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第五話 脱出

 ズドォォォォォンッ!


 世界が割れるような轟音と共に、頭上の空がひび割れた。

 「浄化者(ピュリファイア)」の艦隊から放たれた魔導(カノン)の第一撃が、隠れ里を覆う「認識阻害結界」を直撃したのだ。

 五百年の間、この里を外界から隠し続けてきた鉄壁の守りが、ガラス細工のように砕け散り、キラキラとした魔力の残滓となって降り注ぐ。

「ひ、ひぃぃっ! 結界が破られたぞ!」

「撃ってくるぞ! 隠れろ!」

 広場はパニックに陥った。

 逃げ惑う村人たち。

 泣き叫ぶ子供の声。

 そして、その混乱の只中で、一人の少女と一匹の犬による、奇妙な綱引きが行われていた。

「離してください、アビスさん! 私は戦わないと!」

 リディア・クレセントは、燃えるような赤い髪を振り乱し、必死に前へ進もうとしていた。

 彼女の視線は、上空の敵艦隊に釘付けになっている。

 その手には、漆黒の輝きを放つ聖剣が握られ、全身からは黄金色の闘気が立ち昇っている。

 やる気だ。

 この脳筋娘は、本気で、あの空飛ぶ要塞に単身で殴り込みをかけるつもりだ。

 だが、彼女は進めなかった。

 彼女のチュニックの裾に、一匹の黒い毛玉――魔人アビス(犬)が、必死の形相で食らいつき、後ろへ後ろへと引っ張っていたからだ。

「グルルルルッ!(行くな! 行くんじゃねえ、この馬鹿! 死にたいのか!)」

 アビスの喉から漏れるのは獣の唸り声だが、リディアの脳内には、焦燥に満ちた怒号が直接響き渡っていた。

「ワン! ワン! ワン!(いいか、よく見ろ! 奴らの狙いは『お前』だ! お前がここにいる限り、この里への攻撃は止まない! お前が戦えば戦うほど、流れ弾で村人が死ぬんだよ!)」

 アビスは必死だった。

 この五年間で培った(強制的に鍛えられた)顎の力で、リディアの服を食いちぎらんばかりに引っ張る。

 彼にとって、リディアの命は、自身の復活の鍵であり、永遠の犬化を防ぐための唯一の命綱だ。

 ここで彼女に玉砕されては、たまったものではない。

「……え?」

 アビスの必死の説得(という名の利己的な誘導)が、ようやくリディアの耳に届いたようだ。

 リディアの動きが止まる。

 彼女は、ハッとした表情で周囲を見渡した。

 崩れ落ちた結界の破片。

 逃げ惑う村人たち。

 そして、上空の艦隊から次々と放たれる、威嚇射撃の光弾。

 そのどれもが、里の中心にいるリディアを狙っているようでいて、実は広範囲を巻き込むように着弾している。

「……まさか」

 リディアの若草色の瞳が揺らいだ。

「私が……ここにいるから? 私がいるせいで、みんなが巻き込まれている……?」

 アビスは、すかさず畳み掛けた。

「ワン!(その通りだ! 奴らの目的は『呪われた血』、つまりお前だ! お前がここに留まれば、ここは戦場になる! だが、お前がここからいなくなればどうだ?)」

 アビスは、里の裏手に広がる深い森の方角を、鼻先で示した。

(お前が囮になって外へ出れば、奴らの主力はお前を追う! そうすれば、里への攻撃は手薄になる! これは『逃走』じゃねえ! 『陽動』であり、『戦略的撤退』だ!)

 もちろん、これはアビスの口から出まかせだ。

 「浄化者(ピュリファイア)」のような狂信的な集団が、リディアを捕らえた後で里を見逃す保証などどこにもない。

 むしろ、証拠隠滅のために里ごと焼き払う可能性の方が高いだろう。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 今、この瞬間、リディアをこの死地から引き剥がすための「大義名分」さえあればいいのだ。

「……私が、囮に?」

 リディアが、アビスを見下ろした。

 その瞳から、怒りの色が消え、苦渋と、そして新たな「決意」の光が宿り始めていた。

「そう……ですね。アビスさんの言う通りです。私がここにいては、お父様やみんなを危険に晒すだけ……」

 彼女は、アビスの思惑通り、いや、それ以上に英雄的な方向へと、その思考を飛躍させていた。

 「逃げる」のではない。

 「皆を守るために、あえて一人で危険な囮役を引き受ける」のだと。

「……分かりました」

 リディアは、聖剣を鞘に納めた。

 そして、自分の足元で必死に服を引っ張っていた小さな黒い相棒を、両手で抱き上げた。

「行きましょう、アビスさん。……あなたの賢明な判断に、感謝します」

 彼女の顔は、もはや迷いなく、澄み切っていた。

 アビスは、リディアの腕の中で、心底ほっとしたように息を吐いた(犬の姿で)。

(……チョロい。チョロすぎるぜ、この脳筋勇者……!)

 内心でほくそ笑むアビス。

 だが、その時だった。

「リディア! 何をしている! 早くシェルターへ!」

 群衆をかき分けて、父バルドルが駆け寄ってきた。

 彼は、瓦礫で少し怪我をしているようだが、その手にはしっかりと杖が握られている。「お父様!」

 リディアは、バルドルに向き直った。

 そして、ニカッと笑った。

 それは、不安など微塵も感じさせない、太陽のような眩しい笑顔だった。

「ごめんなさい、お父様。私はシェルターには入りません」

「な、何を言っている!? 空を見ろ! あれだけの数がいるんだぞ! お前一人でどうにかできる相手では……!」

「ええ、分かっています。だから、私は行きます」

 リディアは、アビスを抱きかかえたまま、里の裏口――「拒絶の森」へと続く獣道を指差した。

「私が囮になります。敵を引きつけて、森へ逃げ込みます。そうすれば、里への攻撃は止むはずです」

「なっ……!?」

 バルドルは絶句した。

 娘が、自ら死地へ飛び込もうとしている。

 それも、里を守るために。

「馬鹿な! 許さんぞ! そんなこと、父として認められるわけが……!」

「お父様」

 リディアは、バルドルの言葉を遮った。

 彼女は一歩近づき、震える父親の手をそっと握りしめた。

「私は、勇者の血を引く者です。クレセント家の誇りにかけて、村の皆さんには指一本触れさせません。……だから、信じてください」

 その手は、温かく、そして力強かった。

 五年前、禁忌の遺跡に入り込んで叱られていた、あのお転婆な少女の手ではない。

 自分の意志で立ち、自分の足で歩こうとする、一人の戦士の手だった。

「……リディア……」

 バルドルの目から涙が溢れた。

 彼は悟ってしまったのだ。

 娘の決意が、岩のように固いことを。

 そして、彼女がいつの間にか、自分が守るべき子供ではなく、自分たちが頼るべき希望へと成長していたことを。

「……分かった。……行きなさい」

 バルドルは、涙を拭い、力強く頷いた。

「だが、死ぬことは許さん! 必ず、生きて戻ってこい! いいな!」

「はい! 行ってきます!」

 リディアは、深く一礼すると、踵を返した。

 もう、振り返らない。

 彼女は、しっかりとした足取りで走り始めた。

「アビスさん、しっかり捕まっててくださいね! 舌を噛みますよ!」

「ワン!(おうよ! 全力で走れ!)」

 リディアの身体が、弾丸のように加速する。

 目指すは里の北側。

 険しい山々と深い森が広がる「拒絶の森」への入り口だ。


 だが、敵も馬鹿ではない。

 上空の艦隊は、(アビスの狙い通り)リディアの動きを正確に捕捉していた。

『―――目標、移動開始。座標修正』

 無機質な声が響き渡る。

 空中の飛空艇から、数機の小型艇が分離し、リディアの進路を塞ぐように降下してくるのが見えた。

 さらに、地上にも、すでに展開していたと思われる「斥候部隊」の姿があった。

 白銀の軽装鎧に身を包んだ兵士たちが、森の入り口付近に壁を作っている。

「そこまでだ、呪われた血よ!」

 兵士の一人が、ボウガンを構え、リディアに狙いを定めた。

 ヒュンッ!

 放たれた矢が、風を切り裂いて迫る。

「きゃっ!?」

 リディアは、走りながら身を捩り、間一髪で矢をかわした。

 だが、その隙に、十数人の兵士たちが彼女を取り囲む。

「確保しろ! 抵抗するなら怪我をさせても構わん!」

 兵士たちが、剣を抜き、一斉に襲いかかってくる。

 リディアは、片手でアビスを抱えたまま、もう片方の手で背中の聖剣を抜こうとした。 だが、多勢に無勢。

 しかも、アビスを抱えているため、動きが制限される。

(……チッ! 邪魔くせえ雑魚どもが!)

 アビスは、リディアの腕の中で舌打ちした。

 ここで捕まっては元も子もない。

 アビスは、リディアの腕から飛び出した。

「アビスさん!?」

「ワン!(援護する! そのまま突っ切れ!)」

 アビスは、着地と同時に、最も近くにいた兵士の足元へと駆け込んだ。

 そして、そのブーツの紐に、鋭い牙を食い込ませ、全力で引っ張った。

「なっ!? なんだこの犬は!」

 兵士がバランスを崩す。

 アビスは、すかさず次の兵士へと飛びかかり、今度はその太ももに噛み付いた。

「ぐあっ! 貴様ッ!」

 兵士たちの包囲網が一瞬、乱れる。

 その隙を、リディアが見逃すはずがなかった。

「どいてくださいっ!」

 リディアは、聖剣を鞘ごと振り回した。

 抜刀する時間はない。

 だが、彼女の怪力と、聖剣の重量があれば、それは十分な鈍器となる。

 ドゴッ!

 先頭の兵士が、聖剣(鞘付き)の一撃を受け、見事に吹き飛んだ。

 その勢いで、後ろにいた数人の兵士も巻き込まれ、将棋倒しになる。

「ええい! 邪魔です!」

 リディアは、倒れた兵士たちを踏み台にして(文字通り踏みつけて)、高く跳躍した。

 包囲網を、頭上から飛び越える。

「アビスさん! おいで!」

 着地と同時に、リディアが叫ぶ。

 アビスは、兵士の腕を蹴りつけ、リディアの腕へとダイブした。

「ナイスジャンプです!」

「ワン!(さっさと走れ!)」

 二人は、再び走り出した。

 森の入り口は、もう目の前だ。


 だが、その時。 頭上から、巨大な影が落ちてきた。

「―――逃がさん」

 降下してきた小型艇の一機が、二人の進路に立ちふさがるように着陸したのだ。

 ハッチが開き、中から現れたのは、これまでの兵士とは明らかに格の違う、重厚な鎧を纏った巨漢の騎士だった。

 彼が手にしているのは、身の丈ほどもある巨大なウォーハンマー。

「聖騎士団第三隊長、ガルド。推して参る!」

 ガルドと名乗った騎士が、ハンマーを振り上げた。

 その切っ先から、青白い魔力が迸る。

「粉砕せよ! 『重圧の撃(ヘヴィ・インパクト)』!」

 ハンマーが地面に叩きつけられる。

 ドォォォォォンッ!

 地面が波打ち、衝撃波がリディアたちを襲った。

「くっ……!」

 リディアは、聖剣を盾にして衝撃を受け止めたが、その凄まじい威力に、数メートル後方へと弾き飛ばされた。

 足が止まる。

 背後からは、先ほどの兵士たちが追いついてくる。

 前門の巨漢、後門の兵士群。

 挟み撃ちだ。

(……まずいな)

 アビスは、冷や汗(犬にはないが)をかいた。

 あの巨漢騎士、ただの力任せではない。

 魔力で強化された一撃は、リディアの防御の上からでもダメージを通す威力がある。

 まともにやり合えば、リディアでも勝てるかどうか。

 ましてや、時間をかければ、上空の艦隊からの魔導(カノン)が飛んでくる。

(……やるしかねえか)

 アビスは、覚悟を決めた。

 まだ、クールタイムは明けていない。

 だが、前回の「三分変身」から、丸一日は経過している。

 完全に回復はしていないが、数秒……いや、一瞬だけなら、魔力を解放できるかもしれない。

(……一瞬だ。一瞬で、あの巨漢の体勢を崩す。あとは、リディアの脳筋パワーに賭けるしかねえ!)

 アビスは、リディアの腕の中で、体内の魔力を練り上げた。

 なけなしの、搾りカスのような魔力。

 それを、針のように鋭く尖らせる。

(……食らえ! 簡易精神干渉魔法、『恐怖の幻影ファンタズム・フィアー』!)

 アビスの目が、赤く光った。

 その視線が、巨漢騎士ガルドの目を射抜く。

「ぬ……?」

 ガルドの動きが、一瞬、止まった。

 彼の目には、目の前の小さな黒い犬が、突如として、世界を飲み込むほどの巨大な「闇の魔獣」に膨れ上がったように見えたのだ。

 本能的な恐怖。

 歴戦の騎士である彼でさえ、その絶対的な「格の違い」を感じさせるプレッシャーに、無意識に半歩、後ずさった。

「な、なんだ……この寒気は……?」

 その、わずかな隙。

 アビスは、リディアの脳内に叫んだ。

「ワン!(今だ! 右脇腹がガラ空きだ! 突っ込め!)」

 リディアは、アビスが何をしたのかは分からなかった。

 だが、目の前の強敵が、一瞬だけ怯んだことを見逃すはずがなかった。

 彼女は、考えるよりも先に動いていた。

「はいっ!」

 リディアは、脚に力を込め、地面を爆発させるように蹴った。

 超加速。

 ガルドが、恐怖の幻影を振り払おうと瞬きをした、その瞬間には、リディアはすでに彼の懐に潜り込んでいた。

「はあああああっ!」

 聖剣の柄頭(ポメル)による、渾身のボディブロー。

 それが、ガルドの鎧の継ぎ目、脇腹の急所に、正確に叩き込まれた。

 ドスッ!

 鈍く、重い音が響く。

 衝撃は鎧を透過し、内臓を揺さぶる。

「ご、ふっ……!?」

 ガルドの巨体が、くの字に折れ曲がった。

 彼は、ハンマーを取り落とし、その場に崩れ落ちて気絶した。

「……やりました!」

 リディアは、勝利の余韻に浸ることなく、倒れた巨漢を飛び越えた。

 包囲網の一角が崩れた。

 その先には、鬱蒼と茂る森の闇が口を開けている。

「逃がすな! 撃て! 撃てェ!」

 背後から、怒号と矢の雨が飛んでくる。

 だが、森の中に入ってしまえば、こちらのものだ。

 リディアとアビスは、木々の間を縫うように駆け抜け、その姿を深い緑の闇へと消していった。


 ◇


 数十分後。

 里から数キロ離れた山の中腹。

 息を切らせたリディアとアビスは、岩陰に身を潜め、眼下の里を見下ろしていた。


 里の上空には、まだ「浄化者(ピュリファイア)」の艦隊が居座っている。

 だが、砲撃は止んでいた。

 リディアが里を脱出したことを確認し、捜索範囲を周辺の山岳地帯へと広げ始めたようだ。

 小型艇が次々と発進し、森の上空を旋回しているのが見える。


「……止まりました。攻撃、止まりましたよ、アビスさん!」

 リディアは、安堵の涙を浮かべながら、アビスを抱きしめた。

「よかった……。お父様たち、無事ですよね……?」

(……フン。とりあえずはな)

 アビスは、内心で悪態をつきながらも、リディアの腕の中で力を抜いた。

 あの一瞬の魔法で、残りの魔力は完全に空っぽだ。

 今は、指一本動かすのも億劫だった。

(だが、これで第一段階はクリアだ。この脳筋娘を、あの『負けイベント確定』の籠城戦から引き剥がすことには成功した)

 アビスは、遠くに見える艦隊を冷ややかに見つめた。

 里は生き延びたかもしれないが、それは一時的なものだ。

 「浄化者(ピュリファイア)」は、リディアを捕らえるまで、執拗に追いかけてくるだろう。

 そして、リディアを捕らえ損ねれば、見せしめに里を焼くかもしれない。


 だが、それは「今」の話ではない。

 今は、とにかく距離を稼ぐことだ。

 そして、この広大な大陸を逃げ回りながら、失われた力を取り戻し、あの空に浮かぶ不愉快な鉄屑どもを叩き落とす方法を見つけるしかない。


「行きましょう、アビスさん」

 リディアが立ち上がった。

 彼女は、涙を拭い、凛とした表情で前を見据えた。

「私は、もう逃げません。……いえ、逃げるけど、ただ逃げるだけじゃありません。この旅で、強くなります。そして、いつか必ず、あの人たちを追い払って、里のみんなを助けに行きます!」

 その言葉は、アビスの利己的な計算とは裏腹に、どこまでも真っ直ぐで、眩しかった。

(……勝手にしやがれ)

 アビスは、ふんと鼻を鳴らした。

(俺様の目的は、俺様の完全復活と、テメエら人間どもへの復讐だ。……だがまあ、当面の間は、テメエのその無駄に暑苦しい『正義ごっこ』に付き合ってやるよ。……護衛(ボディガード)兼、移動手段(乗り物)としてな)


 リディアは、アビスをリュックサック(これも脱出時にちゃっかり持ち出していた)に背負うと、道なき道を歩き出した。

 目指す先は定かではない。

 だが、二人の奇妙な旅路――「浄化者(ピュリファイア)」を敵に回した逃避行が、今ここに幕を開けたのだった。

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