第十七話:『各駅停車の絶望』
錆びついたステンレスの車体が、軋んだ悲鳴を上げながら概念の銀河を突き進む。
窓の外には、渦を巻く星々の大河と、時折、崩れかけた現代日本の高層ビル群が、まるで巨大な墓標のように流れていく。
車内には、重苦しい静寂が満ちていた。
蛍光灯の冷たい光の下、レンは優先席に浅く腰掛け、微動だにせず前方を見つめている。その澄み切った銀色の瞳には、車窓を流れる絶景も、隣に座るステラの不安げな表情も、何一つ映っていないようだった。
「……レン様。寒くは、ありませんか?」
ステラが、恐る恐る声をかける。
彼女は、レンの冷え切った左手を、自分の両手で包み込んでいた。以前なら、その温もりに彼は微かに微笑んだはずだ。だが今の彼は、ただ、事実を確認するようにステラの手を見つめるだけだ。
「……体温の低下は感知していない。……ステラ、脈拍が依然として高い。心臓への負担が〇・三%上昇している。……無駄な情動は抑えろ」
「……っ。無駄じゃ、ありません。……私が、貴方を心配するのは、無駄なんかじゃ……!」
ステラの声が、涙に濡れる。
その隣で、イリスが魔導書のページをめくる手を止め、深くため息をついた。
「無駄よ、ステラ。今のあいつは、感情を燃料に変えて、この銀河鉄道を走らせているの。……あいつに心を取り戻させるには、この電車の『行き先』を書き換えるしかないわ」
「行き先を……? それは、都庁ではないのですか?」
「都庁は終着点よ。……問題は、そこに至るまでの『停車駅』。……二代目の手記によれば、この路線は、レンの記憶にある『執着の座標』に停まるたび、彼から『今の世界への未練』を削り取っていく精神的な罠だわ」
イリスの言葉を裏付けるように、車内に、無機質な合成音声のアナウンスが響いた。
『――次は、……新宿、……新宿。……お出口は、右側です。……中央線、山手線、地下鉄線はお乗り換えです』
――ガタン。
電車が、概念のプラットホームへと、ゆっくりと滑り込んだ。
窓の外に広がったのは、星空ではない。
雨に濡れた、無機質なコンクリートの景色。
「何ですの、ここは……。王都よりも、ずっと暗くて、冷たい場所……」
イリスが、窓ガラスにへばりつくように外を眺める。
そこは、レンが捨てた「通勤路」の記憶が、歪に具現化した場所だった。
駅名標には、レンの視界にだけ判読可能な文字で、『新宿 - 絶望の乗り換え口』と刻まれている。
扉が開く。
だが、乗車してくる客はいない。
代わりに、湿り気を帯びた、埃と、古い鉄の匂い、そして、微かな「 nostalgia」の匂いが、車内に流れ込んできた。
『――発車します。……閉まるドアにご注意ください』
扉が閉まり、電車が再び走り出す。
その瞬間、レンの身体が、ビクリと震えた。
「……レン様!?」
ステラが、彼の顔を覗き込む。
レンの銀色の瞳が、一瞬だけ、黄金色に明滅した。
彼の脳内、システムの深層から、一つの「声」が、冷たく響く。
『――[警告:異世界への愛着レベルが低下。……現在、〇・二%。……ステラ・エヴァンスへの執着を、パージしますか?]』
「……ダメ、だ」
レンの口から、掠れた声が漏れた。
それは、機械としての論理ではなく、彼の魂の底に残った、最後の「人間としての抵抗」だった。
「レン様! しっかりしてください! 私はここです! ステラです!」
ステラが、レンの身体を強く抱きしめる。
だが、レンの瞳から、光が少しずつ消えていく。
「……ステラ。……お前のことは、覚えている。……だが、その記憶が、なぜ『大切』なのか、……もう、分からないんだ」
レンの言葉は、氷のように冷たかった。
彼は、ステラの腕を、無機質な動作で振り払う。
『――[Notification:執着のパージを実行。……これより、レンの『感情』のディレクトリを、システムの『論理』へと統合します]』
「が、あ、ああああああ……っ!」
レンが、頭を抱えて叫んだ。
彼の白い髪が、さらに蒼白く染まり、瞳から、銀色の光が溢れ出す。
「レン! 貴方、自分の心に負けちゃダメ! 私が、貴方をデバッグしてやるって言ったでしょう!」
イリスが、杖をレンに向け、彼の「論理」を打ち砕こうとする。
だが、その魔力は、銀河鉄道の概念の嵐にかき消され、レンには届かない。
電車は、次の駅へと、加速していく。
窓の外には、また別の、レンが捨てた「日常」の景色が、流れ始めていた。
――深夜のオフィス。
――終わらない会議。
――上司の怒号。
それらの景色が、レンの「今の世界への愛着」を、少しずつ、しかし確実に、削り取っていく。
各駅停車の、絶望。
ステラは、砕け散った日記帳の破片を、必死に拾い集めた。
文字は消え、ただの白紙の紙片。
だが、彼女は、その破片をレンの胸に、強く押し当てた。
「レン様……! 文字なんて、なくていい! 貴方が私を忘れても、私が、貴方を忘れない! 私の『温度』を、私の『鼓動』を、……どうか、忘れないで……!」
ステラの涙が、レンの胸に染み込む。
その瞬間。
レンの銀色の瞳に、ステラの涙の「色彩」が、一瞬だけ、映った。
「……あ」
レンの口から、意味を成さない、ただの母音が漏れた。
それは、第一部のラストで綴った、あの『あ』の音だった。
世界を救うために自分を捨てた男。
彼の中に残った、唯一の「人間としてのバグ」。
それが、ステラの涙に触れて、静かに、再起動を始めていた。
終着点、都庁までは、あと五駅。
果たして、その駅に辿り着いた時、レンは……。




