第十八話:『イリスの解析、新魔法の限界点』
銀河鉄道の車輪が立てる、高周波の駆動音が耳鳴りのように響いている。
窓外の流星群はすでに形を失い、加速しすぎた情報の奔流が、白く長い線となって車体を叩いていた。
ステラがレンを抱きしめるその傍らで、イリスは血が滲むほど唇を噛み、手にした魔導書のページを猛烈な勢いで繰っていた。
だが、その指が止まる。
彼女は、何千年も不変の真理だと信じてきたアストレア流の記述を、自らの手で引き裂いた。
「……ダメですわ。こんな古い構文、この場所では何の防御壁にもなりませんわ!」
イリスが叫び、破り捨てたページが車内で黄金の塵となって消える。
彼女の碧眼には、絶望ではなく、燃え上がるような怒りが宿っていた。
彼女が怒っているのは、自分を拒絶するこの世界に対してではない。レンを「部品」として扱い、ステラの「心」をエラーとして排除しようとする、その「冷酷な効率」に対してだった。
「レン、貴方が言いましたわね。『魔法は、高度に難読化された言語だ』と。……だったら、私がやることは一つですわ。貴方の『論理』を、ステラの『感情』で翻訳してやりますわ!」
イリスは杖を床に突き立て、自らの魔力を全開放した。
彼女の周囲に、無数の文字列が浮かび上がる。それは伝統的なアストレアの構文ではない。レンが第一部で使っていた、あの無機質な「管理者権限」の記述に、ステラが流した涙の「波形データ」を無理やり流し込んだ、歪で熱い新魔法だった。
「――《解析開始》! 座標、レンの情動ディレクトリ! 依存関係、ステラ・エヴァンスの体温に固定!」
イリスの脳内に、耐え難いほどの「ノイズ」が流れ込む。
レンが捨てた日本の記憶、ステラが守り抜いた日々の記録。それらが火花を散らして衝突し、イリスの精神を内側から焼き切ろうとする。
「が、あ……っ! なんですの、この『重さ』は……! 貴方たち、こんなものを、二人で背負ってきたのですか……!?」
イリスの鼻から、一筋の血が垂れた。
彼女の魔導師としての限界点は、すでに超えている。
本来、論理と感情は混ざり合わない。論理は「答え」を求め、感情は「揺らぎ」を求める。その相反する二つを強引に繋ぎ止めるための「接着剤」として、イリスは自分自身の『魔導師としての誇り(アイデンティティ)』を、燃料として燃やし始めた。
『――[Warning:未定義の記述を確認。実行は推奨されません。……術者の記憶リソースに致命的な負荷がかかります]』
車内に、システムの警告音が響く。
「……うるさいわよ、ガラクタ! 推奨されないからこそ、やる価値があるんですわ! これが私の……アストレアを捨てた、一人の女としての『デバッグ』ですわ!」
イリスが杖をレンの胸へと向けた。
彼女の指先から放たれたのは、銀色と橙色が混ざり合った、脈動する光の糸。
その糸が、無機質に透け始めていたレンの身体を、物理的に縫い止める。
「――《緊急パッチ適用・名称:共犯者の絆》!」
ドクン、と。
電車の床が、大きく跳ねた。
レンの銀色の瞳に、イリスの放った熱い魔力が流れ込む。
彼の無機質な思考回路の中に、ステラの涙の熱さが、「正解」ではない「痛み」として強制的に書き込まれた。
「……イリス……?」
レンの口から、掠れた声が漏れた。
それは感情のないナレーションではない。戸惑いと、わずかな熱を帯びた、人間の声だった。
「……ふん。やっと、まともな声で呼びましたわね……」
イリスは、崩れ落ちそうになる身体を、杖で必死に支えた。
彼女の白かった肌は青ざめ、その髪からは、かつての黄金の輝きが失われ始めている。
彼女が魔法の代償として支払ったのは、「魔導師としての天賦の才」――彼女が人生のすべてを賭けてきた「魔法を扱うための器官」そのものだった。
「イリス様! 貴方、そんな……ご自身の力を……!」
「……いいんですわ、ステラ。……私、ずっと、あいつの隣に立つのが……怖かったですの。あいつは神様みたいに何でも分かってしまうから。……でも、これでようやく、私も『不完全な人間』になれましたわ」
イリスが、弱々しく微笑む。
だが、銀河鉄道は止まらない。
次の駅のアナウンスが、無情にも響き渡る。
『――次は、……渋谷、……渋谷。……交差点の記憶、パージ開始。……お出口は、左側です』
――ガタン。
電車が、強烈な減速を始めた。
窓の外には、何百万もの「顔のない亡霊」たちが蠢く、光り輝く地獄のような交差点が広がっている。
「……レン。……次が、本当の正念場ですわよ。……私の魔法は、もう一度しか使えませんわ」
イリスは、震える手で、最後の一節を空中に記述しようとする。
レンは、戻ってきたわずかな「痛み」を噛み締めながら、ステラの手を、今度は自分から握り返した。
「……ああ。……デバッグを、完遂する」
銀色の瞳の奥に、かつての言語学者としての「静かなる怒り」が、再び灯り始めていた。
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