大人気ない?
「……そ、その、よろしくお願いします、三神さん」
「ふふっ、そんなに緊張しなくていいのに。うん、よろしくね弥夢さん」
翌日、夕さりにて。
種々の立派な器具が置かれた白い空間にて、たいそう緊張をしつつご挨拶をする僕。すると、可笑しそうに微笑む三神さん。……いや、緊張はしますよ? ほら、そもそも初めてですし、こういうお仕事。
さて、言わずもがなかもしれないけど、今いるのはトレーニング用のジム。とは言え、どこかの公共の施設というわけではなく……三神さんのご自宅に設置されているジムで……うん、ほんとすごいね。あの報酬も納得だよ。尤も、雇う相手が僕などでなくちゃんとしたコーチだったらの話だけども。
ともあれ、流れるような動きで準備運動を進める三神さん。今は、座った状態で両足を伸ばしていて。……ところで、今更だけど……確か、さっきまで部活だったんだよね? それも、全国でも名高い強豪校――偏見かもしれないけど、きっと練習も相当に厳しいはずで。なのに、その後でも辛そうどころかすごく楽しそうに……うん、ほんとにすご――
「……あれ、何ぼおっとしてるの? 弥夢さん。早く押してよ、背中」
「…………へっ?」
改めて尊敬の念を感じていた最中、ふと思いも寄らない言葉が届く。……えっと、聞き間違い? いや、でもはっきり聞こえた……はず。うん、だとすれば――
「……あの、三神さん。その、生憎ながら僕は自撮り棒は持っていないので押すことはできかね――」
「いや持ってると思ってないよ。あと、持ってても絶対にそれでは押されたくないし」
躊躇いつつそう告げるも、呆れたような口調で返事が届く。……いや、しかしそうなると……その、この僕の手が彼女の背中に触れることに……でも、それは――
「……いや、でもそれはコンプラ的に……」
「……いや、コンプラって……でも、気にするのも仕方ないか。よく言われてるしね、そういうの。でも、こういう場合は気にしなくていいんじゃない? よく分かんないけど、あれって被害が出ないようにするためのルールでしょ? でも、私の方からお願いしてるんだから被害も何もないわけだし。それとも……弥夢さんが個人的に嫌、ってこと? 私に触れるのが」
「……へっ? あっ、いやそんなことは――」
「……そっか、よかった。うん、だったら何の問題もないじゃん。ほら、早く!」
大いに逡巡する僕に、理解を示しつつも不安そうに尋ねる三神さん。……うん、そう言われてしまえば応じないわけにもいかないか。実際、嫌とかでは全くないわけだし。
そういうわけで、おずおずと彼女の背中へと手を添える。……マズい、鼓動があまりにも――
「ふふっ、緊張しすぎじゃない? めっちゃ手ぇ震えてるし。もしかして、意外に女の子と付き合ったこととかなかったり?」
「…………悪い、でしょうか?」
「……あっ、そうなんだ……ううん、全然……」
すると、案の定というか、こちらを振り向きからかうように尋ねる三神さん。だけど、ぶっきらぼうな僕の返事に戸惑ったのか、さっと目を逸らし呟くように……しまった、ちょっと大人気なかったかな? その、ちょっと恥ずかしくなってつい――
(……そっか、付き合ったことないんだ……ふふっ)
「……ん?」
「ううん、何でもない。ほら、もっと強く押してよ弥夢さん」
そんな後悔の最中、すぐ前から微かな声が。でも、何を言ったのかまでは聞き取れなくて。……でも、最後にちょっと笑い声が……うん、やっぱり馬鹿にされちゃってる? まあ、反論の余地もないけども。
「――改めてだけどお疲れさま、弥夢さん。今日はありがとね!」
「いえ、僕はそんなに……そちらこそ大変お疲れさまです、三神さん。そして、こちらこそありがとうございます」
指導開始から、およそ二時間後。
すっかり夜の帳が下りた頃、三神家のお宅の前にて挨拶を交わす僕ら。うん、本当にお疲れさまです、三神さん。……ところで、それはそれとして――
「……ですが、申し訳ありません。結局、僕はほとんど何もしていなくて……」
「えっ、十分してくれたじゃん。練習も手伝ってくれたし、フォームがズレてることも指摘してくれたし」
「……まあ、三神さんがそう仰るなら……」
たどたどしくそう伝えると、ポカンとしたお表情で答える三神さん。指導開始、とは言ったものの、正直のところほとんど何もしてないんだけど……でも、教わる側の三神さんがこう言ってくれてるなら、僕の方から頑なに否定するのも可笑しな話なのかも。
「――それじゃあ、次は明後日だけどその時もまたよろしくね、弥夢さん」
「はい、ありがとうございます三神さん。そして、こちらこそよろしくお願いします」
「ふふっ、相変わらず堅いね」
その後、改めて挨拶を交わす僕ら。すると、深々と頭を下げたためか少し可笑しそうな声が……堅い、か。まあ、否定はしないけど……でも、お互いの立場を考慮してもこれで間違ってはいないはず。
「…………ふぅ」
それから、数時間後。
帰宅後、食事の前にいったん自室へ。そして、少し震える手で封筒を開く。その中には、少なくとも一日のバイトでは到底稼げないほどの金額が。……うん、これなら想定より随分と早く全額返すことができそうで。もちろん、このまま契約を続けていただければ、という前提にはなるけれど。……うん、解雇にならないよう頑張らなくちゃね。
……だけど、どうしてだろう。もう、とうに決意はできていたはずなのに……こんなにも、胸が痛んでしまうのは。




