第二十五話 理不尽な結末
玉座の間は、奇妙な静寂に包まれていた。
天井は崩れ落ち、星空が覗いている。
床には無数の亀裂が走り、かつての栄華を誇った装飾品は瓦礫となって散乱している。
その廃墟の中心で。
魔人アビスは、右手には奪い取った「白い聖剣」を、左手にはリディアが落とした「黒い聖剣」を、それぞれ握りしめていた。
「……フハハハハハ!」
アビスの口から、低い哄笑が漏れた。
それは次第に大きくなり、やがて高らかな勝利の凱歌となって、夜空へと響き渡った。
「見たか、世界よ! これが『魔人』だ! 勇者も、システムも、運命さえも、俺様の前では塵に等しい!」
アビスは、二振りの聖剣を頭上で交差させた。
白と黒の火花が散り、圧倒的な魔力の波動が周囲の瓦礫を吹き飛ばす。
完全なる勝利。
そして、完全なる復活。
今の彼を縛るものは何もない。
五年間、彼を犬の姿に封じ込めていた「呪い」の根源たる勇者は消滅し、その制御キーである二つの聖剣は、今や彼の手中にあるのだから。
「……アビス、さん……?」
瓦礫の影で、リディアが怯えたように声を上げた。
彼女は、目の前の男が誰であるかを知っている。
自分を助けてくれた相棒だ。
だが、今の彼から放たれる気配は、あの愛らしい犬の面影など微塵もない。
冷酷で、傲慢で、そして絶対的な「支配者」のオーラ。
「……よう、リディア」
アビスは、剣を下ろし、ゆっくりとリディアの方を向いた。
その深紅の瞳が、獲物をねめつけるように細められる。
「……さて。邪魔者は消えた。……ここからは、『精算』の時間だ」
「……精算……?」
リディアが後ずさる。
アビスが一歩踏み出すたびに、床の黒曜石が悲鳴を上げて砕ける。
「ああ、そうだ。……テメエには、たっぷりと借りを返してもらわねえとな」
アビスの脳裏に、この五年間の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
朝の散歩という名の強制連行。
味のしないドッグフード。
泡だらけにされた屈辱のバスタイム。
そして何より、あの忌々しい赤いゴムボールを延々と追いかけさせられた、果てしない徒労感。
「……俺様は魔人アビスだ。……その俺様を、あそこまでコケにした人間は、有史以来テメエだけだぞ?」
アビスは、リディアの目の前まで歩み寄り、その長身で彼女を見下ろした。
身長差は歴然。
リディアは、アビスの胸元あたりまでしかない。
「……ひっ……!」
リディアは、壁際に追い詰められた。
逃げ場はない。
アビスは、右手の「白い聖剣」をリディアの喉元に突きつけた。
殺気はない。
だが、それ以上に質の悪い「愉悦」の色が、その瞳に宿っている。
「……ひれ伏せ、人間」
アビスが命じた。
「……これからは、俺様が『主人』で、テメエが『ペット』だ。……まずは、そうだな。……『お手』から始めようか?」
アビスは、邪悪に笑った。
復讐だ。
可愛らしい復讐ではない。
魔王のプライドを賭けた、徹底的な立場の逆転劇。
この生意気な勇者の末裔に、首輪(比喩的な意味で)を嵌め、一生傅かせてやるのだ。「…………」
リディアは、震えていた。
恐怖?
いや、違う。
彼女は、下を向いたまま、肩を小刻みに震わせていた。
「……おい。聞いてんのか?」
アビスがいぶかしげに眉を寄せた時。
リディアが、ガバッと顔を上げた。
その若草色の瞳に宿っていたのは、怯えではなかった。
烈火のごとき「怒り」だった。
「……ふざけないでくださいッ!」
リディアの怒鳴り声が、アビスの鼓膜を揺らした。
「……あ?」
「……何が『精算』ですか! 何が『主人』ですか! ……アビスさんの馬鹿っ! 嘘つき! 詐欺師!」
リディアは、突きつけられた聖剣など意に介さず、アビスの胸板を両手でドンと押した。
もちろん、完全体のアビスはびくともしない。
だが、その剣幕に、アビスはたじろいだ。
「……お、おい。何をキレてやがる。立場をわきまえろよ」
「立場!? ……そっちこそ、自分の立場を分かってるんですか!?」
リディアは、人差し指をアビスの鼻先に突きつけた。
「……さっき、アビスさん言いましたよね? 『邪魔者は消えた』って。……それって、つまり……」
リディアの目が、鋭く光る。
「……『今の状況』は、もう『生命の危機』じゃないってことですよね!?」
「……は?」
アビスの思考が停止した。
生命の危機。
それは、アビスが魔人に変身するためのトリガー。
勇者は消滅した。
聖騎士団も壊滅した。
つまり、今この瞬間、リディアの命を脅かす「外敵」は存在しない。
「……あっ」
アビスは気づいた。
そして、顔面蒼白(魔人だが)になった。
この世界には、「絶対的なルール」が存在する。
それは、初代勇者が定めた、アビスに対する「最強の封印術式」。
そして、その術式の発動権限は、今もなお、目の前の少女が握っているのだ。
「……ま、待て。リディア。落ち着け」
アビスは、慌てて後ずさった。
冷や汗が流れる。
まずい。
調子に乗りすぎた。
この小娘は、普段は天然で抜けているが、こういう時の勘だけは野生動物並みに鋭いんだった。
「……落ち着いてなんかいられません!」
リディアは、腰に手を当てて仁王立ちした。
その背後に、怒りのオーラが見えるようだ。
「……アビスさん。あなたは、私を騙しましたね?」
「……だ、騙してなどいない。俺様はただ、魔人としての威厳を……」
「自分が復活するために、私を囮にして! そして、最後には『ペット』だなんて……!」
リディアの目に涙が浮かぶ。
それは、恐怖の涙ではない。
信じていた相棒に、おもちゃ扱いされたことへの、純粋な悲しみと怒り。
「……私は、アビスさんのこと、家族だと思ってたのに! ……パートナーだと思ってたのに!」
「……ッ!」
その言葉が、アビスの胸に突き刺さる。
家族。
パートナー。
魔人である自分に対して、そんな甘っちょろい言葉を使う人間など、この千年間で一人もいなかった。
「……だから、これがおしおきです!」
リディアは、大きく息を吸い込んだ。
アビスは、反射的に両耳を塞ごうとしたが、両手が聖剣で塞がっていて間に合わない。
リディアの口から、あの、世界を書き換える「言霊」が放たれた。
「―――ハウスッッッ!!!」
ドクンッ。
アビスの心臓が跳ねた。
同時に、彼が手にしていた「白い聖剣」と「黒い聖剣」が、呼応するように激しく共鳴した。
キィィィィィン!
二つの聖剣は、本来、アビスを封じるために作られたシステムキーだ。
それが、正当なる所有者の命令コードを受信し、アビスの体内で暴走する魔力を強制的に「初期化」する。
「……が、ぁ……!?」
アビスの全身から力が抜けていく。
無限に湧き出していた魔力の泉が、ピシャリと閉じられる感覚。
骨格が軋み、筋肉が収縮する。
視界が、ガクンと低くなる。
「……や、やめろ……! 俺様は……魔人だぞ……! 二度と……あの姿には……!」
アビスは必死に抵抗した。
魔人の意地。
支配者のプライド。
だが、「設定」という名の神の摂理は、個人の意思など歯牙にもかけない。
―――ポンッ。
間の抜けた音が、玉座の間に響いた。
もうもうと立ち込める白煙。
二本の聖剣が、カラン、カランと音を立てて床に転がる。
そして。
煙が晴れたそこには。
「……キュウ……」
一匹の、黒いポメラニアン似の犬が、床にペタンとへたり込んでいた。
つぶらな瞳。
フワフワの毛並み。
どこからどう見ても、愛玩動物そのもの。
(……ウソだろ……)
アビス(犬)は、自分の前足を見た。
黒い、短い、ぷにぷにの肉球。
さっきまでの、あの鋭い爪と、世界を握りつぶせる腕力は、夢幻の彼方へ消え去っていた。
(……戻った……。……いや、戻された……!)
完全体からの、強制送還。
初代勇者を倒し、世界の理を書き換えるほどの力を手に入れてなお、この「飼い主の命令」という絶対的なルールだけは、覆すことができなかったのだ。
「……ふぅ。……やっぱり」
リディアが、ため息をついた。
そして、アビス(犬)を見下ろし、少しだけ意地悪く微笑んだ。
「……アビスさんは、やっぱり、この姿がお似合いですよ」
(……屈辱だ……)
アビスは、床に突っ伏して顔を覆った(前足で)。
勝ったのに。
世界最強になったのに。
結局、序列は変わらない。
リディア・クレセント>>(越えられない壁)>>魔人アビス。
この図式は、世界の理よりも強固な「呪い」として刻まれているらしい。
「……でも」
リディアがしゃがみ込んだ。
そして、アビスの体を、優しく抱き上げた。
「……助けてくれて、ありがとうございました」
その声は、柔らかかった。
リディアは、アビスを胸に抱き、その温もりを確かめるように頬ずりをした。
「……アビスさんが来てくれなかったら、私、本当にダメかと思いました。……怖かった。……すごく、怖かったです」
リディアの肩が震える。
彼女もまた、限界だったのだ。
勇者の末裔として気丈に振る舞ってはいたが、中身はまだ十代の少女。
伝説の英雄に殺されかけ、世界の命運を背負わされたプレッシャーは、計り知れないものがあったはずだ。
(……チッ。……泣くんじゃねえよ)
アビスは、リディアの胸の中で、身じろぎした。
鼻先に触れる、彼女の体温と、涙の匂い。
それは、五年前から変わらない、妙に落ち着く匂いだった。
「ワン……(……まあ、いい)」
アビスは、リディアの腕に顎を乗せた。
今回は、負けを認めてやる。
魔人としての復活は、またお預けだ。
だが、「定位置」に戻ってくるのも、そう悪い気分ではない……と、アビスは自身の軟弱さを心の中で呪った。
◇
崩壊した玉座の間。
天井の穴から、朝日が差し込んできた。
長く、暗い夜が明ける。
「……帰りましょう、アビスさん」
リディアは、床に落ちていた「黒い聖剣」と「白い聖剣」を拾い上げた。
二本の聖剣は、もはや共鳴することなく、静かにその輝きを潜めていた。
役目を終えたのだ。
初代勇者の呪縛も、アビスの封印も、形を変えて「新たな日常」へと溶け込んでいく。
「……世界は、まだめちゃくちゃです。……四天王がいなくなった後の混乱も、浄化者が残した傷跡も、まだまだたくさん残っています」
リディアは、窓の外――眼下に広がる聖都を見下ろした。
支配者を失った街。
だが、そこには、新しい朝を迎える人々の息吹があった。
「……私たちの旅は、まだ終わりませんね」
城を抜け、広場に戻ると、リディアは、アビスが入ったリュックを背負い直した。
そして、二本の聖剣を、背中で交差させるように背負う。
二刀流の勇者。
そして、その背中には、世界最恐の魔人(犬)という、最強の参謀がいる。
「ワン!(……ケッ。……付き合ってやるよ、暇つぶしにな)」
アビスは、リュックの隙間から外を見た。
目的は変わった。
「世界征服」ではない。
「呪いの完全解明」と、そして……。
(……自分たちのルーツを探る旅、か)
アビスは、消滅した勇者の最期の言葉を思い出していた。
『システム』。
『使命』。
自分たちを作り出し、本能を植え付けた「古代文明」の正体。
それらを解き明かさなければ、本当の意味で「自由」にはなれない気がした。
「行きますよ! 出発です!」
リディアが歩き出す。
その足取りは、昨日までよりもずっと力強く、そして希望に満ちていた。




