回廊。
その終着点、都庁知事室には。
レンが、そしてこの世界の管理者が、最も恐れ、最も守りたかった『最後の執着』が、待っている。
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