第十三話:『深夜0時のコンビニエンス・ストア』
荒野の夜は、すべてを拒絶するように深く、冷たい。
三年前のあの日以来、世界の空からは「管理用のグリッド」が消えたが、その代わりに真の闇が戻ってきた。松明の灯りが届く数メートル先は、何が潜んでいるか分からない未知の領域だ。
「……レン様、少し足元が不安定です。私の手を」
ステラが差し出した手は、革の手袋越しでもその力強さが伝わってきた。
レンは「ありがとう」と短く答え、彼女の手に己の指を絡める。かつての彼なら、こうした接触に対しても「効率的な移動の補助」としての最適解しか見出せなかっただろう。だが今の彼は、彼女の体温がもたらす微かな安心感を、定義不能な「心地よさ」として受け入れていた。
その時だった。
前方を歩いていたイリスが、唐突に足を止めた。
「……嘘でしょう。何ですの、あの『光』は」
レンが顔を上げると、地平線の向こう側に、夜の闇を鋭く切り裂くような四角い光の塊が見えた。
それは松明の揺らめく橙色ではない。不自然なほど均一で、暴力的なまでに白い、人工的な光。
近づくにつれ、その光の正体が明らかになっていく。
荒れ果てた大地に、ポツンと一軒。
白と赤と緑のラインが引かれた、見覚えのある看板。
自動ドアから漏れ出す、昼間のような明るさ。
そこには、ファンタジーの世界には一欠片の整合性も持たないはずの、『コンビニエンス・ストア』が建っていた。
「……あ」
レンの喉が、引き攣ったように鳴った。
脳の奥底、厳重にロックされていた「現代」のディレクトリが、その光を浴びた瞬間に強制的にマウントされた。
――二十四時間営業。
――深夜の排気音。
――揚げ物の匂いと、雑誌のインクの匂い。
それらは、三年前のレンが世界を救うために「ゴミ箱」へ捨てたはずの、どうしようもなく退屈で、かけがえのない日常の断片だった。
「レン様、ご存知なのですか? あの……あの奇妙な『光の箱』を」
ステラが剣の柄を握り締め、警戒を強める。彼女の目には、その建物は魔界の入り口か、あるいは邪神の罠にしか見えていない。
「……ああ。……俺の故郷には、どこにでもあった場所だ。……信じられない。なぜ、こんなところに……」
レンは吸い寄せられるように、光に向かって歩き出した。
入り口に近づくと、センサーが反応し、この世界ではあり得ない軽快な電子音が響いた。
――チャイム音。
「ひゃあ!? 何ですの今の音は! 攻撃魔法の予兆かしら!?」
イリスが杖を振り回すが、自動ドアは無情にも滑らかに開き、冷房の効いた乾燥した空気が一行を迎え入れた。
一歩足を踏み入れた瞬間、レンは目眩に襲われた。
整然と並ぶおにぎりの棚。
色とりどりのラベルが貼られたペットボトル。
床に反射する蛍光灯の光。
そこには、かつてのレンを構成していた「世界」の全てが凝縮されていた。
だが、そこには決定的な違和感があった。
棚に並んでいる商品は、すべて「白紙」だった。
おにぎりのパッケージには文字がなく、ペットボトルの中身は濁った灰色で、雑誌の表紙には顔のないモデルが立っている。
「……レン様、見てください。あそこに……『人』がいます」
ステラの指差す先、レジカウンターの奥に、一人の店員が立っていた。
お馴染みの制服を着ているが、その顔は霧がかかったようにぼやけており、輪郭が絶えずノイズのように震えている。
店員は、レンたちが近づくと、無機質な合成音声で言った。
『――いらっしゃいませ。……本日は、どの『忘却』をお買い求めですか?』
「……お買い求め、だと?」
レンが問いかけると、店員はゆっくりと、顔のない頭を傾げた。
『ここは、貴方が捨てたリソースの貯蔵庫。……貴方はかつて、ここにある全ての価値を『無駄』だと判定し、パージした。……ですが、データは消えません。ただ、重みを変えてここに留まるのです』
店員が、カウンターの上に一品の「商品」を置いた。
それは、文字の書かれていない、一個の『おにぎり』だった。
『これを食べれば、貴方は『母の握ったおむすびの味』を取り戻せるでしょう。……代償として、今、隣にいる少女と交わした『昨夜の会話の記憶』を差し出しなさい』
「――っ! ふざけないで!」
ステラが激昂し、カウンターに剣を突きつけた。
「レン様の記憶を取引材料にするなんて……! それに、昨夜の会話は、レン様が私に『これからも一緒にいてほしい』と言ってくれた、大切な……!」
「ステラ、落ち着け」
レンは彼女の肩を抱き、店員を真っ直ぐに見据えた。
彼の瞳には、店員の背後にある「記述の構造」が透けて見えていた。
これは悪意ある魔物ではない。
レンがかつて効率化のために切り捨てた「情緒」という名のバグが、システムの一部として、自身の正当性を主張しているのだ。
「……断る。……今の俺には、そのおにぎりの味がどれほど素晴らしいものだったか、もう分からない。……だが、それを知らないままでも、俺はステラと生きていくと決めたんだ」
レンの言葉に、店員はピクリとも動かなかった。
だが、店内の蛍光灯が激しく点滅を始める。
『――非合理的です。……過去の定義を失ったままでは、貴方の『自己』は不安定なまま。……いずれ、この世界のノイズに飲み込まれます』
「いいさ。……不安定なまま、新しい定義を書き込んでいく。……それが今の俺の『デバッグ』だ」
レンが強く拳を握り、店内の「空間記述」に直接干渉しようとしたその時。
自動ドアから、一人の「客」が入ってきた。
それは、全身を黒いボロ布で覆った、異様に背の高い男だった。
男が歩くたび、足元のアスファルト……いや、コンビニの床が黒い煤のように腐食していく。
「……レン。久しぶりだな。……いや、今は『三代目』と呼ぶべきか」
布の隙間から覗く、光のない瞳。
「……アイン。生きていたのか」
「……死んだよ。お前に消去されたあの日にな。……だが、俺もまた『捨てられた記憶』の一部だ。……このコンビニにある、お前の『未練』を食らいにきた」
アインが手をかざすと、白紙の商品棚が次々と黒い霧に包まれ、店内に不穏な電子音が鳴り響く。
世界から消去されたはずの「二代目」と、記憶を拾い集める「三代目」。
深夜のコンビニエンス・ストアは、瞬く間に、過去と現在の執着が激突する戦場へと変貌した。
「ステラ、イリス! ここは俺の『内面』とリンクしている! 物理的な攻撃よりも、言葉の定義を強く持て!」
「承知しましたわ! ――《再定義・この場所は私の庭》!」
イリスの叫びと共に、コンビニの天井から蔦が伸び、現代的な棚をファンタジーの緑で侵食し始める。
レンは、カウンターに置かれた「白紙のおにぎり」を掴み、それをアインに向かって投げつけた。
「アイン! お前が求めているのは過去の残滓だ! だが、今の俺が綴っているのは――未来の、書き出し(プロローグ)だ!」
おにぎりが空中で砕け、そこから黄金色の「文字」が溢れ出した。
それはレンが思い出したばかりの、ステラとの何気ない日々の断片。
光がアインを撃ち抜き、深夜のコンビニは、その輪郭を激しく揺らし始めた。




