第30話 狩りが、崩れる
追跡隊は結界を割れない。止められない。だから詰める。届かないなら、届く距離まで詰める――それだけを信じた動きだった。
号令が飛ぶ。
「もっと寄せろ!」
「車輪だ!」
「馬の脚だ、鎖を入れろ!」
隊列はまだ揃っている。
追う側の形を保ったまま、間合いだけを削ってくる。
その直後、魔法騎士の一人が苛立ち混じりに杖を振った。
「探せ。周辺を洗え。逃げ道を潰す」
放たれたのは光でも音でもない。
広域探知の波だった。森の奥に溜まった魔素へ滑り込み、表面を撫でるように広がっていく。
撫でられた瞬間、森が反射するようにざわついた。
葉が鳴るのではない。空気が硬くなり、暗がりの密度が変わる。気配が、こちらへ揃う。
偶然ではない。
呼んだのは追跡隊自身だ。
国境線の綻びに、結界の火花が散る。
逸れた魔法の衝撃が土を震わせ、蹄の振動が森の奥へ届く。
そこへ探知の波が重なった。
刺激が積み上がり、眠っていた群れの輪郭を起こす。
前兆は、音ひとつから始まった。
蹄でも鎧でもない。草を裂く音、枝が折れる音、地面を擦る音が、隊列の横に混じる。
次に匂いが来る。
湿った土と獣脂の臭いに、鉄臭い息が重なった。風向きで流れてきたのではない。距離そのものが詰まってくる匂いだった。
追跡隊の誰かが横を向いた。
槍先が揺れる。
その揺れが隣へ伝わり、揃っていた角度が少しずつ崩れた。
統制はまだ残っている。
だが、統制が残っているうちから、隊列の横に裂け目だけが生まれていく。
そこへ、魔物の群れが滑り込んだ。
背後横から、斜面から、林から、側道から。
逃げ場のない角度を選ぶように、列ではなく幅で迫ってくる。
暗がりが動いたのではない。
暗がりの中にいた輪郭が、一斉に起き上がったのだ。
追跡隊の横腹へ、噛みつきにくる。
退路は国境線側だった。
だが、後続が詰めている。自分たちで積んだ壁が、背後にできていた。
戻れば押し潰される。
前へ出れば結界に阻まれる。
前へ向けていた力が逃げ場を失い、その横腹を折られた。
最初に倒れたのは、人ではなく馬だった。
横から押し寄せた群れが脚に絡みつき、踏み替えを奪う。蹄が空を掻き、巨体が横倒しに落ちた。
鞍から騎士が放り出され、道に転がる。
後続の蹄が止まらない。
踏みかけ、跳ね、避けきれずに隊列の線が乱れた。
次に起きたのは詰まりだ。
倒れた馬を避けようとした者が進路を塞ぎ、後続が押し寄せる。
圧が逃げ場を失い、人と馬の塊になる。
動けない場所から食いつかれる。
魔物は散らばらなかった。
密になった場所へ集まり、腹や鎧の継ぎ目、露出した喉へ牙を入れる。槍が振れない距離で、噛みつきだけが進む。
追跡隊は反転しようとする。
だが、それはもう統制ではない。
振り向く者、馬を抑える者、槍を突き出す者、倒れた者を避けようとする者。
全員が違う動きを始め、同じ方向を向けなくなっていた。
旗が振られ、角笛が鳴る。
それでも前列は結界へ向いたまま、後列は魔物へ押され、横列は暴れる馬に塞がれる。
号令は届いている。
届いているのに、従えない。
魔法騎士は火線を引こうとし、弓兵は矢を番える。
だが、味方が近すぎて角度がない。
撃てば味方を巻き込む。
撃たなければ食われる。
迷いの一息ごとに、距離が詰まる。
さっきまで揃っていた鎧の擦過音が、ばらばらの悲鳴に変わった。
馬が暴れ、荷が落ち、槍が折れる。
統制で怖かった軍が、ただの塊へ崩れていく。
壊滅は一瞬ではなかった。
だから余計に悪い。
横腹が潰れ、列が乱れ、それぞれが生き残るために別の動きを選ぶ。
追うための形を保ったまま、追跡隊は内側から裂けていった。
その騒乱の最後尾に、クレールがいた。
指揮の位置ではない。
それでも最後尾に留まるしかない。
崩さない役目が、いまは逃げ道を塞いでいる。
動けば裂ける。
動かなければ呑まれる。
冷えた鎧の光だけが、選べない場所に残っていた。
馬車の前方は開けている。
追跡の圧が、一瞬だけ薄れた。
助かった――そう思いかけて、背後の空気が変わる。
追う音が消えたのではない。
別の音に塗り替えられただけだ。
戦場の匂いが追いついてくる。
ゼクスが窓の外を短く見た。
「いったん助かりはしました。ですが、このままでは、こちらも巻き込まれます」
その言葉の中身は、窓の外に揃っていた。
魔物の群れが押し出されれば、流れは街道を伝ってこちらへ来る。
見捨てれば、見捨てたと形にされる。
手を出せば、越境直後の介入として揉める。
私は窓の外を見たまま、言葉を飲み込む。
反撃の許可はない。
だが、目の前で人が死ぬ距離だ。
背後の戦場から悲鳴が一段上がった。
追跡の声でも命令でもない。
次の行動を迫る音だった。
追跡隊は崩れ、魔物は勢いを増し、国境の暗がりが血で濃くなる。
馬車はまだ走れる。
だが、走るだけでは済まない状況が、背後で出来上がっていた。
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