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第八話 スリープ・スパイダー(後編)

 「―――闇に抱かれて眠れ、『黒き波動(ダーク・ウェイブ)』」。


 魔人アビス(魔力百万分の一バージョン)の指先から放たれた漆黒の波動が、扇状に広がりながらスリープ・スパイダーの群れへと広がった。

 かつてのアビスであれば、この一撃で森全体を更地にし、地形を変えることさえ造作もなかっただろう。

 だが、今の彼に許された出力は、全盛期の百万分の一。

 巨大な滝が本来の彼なら、今の彼は、スポイトで一滴ずつ垂らしている水のようなものだ。


 シュゴォォォォ……。


 頼りない音と共に放たれた波動は、最前列にいた十匹ほどのスリープ・スパイダーを飲み込んだ。


 ジュワッ!


 不気味な溶解音。

 波動に触れた蜘蛛たちは、断末魔を上げる暇もなく、黒い霧となって霧散した。

 死体すら残らない、完全な消滅。

 「証拠隠滅」という意味では完璧な威力だ。


「……フン。まあ、こんなものか」

 アビスはコートの裾を払い、ニヤリと笑った。

 だが、その額には、冷や汗が一筋流れていた。

(……やべえ。魔力の消費が、予想以上に激しいぞ)

 百万分の一の魔力。

 それは、出力が低いだけでなく、燃費も最悪だった。

 例えるなら、穴の空いたバケツで水を運んでいるようなものだ。

 たった一発の「波動(弱)」を撃っただけで、体内の魔力タンクの目盛りがガクンと減ったのをアビスは感じた。


 ザワザワザワザワ……!


 霧散した仲間の向こう側から、無数の複眼が光った。

 残りのスリープ・スパイダーたちだ。

 その数、目算で二百以上。

 彼らは、一瞬ひるんだものの、すぐに「敵の攻撃範囲が狭い」ことを見抜き、怒りの鳴き声を上げて殺到してきた。


「キシャァァァァッ!」

「ギチチチチッ!」


 三百六十度、全方位からの包囲攻撃。

 紫色の毒々しい体が、黒い波となって押し寄せる。

「……チッ! 調子に乗ってんじゃねえぞ、小虫(ザコ)どもが!」

 アビスは舌打ちをした。

 広範囲殲滅魔法は、もう撃てない。

 魔力が持たないからだ。

 ならば、どうするか。

 答えは一つ。

 泥臭い、マニュアル操作による各個撃破だ。

「……来い! 格の違いを教えてやる!」

 アビスは、爆睡するリディアの前に仁王立ちしたまま、両手に黒い魔力を纏わせた。

 魔法の矢(マジック・アロー)のような飛び道具ではない。

 魔力を拳にコーティングし、直接殴るのだ。

 それが、最も魔力を節約できる戦法だからだ。

 魔人アビス、生涯初の「肉弾戦(魔力コーティング付き)」の開幕である。


 ヒュンッ! 一匹目の蜘蛛が飛びかかってくる。

 アビスは、最小限の動きでそれを(かわ)し、すれ違いざまに裏拳を叩き込んだ。

「『崩拳(クラッシュ)』!」

 バヂィッ! 魔力を帯びた拳が蜘蛛の頭部を捉え、その体組織を一瞬で分解する。

 蜘蛛は塵となって霧散した。

「次ッ!」

 右から二匹。左から三匹。

 アビスは踊るようにステップを踏んだ。

 長い手足、漆黒のコート。

 その動きは洗練されており、まるで舞踏会のダンスのようだ。

 だが、やっていることは害虫駆除である。


 ドスッ! バシュッ! ズドン!


 的確に急所を突き、一撃必殺で沈めていく。

 しかも、ただ倒すだけではダメだ。

 死骸を残せば、リディアが目覚めた時に「誰が倒したの?」と怪しまれる。

 だから、アビスは攻撃の瞬間に「分解魔法」を流し込み、相手を塵に変えなければならない。

 高度な魔力制御と、正確無比な体術のコンビネーション。

 これを、二百匹相手に、三分以内に、しかも爆睡するリディアを守りながら遂行する。

(……クソッ! 面倒くせえ! なんで俺様が、こんな下働きみてえな真似を!)

 アビスは内心で毒づきながらも、手は休めない。

 残り時間は、あと二分。 敵の数は、まだ半分も減っていない。


「ムニャ……うぅん……」


 その時、背後でリディアが寝返りを打った。

 ゴロン。

 彼女の体が、アビスの守備範囲から外れ、無防備に転がり出る。


「―――ッ!?」


 アビスの顔が引きつった。

 そこへ、すかさず三匹の蜘蛛が飛びかかる。

 毒牙が、リディアのむき出しの太ももに迫る。


「……手のかかる奴め!」


 アビスは、目の前の敵を蹴り飛ばし、背後のリディアの元へ滑り込んだ。

 間に合わない。

 殴る暇はない。

 アビスは、コートを広げ、リディアの体を覆うようにして守った。


 ガブッ! ガブッ!


 蜘蛛の牙が、アビスの腕と背中に食い込む。

 魔力で編まれたコートの上からでも感じる、鋭い痛み。

 そして、流し込まれる麻痺毒。


「ぐぅ……ッ!」


 アビスは呻いた。

 だが、膝はつかない。

 彼は魔人だ。

 この程度の毒など、気合(と魔力による解毒)でどうにでもなる。

 問題は、プライドだ。

 雑魚蜘蛛ごときに噛まれたという事実が、彼を激昂させた。


「……貴様らァ……! 許さねえ!」


 アビスの目から、赤い光が迸る。


 ブワッ!


 全身から魔力が噴出した。

 噛み付いていた蜘蛛たちが、弾き飛ばされて消滅する。


「お父様ぁ……もう食べられませんよぉ……」


 リディアは、アビスの足元で、能天気に寝言を言いながら、再びゴロンと寝返りを打ち、今度はアビスの足にしがみついた。

 まるで抱き枕のように。


「……離せ! 動きにくいだろ!」


 アビスは、足にまとわりつくリディア(重い)を引きずりながら、迫りくる蜘蛛の大群を蹴散らしていく。

 右足でリディアを守り、左足で蜘蛛を蹴り、両手で魔法を放つ。

 もはやダンスではない。

 ただの泥沼のワンオペ育児(バトル)だ。


 残り時間、一分。 敵の残存数、約五十。


(……くそっ! 時間がねえ!)


 体内の楔が、軋みを上げ始めている。

 限界が近い。

 魔力も底をつきかけている。

 このままでは、全滅させる前に時間切れになる。

 そうなれば、アビスは犬に戻り、リディアと共に繭にされる。


(……やるしかねえか。最後の一滴まで絞り出して……!)


 アビスは、リディアを強引に蹴っ飛ばして岩陰に転がした。

 そして、群れの中心へと飛び込んだ。


「集まれ、羽虫ども! 俺様が餌だ!」


 アビスは叫んだ。

 挑発に乗った蜘蛛たちが、一斉に彼に群がる。

 三十、四十、五十。

 残りの全ての蜘蛛が、アビスを中心とした一点に密集した。

 四方八方、上空からも。

 視界が紫色の甲殻で埋め尽くされる。


「……今だ」


 アビスは、ニヤリと笑った。

 これこそが狙い。

 一箇所に集めれば、範囲の狭い魔法でも一網打尽にできる。

 ただし、それは自爆覚悟の至近距離射撃となるが。


「消え失せろ! 『爆縮魔球(グラビティ・コア)』!」


 アビスは、自身の胸の前で両手を合わせた。

 残りの全魔力を込めた、黒い光の球。

 それを、自分ごと敵を巻き込むように炸裂させた。


 ズオォォォォンッ!


 爆発ではない。

 内側への圧縮。

 空間ごと敵を押し潰し、消滅させる重力魔法の極小版だ。

 アビスの周囲にいた数十匹の蜘蛛たちが、悲鳴を上げる間もなく、中心の黒い点へと吸い込まれ、圧壊し、そして消滅した。

 圧倒的な破壊力。

 だが、その余波はアビス自身にも襲いかかる。


「が、はっ……!」


 アビスは衝撃に耐え、膝をついた。

 コートはボロボロになり、息が上がる。

 だが、やり遂げた。

 周囲を見渡す。

 動く影はない。

 スリープ・スパイダーの群れは、跡形もなく消え去っていた。


「……ハァ、ハァ……。見たか……これが、魔人の……底力……」


 アビスは、勝利の余韻に浸ろうとした。 その時。


 パリンッ。


 体内から、あの嫌な音が響いた。 楔が、砕け散ったのだ。


 ―――プンッ。


 唐突な脱力感と共に、アビスの視界がガクンと落ちた。

 漆黒のコートが消え、長い手足が縮み、黒い毛玉へと戻る。


「……あ」


 アビス(犬)は、地面にペタンとへたり込んだ。

 指一本、いや、尻尾一本動かせない。

 完全な魔力切れだ。

 そして、三分の全力戦闘による肉体疲労が、犬の体に戻った瞬間にどっと押し寄せてきた。


(……疲れた……。もう、一歩も動けねえ……)


 アビスは、泥のように地面に突っ伏した。

 リディアの方を見る。 彼女は岩陰で、相変わらず幸せそうに寝息を立てていた。

 無傷だ。

 完璧な護衛だった。


(……感謝しろよ……。後で、高級な肉を要求してやる……)


 アビスが、意識を手放そうとした、その時だった。


 カサッ。


 頭上の枝から、乾いた音がした。

 アビスの耳がピクリと動く。

 死んだ魚のような目を、辛うじて上に向ける。


 そこには。 一匹の、スリープ・スパイダーがいた。


「…………は?」


 アビスの思考が停止した。

 撃ち漏らし。

 まさか。

 あの全方位攻撃から、たった一匹だけ、木の枝の裏側に隠れて生き延びていた個体がいたのだ。


「ギチチ……」


 生き残りの蜘蛛は、仲間を全滅させたアビス《元凶》を見下ろし、憎悪に満ちた鳴き声を上げた。

 そして、ゆっくりと降下してくる。

 アビスは動けない。

 魔力もない。

 牙を剥く気力すらない。


(……嘘だろ? ここまでやっておいて、最後の一匹にやられるのか?)


 冗談ではない。

 こんな結末があっていいものか。

 蜘蛛が、アビスの目の前に着地した。

 その毒牙が、無防備なアビスの喉元を狙う。


(……クソッ! 動け! 動け俺様の足!)


 動かない。

 絶体絶命。

 蜘蛛が跳躍した。

 スローモーションのように迫る毒牙。


 ―――その時。


「……んぅ……」


 リディアの寝言が聞こえた。


「……そこですっ……! 必殺っ……!」


 彼女が、夢の中で何かと戦っているのか、突然、寝返りを打った。

 そして、その勢いのまま、右足を大きく振り上げた。

 きれいな弧を描く、無意識のハイキック。

 その軌道上に、空中のスリープ・スパイダーが、吸い込まれるように重なった。


「……えいっ!」


 ドゴォォッ!


 リディアの踵が、蜘蛛のどてっ腹にクリーンヒットした。

 音速を超えた寝返りキック。

 哀れな最後の一匹は、悲鳴を上げる間もなく、ボールのように森の彼方へと弾き飛ばされ、夜空の星となった。


 キラーン。


「…………」

 アビスは、呆然と口を開けていた。

 静寂が戻る。

 リディアは、「ふふっ……倒しました……」と満足げに呟くと、再びスヤスヤと寝息を立て始めた。


(……なんだ、それ)


 アビスの心の中に、虚無感が広がった。

 俺様の必死の三分間は。

 あの華麗なダンスは。

 最後の自爆攻撃は。

 すべて、この脳筋娘の、たった一発の「寝返り」の前では、前座に過ぎなかったのか。


(……勝てねえ。……理屈じゃねえよ、こいつは……)


 アビスは、深い深いため息をつくと、そのまま意識を失った。

 今度は、安堵の眠りだった。


 ◇


 翌朝。

 小鳥のさえずりと共に、リディア・クレセントは爽やかに目覚めた。


「ん~っ! よく寝ました!」


 彼女は大きく伸びをして、周囲を見渡した。

 森の空気は澄んでいて、昨夜の激闘の痕跡は微塵もない(アビスが消滅させたからだ)。


「あれ? 私、いつの間に寝ちゃったんでしょう?」


 リディアは首を傾げた。

 確か、大きな蜘蛛が出てきて、それを倒して……そこから記憶がない。

 彼女は、足元で死んだように眠っているアビス(犬)を見下ろした。

 彼は、なぜかボロ雑巾のように疲れ果て、毛並みも乱れている。


「アビスさん? どうしたんですか、そんなにボロボロになって…」


 リディアは、アビスを抱き上げた。

 そして、自分の記憶の断片と、周囲の状況(平和な森)を繋ぎ合わせ、一つの「真実」を導き出した。


「……そうか! 分かりました!」


 リディアはポンと手を叩いた。


「あの後、きっとたくさんの蜘蛛さんが出てきたんですね。でも、私は眠い目をこすりながら、夢遊病みたいに戦って……全部倒しちゃったんですね!」


 自信満々の推理。

 彼女は、昨夜の自分の「寝返りキック」の感触を、なんとなく覚えていたのだ。


「私ったら、寝てても強いなんて! さすが勇者の末裔です!」


 リディアは自画自賛し、アビスの頭を撫でた。


「アビスさんも、私が戦ってる間、怖かったでしょう? ごめんなさいね。でも、もう大丈夫ですよ! 私が守りましたから!」


 アビスは、リディアの腕の中で薄目を開けた。

 反論する気力もなかった。

 ただ、乾いた笑いだけが込み上げてくる。


(……フフ。……そうだな。テメエがやったんだよ。全部な……)


 アビスは、考えることをやめた。

 この勘違いもまた、自分の三分間変身を隠す役には立つ。

 結果オーライだ。

 そう自分に言い聞かせ、彼は再び目を閉じた。


「さあ、行きましょうアビスさん! 今日も良い天気です!」


 リディアは、アビスをリュックに放り込むと、元気よく歩き出した。

 昨日と同じ、間違った方角へ向かって。

 アビスがそれを訂正する元気を取り戻すまで、あと数時間はかかりそうだった。


 かくして、スリープ・スパイダーの危機は去った。

 だが、二人の(主にアビスの)苦難の旅は、まだまだ始まったばかりである。

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