第四話 アビスの(利己的な)計算
空が、塞がれていた。
クレセント家の隠れ里。
外界から隔絶され、数百年の間、平和な時を刻んできたその場所の上空に、今は無機質で巨大な鉄の塊が鎮座していた。
「飛空艇」。
失われた古代文明の遺産を発掘し、現代の魔導技術で無理やり再稼働させた、空飛ぶ要塞。
その白銀の船体には、太陽の光を反射してギラギラと輝く、どこか違和感のある「勇者」の紋章――新興勢力「浄化者」の旗印が刻まれている。
一隻ではない。 二隻、三隻……五隻。
里を完全に取り囲むように展開された艦隊は、まるで獲物を追い詰めた狩人のようだった。
甲板には、白銀の鎧を身に纏った騎士たちが整列し、その手には魔導で強化された槍や弓が握られている。
そして、船体の下部には、禍々しい魔力を帯びた「魔導カノン砲」の砲口が、黒い眼窩のように地上を睨みつけていた。
『―――繰り返す』
上空から、増幅された冷徹な声が降り注ぐ。
それは、物理的な振動となって、里の家々の窓ガラスをビリビリと震わせた。
『我らは聖騎士団「白銀の牙」。この里に潜む「呪われた血」、リディア・クレセントの身柄を要求する』
感情の一切ない、事務的でありながら、絶対的な強制力を持った宣告。
『三分間待ってやる。防壁を開き、対象を引き渡せ。さもなくば、この里を地図上から「浄化」する』
最後通告だ。
里の中央広場は、重苦しい沈黙が支配していた。
集まっていた村人たちは、空を見上げ、恐怖に身をすくませている。
鍬や鋤を持った手は震え、足は凍りついたように動かない。
無理もない。
彼らは、初代勇者の伝説を守り伝えるだけの、平和ボケした集団だ。
多少の魔物退治なら経験はあるだろうが、このような組織だった「軍隊」、それも空からの一方的な暴力に対しては、あまりにも無力だった。
(……チッ。こいつは、完全に詰みだな)
その混乱の只中で、一匹の黒い犬――魔人アビスは、リディアの足元に身を潜めながら、冷ややかな目で状況を分析していた。
彼は、怯えているわけではない。
その小さな頭脳の中で、高速の戦術シミュレーションを行っていたのだ。
(飛空艇五隻。搭載されているのは対城塞用の魔導カノン砲。一斉射撃されれば、この里を覆う旧式の結界なんざ、紙切れ同然に吹き飛ぶ)
アビスの視線が、甲板上の兵力へと移る。
(それに加え、甲板に展開している魔術師部隊の数は、目視できるだけで五十……いや、百はいるか。全員が、統率の取れた軍用魔術の使い手だ。個々の力量は知れたものだが、集団戦法を取られたら厄介極まりねえ)
圧倒的だ。
対する、こちらの戦力は?
アビスはチラリと周囲を見渡した。
「勇者LOVE」の鉢巻を締め直し、震える手で旧式(骨董品レベル)の杖を握るバルドル。
農具を構える村人たち。
そして、戦士としての素質はあるが、まだ実戦経験の乏しい、リディア。
(……勝負にならねえ。いや、勝負にすらさせてもらえねえな)
アビスは、即座に結論を下した。
これは戦闘ではない。
一方的な虐殺、あるいは、ただの「処分」になるだろう。
「―――ふざけるなッ!」
その時、静まり返った広場に、バルドルの怒号が響いた。
彼は、恐怖で震える足を叱咤し、空に向かって拳を突き上げていた。
「リディアを……ワシの大切な娘を、貴様らのような得体の知れない連中に渡してたまるか! 彼女は、この里の希望! 初代勇者様の、正当なる後継者なのだぞ!」
バルドルの声が、凍りついた空気を揺らす。
その言葉に呼応するように、村人たちもまた、恐怖を怒りへと変え始めた。
「そ、そうだ! リディアちゃんを守れ!」
「我らは屈しないぞ!」
「勇者様の加護がある限り、我らは負けん!」
次々と上がる声。
彼らは、武器を掲げ、空に向かって叫び始めた。
それは、一見すれば、感動的な「団結」の光景だった。
弱き者が手を取り合い、強大な悪に立ち向かう、物語のクライマックスのような、勇気ある決断。
だが。
アビスの目には、それは「集団自殺の志願」にしか映らなかった。
(……馬鹿がァ!)
アビスは、心の中で盛大に毒づいた。
(感情論で戦争ができるかよ! 相手は、現大陸を支配している「浄化者」だぞ!? 狂信的な殺戮集団だ! テメエらがいくら叫ぼうが、あいつらは眉一つ動かさずに引き金を引くぞ!)
アビスは知っていた。
この五年間、寝床の中で聞き耳を立てて集めた情報。
「浄化者」と呼ばれるこの新興勢力が、いかに冷徹で、いかに効率的に、大陸の「魔」に関わる者たちを抹殺してきたかを。
彼らにとって、交渉や慈悲という概念は存在しない。
あるのは「浄化(抹殺)」か「服従」か、その二択のみだ。
(死ぬぞ。全員、間違いなくな)
アビスにとって、村人やバルドルがどうなろうと知ったことではない。
奴らは、アビスを封印し続けた憎き敵の末裔だ。
ここで全滅してくれれば、むしろ清々するくらいだ。
だが。
問題は、リディアだ。
アビスは、恐る恐る視線を上げた。
彼の飼い主であるリディアは、村人たちの声援を背に受け、静かに、しかし力強く、一歩前へと踏み出していた。
その手には、漆黒の輝きを放つ剣――「黒い聖剣(呪いの鍵)」が握られている。
「……お父様。みんな……」
リディアの声は、震えてはいなかった。
彼女は、燃えるような赤い髪を風になびかせ、凛とした瞳で上空の艦隊を睨み据えている。
その出で立ちは、五年前のひ弱な小娘のそれではない。
動きやすいショートパンツに、頑丈な革のブーツ。
上半身には軽装のチュニックを纏い、その手足は、日々の鍛錬(という名のアビスの散歩)によって、しなやかに引き締まっている。
「ありがとうございます。……でも、大丈夫です。私が、皆さんを守りますから」
ジャキッ。
彼女は、聖剣(呪いの鍵)を構えた。
その瞬間、彼女の全身から、黄金色の闘気が立ち昇る。
この五年間、アビスを引きずり回して培った異常な脚力。
重い家具を片手で持ち上げて鍛えた腕力。
そして、書物から学んだ(偏った)騎士道精神。
それらが融合し、彼女を、本物の「戦士」へと変貌させていた。
「ここは通しません。初代勇者の名にかけて!」
かっこいい。
絵になる。
まさに、物語の主人公のような英雄的なシーンだ。
村人たちからは、歓声が上がる。
だが。
アビス(犬)は、その足元で、白目を剥いて泡を吹きそうになっていた。
(……やめろおおおおおおおッ! 嘘だろ、おい!?)
アビスは、心の中で絶叫した。
(「守ります」じゃねえんだよ! 何、籠城戦やる気満々になってんだ、この脳筋がァ! ここで戦ったら、テメエは百パーセント、負けるんだよ!)
アビスの計算は冷徹だ。
確かに、リディアは強い。
個人の戦闘力ならば、あの聖騎士団の数十人を相手にしても引けを取らないだろう。
聖剣の加護があれば、魔導カノン砲の一撃くらいは防げるかもしれない。
だが、相手は「軍」だ。
リディア一人が強くても、守るべき対象(村人やバルドル)が多すぎる。
敵は、馬鹿正直にリディアを狙う必要はない。
周囲の村人を狙って砲撃すれば、リディアはそれを庇って消耗する。
村人を人質に取られれば、彼女の性格上、降伏せざるを得ない。
どう転んでも、この「里での防衛戦」は、リディアにとって圧倒的に不利な「負けイベント」なのだ。
そして。
アビスにとって、リディアの敗北は、自身の「死」よりも恐ろしい結末を意味していた。
―――リディアの死、あるいは捕縛。
それは即ち、「黒い聖剣(呪いの鍵)」の所有権の喪失、あるいは凍結。
五年前のあの日。
リディアが聖剣(呪いの鍵)引きぬいたことで発動した呪いは、リディアという「聖剣の所有者」が存在することで成立している。
もし彼女が死ねば?
もし彼女が、「浄化者」とかいう得体の知れない奴らに捕まり、二度と戻ってこなかったら?
アビスの脳裏に、最悪のシミュレーションが、鮮明な映像となって浮かび上がった。
【バッドエンドその一:リディア死亡ルート】
空からの集中砲火。
リディアは、バルドルを庇って、その身に直撃を受ける。
彼女が即死する、
その瞬間。
呪いの制御装置である「黒い聖剣」が暴走し、アビスの魂と、無限の魔力の源との接続が、完全に断たれる。
アビスは、二度と魔人に戻る術を失う。
残されるのは、ただの「寿命の長い犬」。
誰にも顧みられることなく、野良犬として彷徨い、飢えと渇きに苦しみながら、泥水を啜って生き延びる未来。
魔人としての誇りも、力も、全てを失った、永遠の敗北者。
【バッドエンドその二:リディア捕縛ルート】
リディアが生きて捕まる。
彼女は「浄化者」の本拠地へと連行され、牢獄に幽閉される。
アビス(犬)は、「呪われた血族のペット」として、一緒に捕まるか、あるいはその場で「殺処分」される。
もし一緒に捕まったとしても、待っているのは地獄の実験動物ライフだ。
「浄化者」の研究材料として解剖されるか、あるいは一生、冷たい檻の中で鎖に繋がれたままになる。
ドッグフードすら与えられないかもしれない。
(……有り得ねえ……!)
アビスの全身の毛が、逆立った。
(……有り得ねえ! 俺様は、魔人アビスだぞ!? 大陸の支配者だぞ!? なんで、そんな、三流悲劇のペット枠みたいな末路を辿らなきゃなんねえんだ!)
冗談ではない。
一昨夜、ようやく「3分間の制限変身」という希望の光を手に入れたばかりなのだ。
まだ、本当の復讐も、世界征服も、何一つ成し遂げていない。
こんな、ド田舎の村の、無意味な玉砕戦に巻き込まれて、永遠に「ポチ」で終わるなんて、絶対に御免だ!
(……逃げるぞ)
アビスの瞳(犬の目)に、冷酷で、利己的な光が宿った。
(この状況を打破する唯一の方法。それは、リディアをこの「里」から引き剥がすことだ)
里を見捨てる?
知ったことか。
俺様にとって必要なのは、俺様の「呪い」を解く鍵である、リディアの命と聖剣(呪いの鍵)だけだ。
彼女さえ無事なら、他の全てが滅びようと構わない。
むしろ、この足手まといな村人たちは、リディアを逃がすための「囮」として、有効活用させてもらうべきだ。
(そうだ……。リディアがここに留まっているのは、この馬鹿な父親や村人たちを守ろうとしているからだ。ならば、リディアをここから強制的に排除すればいい)
アビスは、高速で思考を巡らせた。
どうやって?
リディアは今、正義感と使命感で脳内麻薬ドバドバの「英雄モード」に入っている。
普通に「逃げよう」と説得しても(脳内会話で)、聞く耳を持つはずがない。
「自分だけ逃げるなんてできません!」と言うに決まっている。
(……チッ。面倒な脳筋だ。だが、やるしかねえ)
アビスは、覚悟を決めた。
今の自分にできること。
それは、彼女の「勘違い」を利用し、彼女の「正義感」を逆手に取り、結果として「俺様の安全」を確保することだ。
彼女に、逃げることを「恥」ではなく「戦略」だと思わせる。
彼女がここにいること自体が、里にとってマイナスなのだと、叩き込む(ある意味、事実なのだが)。
『―――時間だ』
上空から、無慈悲な宣告が下った。
猶予時間が終わる。
飛空艇の砲口が、赤い光を帯び始める。
充填開始。
発射まで、あと数秒。
「みんな! 私の後ろへ!」
リディアが叫ぶ。
彼女は、聖剣を構え、第一撃を真正面から受け止めるつもりだ。
だが、アビスには見えていた。
上空の砲門は、リディアだけでなく、里の広範囲を焼き払う「拡散モード」になっていることが。
受け止めきれない。
彼女が剣を振るった隙に、周囲の村人が死ぬ。
そして、絶望したリディアもまた、次の斉射で死ぬ。
(……今だ!)
アビスは動いた。
リディアが、飛空艇に向かって跳躍しようと、そのショートパンツから伸びる筋肉質の脚に力を込めた、その刹那。
アビスは、猛然とダッシュし、リディアのチュニックの裾に、ガブリと噛み付いた。
「……えっ!?」
不意を突かれたリディアの体勢が崩れる。
跳躍はキャンセルされ、彼女はその場によろめいた。
「ア、アビスさん!? 何をするんですか! 危ないですよ!」
リディアが驚いて足元を見る。
そこには、鬼気迫る形相(犬だが)で、彼女の服を引っ張り、里の奥へと引きずり込もうとする、黒い毛玉の姿があった。
「グルルルルッ!(行くな! 行くんじゃねえ、この馬鹿!)」
アビスの喉から出るのは、獣の唸り声。
だが、リディアの脳内には、アビスの必死の言葉が直接響き渡っていた。
これは、呪いによって繋がれた二人(一人と一匹)だけの、秘密の会話。
周囲の村人たちには、飼い犬がパニックになって飼い主にじゃれついているようにしか見えていない。
だが、アビスの目は本気だった。
彼は、全身全霊を込めて、リディアの「死」への突撃を阻止しようとしていた。
ズドォォォォォンッ!
上空で、砲撃の音が炸裂した。
第一撃が、里の結界に着弾する。
空が割れるような音と共に、結界に巨大な亀裂が入る。
破片が降り注ぐ中、アビスは、リディアの服を咥えたまま、必死に睨みつけた。
(死にたくなけりゃ、来い! 脳筋! 俺様が、逃げ道を教えてやる!)
アビスの、なりふり構わぬ(利己的な)介入が、リディアの運命を、そして世界の運命を、大きくねじ曲げようとしていた。




