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第二十四話 宿敵との戦い

 玉座の間を埋め尽くすほどの、圧倒的な闇の魔力。

 その中心で、漆黒のコートを纏った魔人アビスは、抱きとめたリディア・クレセントを床に立たせた。

「……アビス、さん……!」

 リディアは、目の前の長身の背中を見上げた。

 銀色の長髪。

 威圧的なのに、どこか安心感を覚える広い背中。

 見間違えるはずがない。 五年前、イグニスを蒸発させ、リュミエールを凍らせ、バザルトを砕き、モルフェを再起不能にした、あの絶対的な強者の姿。

 あの日々、共に旅をし、そしてリディアが「ハウス!」の一言で封じ込めてしまった、本当のアビスの姿だ。

「……やっと、戻れたんですね……!」

 リディアの瞳から、安堵の涙が溢れ出した。

 恐怖はない。

 ただ、この世界で唯一、本音でぶつかり合える「共犯者」が、万全の状態で帰ってきたことへの喜びだけがあった。

「……下がってろ、脳筋。ここから先は、怪獣大戦争だ。テメエの出る幕じゃねえ」

 アビスは、肩越しにリディアを一瞥した。

 その赤い瞳は、いつものように傲慢で、しかし、犬の姿の時よりも遥かに力強い光を宿していた。

「……はい!」

 リディアは素直に頷き、よろめく足で柱の陰へと退避した。

 彼女は知っている。

 この姿になったアビスは、無敵だ。

 どんな敵が相手だろうと、決して負けることはない。

「……システム・ログ参照。……『緊急解呪エマージェンシー・ディスペル』を確認」

 玉座の前で剣を構えていた「初代勇者」が、無機質な声を上げた。

 彼の碧眼が、高速で明滅している。

 目の前で起きた事象――「愛玩動物(脅威レベルE)」から「特級魔導脅威(脅威レベル測定不能)」への変貌を、冷静に分析しているようだ。

「……なるほど。所有者リディア・クレセントの『生命の危機』による、自動安全装置の作動か」

 勇者は、表情一つ変えずに納得した。

 彼にとって、それは想定内の仕様(プログラム)だ。

 しかし、次の瞬間、彼の眉がわずかに動いた。

「……だが、計算が合わん。私の手にはマスターキーである『白い聖剣』がある。この城内において、黒い聖剣の出力は一%以下に抑制されているはずだ」

 勇者の視線が、アビスを射抜く。

「安全装置が外れたとしても、今の貴様は『不完全な姿』しか取れないはずだ。……なぜ、一〇〇%(フルパワー)の状態で存在できる?」

「……だから、テメエはポンコツなんだよ」

 アビスは、自身の胸――心臓のある位置を、鋭い爪でトンと叩いた。

「計算? 抑制? ……そんなもんで俺様を縛れると思ったか? 俺様は『魔人』だぞ? 足りない分は、気合と執念で無理やりこじ開けるのが、俺様のやり方だ」

 アビスの体内では今、異空間との経路(パス)が完全に直結されていた。

 白い聖剣による抑制?

 そんなものは、アビスの「このまま犬で終わってたまるか」という凄まじい生存本能(と、リディアへの意地)の前には、紙切れ同然だったのだ。

「……非論理的だ」

 勇者は首をかしげた。

「システム上の数値を、精神論で凌駕するなどあり得ない。……だが、事実は事実として処理する」

 勇者が剣を構え直した。

 その全身から、白く輝く闘気が立ち昇る。

「再計算終了。……脅威レベルを最大に再設定。……対象を、全力で排除する」

「……上等だ」

 アビスが踏み込んだ。

 音速を超えた移動。

 床の黒曜石が爆ぜ、次の瞬間には勇者の目の前に肉迫していた。

「まずは一発、殴らせろ!」

 魔力を纏った漆黒の拳が、勇者の顔面を捉える。

 だが。


 キィィィン!


 勇者の反応もまた、神速だった。

 彼は表情一つ変えず、「白い聖剣」でアビスの拳を受け止めた。

 衝撃波が広がり、玉座の間のステンドグラスが一斉に粉砕される。

「……重いな」

 勇者が淡々と呟く。

「だが、無駄だ。……私の『滅魔プログラム』は、貴様の戦闘データを全て解析済みだ。攻撃パターン、魔力波長、思考の癖……全てデータベースにある」

 勇者が剣を払う。

 アビスの体が後方へ弾かれる。

 すかさず、勇者が追撃に出た。

 白い聖剣が、幾重もの光の軌跡を描き、アビスを切り刻もうと迫る。

「……シミュレーション通りだ。貴様はここで死ぬ」

 正確無比。

 一切の無駄がない、機械のような連撃。

 アビスは、それを紙一重で回避し、あるいは魔力の障壁で受け流した。

(……チッ。やるじゃねえか)

 アビスは内心で舌打ちした。

 さすがは、かつて俺様を封印した男だ。

 中身がシステムに置き換わっていようと、その技量は錆びついていない。

 いや、感情というノイズが消えた分、五百年前よりも鋭くなっているかもしれない。

「……解析済みだァ? 笑わせるな」

 アビスは、迫りくる白刃を素手で掴み止めた。

 ジュッ、と掌が焼ける音がする。

 聖剣の浄化の力が、アビスの肉体を焼いているのだ。

 だが、アビスは笑っていた。

「……俺様のデータだと? 那由多の昔の古臭いデータで、今の俺様を測れると思うなよ!」

 アビスは、掴んだ剣ごと勇者を放り投げた。

 勇者は空中で体勢を立て直すが、そこへアビスの追撃が飛ぶ。

「『黒棺(ブラック・コフィン)』!」

 勇者の周囲の空間が、四角く切り取られたように黒く染まる。

 重力魔法による圧縮攻撃。

 だが、勇者は白い聖剣を一閃させ、その「闇」を切り裂いた。

「……無意味だ。その魔法の構成式も、対処法も、既に学習済みだ」

 勇者は、切り裂いた闇の中から無傷で現れた。

 その瞳が、青白く発光する。

「……対象の脅威レベルを再設定。……殲滅モードへ移行する」

 勇者の背後から、光の翼が出現した。

 それは、天使の翼のような形状をした、高密度の魔力噴出孔だ。

 彼が浮遊する。

 そして、白い聖剣と、先ほど回収した黒い聖剣、二振りの剣を共鳴させる。

「……システム、限定解除。『神罰の光(ディバイン・レイ)』」

 二つの聖剣の切っ先から、極太のレーザーが放たれた。

 回避不可能の広範囲殲滅攻撃。

「……チッ!」

 アビスは、両手を前に突き出した。

 防御障壁を展開する。


 ズドォォォォォンッ!


 光と闇が激突し、凄まじい爆発が起きた。

 玉座の間が半壊し、瓦礫が降り注ぐ。

 煙が晴れた時。

 アビスは、膝をついていた。

 コートの袖が焼け焦げ、腕から煙が上がっている。

「アビスさん!」

 物陰からリディアの悲鳴が上がる。

「……へっ。……効かねえな」

 アビスは、痛みを堪えて立ち上がった。

 だが、表情は険しい。

(……まずいな。このままじゃジリ貧だ)

 アビスは悟った。

 今の自分は「完全体」だ。

 だが、それは「五百年前のアビス」に戻ったに過ぎない。

 対する勇者は、五百年の眠りの間に、この城の魔力を吸い上げ、自己進化を続けていたのだ。

 スペック差がある。

 真正面からの魔力のぶつかり合いでは、分が悪い。

「……どうした、魔人よ」

 勇者が、空から見下ろす。

「その程度か? ……貴様の『破壊』の本能は、もっと鋭かったはずだ。……劣化しているぞ」

 勇者の言葉が、アビスの胸に突き刺さる。

 破壊の本能。

 それは、アビスが生まれた時から持っていた、呪いのような衝動。

 全てを壊し、無に帰すことへの渇望。

 かつてのアビスは、その本能のままに暴れまわっていた。

 だが、今はどうだ?

(……俺様は、何のために戦っている?)

 アビスは自問した。

 世界征服のためか?

 人間への復讐のためか?

 いや、違う。

 今のアビスを動かしているのは、もっと別の、矮小で、個人的な理由だ。

 ―――あの「ペット生活」に戻りたくない。

 ―――あの脳筋娘に、二度と「ハウス」と言わせたくない。

 ―――そして何より。

 アビスは、チラリとリディアの方を見た。

 彼女は、崩れかけた柱にしがみつきながら、必死にアビスを応援している。

 自分の命が危険に晒されているというのに、逃げようともせず。

(……この馬鹿を守らなきゃならねえ、だと?)

 笑える話だ。

 魔王が、勇者の末裔を守るために、必死になっているなんて。

 破壊の本能?

 そんなものは、とっくの昔に、あの「ドッグフード」と一緒に消化しちまったぜ。

「……劣化? 違うな」

 アビスは、ゆらりと立ち上がった。

 その全身から、先ほどとは質の違う、どす黒く、粘り気のある魔力が溢れ出す。

「……『進化』したんだよ。……テメエには理解できねえだろうがな」

 アビスは、右手に魔力を集中させた。

 剣ではない。

 槍でもない。

 彼が形成したのは、巨大な「爪」だった。

 獣の爪。

 犬の爪。

 この五年間、彼が最も慣れ親しみ、そして最も屈辱を味わってきた姿の象徴。

「……テメエは、プログラムに従って動くだけの人形だ。……『滅魔』という本能に縛られた、哀れな奴隷だ」

 アビスが、地を蹴った。

 先ほどよりも速い。

 魔力だけでなく、怒りと屈辱を燃料にした加速。

「だが、俺様は違う! ……俺様は、俺様の意志で、テメエをぶっ壊す!」

「……無意味な感情論だ」

 勇者は、再び白い聖剣を構えた。

 迎撃プログラムが作動する。

 アビスの軌道を予測し、カウンターを合わせる。

 完璧なタイミング。

 だが。


 ガギッ!


 勇者の聖剣が、空を切った。

 いや、止められたのだ。

 アビスの左手が、聖剣の刃を直接掴んでいた。

 血が流れる。

 肉が焼ける。

 だが、アビスは離さない。

「……なっ!?」

 勇者の表情が、初めて崩れた。

 予測外の行動。

 ダメージを無視した、捨て身の特攻。

 それは、効率を最優先する機械の論理では、決して導き出せない「非合理」な選択だった。

「……痛えな、クソが!」

 アビスは、ニヤリと笑った。

 犬の姿で、リディアに踏まれた時の痛みに比べれば、こんな傷はどうということはない。

 あの屈辱の日々に比べれば、腕の一本や二本、安い代償だ。

「……テメエの計算式に、この『痛み』は入ってなかったか? ……なら、教えてやるよ!」

 アビスは、掴んだ剣ごと勇者を強引に引き寄せ、その懐に飛び込んだ。

 そして、魔力で形成した右手の「巨大な爪」を、勇者の胸板に突き立てた。

「……これが! 俺様の! 五年分の! 鬱憤だァァァァァッ!」


 ドスッ!


 爪が、勇者の白い鎧を貫いた。

 だが、それだけではない。

 アビスは、爪から直接、勇者の体内へと、自身の「混沌の魔力」を流し込んだのだ。

 「浸食(ハッキング)」。

 ゴーレムの時と同じ。

 いや、それ以上に強引で、乱暴なシステムへの介入。

「ガ、ガガ……ッ!?」

 勇者の動きが止まった。

 碧眼が激しく点滅し、口からノイズが漏れる。

 彼の体内にある「滅魔プログラム」が、アビスという異物の侵入によって誤作動(エラー)を起こし始めたのだ。

「……警告……システム……エラー……。……未知の……感情……検出……」

 勇者が、苦しげに呻く。

 彼の無機質な心に、アビスが流し込んだ「怒り」や「屈辱」、そして「リディアへの呆れと執着」といった、ドロドロとした感情の奔流が流れ込んでいく。

「……ポンコツ。……気分はどうだ?」

 アビスは、勇者の耳元で囁いた。

「……それが『心』だ。……テメエが捨てちまった、面倒くさくて、重たくて、どうしようもないノイズの塊だ」

「……あ……ああ……」

 勇者の目から、光が消え、代わりに人間らしい「困惑」の色が浮かんだ。

 五百年の眠りの中で忘れていた感覚。

 痛み。

 恐怖。

 そして、自分のしていることへの疑問。

「……私は……何を……?」

 勇者の手が緩み、白い聖剣がカランと床に落ちた。

 アビスは、ゆっくりと爪を引き抜いた。

 勝負はついた。

 物理的な破壊ではない。

 概念的な勝利。

 「本能」だけで動く機械に、「意志」という猛毒を流し込み、その機能を停止させたのだ。

「……はぁ、はぁ……」

 アビスは、膝をついた勇者を見下ろした。

 勝った。

 だが、アビス自身もボロボロだった。

 聖剣を受け止めていた左手は炭化しかけている。

「……アビスさん!」

 リディアが駆け寄ってきた。

 彼女は、アビスのボロボロの腕を見て、顔を歪めた。

「……そんな……腕が……!」

「……うるせえ。騒ぐな」

 アビスは魔力で、腕を一瞬で再生させた。

 そして、膝をついて蹲る勇者を見据えた。

「……トドメは、テメエが刺せ、リディア」

「えっ?」

「……こいつは、テメエのご先祖様だ。……そして、テメエが目覚めさせちまった悪夢だ。……終わらせてやれ。それが、勇者の末裔としてのケジメだろ」

 アビスの言葉に、リディアはハッとした。

 そうだ。

 自分が始めた物語なら、自分で幕を引かなければならない。

 リディアは、床に落ちていた「黒い聖剣」を拾い上げた。

 そして、勇者の前に立った。

「……ご先祖様」

 リディアは、震える声で呼びかけた。

 勇者が、ゆっくりと顔を上げる。

 その瞳には、もう狂気の色はなかった。

 あるのは、長い夢から覚めたような、深い疲労と、安らぎ。

「……リディア……か……」

 勇者の声が、初めて、人間らしい温かさを帯びた。

「……すまなかった。……私は、夢を見ていたようだ。……長い、長い、正義という名の悪夢を……」

「……はい」

 リディアは、涙を拭った。

「……もう、眠ってください。……世界は、私たちが守りますから」

 リディアは、黒い聖剣を構えた。

 殺すためではない。

 彼を縛り付ける「システム」を、断ち切るために。

「……『安らかなれ(レスト・イン・ピース)』!」

 リディアが聖剣を突き出す。

 漆黒の刃が、勇者の胸にを貫き「制御コア」を砕いた。

 パリン。

 ガラスが割れるような音がして、勇者の体から光が溢れ出した。

 彼の肉体が、光の粒子となって分解されていく。

「……ありがとう。……私の、可愛い子孫よ……」

 勇者は、最後に穏やかに微笑んだ。

 そして、アビスの方を見た。

「……魔人(とも)よ。……お前は、自由になれたのだな……」

 その言葉を残し、初代勇者は完全に消滅した。

 玉座の間には、白い聖剣と、黒い聖剣だけが残された。

「……フン。……最期まで説教臭い野郎だ」

 アビスは、悪態をつきながらも、どこか寂しげにその光の残滓を見つめていた。

 宿敵との、二度目の別れ。

 今度こそ、本当の別れだ。

「……終わりましたね、アビスさん」

 リディアが、へなへなと座り込んだ。

 長い戦いだった。

 これで、全てが終わった。

 ……はずだった。

「……ああ。終わったな」

 アビスは、リディアに背を向けた。

 そして、床に落ちている「白い聖剣」を拾い上げた。

 彼の手に、一本の聖剣。

 リディアの手にも、一本の聖剣。

「……さて」

 アビスの声色が、変わった。

 冷たく、傲慢な、魔人の声に。

「……邪魔者は消えた。……ここからは、俺様の時間だ」

 アビスは、完全体の姿のまま、リディアを振り返った。

 その全身から、再び、禍々しい魔力が立ち昇り始める。

「……え?」

 リディアが、呆然と見上げる。

 勇者は倒した。

 世界は救われたはずだ。

 なのに、なぜ?

「……リディア・クレセント。……テメエには、五年分の借りを返してもらわねえとな」

 アビスは、邪悪な笑みを浮かべた。

 物語は、まだ終わらない。

 勇者との戦いは終わったが、魔人と飼い主の「仁義なき戦い」は、ここからが本番だったのだ。

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