第13話 復讐ではありません。契約です
決めたあと、すぐには動かなかった。
急げば痕が残る。疑われれば終わる。
私は日常の業務の中に、少しずつ目的を紛れ込ませることにした。
最初に覚えたのは、場所と順番だ。
会計室の控えはどの棚へ戻るのか。
決裁簿は誰が受け取り、どこへ積まれるのか。
記録魔石はどこで受け渡され、係員はいつ交代するのか。
見るだけでは足りない。
そこにいても不自然ではない理由が要る。
最初は記録魔石に触れなかった。
触れれば目立つ。
私は在庫台帳を開き、規格だけを確かめた。
どの業務で使う石か。
出納欄は誰が書くのか。
そこまで頭に入れてから、会計室へ入った。
名目は点検だった。
聖女の立場なら、結界関連の書類の所在を確かめること自体は不自然ではない。
だが、紙を一枚ずつ追えば、それだけで目につく。
私は束の端を揃えるふりをしながら、複写が綴じられる順だけを見た。
写し紙の角が金具に引っかかり、端が少し浮いている。
その重なりで、上に来る控えと下へ回る控えが分かる。
抜かない。
持ち出さない。
指先が触れるのは、端だけだった。
その時、背後の足音が止まった。
記録官がこちらを見ている。
私は顔を上げ、束の端へ指を添えたまま言った。
「綴じ具が緩んでいましたわ」
記録官は束を見て、私を見た。
やがて手元の紙へ視線を戻す。
そこで初めて、背中に汗が滲んでいたことに気づいた。
その数日後、廊下でシュバリエと会った。
用件だけを済ませて去る男だった。
彼は足を止め、一歩だけ距離を詰めて礼を取った。
「聖女様。返答は不要です。現場が動いているかだけ、確認したいのです」
私は答えなかった。
言えば、誰かの材料にされる。
だから言葉にはせず、視線だけで揺れが出ている場所――足元の配線を示した。
シュバリエは追及しなかった。
代わりに、世間話のように一つだけ尋ねた。
「……記録や書面で残せていますか。それがあれば、こちらも動けます。正式に」
私は少し間を置いて、頷いた。
シュバリエは深追いせず、小さな封を一つだけ手渡した。
「必要になった時だけで構いません」
封には、いつもの事務連絡と同じ短い文言だけが書かれていた。
だが、差出人の名はない。
中には、記録魔石と薄い紙が一枚だけ入っていた。
記録魔石の照会先、受け渡し場所、確認番号。
必要な時に、どこへ渡せばいいのかだけが分かる。
私は封を受け取り、礼だけで返した。
そして数日後、署名の写しを作る。
原本には触らない。
控えに残る複写のうち、「署名」「場所」「日付」が揃う箇所だけを狙う。
束の端をわずかにずらし、薄い写し紙へ移す。
一回でやらない。
紙の擦れを残さないよう、二回に分けて短く終える。
一度目を終えた瞬間、写し紙の角が綴じ具に引っ掛かった。
ほんのわずか、紙繊維が立つ感触。
残せば擦れになる。
私は引かない。
束の端を元へ戻し、写し紙を指先の腹でなぞって毛羽立ちを寝かせた。
動きは点検の範囲に収める。
呼吸だけを整えて、二度目は時間を空けた。
印影の控えも、照合作業に紛れて取った。
頁が開いた一瞬、印の位置を見定める。
文字は写さない。
印の形だけを、写し紙へ移す。
無理はしない。
危ないと思えば引く。
その夜、私は机に揃ったものを確認し、すぐに奥へ隠した。
現場の音を拾った記録魔石。
署名の写し。
印影の控え。
誰かを辱めるための材料ではない。
運用の流れが、ここで意図的に変えられた。
それを示すための、逃げ場のない事実だ。
泣けば、私の感情として片づけられる。
記録なら、相手の判断として残る。
その言葉を一度だけ思い、私は静かに灯りを消した。
暗くなった部屋で、次に必要なものを考える。
証拠だけでは足りない。
誰に渡し、どの番号で照会され、どの部署の記録として扱われるのか。
そこまで決めておかなければ、騒ぎで終わる。
その後、王宮の廊下で何度かシュバリエとすれ違った。
彼は一度も証拠の中身を尋ねなかった。
ただ、必要な手続きだけを短く告げた。
「窓口を作るには、理由が要ります。書面で動く方が安全です。削られた記録だけでは弱い。どこへ付け替えたかまで残っていれば、数字は追えます」
シュバリエは、それ以上聞かなかった。
ただ、正式な窓口へ渡す手順だけを示した。
自室に戻り、私は揃えたものを並べた。
削られた維持費。
祝祭へ回った金。
測定局の数字。
先に暗くなった路地。
彼らは民の前で、愛と奉仕を語る。
裏では維持費を削り、その穴を数字で隠す。
なら、感情で争わない。
王子の言葉を、王子の署名として残す。
民の前で掲げる、誓い。
愛。
守るという言葉。
私はその言葉を、結界の条件へ結びつけることにした。
署名の写しと印影を重ね、順番を整える。
記録魔石には、会計室で拾った声と作業音が残っている。
あの場で何度も聞かされた言葉を、私は一つだけ選んだ。
『鍵』
「では、その誓いを鍵にします。それ以外、私を縛る条件はありません」
槍の石突が地面を打つ音で、私は馬車の中へ意識を戻した。
馬車の外で、足音が止まっている。
金具が鳴り、こちらの番が回ってきたことを知らせていた。
窓の縁に、検問灯の白い光がかかる。
馬車の横についていた兵が、先に検問台へ馬を寄せた。
鞍の上から身を傾け、上役へ短く告げる。
「街道脇から同行していた馬車です。乗車人員はバルハイムの護衛つき。中に、聖女セラフィナがいます」
上役はすぐにはこちらを見ない。
手元の板に何かを書き入れ、隣の役人へ目配せする。
その役人が、馬車の横へ進んだ。
「通行目的」
「人数」
「積荷」
役人の声は近い。
怒鳴り声ではない。
決まり文句の速さで、淡々と確認していく声だ。
護衛が答える前に、ゼクスが紙束から一枚を抜き、外へ差し出した。
動きは速いが、雑ではない。
封蝋が割れていないことを示し、公印が見える位置で止める。
「バルハイムの招聘に伴う移送です。手続きは事前照会済みです。照会番号はこちらです」
役人が紙面を確認し、視線を護衛へ移し、もう一度紙へ戻した。
「……王都の件で、国境の検査が強化されています」
そこで、役人の声が少しだけ硬くなる。
「王都からも、聖女セラフィナ様の出国について確認要請が来ています」
車内の空気が、わずかに詰まった。
ゼクスは表情を変えない。
「拘束命令ですか」
役人は奥の詰所へ視線を向けた。
兵の一人が短く応じ、書類をめくる音がした。
「拘束命令ではありません。移動確認の要請です」
「なら、確認要請だけで馬車は止められません」
ゼクスはすぐに返し、次の紙を差し出した。
「セラフィナ様は、バルハイム王国の特級招聘技術官として受け入れ済みです。登録番号、照会番号、受入先はこちらにあります」
役人は無言で照合した。
印の位置。
番号。
受入先。
一つずつ確かめ、奥の詰所へ短く合図を送る。
詰所側から返事が一つ返り、金具の鳴る音がした。
誰かが別の書類をめくっている。
私は膝の上で指を揃えていた。
気づいて、ゆっくり力を抜く。
ここで私が何かを言えば、確認ではなく釈明になる。
釈明になれば、相手に言葉を選ばせる。
だから黙っていた。
奥の詰所から、小さな話し声が漏れる。
「……聖女」
「王都からの確認要請だ」
「拘束命令はない」
「バルハイム側の照会が先に通っている。手順どおりに」
役人は戻ってきた返答を聞き、紙をゼクスへ返した。
「照合は済みました。身分、登録番号、照会番号に不備はありません」
そこで、役人は王都側の控えをもう一度見た。
すぐには閉じない。
ゼクスは答えなかった。
役人の次の言葉を待つ。
奥の詰所で、低い声が短く交わされた。
役人は控えの端を指で押さえ、もう一度、こちらの書類へ視線を戻す。
「確認要請は国境本部へ回します。この場に拘束命令は届いていません」
少しだけ間が空けて、役人は王都側の控えを閉じた。
「正式な招聘手続きが優先されます。進んでください」
通行棒が上がる音がした。
馬車がゆっくりと動き出し、背後で槍の音が遠ざかる。
ゼクスは声を荒げなかった。
役人も余計な質問を挟まず、確認だけを終えて紙を返した。
王都の声は、ここまで届いている。
それでも、書面にない命令では拘束できない。
私はその事実を、ようやく確かめた。
ゼクスは外を見ないまま、視線だけをこちらに向ける。
同情も、慰めもない。
私は短く言った。
「だから、準備しました」
ゼクスは頷かない。
間を置かずに言った。
「復讐ではありません。契約です」
検問灯が窓の端から離れ、車内に影の輪郭が戻る。
検問を通過したことが分かった。
掌の内には、あの小さな封蝋の感触が残っている。
シュバリエ卿。
名前だけが、静かに脳裏をかすめた。
ゼクスが、もう一段だけ核心へ踏み込む。
丁寧なまま、逃げ道のない問いだった。
「それで、王子にどう署名させたのですか」
私はすぐに答えない。
外では、次の馬車が止まる音がした。
木枠が軋み、車輪止めが地面を打つ。
兵の声が短く飛ぶ。
署名させたのではない。
殿下が、自分で署名した。
私は目を伏せた。
あの日、自ら鍵を選んだあの瞬間のことを、静かに思い出した。
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