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第二十三話 二つの聖剣

 玉座の間を満たす光は、あまりにも冷たく、そして鋭かった。

 かつて、魔人アビスが世界を睥睨(へいげい)するために座していた「闇の玉座」。

 そこは今、純白のクリスタルで築かれた「光の玉座」へと変貌し、その上には一人の男が鎮座していた。

 金色の髪。

 碧眼。

 白磁のように滑らかな肌。

 その姿は、この国の人間ならば誰もが知っている、教科書や絵画の中の英雄そのものだった。

 だが、その身から放たれる気配は、伝説で語られるような「慈愛に満ちた救世主」のそれとは、決定的に異なっていた。

 重い。

 息が詰まるほどの、絶対的な「圧」。

 それは、生物が発する闘気というよりも、巨大な建造物が頭上からのしかかってくるような、無機質な威圧感だった。

「……う……ん……」

 機械天使(オート・エンジェル)の巨大な手に掴まれたまま、リディアが小さく呻き声を上げた。

 広場での激闘と、強制的な転移によるショックで失っていた意識が、徐々に戻りつつあるようだ。

「……ここ、は……?」

 リディアが、重いまぶたを持ち上げる。

 ぼやけた視界に映ったのは、豪奢なステンドグラスと、自分を見下ろす無機質な仮面の機械天使。

 そして、その奥にある玉座と、そこに座る男。

「……あ……?」

 リディアの目が、点になった。

 夢だろうか。

 それとも、死後の世界だろうか。

 そこにいるのは、彼女が幼い頃から父バルドルに聞かされ続け、毎日肖像画を見、憧れ続けた「あの方」だった。

「……勇者、さま……?」

 リディアの声が震えた。

 その言葉に反応するように、玉座の男がゆっくりと視線を動かした。

 碧色の瞳が、リディアを射抜く。

 そこには、人間らしい温かさは微塵もなく、ただ「データを確認する」ような冷徹な光だけがあった。

「……目覚めたか。我が血を引く、愚かな末裔よ」

 男の声は、美しく響いたが、氷のように冷たかった。

「……え?」

 リディアは混乱した。

 愚かな末裔?

 なぜ、そんな風に呼ばれるのか。

 彼女は必死に頭を働かせた。

 ここは敵の本拠地だ。

 自分は捕まったはずだ。

 だとしたら、目の前のこの人物は、「浄化者(ピュリファイア)」の首領(ボス)ということになる。

 でも、その姿は初代勇者そのもので……。

「……混乱しているようだな」

 男は、玉座の肘掛けに頬杖をついた。

 その手には、リディアが持つ「黒い聖剣」と対をなす、白く輝く長剣――「白い聖剣」が握られている。

「無理もない。お前たち人間にとって、数百年前の出来事など、風化したお伽噺に過ぎまい。……だが、私にとってはつい昨日のことだ」

 男が立ち上がった。

 その動作一つ一つが、あまりにも完璧で、無駄がない。

 まるで、精密に調整された機械仕掛けの人形のようだ。

「私は幻影でも、偽物でもない。……そこに転がっている犬コロがよく知っている通り、かつて魔人アビスを封印した本人だ」

「ウゥゥゥ!(……犬コロ、だと?)」

 床に転がされ、機械兵に押さえつけられていたアビス(犬)が、低い唸り声を上げた。

 リディアがハッとして床を見る。

 そこには、グルグル巻きに拘束されたアビスの姿があった。

「アビスさん! 無事だったんですね!」

「ワン!(無事なわけあるか! こいつら、俺様の魔力を吸い尽くしやがった!)」

 アビスは吠えたが、その声に力はない。

 今の彼は、正真正銘、ただの無力な愛玩動物だ。

 だが、その瞳だけは、玉座の男を睨みつけて離さなかった。

「勇者さま! 死んだはずの貴方が、なぜ生きているのですか?」

 リディアの問いかけに、勇者は無表情のまま答えた。

「死んではいない。……『保存』されていたのだ」

「……保存?」

「そうだ。五百年前、私はアビスを封印した。だが、それは一時的な処置に過ぎないことを私は理解していた。封印はいつか解ける。アビスという『災厄』は、必ず蘇る」

 勇者は、白い聖剣を掲げ、その刀身を見つめた。

「故に、私は自らに特殊な術式を施し、この城の地下深くにある『時の棺』に入った。……アビスが復活するその時まで、自らの肉体と全盛期の力を凍結保存(コールドスリープ)するために」

 リディアは絶句した。

 伝説の勇者は、死んで天に召されたのではなく、地下で眠っていた?

 また戦うために?

「……そして、時は来た」

 勇者の視線が、リディアに向けられた。

 その眼差しは、鋭い刃物のように彼女の心をえぐる。

「五年前。……お前が、禁忌の遺跡に入り込み、愚かにも『黒い聖剣』を引き抜いたあの日だ」

「……っ!」

 リディアの心臓が跳ねた。

 五年前のあの日。

 彼女が好奇心で封印を解いた日。

「封印の解除と共に発生した魔力波動が、私の眠りを妨げ、システムを再起動させた。……つまり、私を目覚めさせたのは、他ならぬお前だ、リディア・クレセント」

「わ、私が……勇者様を……?」

 リディアの手が震えた。

 自分が、憧れの勇者様を目覚めさせた。

 それは本来なら、夢のような「奇跡」のはずだった。

 だが、目の前の現実は、悪夢以外の何物でもない。

「目覚めてみて、私は失望した」

 勇者は、冷ややかに言い放った。

「世界は汚れていた。……人間が魔物と共存し、魔法という不確定要素に頼り、血統は混じり合い、秩序は乱れきっていた。……私が守ろうとした世界は、見る影もなく腐敗していたのだ」

 勇者の手から、白い光が溢れ出す。

 それは神々しく見えるが、同時に、触れるもの全てを焼き尽くすような、攻撃的な光だった。

「だから、私は決断した。……この世界を『浄化』する必要があると」

「……浄化……?」

「そうだ。魔物、亜人、魔法使い、そして魔に汚染された土地……。それら全ての『不純物』を排除し、世界を真っ白な状態に戻す。……それが『浄化者(ピュリファイア)』の目的だ」

 リディアの脳裏に、あの「浄化された街」の惨状が蘇る。

 真っ白な灰になった人々。

 子供の靴。

 そして、先ほどまで戦っていた広場で、檻に閉じ込められていた人々。

「……そんな……! 嘘ですよね!?」

 リディアは叫んだ。

 機械天使の手を振りほどこうと暴れるが、拘束はびくともしない。

「勇者様は、人々を守るために戦ったはずです! 弱い人を助け、平和を築くのが勇者様です! なのに、罪のない人たちを殺すなんて……そんなの、勇者じゃありません!」

「『罪のない』だと?」

 勇者は、初めて感情らしきものを見せた。

 それは、深い「侮蔑」だった。

「魔に関わった時点で、それは罪だ。不純だ。……お前たちは、治癒不能なウィルスに侵された病人のようなもの。治療法はない。焼却処分するしかないのだ」

「っ……!」

 リディアは言葉を失った。

 話が通じない。

 目の前の男は、人間の言葉を喋っているが、その思考回路は人間のものではない。

 まるで、プログラムされた通りに動く機械のようだ。

(……やっぱりな)

 アビスは、冷めた目で勇者を見ていた。

 こいつは、壊れてしまっている。

「ワン!(……おい、ポンコツ)」

 アビスは、あえて挑発的な言葉を投げかけた。

「ワン!(テメエ、自分が何者か分かってて喋ってんのか? ……テメエは勇者じゃねえ。ただの『対魔族用自律兵器』だろ?)」

「……兵器?」

 リディアがアビスを見る。

(そうだ。……俺様が『破壊』のために作られたように、こいつもまた、誰かに『滅魔』という命令(プログラム)を焼き付けられた、哀れな人形に過ぎねえんだよ)

 アビスの言葉に、勇者は眉一つ動かさなかった。

 肯定も、否定もしない。

 ただ、事実として受け入れているような静けさ。

「……私の起源がどうあれ、私の使命は変わらない。……魔を滅ぼす。それこそが、私の存在意義であり、この世界の絶対的な正義だ」

 勇者は、白い聖剣をリディアに向けた。

「リディア・クレセント。お前は、我が血を引きながら、魔人の封印を解き、あまつさえその魔人と共謀して世界に混乱を招いた。……その罪は、万死に値する」

「……うそ……お父様が言ってた勇者様は、こんな……」

 リディアの目から涙が溢れた。

 彼女の心の支えだった「勇者像」が、音を立てて崩れ去っていく。

 憧れだったご先祖様。

 世界を救った英雄。

 その本性が、虐殺を正義と信じる狂信者だったなんて。

(……泣くな、小娘)

 アビスが、低い声(思念)で言った。

(……テメエが泣いたところで、こいつの思考回路は変わらねえ。……こいつはもう、人間の心なんてとうの昔に摩耗しちまってるんだ)

 五百年の眠り。

 それは、肉体を保存するには有効だったかもしれないが、精神にとっては毒だったのだろう。

 ただ一つの「使命」だけを反芻し続ける、無限の闇。

 その中で、彼は人間であることをやめ、純粋な機械(システム)へと変貌してしまったのだ。

「……アビスさん……」

 リディアは、アビス(犬)を見た。

 小さな、無力な犬。

 でも、その瞳だけは、目の前の強大な「偽りの正義」に屈していなかった。

 皮肉な話だ。

 世界を滅ぼそうとした魔人の方が、世界を救おうとした勇者よりも、よっぽど「人間らしい」心を持っているなんて。

「……茶番は終わりだ」

 勇者が、玉座から降りてきた。

 カツン、カツンと、冷たい足音が響く。

「まずは、その穢れた『鍵』……黒い聖剣を回収する。そして、お前たちをここで処分する」

 勇者が手をかざすと、リディアの手から黒い聖剣がふわりと浮き上がった。

 リディアは必死に掴もうとしたが、拘束された体では指先が触れることすら叶わない。

 黒い聖剣は、勇者の手元へと吸い寄せられ、白い聖剣と並んで宙に浮いた。

 白と黒。

 対をなす二つの聖剣。

 それが揃った瞬間、二つの剣が共鳴し、部屋全体が激しく振動し始めた。

「……この二つの鍵が揃えば、システムの最終フェーズが起動する。……大陸全土を覆う『大浄化結界』の発動だ」

 勇者は、恍惚とした表情で二つの剣を見上げた。

「結界が完成すれば、この大陸から『魔力』は完全に消滅する。魔物は死滅し、魔法は使えなくなり、魔に汚染された人間も全て浄化される。……完全なる、白き世界の完成だ」

「ワン!(……ふざけるな!)」

 アビスが叫んだ。

 魔力の消滅。

 それは、アビスのような魔族にとっては、種としての完全な死だ。

 しかも、魔法文化に依存している現在の人類にとっても、それは文明の崩壊を意味する。

「ワン!(テメエは……世界を救うんじゃねえ! 世界を殺す気か!)」

「再生のための破壊だ。……理解できぬなら、消えろ」

 勇者は、白い聖剣を手に取った。

 そして、切っ先を、拘束されたリディアの心臓へと向けた。

「『鍵』の所有権を解除するには、所有者の死が必要だ。……安心しろ、痛みはない。一瞬で消滅させてやる」

「……や……!」

 リディアの顔から血の気が引く。

 死ぬ。

 本当に、殺される。

 自分のご先祖様に。

 憧れの勇者様に。

「……さようなら、我が末裔よ」

 勇者が、剣を振り上げた。

 白い光が、部屋を埋め尽くすほどに膨れ上がる。

 それは、回避不能な処刑の刃。

(……クソッ! クソッ! クソッ!)

 アビスは、必死に体内の魔力を探った。

 ない。

 空っぽだ。

 「三分解呪」のチャージどころか、指一本動かす魔力すら残っていない。

 機械兵のアームが、アビスの体を締め上げる。

(……このまま、終わるのか?)

 リディアが死ぬ。

 そうすれば、アビスの呪いは……「解除」されるのではなく、「固定」される。

 永遠の犬化。

 いや、その前に、「大浄化結界」とやらで、アビス自身も消滅させられるだろう。

 完全な敗北。

 魔人アビスの物語は、ここで、無様な犬として幕を閉じるのか。

(……嫌だ)

 アビスの魂が、叫んだ。

(……嫌だ! 認めねえ! こんな、ふざけた結末があってたまるか!)

 アビスは、リディアを見た。

 彼女は、恐怖に震えながらも、目を逸らさずに勇者を見つめていた。

 その瞳には、絶望だけでなく、まだ消えていない「意志」の光があった。

 諦めていない。

 この脳筋娘は、まだ、生きようとしている。

 そして、その目は微かにアビスの方を向いていた。

 助けを求めるような、いや、「信じている」ような目。

『アビスさんなら、きっとなんとかしてくれる』

 この五年間、何度も見てきた、根拠のない信頼の眼差し。

「……ウゥゥゥゥゥッ……!(……チッ! そういう目で見んじゃねえよ!)」

 アビスの口から、獣の咆哮が漏れる。

 それと呼応するように。

 勇者の手にある「白い聖剣」が振り下ろされた。

 ―――その瞬間。

 ドクン。

 アビスとリディア。

 二人の魂を繋ぐ「呪いの(パス)」が、極限の危機に反応して、真っ赤に焼きついた。


 バキィィィィィンッ!


 アビスの魂の中で、何かが砕ける音がした。

 それは、五年間、彼を縛り付けていた「遮断弁」が破壊された音だった。

「……ガァァァァァァァッ!」

 アビスの小さな体から、漆黒の奔流が噴き出した。

 それは、機械兵のアームを瞬時に溶解させ、部屋の白い壁を黒く染め上げていく。

「……む?」

 剣を振り下ろそうとしていた勇者が、動きを止めた。

 彼が振り返ったその先。

 黒い犬がいた場所には、今、底なしの闇の渦が渦巻いていた。

 渦の中から、二本の腕が突き出す。

 漆黒の爪。

 闇を纏った筋肉質な腕。

 それが、虚空を掴み、現実世界へとその身をねじ込んでくる。


 ズズズズズ……!


 空間が悲鳴を上げる。

 現れたのは、これまでの「三分解呪」のような不完全な姿ではない。

 圧倒的な質量と、世界を塗り替えるほどの覇気。

 真の、魔人の姿。

「……待たせたな、ポンコツ」

 闇の中から、低い声が響いた。

 完全体のアビスが、その全貌を現す。

 銀色の長髪と漆黒のコートが、魔力の風になびく。

 深紅の瞳が、勇者を、そしてリディアを見下ろしている。

「……モーニングコールにしては、少々派手すぎたんじゃねえか?」

 アビスは、指を鳴らした。

 パチン。

 その軽い音と共に、リディアを拘束していた機械天使が、内側から破裂して粉砕された。

「……きゃっ……!?」

 落下するリディアを、アビスの腕が乱暴に、しかし確実に受け止める。

 リディアは、呆然と見上げた。

 そこにいるのは、いつもの犬ではない。

 五年前、四天王との数々の戦いで自分を救い、そして最後には自分を裏切って「世界破壊」を宣言した、あの最恐の魔人の姿。

「……アビス、さん……」

 リディアの声は、震えていた。

 それは、喜びだけではない。

 恐怖、安堵、そして複雑な疑念が入り混じった声だった。

「……どうして……? あなたは、嘘つきで、卑怯な、悪党のはずじゃ……」

 彼女は知っている。

 この男が、自分を騙し、利用し、用が済めば始末しようとしていたことを。

 それなのに、なぜ今、自分を助けたのか。

「……フン。勘違いするなよ、脳筋」

 アビスは、冷酷な笑みを浮かべたまま、リディアを床に立たせた。

「テメエは俺様の『呪いの所有者(オーナー)』だ。……テメエがくたばれば、俺様は永遠に犬のままになる。俺様がテメエを守るのは、あくまで俺様自身のためだ」

 相変わらずの、利己的で、傲慢な言い草。

 だが、リディアは、目の前の「初代勇者(正義の成れの果て)」と、この「魔人(悪の権化)」を見比べた。

 「正義」の名の下に虐殺を行う機械と。

 「欲望」のために自分を利用する悪魔。

「……本当に、あなたは……最低の魔人ですね」

 リディアは、涙を拭い、ふらつく足で立った。

 その顔には、以前のような能天気な笑顔はない。

 あるのは、毒を喰らわば皿までという、一種の覚悟にも似た苦笑いだった。

「……でも。あんな『偽物の正義』に殺されるよりは、あなたに『利用』される方が、まだマシです」

「……ケッ。可愛くねえガキだ」

 アビスは、リディアを背に庇うようにして、勇者に向き直った。

 その背中は、五年前と変わらず大きく、そして皮肉なことに、今のリディアにとっては世界で一番頼もしい壁だった。

「さあ、始めようぜ、宿敵(とも)よ。……テメエの作ったその『真っ白で退屈な世界』を、俺様がドス黒く塗り潰してやる」

 魔人の帰還。

 役者は揃った。

 伝説と伝説が激突する、最後の戦いが今、幕を開ける。

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