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第16話 国境前、止める者たちが揺れた

「止まれ」


 短い声と同時に、馬車の横で金具が鳴った。

 車輪止めが地面を叩き、護衛の気配が変わる。

 だが、誰も先に声を荒らげない。


 窓の向こうには、荷車の列の先に国境の城壁が見えていた。

 詰所へ近づくほど道幅は狭まり、馬車は思うように進まない。


 待てば待つほど、追う者に利が出る。

 強引に動けば、こちらから国境の兵を押し退けたことになる。


 護衛たちは声を出さず、馬の位置だけを少しずつ直していた。

 すぐ動けるようにしながら、先に手を出したとは言わせない構えだ。


「荷を開けろ」

「順に見る。動くな」


 隣の荷車で縄がほどかれ、木蓋が軋んで開いた。

 乾いた粉の匂いが、窓の隙間から車内へ流れ込む。


 兵たちは通常の検問を装いながら、こちらの前を塞ぎ、窓の横と後にも回っていた。

 すでに馬車を動かさないための配置になっている。


 ゼクスの膝には、先ほど私へ向きを変えた書類が開かれたままだった。


 承認欄の印。その下に記された名前を読む。


「……ベンデル卿」


 結界維持局責任者。アルベルトの署名と同じ日付で、承認印が押されていた。


「この者が手続きを通したのですか」


「はい。この印がなければ、指輪は正式な鍵として登録されません」


 承認欄には、契約条件を確認したことも記されている。

 問題があれば差し戻せる立場にいながら、ベンデル卿はそれを通した。


「私の名は」


「ありません。この手続きに残っているのは、殿下の署名とベンデル卿の承認です」


「誰が、ここまで調べたのですか」


「シュバリエ卿です。王都の運用に関わる資料から、殿下の決定を誰が通したのかを拾って、こちらへ回してきた」


 殿下が勝手に進めた。自分たちは知らなかった。

 止めようとしたが、間に合わなかった。


 ベンデル卿は、そのどれも使えない。

 アルベルトの決定を正式な手続きへ変えた印が残っている。


「まず潰すべきは、殿下一人へ責任を押しつける逃げ道です」


 ゼクスは名前ではなく、肩書きと承認欄を指で示した。


「手続きを止められる立場にいながら、止めなかった。その事実だけで十分です」


「シュバリエ卿は、そこまで読んでいたのですね」


「相手がどこへ逃げるかを、よく見ています」


 ゼクスは承認記録を儀式記録へ重ねた。

 殿下の決定と、それを通した者が同じ書類の中に残っている。


「ただし、それだけでは足りません」


 私は顔を上げる。


「王都が壊れた後、相手は必ず責任をあなたへ向けてきます」


 外で、兵の一人がこちらへ近づいた。

 護衛が馬の首をわずかに向ける。

 それだけで、兵の足が止まった。


 ゼクスは続ける。


「だから次に出すのは、あなたが壊した証拠ではありません」


「私が、被害を抑えるために残した備えですね」


 ゼクスが頷いた。


「王都の結界が薄くなったとき、最初に詰まるのはどこですか」


「平民街の端です」


「王宮ではなく?」


「王宮は最後まで持つように組まれています。最初に支えが外れるのは、守りの薄い外側です」


 私は窓の外へ目を向けた。


「まず灯り。次に水です」


 ゼクスが短く補う。


「路地の目印と、生活を支える場所から落ちる。角と井戸ですね。

 だから、あなたは平民街を、結界に頼り続ける運用から外したのですね」


「はい。結界が止まっても、灯りと水だけは人の手で回せるようにしました」


「検分鏡で確認した時に井戸の列が崩れなかったのは、その結果ですか」


「王宮の命令を待たずに、決めた者が動いた結果です」


 そこまで分かっていて、王宮は動かなかった。


 井戸の前で列が乱れかけた時の声を、まだ覚えている。

 私は目立たない外套で平民街へ入り、先に混乱が出る場所だけに手を入れた


 井戸の取水口には、点検優先の刻印を入れた金属環。

 街灯の根元には、釘を使わず差し込める刻印板。

 避難路の角には、夜でも曲がり角が分かる反射板。


 魔法ではない。

 壊れた後でも、人の手で使える目印だ。


 それだけでは足りない。


 井戸、灯り、角。

 三つの焼き印を入れた当番札を増やし、受け取った者に名を残させた。

 最後に、井戸番の木印を押させる。


 誰が札を受け取ったか。

 誰が次に井戸を見るか。

 灯りが落ちた時、どの角を先に確認するか。


 それが、王宮の指示を待たずに回るようにした。


 慈善ではない。

 転倒と渋滞への保険だ。


 平民街には、壊れた後に人が動く手順がある。


 貴族街には、それがない。

 魔法灯は白く並び、噴水も庭の散水も動いている。

 だが、水桶も、松明も、油壺も、手で回す弁も見えなかった。


 設備が動いている間は、何も困らない。

 けれど一度止まれば、誰がどこへ行くかも決まっていない。


 王宮には、現場へ出した指示も、備えを確認した記録もない。


 誰が現場を見ていたか。

 誰が黙って通したか。

 誰が、止められる立場にいながら止めなかったか。


 崩れた後に、それは隠せない。


 私は短く告げた。


「王宮の命令がなくても、井戸を見る者、灯りを見る者、避難路を開ける者が動けるようにしてあります。刻印板も当番札も、混乱した後に人を止めないための備えです。誰が備えていたかも、そこに残ります」


 ゼクスが頷いた。


「同時に、備えなかった者も、記録から逃げられません」


 私は窓の外へ目を向けた。


「知らなかったとは言わせません。止められなかったとも」


 車内に、短い沈黙が落ちた。


 これは慈善の記録ではない。

 王宮が責任を押しつけてきた時、そのまま押し返すための記録だ。


 背後で馬の鼻息が聞こえた。

 馬車の真横で足音が止まり、窓が事務的に叩かれる。


「通行札を」


 ゼクスが札を窓へ差し出した。書類は膝の上に並べ、公印と署名欄が見える向きにしている。


 兵は通行札を受け取り、札の公印から署名欄、承認欄へ視線を移した。

 指が、ベンデル卿の印の上で止まる。


「照合が終わるまで待機しろ」


 兵は通行札を持って詰所へ戻った。

 札が別の兵へ渡され、こちらの馬車は留め置かれたままになる。


 窓の外では検問の灯りが揺れていた。

 私は細く開けた窓から、札を囲む兵たちを見る。


「……連絡を」

「確認、急げ」

「王都からの要請は?」


 奥から出てきた兵が書面を引き寄せ、検問灯を高く掲げた。

 紙をめくる音のあと、短い声が続く。


「一致してる」

「署名も、印もある」

「確認要請は来ている」

「拘束命令は?」

「ない」


 道の中央へ出かけていた兵の足が止まった。


「止めるか」

「誰の名で止める」

「国境側では出せない」

「照会に回せ」


 札を持った兵が詰所の奥へ下がり、別の兵も道の中央から半歩戻った。

 後ろでは荷車の列が詰まり、奥で誰かが走る音がする。


 進ませる合図は出ないまま、止める者たちだけが慌ただしく動いていた。


 ゼクスが窓の外を見たまま言った。


「もう、止められません。ここから先は、止める側が理由を示す番です」


 兵たちは馬車ではなく、同じ書面を見ていた。

 正規の通行札に王家の署名と承認印が揃い、拘束命令だけがない。


 それでも留めれば、国境側が自分たちの判断で止めたことになる。

 その判断を引き受ける者は、誰も前へ出なかった。


 ゼクスが膝の上の書類を整える。


「では、こちらから確認を求めます」


 その一言で、待たされていた側が、問う側に変わった。


 誰の名で、何を根拠に止めるのか。


 今度は、こちらが問う番だ。

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