第六話 護衛と監視
鬱蒼と茂る「拒絶の森」。
樹齢数百年を超える巨大な木々が、昼間だというのに太陽の光を遮り、森全体を薄暗い緑の闇に包み込んでいる。
湿った苔の匂いと、どこかで魔獣が獲物を咀嚼する音が微かに響く、この死の森を、一人の少女と一匹の犬が、まるでピクニックにでも来たかのような軽快な足取り(少女だけだが)で進んでいた。
「ふんふんふ~ん♪」
リディア・クレセントは、鼻歌交じりに森の獣道を歩いていた。
背中には、里から持ち出した大きなリュックサック。
その中には、数日分の食料と、そして現在、完全にグロッキー状態になっている黒い毛玉――魔人アビス(犬)が収まっている。
(……おい。揺らすな。吐くぞ)
リュックの中から、アビスの弱々しい思考が届く。
彼は、先ほどの里からの脱出劇でなけなしの魔力を使い果たし、今はただの「疲れた犬」になり下がっていた。
それに加えて、リディアの異常な歩行速度と、リズム感のない上下運動によって、深刻な乗り物酔いを引き起こしていた。
「あ、ごめんなさいアビスさん! つい、開放的な気分になっちゃって!」
(開放的だァ!? テメエ、状況が分かってんのか!? 俺たちは今、大陸最強の軍事組織に追われるお尋ね者だぞ!?)
アビスは、リュックの隙間から顔を出し、呆れたようにリディアの後頭部を睨みつけた。
里を脱出してから数時間が経過している。
幸い、あの「恐怖の幻影」とリディアのボディブローによって巨漢騎士ガルドを撃退したおかげで、追手の気配は今のところ感じられない。
だが、油断は禁物だ。
アビスは、この五年間、リディアの部屋の犬用ベッドで寝たふりをしながら、バルドルたちが話す外界の情勢に聞き耳を立てていた。
その情報によれば、「浄化者」という連中は、異端と認定した相手を文字通り「浄化(抹殺)」するまで決して諦めない、狂信的な集団だという。
先ほどの里への容赦ない砲撃を見ても、その噂が真実であることは明白だった。
奴らは、一度マークした獲物は、地の果てまで追いかけてくるハイエナのような連中だ。
(……チッ。それにしても、これからどうするつもりだ、この脳筋は)
アビスは、思考を巡らせた。
里を出たのはいいが、当面の目的地が決まっていない。
野宿をしながら適当に逃げ回るのも一つの手だが、それではジリ貧だ。
アビスの目的は、あくまで「完全復活」と「復讐」。
そのためには、まずは失われた魔力を取り戻し、この呪いを解く手がかりを見つけなければならない。
「ねえ、アビスさん」
不意に、リディアが足を止めた。
彼女は、森の切れ間から見える空を見上げ、真剣な表情で言った。
「私、決めました」
(……あ? 何をだ?)
「『浄化者』の本拠地に乗り込みます」
ブッ。
アビスは、思わず吹き出しそうになった(犬なのでくしゃみのような音が出た)。
(……はあ!? テメエ、正気か!? 飛んで火に入る夏の虫ってレベルじゃねえぞ! 自殺志願者か!?)
「違います! 私は本気です!」
リディアは、アビスの入ったリュックを地面に降ろし、彼と視線を合わせた。
その若草色の瞳には、迷いなど微塵もなかった。
「あの人たちは、里を襲いました。何の罪もない人たちを脅しました。……許せません」
(だからって、敵の本丸に突っ込むのかよ。相変わらず思考回路がショートカットしすぎだろ)
「それに、逃げ回っているだけじゃ、いつか捕まります。攻撃は最大の防御、ですよね?」
意外にもまともな理屈だ。
確かに、ただ逃げているだけでは、いずれ包囲網に追い詰められる。
だが、単身で本拠地に乗り込むのは無謀すぎる。
(……却下だ。死にに行くようなもんだ)
「いいえ、行きます。私一人でも行きます」
(……チッ。頑固な奴め)
アビスは舌打ちした。
だが、その時。
彼の中に、ある「計算」が働いた。
(……待てよ?)
アビスは、記憶の引き出しを開けた。
「浄化者」の本拠地。
奴らが拠点にしている場所。
風の噂によれば、そこは大陸の中央、かつて魔人アビスが支配していた「魔王城」だという。
(……もし、それが本当なら)
アビスの瞳が、怪しく光った。
魔王城。
そこには、アビスが全盛期に溜め込んだ膨大な魔導書や、アーティファクト、そして何より、城の地下深くに封印された「魔力の源泉」があるはずだ。
もし、あそこに戻ることができれば。 あの「源泉」にアクセスできれば、この忌々しい呪いを強引に突破し、完全復活を遂げることができるかもしれない。
(……悪くねえ。いや、むしろ好都合だ)
アビスの思考が、高速で回転し始めた。
一人で魔王城に向かうのは不可能だ。
犬の足では何年かかるか分からないし、道中の魔物に食われて終わりだ。
だが、この「脳筋勇者」と一緒なら?
彼女は強い。
単純な戦闘力なら、並の魔物や兵士など相手にならない。
彼女を「護衛」として利用し、さらに「移動手段(乗り物)」として使えば、安全かつ快適に魔王城までたどり着けるのではないか?
(……フフフ。決まりだ)
アビスは、内心で邪悪な笑みを浮かべた。
利害の一致。
敵の敵は味方。
利用できるものは、仇の子孫(勇者の末裔)でも利用する。
それが魔人の流儀だ。
「ワン!(……分かった。いいだろう、乗ってやる)」
アビスは、尊大にふんぞり返った。
(その無謀な計画に、この俺様が付き合ってやる。……ただし、条件がある)
「条件?」
(ああ。テメエは強いが、致命的に方向音痴で、世間知らずだ。そんな状態で敵の本拠地を目指しても、遭難して野垂れ死ぬのがオチだ)
図星を突かれたのか、リディアが「うっ」と口ごもる。
(そこでだ。俺様が『ナビゲーター』をしてやる。俺様は、この大陸の地理を知り尽くしている。もちろん、奴らの本拠地への最短ルートもな)
「本当ですか!?」
(ああ。その代わり、テメエは俺様の『護衛』をしろ。俺様は今、見ての通りの無力なプリティー・ドッグだ。道中の魔物や追手から、命に代えても俺様を守れ。……それが条件だ)
アビスは、あえて「プリティー・ドッグ」などという屈辱的な単語を使って、同情を誘った。
リディアは、少し考え込んだ後、大きく頷いた。
「分かりました。……でも、私からも条件があります」
(……あ? なんだ?)
「アビスさんを、『監視』します」
リディアの瞳が、鋭く光った。
「アビスさんは、隙あらば悪いことをしようとします。イグニスさんの時みたいに卑怯な手を使ったり、リュミエールさんの街をあんなふうにしたり……」
(……チッ。根に持ってやがる)
「だから、道中、アビスさんが何か悪巧みをしないか、私が常に目を光らせます。もし、少しでも怪しい動きをしたら……」
リディアは、ニッコリと笑った。
あの、五年間で培われた、アビスにとって最も恐ろしい「飼い主」の笑顔で。
「……分かってますよね? 『ハウス!』ですよ?」
ビクッ!
アビスの全身が、条件反射で震え上がった。
あの地獄の金縛りペナルティ。
あれだけは、絶対に御免だ。
(……く、くそっ! 足元を見やがって……!)
だが、背に腹は代えられない。
アビスは、屈辱を飲み込み、しぶしぶと頷いた。
(……分かったよ。契約成立だ。……俺様は『ナビゲート』をする。テメエは『護衛』と『監視』をする。……それでいいな?)
「はい! 交渉成立ですね!」
リディアは嬉しそうに手を叩いた。
こうして、魔人と勇者の、奇妙な「契約」が結ばれた。
目的は同じ「敵の本拠地」。
だが、その動機は真逆。
一方は「正義の鉄槌」を下すため。
もう一方は「完全復活と復讐」のため。
互いに腹に一物抱えたまま、二人の「奇妙な旅路」が、ここに再開されたのである。
◇
「で、どっちに行けばいいんですか、アビスさん?」
リュックを背負い直したリディアが尋ねる。
アビスは、リュックの隙間から鼻先を出し、森の奥を嗅いだ。
(……北西だ。この森を抜けて、渓谷沿いに進む。そこが一番、人目につかないルートだ)
「北西ですね! 了解です!」
リディアは、元気よく歩き出した。
……真東に向かって。
(……おい)
「はい?」
(そっちは東だ、この方向音痴!)
「ええっ!? で、でも、太陽があっちに……」
(今は昼過ぎだ! 太陽がある方が南西だ! ……ったく、テメエはサバイバルの基本も知らねえのか!)
アビスは頭を抱えた(前足で)。
前途多難だ。
この「最強の護衛」は、同時に「最悪の方向音痴」でもあったのだ。
それから数時間。 二人は、アビスの的確な(そして口汚い)ナビゲートによって、なんとか森の奥へと進んでいた。
道中、何度か魔物との遭遇もあった。
「グルルルッ……!」
茂みから飛び出してきたのは、「フォレスト・ウルフ」。
狼型の魔物だが、その体躯は牛ほどもある。
鋭い牙と爪を持ち、群れで狩りを行う厄介な相手だ。
三匹のウルフが、涎を垂らして二人を取り囲む。
(……チッ。雑魚が。おい小娘、右の奴から……)
アビスが指示を出そうとした、その時。
「―――せいやっ!」
ドカァッ!
リディアのショートブーツが、先頭のウルフの鼻先にめり込んだ。
ウルフは、「キャイン!」と情けない悲鳴を上げ、後方の木に激突して気絶した。
(……は?)
残りの二匹が、その隙に襲いかかってくる。
リディアは、聖剣を抜くことすらせず、リュック(アビス入り)を庇うように身を翻し、回し蹴りを放った。
バゴォッ!
二匹まとめて、ボールのように吹き飛んでいく。
瞬殺。
所要時間、わずか三秒。
「ふぅ。びっくりしましたね、アビスさん」
リディアは、何事もなかったかのように服の埃を払った。
アビスは、リュックの中で口をあんぐりと開けていた。
(……こいつ、やっぱり化け物か……?)
五年前も強かったが、この五年間の「筋トレ」と「実戦(アビスとの鬼ごっこ)」の成果か、その身体能力はさらに常軌を逸したレベルに達していた。
魔力を使わず、純粋な「物理」だけで魔物を圧倒する。
まさに「脳筋」の極みだ。
(……フン。まあいい。これなら、多少の追手が来ても安心だ)
アビスは、その呆れるほどの強さを、再評価することにした。
この「暴力装置」をうまくコントロールできれば、魔王城までの道のりは、案外イージーモードかもしれない。
「あ、見てくださいアビスさん! 変なキノコが生えてますよ!」
戦闘が終わった直後だというのに、リディアはもう別の興味に移っていた。
彼女が指差したのは、紫色の斑点がある、いかにも毒々しいキノコだ。
「美味しそうですね……ちょっと焼いてみましょうか?」
(……待て)
アビスの「鑑定眼」が光る。
あれは「シビレダケ」。
一口食べれば三日は全身麻痺で動けなくなる、強力な神経毒を持つキノコだ。
(食うな! 死ぬぞ! それは毒キノコだ!)
「ええっ!? でも、色が綺麗ですよ?」
(自然界で色が綺麗なもんは、大抵ヤバいんだよ! 捨てろ! 絶対に食うな!)
アビスは必死に止めた。
もしここで彼女が麻痺して動けなくなったら、誰が俺様を運ぶんだ。
誰が俺様を守るんだ。
「護衛」が自滅しては話にならない。
「むぅ……。残念です」
リディアは、名残惜しそうにキノコを捨てた。
アビスは安堵のため息をついた。
(……前言撤回だ。イージーモードじゃねえ。こいつの『天然』と『食欲』という名の自爆スイッチを管理しなきゃならねえ……ハードモードだ)
アビスは悟った。
この旅における彼の役割は、単なる「道案内」ではない。
この、歩く災害のような少女が、自滅したり、暴走したり、方向音痴で明後日の方向へ行ったりしないように制御する、「保護者」兼「司令塔」なのだと。
「さあ、先を急ぎましょう、アビスさん! お腹も空いてきましたし!」
(……へいへい。仰せのままに、お姫様)
アビスは、リュックの底でふてくされながらも、周囲の気配を探った。
森のざわめき。
風の匂い。
そして、遥か後方から微かに漂ってくる、金属と魔力の嫌な臭い。
(……来てるな)
アビスの犬の耳がピクリと動く。
追手だ。
まだ距離はあるが、確実にこちらの痕跡を辿ってきている。
「浄化者」の斥候か、あるいはもっと厄介な「狩人」か。
(……急がねえと、尻尾を噛まれるぞ)
アビスは、警戒レベルを引き上げた。
リディアにはまだ伝えない。
彼女に余計な緊張感を与えると、また何かトンチンカンな行動(「敵を待ち伏せして説得しましょう!」とか)を起こしかねないからだ。
「ワン!(右だ! その獣道を抜けろ!)」
「はーい!」
リディアは、アビスの指示に従い、藪の中へと進んでいく。
その背中を見つめながら、アビスは決意を新たにした。
(利用してやる。骨の髄までな。……だが、それまでは死なせねえ。絶対にな)
奇妙な共犯関係。
護衛と監視。
利用と被利用。
複雑に絡み合った糸の上で、一人と一匹の逃避行は続いていく。
その先に待つのは、希望か絶望か。
それはまだ、誰にも(アビスにさえ)分からなかった。
森の闇が濃くなる。
夜が、近づいていた。




