第二話:『記述の代償、あるいは日記の始まり』
馬車は、再び緩やかな揺れと共に街道を進み始めた。
先程までの死闘が嘘のように静まり返った車内で、ステラは言葉を失ったまま、対面に座るレンを見つめていた。
「……レン様。今の力は、本当に、その……」
「ああ。魔法だよ、ステラ。ただ、君たちの知っている『祈り』や『儀式』とは、少しだけ手順が違うだけだ」
レンは努めて平然を装いながら、膝の上に置いた自分の手を見つめた。
指先にはまだ、空間の記述を書き換えた時の、あの「冷たい全能感」が残っている。
だが、その感触と引き換えに失った、日本の駅前にある小さな古本屋の記憶――。
店の軒先に吊るされていた風鈴の音も、店主の老人が愛飲していた茶の匂いも、今はもう霧の向こう側だ。
知識として「古本屋があった」事実は残っている。しかし、そこに伴っていたはずの色彩や感情が、根こそぎ削り取られていた。
「……ステラ。一つ、頼みがある」
「はい、何なりと! 私の命に代えても……」
「いや、命なんていらない。ノートを一冊、用意してくれないか」
レンは、ステラが荷物の中から取り出した、羊皮紙を綴じた無骨な帳面を受け取った。
彼はそこに、震える指でペンを走らせる。
『私はレン。元・大学教員。言語学者。ここは異世界。隣にいるのは護衛騎士のステラ。彼女は銀髪で、少し真面目すぎるが、とても優しい。私は今、魔法を使い、代償として日本の古本屋の思い出を失った』
事実を書き記す。だが、書けば書くほど虚しさが募った。
文字にされた事実は、他人の伝記を読んでいるかのように冷たい。記憶とは、情報ではなく体験なのだと、失って初めて痛感する。
「レン様? なぜ、そのような当たり前のことを……?」
「忘れないためのバックアップ、のようなものだ。……俺が使う魔法は、魔力を自分の外部からではなく、内部から調達する仕組みらしい」
レンは、ステラの剣に視線を落とした。
そこには依然として、不完全な構文がバグのようにへばりついている。
「ステラ。この世界の人々は、魔法を『神から与えられた奇跡』だと信じている。だが、俺の目には、それは『高度に抽象化された記述言語』に見えるんだ。君がさっき唱えた言葉も、意味不明な修飾語が多すぎて、演算が追いついていない」
「えんざん……? すみません、私には難しすぎて……。でも、レン様が仰るなら、それが真実なのでしょう」
ステラは迷いなく頷いた。その純粋な信頼が、今のレンには少しだけ痛かった。
彼女は知らない。レンがこの世界を「記述」し直すたびに、レンの中から「レン自身」が消えていくことを。
やがて、馬車の前方に巨大な石造りの城壁が見えてきた。
王都、グラン・レクシオン。
人類最後の学術拠点であり、かつて世界を管理していた『言葉』の残滓が集まる場所だ。
「止まれ! 通行証の提示を!」
城門の前で、黄金の甲冑を纏った門番たちが馬車を制止する。
彼らが手にしている槍の先端には、青い魔石が埋め込まれ、そこにはレンの視界を塞ぐほどの濃密な「防御構文」が展開されていた。
「私は没落したとはいえ、エヴァンス家のステラです。この御方は、私が招聘した賢者殿です」
「賢者だと? ……おい、見ろ。魔力測定器が微動だにせんぞ」
門番の一人が、レンの前に水晶を突き出した。
魔力がゼロであれば、この世界では平民以下の扱いを受ける。ましてや、賢者を自称するなど笑止千万というわけだ。
「おい、浮浪者を連れ込むのはやめろ。後ろに並んでいる連中の迷惑だ」
「失礼な! レン様は、先程あの大物を……!」
憤慨するステラを、レンは手で制した。
彼は水晶を見つめる。
水晶の内部には、一つのシンプルな関数が書き込まれていた。
『If (Object.Mana > Threshold) Then (Glow = True)』。
対象の魔力量が一定値を超えていれば、発光する。その程度の、原始的な判定式だ。
(……書き換えるまでもないな)
レンは指を伸ばし、水晶を包む空気の層に干渉した。
彼は魔法を使わない。ただ、水晶が読み取っている「環境変数」の数値を、ほんの一瞬だけ、手動でオーバーライド(上書き)した。
キィィィィィィィン!
鼓膜を劈くような高音と共に、水晶が太陽のごとき眩い光を放った。
あまりの光量に、門番たちは悲鳴を上げて目を覆い、後方の馬車の馬たちが激しくいななく。
「な、なんだ!? 壊れたのか!? それとも……!」
「数値の設定が少し甘かったようだ。通してくれないか」
レンは冷ややかに告げた。
門番たちは恐怖に震えながら、無言で道を空けた。
馬車が城門を潜る。
広大な石畳の街路、空を飛ぶ魔導船、そして至る所に刻まれた「言葉」の碑文。
かつてレンが研究していたどの古代都市よりも美しく、そして致命的な欠陥を抱えた世界が、そこには広がっていた。
「……まずは、この世界の『辞書』を手に入れよう。話はそれからだ」
レンはノートの次のページを開いた。
そこには、先程の「環境変数の上書き」によって消えた記憶――。
『大学生の頃、初めて告白して振られた相手の名前』を記すべき空白があった。
だが、その名前をレンはどうしても思い出せず、ただ白紙のまま、ノートを閉じた。
彼の「翻訳官」としての歩みは、まだ始まったばかりだった。




