第二十二話 目覚めた伝説
「ワン! ワン!(……離せ! 離せってんだよ、このポンコツどもが!)」
アビス(犬)は、必死に吠えた。
だが、その抵抗はあまりにも無力だった。
彼の四肢は、蜘蛛のような多脚型機械兵の鋼鉄のアームによって、地面に縫い付けられるように押さえ込まれていた。
魔力切れの小型犬の筋力では、強化された金属のアームを振りほどくことなど、到底不可能だ。
「対象、捕獲完了。魔力反応、極小。脅威レベルE、愛玩動物相当」
機械兵から流れる無機質な音声が、アビスのプライドを逆撫でする。
(……Eだと? 愛玩動物だと?)
アビスは屈辱に震えた。
目の前には、空っぽになった巨大な水晶の器。
そこにあるはずだった、復活のための「魔力」は、一滴残らず吸い尽くされていた。
アビスの五年間。
リディアの家で、ボールを追いかけ、ドッグフードを噛み砕きながら耐え忍んだ、あの日々。
その全ての苦労が、この瞬間のためにあったはずなのに。
「ウゥゥゥ!(……誰だ……)」
アビスは、血の滲むような低い唸り声を漏らした。
「ワン! ワン!(……どこのどいつだ! 俺様の魔力を! 俺様の希望を! 勝手に飲み干しやがった盗っ人はァッ!)」
アビスの咆哮が、虚しい空間に響き渡る。
それに答えるように、虚空からあの「声」が降ってきた。
「―――盗っ人とは心外ですね、アビス様」
部屋のスピーカーから響く、冷徹な声。
「あの魔力は、本来あるべき場所へ還っただけのこと。……この世界を「浄化」し、正しき姿へと戻すための燃料として」
(……浄化、だと?)
「ええ。貴方様が眠っている間に、世界は汚れすぎてしまいました。魔物が蔓延り、亜人が我が物顔で歩き、人間までもが魔の力に頼る……。嘆かわしいことです」
声は、淡々と続ける。
「故に、システムは再起動しました。五年前、貴方様の封印が解かれたその瞬間に」
(……五年前……)
アビスの脳裏に、あの日の光景が蘇る。
リディアが聖剣を引き抜き、封印が解けた日。
あの日、アビスが目覚めたと同時に、この城の「主」もまた、目覚めていたということか。
そして、アビスが暢気にボール遊びをしている間に、この城の地下から魔力を吸い上げ、着々と「浄化」の準備を進めていたというのか。
アビスを押さえつけていた機械兵が、彼を拘束したまま持ち上げる。
「さあ、参りましょう。貴方様の飼い主である『勇者の末裔』も、間もなく到着されます。……『あの方』が、玉座の間でお待ちです」
(……あの方、だと?)
アビスは、薄ら寒い予感を覚えた。
この城の主。
魔人アビスの城を奪い、白く塗り替え、魔力を吸い尽くした存在。
それは、ただの人間ではない気がする。
もっと、根源的で、アビスにとって因縁深い「何か」。
(……まさか、な)
アビスは、否定しようとした。
だが、機械兵に運ばれながら感じる、城の上層から漂ってくる強大な「聖なる気配」が、その最悪の予想を裏付けようとしていた。
◇
一方、地上。
聖都エリュシオンの中央広場は、静寂に包まれていた。
数分前までの激闘と喧騒が嘘のように、全てが死に絶えたような静けさが支配している。
「……はぁ……はぁ……」
リディア・クレセントは、瓦礫の山の中で膝をついていた。
聖剣を杖代わりにして、辛うじて体を支えている。
全身は傷だらけで、衣服はボロボロに裂け、黄金色の闘気も風前の灯火のように揺らめいている。
「……まだ……です……」
彼女は、顔を上げた。
周囲には、数百人の兵士たちが倒れている。
精鋭部隊「聖堂近衛兵」の五人も、鎧を砕かれ、気絶して転がっている。
リディアは、勝ったのだ。
単身で、聖騎士団の主力を壊滅させたのだ。
だが。
「……これ、は……」
リディアの視線の先。
広場の中央にある祭壇に、一人の人物が立っていた。
いや、「人物」と呼んでいいのか分からない。
それは、全身が白銀の金属で構成された、身長三メートルを超える巨大な機械人形だった。
背中には六枚の金属翼。
顔には表情のない仮面。
手には、リディアの持つ聖剣よりもさらに巨大な、光り輝く大剣が握られている。
―――「機動聖天使」。
聖騎士団が全滅した直後、天守閣から舞い降りてきた、この城の最終防衛システムだ。
「……対象、活動停止を確認できず。……再攻撃を推奨」
機械人形から、合成音声が響く。
リディアは、歯を食いしばった。
先ほどの一撃。
この機械人形が放った光の斬撃を、リディアは聖剣で受け止めた。
だが、その威力は桁違いだった。
たった一撃で、リディアの体力の大半を奪い、全身の骨をきしませたのだ。
「……あんなもの、反則です……」
リディアは、震える足に力を入れた。
逃げるわけにはいかない。
後ろには、レジスタンスたちが避難させた子供たちがまだ残っているかもしれない。
そして何より、アビスが作戦を成功させるまで、自分がここで倒れるわけにはいかないのだ。
「……来なさい! 鉄屑!」
リディアが叫ぶ。
だが、機械人形は動かなかった。
代わりに、その仮面の奥が赤く点滅した。
「……最優先事項を、対象の『捕獲』に変更。『主』の命令により、これ以上の破壊活動を禁ず」
機械人形が、大剣を収めた。
そして、その掌をリディアに向けた。
「……捕獲?」
リディアが怪訝な顔をした瞬間。
地面から、無数の光の鎖が噴出した。
「きゃあっ!?」
反応する間もなかった。
光の鎖は、生き物のようにリディアの手足に巻き付き、聖剣ごと彼女を拘束した。
「聖縛」。
物理的な鎖ではない。
対象の魔力と体力を強制的に封じる、高位の封印術式だ。
「うっ……! うご、けな……!」
リディアは必死にもがくが、鎖はびくともしない。
力が抜けていく。
意識が霞む。
機械人形が、ゆっくりと近づいてくる。
その巨大な手が、リディアの体を鷲掴みにした。
「……対象、確保。……『玉座の間』へ移送する」
リディアの体が宙に浮く。
彼女は、薄れゆく意識の中で、夜空を見上げた。
星が綺麗だ。
アビスさんは、どうなっただろうか。
捕えられていた人たちは、ちゃんと逃げられただろうか。
(……ごめんなさい、アビスさん。……私、負けちゃいました……)
リディアの意識は、そこで途切れた。
広場には、静寂だけが戻った。
勇者の末裔の敗北。
それは、希望の灯火が消えた瞬間だった。
◇
機械兵に運ばれるアビスと、機械天使に掴まれたリディア。
二人は、それぞれ別のルートを通って、城の最上階へと運ばれていた。
アビスは、専用の貨物リフトの中で、屈辱に耐えていた。
狭い檻の中に押し込められたまま、ガタガタと上昇していく。
リフトの隙間から見える景色は、見慣れた城の内部のはずなのに、まるで別の建物のように様変わりしていた。
白い壁。
金色の装飾。
至る所に飾られた「勇者の紋章」。
(……徹底してやがる)
アビスは吐き捨てた。
ここまでくると、趣味が悪いを通り越して、怨念すら感じる。
この城の新しい主は、アビスの痕跡を完全に消し去り、自分の色で塗りつぶさなければ気が済まないらしい。
チン。
リフトが止まった。
最上階だ。
扉が開く。
そこは、かつてアビスが世界を見下ろしていた「天守閣」への回廊。
今は、真紅の絨毯が敷き詰められ、両脇には白銀の鎧を着た兵士たちが直立不動で並んでいる。
アビスを運ぶ機械兵が、その回廊を進んでいく。
その時。
反対側の通路から、巨大な影が現れた。
機動聖天使だ。
その手には、ぐったりとしたリディアが握られている。
(……リディア!)
アビスは思わず身を乗り出した。
生きていた。
だが、ボロボロだ。
服は裂け、血にまみれ、意識を失っている。
そして、その手にはまだ「黒い聖剣」が握られたままだった。
(……チッ。捕まったか、馬鹿野郎)
アビスは舌打ちした。
だが、安堵もしていた。
彼女が生きている限り、まだチャンスはある。
アビスの「呪い」も解けていない。
つまり、まだ「逆転の一手」は残されているということだ。
機械兵と機械天使は、合流し、並んで歩き出した。
目の前には、巨大な両開きの扉。
かつてアビスが座っていた「玉座の間」への入り口。
今は、白く輝く扉へと変貌している。
ギギギギギ……。
重厚な音と共に、扉がゆっくりと開かれる。
中から、目もくらむような光が溢れ出した。
アビスは目を細めた。
光の中に、広大な空間が広がる。
天井は高く、ステンドグラスからは月光が差し込んでいる。
そして、その部屋の最奥。
かつてアビスの玉座があった場所には、今は、純白のクリスタルでできた新たな玉座が鎮座していた。
そこに、一人の男が座っていた。
「……!」
アビスの心臓が、早鐘を打った。
その姿。
見間違うはずがない。
金色の髪。
碧眼。
端正で、凛々しく、そしてどこまでも「正義」を体現したかのような顔立ち。
―――初代勇者。
千年前、アビスを封印した宿敵。
伝説の英雄。
死んだはずの男。
「……ようこそ、我が城へ」
男が、口を開いた。
その声は、アビスの記憶にある「熱血漢の勇者」の声とは、同じようでどこか違っていた。
冷たく、硬質で、まるで精密機械が喋っているかのような、感情のない響き。
「我が血の末裔と、地に堕ちた魔の王よ」
男は、玉座に深く腰掛けたまま、アビスとリディアを見下ろした。
その手には、一本の剣が握られている。
リディアの持つ「黒い聖剣」と対をなす、白く輝く長剣。
「白い聖剣」。
かつてアビスの肉体を切り裂き、魂を封印した、最強の聖なる剣。
「グルルル…(……テメエ……)」
アビスは、唸り声を上げた。
信じられない。
だが、目の前にいるのは、紛れもなく「本物」だ。
クローンでも、幻影でもない。
数百年前のあの戦いで感じた、圧倒的な「光」の力。
それが、今もなお、いや、当時以上に純度を増して、この男の体から溢れ出ている。
(……生きて、いたのか……?)
アビスの問いに、勇者は無表情のまま答えた。
「生きている、という定義によるな。……私の肉体は、数百年の間、この城の地下深くで『凍結保存』されていた」
勇者が、ゆっくりと立ち上がる。
その動作一つ一つが、洗練されすぎていて、どこか人間味を欠いている。
「私の役目は、魔人アビスを封印することだった。……だが、封印は恒久的な解決ではない。いつか必ず解かれる時が来る」
勇者は、アビス(犬)を見つめた。
その瞳には、敵意すらなく、ただ「処理すべき異物」を見るような冷徹さだけがあった。
「故に、私は自らを封印した。……貴様が目覚めるその時まで、この身を保存し、再び貴様を滅ぼすために」
「……なんだと?」
「五年前。我が末裔が、愚かにも封印を解いたあの日。……その魔力波動に反応して、私の覚醒プログラムも起動した」
勇者は、リディアの方を見た。
拘束され、意識を失っている自分の子孫。
だが、その眼差しに慈愛はない。
「目覚めてみて、驚いたぞ。世界は再び『魔』に汚染されていた。……人間と魔族が共存する街。魔法という不確定要素に頼る文明。……嘆かわしい『不浄』だ」
勇者が、白い聖剣を掲げた。
刀身が、キィンと共鳴音を立てる。
「私の使命は『滅魔』。この世からあらゆる『魔』を排除し、完全なる秩序をもたらすこと。……それが、私という存在に刻まれた、唯一無二の存在意義だ」
アビスは、戦慄した。
こいつは、狂っている。
いや、壊れている。
かつてのアビスの宿敵だった勇者は、熱く、泥臭く、どこまでも人間臭い男だった。
だが、目の前にいるのは、その「ガワ」を被っただけの、殺戮装置だ。
数百年の眠りが、彼の精神を摩耗させ、ただ「目的」だけを純粋培養した怪物に変えてしまったのか。
(……俺様と同じだ)
アビスは悟った。
自分に「破壊」の本能が植え付けられているように。
この男にも、「滅魔」という呪いのような本能が植え付けられているのだ。
「……リディア・クレセント。そして魔人アビス。……貴方たちは、この世界にとって最大の『異物』だ」
勇者が、剣を振り下ろす構えを取った。
その切っ先に、膨大な光が収束していく。
「よって、消去する」
玉座の間に、処刑の宣告が響き渡る。
リディアは目覚めない。
アビスは拘束されている。
そして、敵は、全盛期の魔人アビスと互角に渡り合った、伝説の勇者。
まさに絶体絶命のピンチだった。




