第十四話:『無機質な店員の微笑み』
コンビニエンス・ストアという名の、記憶の墓標。
蛍光灯の明滅に合わせて、陳列棚が黄金色のコードに変わっては、また白紙の商品へと戻る。アインが放つ黒い霧と、イリスが呼び出した蔦が、現代のプラスチックと中世ファンタジーの緑を綯い交ぜにしながら、店舗の空間を歪めていた。
「――《定義・この場所は私の庭》!」
イリスが杖を突き立てるたび、床のタイルを突き破って巨大な根がアインの足元へ伸びる。しかし、アインが纏うボロ布に触れた瞬間、根は黒く腐り、砂となって崩れ落ちた。
「……無駄だ、四代目候補。……この空間において、お前たちの『意志(魔法)』は、俺が抱える『忘却の質量』には勝てない」
アインの光のない瞳が、レンを捉える。
彼はゆっくりと、黒い煤にまみれた手をレジカウンターへと伸ばした。
そこには、先程レンが拒絶した「白紙のおにぎり」が、何事もなかったかのように戻っていた。
「……三代目。……お前は『情緒』を捨て、世界を救った。……ならば、その捨てた『未練』は、俺が引き受ける。……俺は、この世界のすべての『忘れ去られたもの』の王となる」
アインがおにぎりを掴もうとした、その時。
――チーン。
レジのドロワーが、不意に小気味よい音を立てて開いた。
ノイズに震えていた顔のない店員が、アインの手を、無機質な動作で制した。
『――お客様。……申し訳ございませんが、当商品は『レン様』専用の非売品となっております。……他のお客様への譲渡、及び強奪は、当店の規約により固く禁じられています』
「……規約だと? ……俺もまた、このシステムの『管理者』の一部だぞ」
アインが店員を睨みつけるが、店員はピクリとも動かない。
『――先代管理者様。……貴方は既に『パージされたデータ』として定義されています。……当店における全ての権利(アクセス権)は、現管理者であるレン様に移行しています。……お引き取りください』
店員が、アインに向かって、無機質な「微笑み」の貼り付いた顔を向けた。
その微笑みには、一片の感情も、一片の殺意もなかった。ただ、冷徹な論理の壁が、そこには立ちはだかっていた。
「……くっ。……システムめ、どこまでも俺を拒絶するか」
アインが舌打ちをし、黒い霧と共に店外へ退いた。
自動ドアが閉まり、チャイム音が響く。
静寂が、コンビニを支配した。
点滅していた蛍光灯が元の明るさに戻り、イリスの蔦も、アインの黒い煤も、潮が引くように消え去った。
「……レン様」
ステラが剣を下ろし、レンの様子を伺う。彼女の瞳には、アインへの恐怖よりも、この「店員」への底知れぬ不気味さが勝っていた。
「……助かった、のかしら? でも、あの店員……」
イリスが杖を握り直し、店員を警戒する。
レンは、カウンターの前に立ち、店員を見つめた。
彼の瞳には、店員の微笑みの奥に、かつて自分が世界を救うために構築した「等価交換の数式」が、悲しいほど鮮明に映っていた。
「……俺は、お前を知っている。……俺が捨てた『情緒』を、システムの一部として『管理』するために、俺自身が定義した……『忘却の管理人』だ」
レンの言葉に、店員はゆっくりと頭を垂れた。
『――流石は、レン様。……ご認識いただき、光栄です。……私は、貴方が捨てた全ての色彩、全ての温度を、この『光の箱』の中に、永遠に保存し続ける存在です』
店員が、カウンターの上に、一冊の「白紙の雑誌」を置いた。
『――レン様。……当店の規約に基づき、最後の取引を提案します。……貴方が、この世界のバグ……アストレア流魔導大系の『非効率なコメントアウト』を全て消去するとお約束いただけるなら……』
「……っ! 貴方、私の魔法を侮辱するつもり!?」
イリスが怒り心頭に発するが、店員は彼女を見ることさえしない。
『――代償として。……貴方がかつて、日本の大学で、最も愛していた『古本屋の老夫婦の笑顔の記憶』を、貴方の魂へと完全に『リストア』します。……如何ですか?』
レンの身体が、凍りついた。
老夫婦の笑顔。優しい緑茶の匂い。
それは、三年前のレンが世界を救うために捨てた「自分」の、最も柔らかく、最も尊い部分だった。
「レン様! そんな取引、絶対にしてはダメです!」
ステラがレンの前に立ち、店員を睨みつける。
「イリス様の魔法を犠牲にするなんて……! それに、貴方は、以前おにぎりの時、『昨夜の会話の記憶』を求めたわ! 貴方は、レン様の『今』の幸せを奪うことしか考えていない!」
『――ステラ様。……私は、システムの安定化を最優先とする『論理』です。……レン様が、過去の自分を取り戻し、不完全な情緒を抱えることは、この世界の記述にとって、致命的なエラー要因となります。……私は、ただ、彼を『完全な管理者』へと戻したいだけです』
店員が無機質な微笑みを浮かべたまま、レンに選択を迫る。
「……俺を、『完全』に戻す、だと?」
レンが、ぽつりと呟いた。
「……ああ。……論理的には、それが正しい。……俺が、完璧な管理者になれば、この世界の全てのバグは消え去り、人々は永久に平和な記述(物語)の中で生きられる。……代償は、俺の『今』の情緒だけ。……安すぎる」
「レン様!? 何を……何を言っているのですか!」
ステラが、レンの肩を激しく揺さぶる。
レンの瞳に、三年前の、あの冷徹な「黄金の光」が、微かに宿り始めていた。
「……ステラ。……俺は、俺であることを捨てない。……そう言ったな。……でも、それが『正解』だとは、今の俺には、もう定義できないんだ」
「レン! 貴方、正気に戻りなさい! 私の魔法がどうなろうと構わないわ! でも、貴方が、貴方の『今』を捨てることは、私が許しませんわ!」
イリスが杖をレンに向け、彼の「論理」を打ち砕こうとする。
レンは、カウンターの上の「白紙の雑誌」を、じっと見つめた。
老夫婦の笑顔。あの溫かい日々。
彼は、ゆっくりと手を伸ばした。
ステラの悲鳴、イリスの怒号。
それらが、システムの警告音のように、レンの脳内に響く。
レンの指先が、雑誌に触れた、その瞬間。
――ガガガ、ガガ……。
コンビニエンス・ストアの空間が、激しくノイズを上げ始めた。
蛍光灯が砕け散り、商品棚が崩れ落ち、世界の記述が、一点に収束していく。
レンが掴んだのは、雑誌ではなかった。
それは、システムの「原典」へと繋がる、たった一条の「光の糸」だった。
「……俺は、俺であることを捨てない。……そして、この世界の『記述』も、俺が書き換える」
レンの瞳が、黄金から、何もかもを呑み込むような「虚無の黒」へと転じた。
「――《再定義・万象共鳴――変換・管理者認証コード》」
彼は、システムの「等価交換」を拒絶し、自分という「パージされたデータ」を、システムの「ルート権限(ルート・権限)」へと強制的に『マウント』した。
「――が、ああああああ……っ!」
凄まじい情報の負荷が、レンの魂を貫く。
彼の髪が白く染まり、瞳から黒い光が溢れ出し、深夜のコンビニは、その輪郭を完全に喪失した。




