第32話 助けてください、セラフィナ様
魔物の圧が抜けた直後、空気だけが遅れて落ちてきた。
煙が薄く流れ、焦げた鉄と土の匂いに血の生温かさが混じる。
残るのは呻き声と、どこかで続く乾いた咳だけだった。
街道には倒れた王国騎士、散った国境警備隊、転がる魔物の死骸。
暴れた馬が横へ跳び、蹄が石を叩く。鎧が擦れ、助けを求める喉の音が混じる。
動くものは、生き残りか、制御を失ったものか――どちらかだった。
その中でクレールが膝をついていた。
立っているつもりの姿勢のまま腰だけが落ち、血が止まらない。指先が地面を探り、呼吸は浅い。声を出そうとしても喉の奥で途切れる。
遠くから新しい蹄音。今度は乱れがない。
重なるほど間が揃い、灯りが列になって近づいてくる。
走っているのに隊列が崩れない。
短い号令が飛ぶ。
先頭が街道へ現れ、目が一度流れるだけで状況を掴む。
「何だこれは……負傷者を後ろへ!」
「馬を落ち着かせろ! 歩ける者は道を空けろ!」
「誰が指揮官だ!」
兵が散り、負傷者の周りに人が付く。
鎧の留め具を外し、出血を押さえ、顎を支えて呼吸を確かめる。
命令は短く、動きは速い。混乱がとけ、呻きがあちこちから上がり始めた。
ゼクスが馬車から降りた。
兵の視線が一瞬だけ寄る。だが彼は見返さない。馬車の中――私に向けて、必要なことだけを言った。
「バルハイムの兵が来ました」
次いで、外へ向けて告げる。言葉は短く、要点だけを。
「こちらに要救助者が多数」
「王国側の負傷者がいる。救助を優先してくれ」
指揮役の視線が、倒れている王国兵へ一度だけ止まった。
けれど迷いはそこまでだった。
「救助を優先する。手を止めるな」
その声が落ちた瞬間、現場の動きが切り替わった。
鎧の留め具が外され、出血が押さえられ、顎が支えられて呼吸が確かめられる。
担架代わりの布が引かれ、道の端へ負傷者が寄せられていく。
叫ぶより早く手当が進み、街道の混乱が負傷者の周りからほどけていった。
輪の外でクレールが顔を上げた。目だけが命令を作るのに、喉がついてこない。
「……俺は……」
声が割れて途切れ、膝がずれて片手が地面を探す。
石を掴み損ねて手甲が滑り、鎧の隙間から血が落ちた。
呼吸は浅く、吸うたび喉が鳴る。
「隊長! 隊長が……!」
「止血を――!」
駆け寄ろうとした王国兵が押し返される。
「動かすな、押さえろ」
バルハイム兵の短い声に足が止まった。
手当の輪の外へ出ようとしても、簡単には動けない。
クレールの視線が馬車へ泳ぐ。怒りより先に、生きるための焦りが出る。
言い訳が喉で折れた。
「……俺は反対した……」
「……助けろ、セラフィナ」
私はすぐには動かない。先に言う。
「隊長。今の状況を理解していますか」
私は詰めず、言葉だけを落とした。返事を待つ間、現場の音が一段静まる。
止血の手は動いたまま、視線だけがこちらへ寄る。
クレールは歯を食いしばり、睨み返そうとして目が揺れた。
喉が鳴り、息が引っかかる。鎧の隙間から血が落ち、石に黒い点が増える。
「……俺は……」
言い訳の頭だけが出て、咳に潰れた。肩が落ち、膝が沈む。
片手が地面を探って滑る。
その瞬間、王国兵の声が命令から懇願に変わった。
「セラフィナ様、お願いいたします……!」
「助けてください……!」
土に膝をつく者が出た。血で濡れた手を胸の前に重ね、
言葉にならないまま頭を下げる者もいる。隊長に屈してほしいのではない。
ただ、ここで息が途切れれば終わる――その恐れが顔に滲んでいた。
ゼクスが視線だけで現場を測り、短く言う。
「この男が死ねば、国境での報告が滞ります」
「混乱が残れば、王国は都合よく話を作る。ここで収めてください」
言い終えると、余計な言葉は足さない。
ただ一つだけ、こちらへ寄せる。
「……セラフィナ様。可能なら」
クレールの唇が震えた。謝罪に届かない。息が続かない。
それでも言わなければ終わる。
「……頼む……助けてくれ……セラフィナ様……」
その言葉が形になる前に、私は膝をついた。
クレールを正面から捉え、乱れた息の途切れ方だけを見る。
喉で詰まるのか、胸が開かないのか。
指先を頸へ当て、脈の輪郭を拾う。速い。浅い。けれど、まだ繋がっている。
そこで魔法で確かめる。光は小さい。薄い感触を指先に集め、体の内側へ流す。
呼吸の道、肺の広がり、血の巡り。どこで落ち、どこが足りないかが手触りで返る。
同時に周囲の負傷者にも走らせ、私の視界の端で、息が浅い者、出血が重い者を分ける。
迷う時間はない。順番だけ先に決めた。
「動かさないで。押さえて。そこは離さないで」
短く告げると、バルハイム兵の手が止まり、王国兵の手も同じ場所へ落ち着く。
誰が敵かは今は関係ない。必要な動きだけが揃う。
私はクレールへ戻り、鎧の留め具には触れず、隙間から“圧”の入る位置を決めた。
止めるのは傷口そのものじゃない。流れの上を、逃げ道ごと塞ぐ。
位置を少しずらし角度を変える。
押し込むのではなく、流れを受け止める当て方だ。
血の落ち方が変わり、走っていた滴が鈍って、重く滲む形になる。
止まってはいない。だが崩れる速さが一段落ちた。
止血は続いている。
周囲は言葉を失い、目だけが手元を追い、次の変化に同じ一点で備えた。
私はクレールの傷口に指を触れない。触れるのは空気だ。
血の匂いの上に魔力の流れが重なって見える。
乱れ、漏れ、詰まっている。――その乱れだけを拾い、ほどく順番を決める。
同時に周囲の負傷者へ視線を走らせた。倒れた者の上に、薄い紋が一瞬だけ浮く。
光でも合図でもない。押さえる場所と、離してはいけない箇所だけが刻まれて消える。
「そこ。動かさないで」
バルハイム兵の掌が迷いなく置き直される。
言葉より先に体が位置を覚える。余計な説明は要らない。
必要な点だけが伝わる。
私は呼吸を整え、短く唱えた。
「リカバーヒール……」
派手な輝きは起きない。
代わりに空気が一段落ち着き、魔力が暴れず、狙った分だけが流れ込む。
まず息が戻る。喉奥の引っかかりがほどけ、浅かった呼吸が深くなる。
次に震えが収まる。胸がわずかに持ち上がり、肩の跳ねが止まる。
悲鳴になりかけた音が、ただの息へ変わる。
そして血。止まったわけじゃない。
溢れる勢いだけが折られ、漏れ方が耐えられる速度に変わる。
押さえる手が効く形へ寄る。
指先に脈が返ってきた。
弱い拍が芯を持ち、瞼が震え、焦点が合いかけて外れ、また戻る。
私はもう一段だけ入れる。治し切らない。
生きる側へ引き戻すだけで止める。
周囲の兵が息を呑む。術は散らず、必要な者へだけ届いている。
「……術が、分かれてる」
誰かが低く言った。
王国兵が押さえたまま喉を鳴らす。
「血が……落ち着いた……」
指揮役が短く返す。
「余計なところに触れていない。負傷者だけ拾ってる……」
クレールの口が開く。
音にならない息が抜け、喉が言葉を探す。
「……っ、は……」
生きている反応が戻った。
それで十分だ。倒れている者はまだいる。
私の感知は、次に崩れかける息を、もう拾っていた。
「……俺たちを……助けた……?」
小声が落ちた。王国兵の視線が、倒れた仲間と私の手元を行き来する。
助かった事実だけが先に残り、噂の形が崩れていく。
「低魔力の、結界維持のお飾りだって……」
「じゃあ、今のは……誰が……」
言い切っていた言葉ほど、裏返ると早い。
疑いが揺れに変わり、揺れが怖さを呼ぶ。
誰も近づけず、距離だけができた。
私は顔を上げずに言う。
「私は、魔力が少ないなど、一言も言ってません」
息を呑む音が、あちこちで重なった。
結界の硬さ。
落ちた光。
今の回復。
それを一人がやっていると、ようやく全員が同じ場所を見始める。
「……全部、同じ人間が……?」
「王都は……何を隠してた……?」
「誰が言った」
「……王都の“言い分”だ」
噂は消えた。残ったのは、目の前の現実だけだ。
敬意か屈辱か――顔色が決めきれずに揺れる。
そこへバルハイム側の指揮役アルネが進み出た。声を張り上げない。現場を動かすための短い声で告げ、次いでゼクスへ向き直って片膝をつく。
「ゼクス様。保護対象を確認いたします。馬車の方々は、こちらで引き取ります」
「王国側の負傷者も救助します」
言い終えると、アルネは顔を上げたまま命令を重ねる。
「武器は預かる。外せ。置け」
命令は短い。兵が散り、剣帯が外され、槍が束ねられて道の端へ寄せられる。
反発する余力は残っていない。救われた事実だけが、抵抗の言葉を先に潰していく。
ゼクスは一歩も動かず、淡々と答えた。
「手続きは任せます。救助を優先してください」
「了解しました、ゼクス様」
その足元で、クレールがかすかに息を吸う。生きている。
だが立てない。王国兵が駆け寄りかけて止まった。
助けられた直後の距離の取り方が分からない顔をしている。
背後の暗がりには、まだ嫌な匂いが残っていた。
群れの寄り方が揃いすぎている。偶然で片づけるには、出来すぎている。
国境の手前――こちら側で、新しい蹄音が増えていく。救助の手が増え、負傷者が運ばれ、武器がまとめられる。
次に残るのは、王国へ戻った者が何を報告するかだ。
クレールが目を開けたとき、何を言うのか。
そしてバルハイムへ入れば、私はもう前と同じ場所には戻れない。
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