第十五話:『ステラの揺らぎ、日記の余白』
人工的な白い光が、ガラスが砕けるような音と共に霧散した。
視界が暗転し、再び感覚が戻った時、そこは元の凍てつくような荒野だった。
深夜のコンビニエンス・ストアは跡形もなく消え去り、ただ冷たい風が砂を巻き上げている。
その中心で、レンは膝を突いていた。
「……レン様!」
ステラが駆け寄り、彼の身体を支える。
だが、触れた瞬間に彼女は指先を弾かれたような錯覚に陥った。レンの身体が、異常なまでに冷たい。それは氷の冷たさではなく、熱や生命といった概念が最初から存在しない無機物の質感だった。
レンがゆっくりと顔を上げる。
白く染まった髪の下、その瞳は黄金でも黒でもなく、深い銀色に澄んでいた。
「……ステラ。心拍数が上昇している。交感神経が過剰に優位だ。……落ち着け」
その声を聞いた瞬間、ステラの背筋に氷柱が突き刺さった。
言葉は正しい。気遣いさえ感じられる。だが、そこには「温度」がなかった。
今のレンの言葉は、愛する者への語りかけではなく、精密機械が異常を検知して出力した「ログ」に過ぎない。
「レン、貴方……。管理者権限に触れた代償が、それなんですの?」
イリスが杖を支えに立ち上がり、苦々しく吐き捨てた。
彼女には見えていた。レンの周囲の空間が、わずかに歪んでいる。彼は今、この世界の物理法則を「受ける側」ではなく、無意識に「規定する側」の存在に変質しつつあった。
「……代償ではない。最適化の結果だ」
レンは無機質な動作で立ち上がり、自分の掌を見つめた。
「あの『店員』……システムの防衛機序を一時的にオーバーライドした際、俺の情動ディレクトリへのアクセス権が制限された。……計算リソースを全て世界の再定義に回した結果だ。問題はない。……旅の継続は可能だ」
「問題しかないわよ、バカ!」
イリスが叫んだが、レンは反応しない。彼はただ、淡々と西の空を指差した。
「次の目的地、概念都市『シン・トウキョウ』への最短ルートを算出。……出発しよう。夜が明ける前に三二キロ移動すれば、生存確率は〇・八%向上する」
レンは振り返ることもなく歩き出した。
その足取りは正確で、一ミリの無駄もない。
「……待ってください」
ステラの震える声が、暗闇に響いた。
彼女は、胸元に抱えていた日記帳を強く握りしめる。
「レン様。……今朝の朝食、何を食べたか覚えていますか?」
レンが止まる。
一秒の沈黙の後、彼は感情のない声で答えた。
「記録によれば、保存食の乾燥肉二枚、及び煮沸した水三〇〇ミリリットルだ。……栄養価は維持されている。……それがどうした」
「……味は、どうでしたか? 私が少しだけ、ハーブを混ぜたんです」
「……化学的組成の変化は感知したが、情動的な評価は現在、処理対象外だ。……意味のない質問だ、ステラ」
意味のない質問。
その言葉が、ステラの心を切り裂いた。
彼女が三年間、必死に書き続けてきた日記。
そこには、レンが忘れてしまった「世界」を繋ぎ止めるための、血の滲むような日々の記録が詰まっている。
だが、今のレンにとって、それはただの「参照データ」に過ぎない。
ステラは日記の最新のページを開いた。
そこには、昨夜レンが彼女に言った『これからも一緒にいてほしい』という言葉が、震える文字で記されている。
だが、その下の余白……。
彼女が書けなかった、書き残さなかった「本当の感情」が、白く叫んでいるように見えた。
(……日記があるから、貴方は人間でいてくれると思っていた)
ステラの瞳から、涙が溢れ出した。
(でも、日記があるから……貴方は『覚えているふり』ができるだけ。……本当の貴方は、もうずっと遠い場所に行ってしまったの?)
「ステラ。停滞はリソースの浪費だ。……歩け」
レンの背中が遠ざかる。
その白銀の髪が、夜の闇の中で幽霊のように白く光っている。
イリスがステラの肩に手を置いた。
「……あいつ、今は『バグ』を食らいすぎて、自分の感性がフリーズしてるだけよ。……私が必ず、デバッグしてやるから。……今は、付いていくわよ」
ステラは、袖で涙を拭い、強く頷いた。
「……はい。……分かっています」
彼女は日記の余白に、レンには見えないようにペンを走らせた。
『レン様は、今日、私のハーブの味を「意味がない」と言った。
……でも、私は覚えている。
三年前の彼は、このハーブを食べて、少しだけ変な顔をして笑ったんだ。
貴方が「データ」だと言うなら、私はそのデータを「愛」だと呼び続けます。
貴方が私を「護衛対象」と呼ぶなら、私は貴方を「私のすべて」だと定義し続けます。
……この日記の余白が、いつか貴方の『心』で埋まるまで。
私は絶対に、貴方の手を離さない』
日記を閉じ、ステラは走り出した。
機械のように歩き続ける青年の、その冷たい背中を追いかけて。
空の端が、薄暗い灰色に染まり始めていた。
世界のバグが凝縮された都市『シン・トウキョウ』。
そこは、レンの失われた記憶が形作った、最大にして最後の「偽物の故郷」だ。
そこへ辿り着いた時、レンは再び「人間」に戻るのか。
それとも、世界の「神」として完全に上書きされるのか。
ステラの指先が、日記の表紙を強く叩いた。
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