第35話 ……逃げました
横の兵が先に口を開いた。
早口で、逃げ道を作る暇がない声だ。
「……逃げました」
言い切ってから、場所を吐く。
「国境の……魔物に襲われた場所だ」
「場が騒然として、誰の声も通らなくなってた」
喉が鳴る。
「そこで、ベッセン殿が馬を替えて――」
アルネは声量を上げずに止めた。
「順に言え」
「“馬を替えた”のを見た者は誰だ」
椅子の兵が視線を泳がせる。床、扉、ゼクスの靴先。
最後に私の方へ来て、逸れた。
「……俺も見た」
短く吐いて、続きを絞り出す。
「倒れた馬が道をふさいでた。足を引きずってる兵がいて、鎧を外す音もしてた」
「ベッセン殿はその横を避けて、近くに残ってた馬の手綱を掴んだ」
「誰かが止めようと声を出した。でもベッセン殿は聞かなかった」
兵の指が膝の上で固まる。
「“ベンデル卿に報告だ”って言って……鞍に乗った」
私はそこで、逃げ道を塞ぐ問いだけを重ねる。
「先に、どこへ」
「誰を残しましたか」
「担架の列を見ましたか」
兵の口が、言い訳へ向かいかけて折れる。
「……国境に向かって、ソレイユ側の灯りの方へ走りました」
「後ろを残して」
「担架の布が引かれて、救助の声が出た頃には、もういなかった」
記録官が紙へ落とす音だけが続く。ペン先が擦れる乾いた音が、部屋の中でやけに大きい。コップの水面が小さく揺れて、すぐ止まった。
ゼクスが記録官の書面へ視線を落として言う。
「確認します」
「ベッセンは魔物が出た時点で逃げた」
「“ベンデル卿に報告だ”と言って馬を替えた。――見たな」
兵が喉を鳴らして、短く答える。
「……見ました」
アルネが間を置かずに続ける。問いが短い。逃げる余地を与えない。
「その後、誰が指揮を取った」
「クレールは何をした。見たまま言え」
椅子の兵が答えかけて、言葉を濁す。
目が床をなぞり、喉が鳴る。
「……隊長は……」
曖昧にした瞬間、背後の兵が椅子の背へ体を寄せる。
逃げる方向が消える。
私は返さず、問いだけを重ねた。
矛先を“物”へ移して、言い逃れを削る。
「赤い石について確認します」
「袋が運ばれるところを見ましたか」
「袋に触れた者を見ましたか」
アルネが私へ視線だけを寄せる。場の順番を整える確認だ。
「赤い石は、誰の所持から回収された」
私は事実だけを揃えて答える。飾らない。
「クレールの腰袋です。回収の場にいました」
「治療のために外された装備から、兵が回収しました」
「その後、運び込まれて、記録官の前で出ました」
私はそのまま詰める。声は静かだが、答えの形を先に決める。
「回収した兵の名を言ってください」
「運んだ者の名も」
「机の前へ出した者の名も」
「明日になって“覚えていない”と言えない形にします」
アルネが記録官へ言う。私の言葉を、その場の手順に変える。
「回収者の名、運搬の名、立会いの名を並べて書け」
「順番も書け。誰が、いつ、どこで触った」
記録官のペンが走る。行が増える。
兵の呼吸が浅くなる。水差しへ目が走っても、手は動かせない。
椅子の背後の兵が位置を変えないからだ。
最初に揺れていたのは名だった。クレールか、ベッセンか。
責任の行き先をずらしたくて、口が迷う。
だが「逃げました」という一語だけは消えない。
記録官が同じ語を次の行へ写し、補足を書き足す。
アルネは声を荒げない。問いを短くして、兵が言い訳を始める前に戻す。
記録官は顔を上げずに書き続ける。紙の上に残るのは、石より先に、触れた名と順番だった。
◆赤い石へ
治療区画の端に、簡易寝台が一つ置かれていた。
漂うのは、清潔な布と鼻を突く薬の匂い。
壁の向こうでは担架が床を擦る音と絶え間ない号令が響いているが、この一角だけは澱んだ重苦しさが支配している。
クレールは起き上がれなかった。
胸の上下は弱く、剥き出しの肩が細かく震えている。
言葉を発しようとするたびに喉の奥で
空気だけが空回りし、掠れた音さえまともに紡げない。
近くには数人のソレイユ兵が集まっていた。
だが、誰一人として寝台に駆け寄ろうとはしない。
一定の距離を保ったまま、助けられた直後の気まずさと、これから始まる「追求」への恐怖に震えている。
看護兵が通路を確保し、寝台の横に立てる者を一人に制限した。二人目が無意識に寄ろうとすれば、無言で掌を上げて制する。
そこへ、重厚な靴音と共にアルネが現れた。
傍らには、すでに次の紙を用意した記録官を従えている。
ゼクスは出入り口に近い通路側に立ち、廊下の動きと周囲の兵に目を光らせる。
私は寝台から一歩離れた正面に立った。
あえて手は伸ばさない。慈悲を見せれば、この男は「情にすがって」事実をねじ曲げるだろう。それを許すつもりはなかった。
アルネが、寝台を見下ろして短く告げる。
外の救助を妨げない、だが有無を言わせぬ響き。
「救助は続ける。だが、話はここで残す」
「答えるのは『見たこと』だけだ。言えないなら『言えない』と言え。それも記録する」
記録官が迷いなく筆先を整えた。寝台の横で、罪を数え上げるための準備が先に完成する。
クレールがようやく言葉を探し、震える唇を動かした。
「……俺は……反対した……」
それだけを言い終えて、彼は激しく咽せた。
胸が大きく跳ね、肺の空気をすべて吐き出すような呼吸が続く。
指先が寝台の布を掴み、白くなるほど強く握りしめた。
皺が寄るその布地と同じように、彼の弁明も無惨に歪んでいる。
息が少し落ち着いた隙を狙い、クレールが縋るような言い訳を押し込んできた。
言葉の端がかすれ、聞き取りにくいほどに湿っている。
「ベッセンが……命令したんだ……」
寝台を囲むソレイユ兵たちが、互いの顔を見合わせた。誰もが動揺を露わにしているが、クレールに歩み寄る者はいない。
看護兵が通路を塞ぐように立ちはだかり、許された「一人の位置」を厳格に守らせているからだ。
アルネは寝台の横から廊下へ一度だけ視線を走らせ、すぐにクレールへと戻した。救助の足音が絶え間なく通り過ぎ、そのたびに布と薬の匂いが攪拌される。
クレールは寝台を掴む指に力を込め、苛立ちを隠さずに声を上げた。
「ベッセンはどこだ。あいつを呼べ!」
返事はない。
クレールは寝台の布を掴み、言葉を探す。
「あいつは……俺を……」
語尾が消える。目だけが動き、部下たちへ助けを求める。
だが誰も頷かず、視線も合わせない。
私は静かに言った。責めるためではない。
別室で残った事実を、そのままここへ移すためだ。
「ベッセンは、ソレイユ国境へ走りました」
「負傷者と隊列を残して」
クレールの喉がひきつるように鳴った。
寝台の上で強張った身体が、言葉の意味を理解するのを拒んでいるようだ。
アルネは一言も付け足さない。
記録官は顔を上げず、いま発せられた「逃亡」という事実を、冷徹な筆致で行に落としていく。
私は彼を叱らない。ただ問いを重ねることで、塗り固められた言い逃れの壁を一枚ずつ剥がしていく。
「『反対した』というその場面を、詳しく言ってください」
「誰の前で、どんな言葉で止めましたか」
「それを聞いた者は、今この場にいますか」
クレールが深く息を吸い込んだ。言葉を絞り出そうとして、また咳が込み上げる。
激しく肩を揺らし、ようやく出たのは消え入りそうな声だった。
「……国境だ。……あそこで止めた。こんな真似をすれば、戦争の火種になると……」
私は続けて問う。
「止めた相手は誰ですか。ベッセンですか。それとも別の騎士ですか」
「その後、あなたは誰の命令で追跡を続けましたか」
クレールは息を吸い、かすれた声を作った。
「……俺は……部下を守るために……」
言葉が途切れ、指が寝台の縁を掴み直す。視線は上がらない。
「だが……ベッセンが、ベンデル卿の名を出した」
「『卿の命令だ。止めるな』と」
「逆らえば、俺だけじゃない。隊ごと責任にする口ぶりだった」
「それで、あなたは何をしましたか」
「追跡を命じましたか。止めましたか。どちらですか」
クレールは答えず、唇を噛んだ。喉が鳴り、息だけが荒く入る。
しばらくして、絞り出すように言った。
「……従うしかなかった」
「ベッセンが前に立って、卿の名を出した。あの場で止めたら、隊ごと潰される」
「だから……俺は、前へ出るしかなかった」
言葉が途切れる。自分で言って、自分で飲み込む顔になる。
寝台の周りのソレイユ兵たちの視線が、一斉にクレールへ集まった。負傷した隊長を案じる目ではない。
置き去りにされた側の目だ。逃げた者の名を聞いた後の目だ。
「従った」と言いながら、命令を出した者を見る目だった。
廊下を担架がまた一組通り過ぎる。布が擦れる音と、短い号令が遠ざかる。
この区画だけ、誰も声を足さない。
記録官のペン先が紙を擦る音だけが続く。いま口にした言葉が、文章として残っていく。
「分かりました」
私は感情を削ぎ落とした声で応じ、次の問いを突きつけた。
「赤い石について答えてください」
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