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第三話 浄化者の来訪

 クレセント家の朝は、バルドル・クレセントの悲痛な絶叫で幕を開けた。

 だが、魔人アビス(犬)にとって、それは既に「終わった仕事」だった。

 肖像画への落書きは、あくまで前哨戦。

 アビスの狙いは、この隠れ里の支配者層(といってもバルドル一人だが)の権威を、より公的な場で、徹底的に失墜させることにあった。


 ◇


 翌日の午後。

 隠れ里の中央広場には、多くの村人たちが集まっていた。

 今日は、週に一度の「定例報告会」。

 里の長であるバルドルが、村人たちに向けてありがたい訓示(主に初代勇者の自慢話)と、今後の里の方針を発表する重要なイベントだ。


 広場の中央には、木製の演台が設置され、その上には魔術的な拡声装置である「風の魔石」が置かれている。

「ふう……。昨日の肖像画の件はショックだったが……長として、気丈に振る舞わねばな」

 バルドルは、演台の裏で緊張した面持ちで原稿をチェックしていた。

 その足元には、なぜかリディアに連れられたアビス(犬)の姿があった。

「お父様、頑張ってくださいね! アビスさんも応援してますよ!」

「うむ。リディアよ、ワシの勇姿をしっかりと目に焼き付けておくのだぞ」


 バルドルは咳払いをし、演台へと登った。

 村人たちの視線が一斉に集まる。

「皆の者! 今週も、偉大なる初代勇者様の加護のもと、この里が平穏であることを感謝しよう!」

 バルドルのよく通る声が、魔石によって増幅され、広場に響き渡る。

 村人たちは「おおー」と感心したように拍手をした。

 ここまでは、順調だった。

 演台の下、リディアの足元で、アビスは邪悪な(犬の)笑みを浮かべていた。

(ククク……。始めようか、第二ラウンドを)

 昨夜。

 アビスは、貴重な「三分間」を、肖像画ではなくこの瞬間のために使っていた。

 ターゲットは、バルドルが読み上げている「演説原稿」ではない。

 彼が使っている「風の魔石(マイク)」だ。

 アビスは昨夜、その魔石の術式回路に、極めて悪質な「変換フィルタ」を組み込んでおいたのだ。

 それは、入力された音声の特定の言葉を、強制的に「別の言葉」に変換して出力する、魔人アビス特製のいたずら呪文。

 バルドルが、声を張り上げる。

「我々が守るべきは! この里の誇り! そして勇者の魂である!」

 魔石が震える。

 アビスが仕込んだ術式が、特定のキーワード――「勇者」「誇り」「魂」といった、バルドルが多用する単語に反応し、起動した。

「我々が守るべきは! この里のポテト! そして風車のタマゴである!」


 ―――ザワッ。


 広場が、どよめいた。

「……はい?」

 最前列にいた村人の一人が、耳を疑うように首を傾げた。

 バルドルは気づいていない。

 魔石は「出力」だけを変換しているため、喋っている本人の耳には、自分の正常な声しか聞こえていないのだ。


「え? 今、ポテトって言った?」

「タマゴ? 朝ごはんの話か?」


 村人たちがざわつく中、バルドルは演説を続ける。

 熱が入ってきた。

「初代勇者様は言われた! 『困難に直面した時こそ、人は強くなれる』と!」

 魔石が明滅する。変換フィルタがフル稼働する。


「初代風車様は言われた! 『困難に直面した時こそ、人は犬になれる』と!」


 ―――シーン。

 広場が、静まり返った。

 リディアだけが、「まあ! 深いお言葉!」と感動して拍手している。


(ププッ……! ギャハハハハ!)

 アビスは、必死に笑いをこらえていた。

 犬の身体が小刻みに震える。

 最高だ。

 あの厳格なバルドルが、大真面目な顔で「人は犬になれる」と力説している。

 これぞ、アビスが求めていた「矮小かつ陰湿な復讐」だ。


 だが、バルドルは止まらない。

 村人たちの静寂を、「感銘を受けている」と勘違いした彼は、さらにヒートアップしていく。


「そうだ! 我々は恐れてはならない! どんな敵が来ようとも、我々は決して屈しない!」

 ↓

「そうだ! 我々はお座りしてはならない! どんな敵が来ようとも、我々は決してお手しない!」


 もはや、演説は崩壊していた。

 村人たちは、肩を震わせて笑いをこらえる者、心配そうに長を見つめる者、そして「これは何かの暗号か?」と真剣にメモを取る者に分かれていた。


「そして最後に! 我が愛娘リディアよ! お前こそが、この里の希望の光だ!」

 ↓

「そして最後に! 我が愛娘リディアよ! お前こそが、この里のキノコの光だ!」


「キノコ!?」

 さすがのリディアも、これには驚いたようだ。

「お父様、私、キノコだったんですか……?」


「以上だ! 解散!」

 ↓

「以上だ! ワン!」


 バルドルは満足げに演説を終え、演台を降りた。

 広場は、爆笑と困惑の渦に包まれていた。

 バルドル本人は、「今日の演説は、いつになく皆の心に届いたようだ」と、村人たちの反応(爆笑)を見て勘違いし、満面の笑みを浮かべている。


(勝った……!)

 アビスは、心の中でガッツポーズをした。

 権威の失墜。

 厳粛な儀式の破壊。

 そして何より、あのバルドルに、公衆の面前で「ワン」と言わせた達成感。

 百万分の一の魔力でも、知恵と工夫次第で、ここまでのカオスを作り出せるのだ。


(フン……。人間どもよ、思い知ったか。これが魔人の……)

 アビスが、悦に入っていた、その時だった。


 ―――ウゥゥゥゥゥゥゥン……!


 不意に、低く、重い音が、里全体に響き渡った。

 アビスの犬の耳が、ピクリと動く。

 広場の爆笑の渦が一瞬でかき消されるような、異質な音。

 それは、里を覆う「認識阻害結界」が、外部からの強大な魔力によって圧迫され、軋みを上げている音だった。


「……なんだ?」

 バルドルが、笑顔を消し、鋭い表情で空を見上げた。

 広場に、巨大な影が落ちる。

 太陽が遮られたのだ。

 雲ではない。

 もっと、人工的で、威圧的な何かが、里の上空を覆い尽くそうとしていた。

「……あれは……」

 村人の一人が、震える指で空を指差した。

 結界の向こう側。

 里の上空と、防壁の外側に、数隻の巨大な白い「飛空艇」が停泊していた。

 その船体には、アビスも見覚えのある、しかしどこか異質な、「勇者」の紋章が描かれている。

 バルドルの顔から、血の気が引いていく。

「まさか……『浄化者(ピュリファイアー)』か……!?」


浄化者(ピュリファイアー)』。


 四天王亡き後の大陸を恐怖で統一しつつある、謎の支配者。

 その軍勢が今、この隠れ里を完全に包囲していた。

 上空の飛空艇から、魔術によって増幅された、冷徹な声が降り注ぐ。

 それは、アビスのイタズラで歪められたバルドルの声とは違う、本物の「支配者」の声だった。


『―――告げる。我らは崇高なる「浄化者(ピュリファイアー)」様の代行者、聖騎士団「白銀の牙」なり』


 その声は、里の防壁の外側からも、上空からも、逃げ場のない圧力となって響き渡った。


『この里に、世界を穢す「呪われた血」が潜んでいることは探知済みだ。初代勇者の末裔、リディア・クレセント。即刻、防壁を開き、我が軍門に下れ』


 その声が、正確にリディアの存在を指名する。


『抵抗は無意味である。我らは既に、この里を完全に包囲した』


 ドォォン!

 威嚇として放たれた魔導砲の一撃が、里を覆う結界の表面で弾け、空気がビリビリと震えた。

 悲鳴が上がる。

 まだ結界と防壁は破られてはいない。

 だが、その圧倒的な戦力差は、誰の目にも明らかだった。

 アビスは、リディアの腕の中で、その光景を冷めた目で見つめていた。


(……チッ。せっかくの傑作(演説)が、台無しじゃねえか)


 だが、アビスは理解していた。

 これは、もう「イタズラ」をやっている場合ではない。

 彼の平穏な(屈辱的な)ペット生活を脅かす、本当の「敵」が現れたのだと。

 アビスを抱くリディアの腕に、力がこもる。

 彼女は、震えてはいなかった。

 ただ、真っ直ぐに、空を覆う敵を見据えていた。


「……アビスさん。下がっていてください」


 彼女は、アビスをそっと地面に降ろした。

 その背中は、五年前よりもずっと大きく、そして頼もしく見えた。

 平穏は、終わった。

 魔人(犬)と勇者(脳筋)の、奇妙な、そして新しい闘いが、再び始まろうとしていた。

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