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第二十一話 魔力貯蔵庫

 ジメジメとした暗闇と、鼻が曲がりそうな腐臭。

 かつて魔王城の汚水を一手に引き受けていた「旧・地下大排水路」は、数百年という時を経てもなお、その役割の痕跡を色濃く残していた。

(……オエッ。最悪だ)

 黒いポメラニアン似の犬――魔人アビスは、泥と錆にまみれた鉄格子の隙間をすり抜けながら、心の中で盛大に悪態をついた。

 綺麗好きな彼にとって、このルートは精神的な拷問に等しい。

 だが、背に腹は代えられない。

 地上では今頃、脳筋娘(リディア)たちが、派手な戦闘を繰り広げているはずだ。

 彼女が稼いでくれる時間は有限だ。

 その間に、城の最深部にある「魔力貯蔵庫(マナ・タンク)」に到達し、その膨大なエネルギーを使って自身の呪いを強制解除する。

 それが、このクソみたいな「ペット生活」から脱却する唯一の道なのだ。

(……待ってろよ、脳筋娘(リディア)。テメエがくたばる前に、俺様が完全復活して、颯爽と勝ち名乗りを上げてやる)

 アビスは、汚れた前足を振って泥を払い、排水路の突き当たりにある竪穴を見上げた。

 はるか頭上には、重厚な鉄の蓋が嵌まっている。

 魔力探知によれば、この上は城の「貯蔵庫エリア」に繋がっているはずだ。

(……フン。普通の犬ならここで詰みだがな)

 アビスは、竪穴の壁面に埋め込まれた、一見するとただの汚れに見える小さな石のレリーフに鼻先を近づけた。

 これは、かつてアビスがメンテナンス用に設置させた、隠し操作盤だ。

 彼は、体内に残る微弱な魔力を、その一点に流し込んだ。

 認証コードは、「裏口侵入」。


 ゴゴゴ……。


 壁の中の歯車が回る音がして、頭上の重い鉄蓋が、自動的にスライドして開いた。

 同時に、竪穴の壁から、足場となる小さな突起が階段状にせり出してくる。

(……メンテナンス機能が生きてて助かったぜ)

 アビスは、その突起を器用に飛び移りながら、竪穴を登っていった。

 そして、開いた穴から這い出し、ついに「旧魔王城」の内部へと足を踏み入れた。

(…………は?)

 アビスの第一声(犬の鳴き声ではない、魂の呟き)は、困惑そのものだった。

 彼が知る「魔王城の貯蔵庫」は、黒曜石の冷たい壁と、薄暗い魔力灯が怪しく光る、重厚で威厳のある空間だったはずだ。

 だが、今、目の前に広がっている光景は。

 白かった。

 とにかく、白かった。

 壁も、床も、天井も、全てが大理石風の白い建材で塗り固められ、無駄に明るい照明魔法で照らされている。

 さらに、部屋の隅々には、趣味の悪い金色の天使像や、勇者の紋章を模したレリーフが飾られている始末だ。

(……なんだ、これは。……ここは、ホテルのラウンジか何かか?)

 アビスは、あまりのセンスのなさに眩暈を覚えた。

 「浄化者(ピュリファイア)」どもめ。

 奴らは「清浄」や「神聖」を履き違えている。

 ただ白く塗ればいいと思っているのか。

 闇の中にこそ美があり、影の中にこそ深みがあるというのに。

 この、のっぺりとした白い空間は、アビスの美学に対する冒涜以外の何物でもなかった。

(……チッ。落ち着け。今は内装のリフォーム案を考えている場合じゃねえ)

 アビスは、ブルブルと体を振って思考を切り替えた。

 問題は、この「白さ」だ。

 今の自分は「黒い」犬だ。

 この真っ白な廊下を歩けば、雪原に落ちたインクの染みのように目立ってしまう。

(……隠密行動には最悪の環境だな。……だが、やるしかねえ)

 アビスは、壁際のわずかな影(天使像の陰など)を利用し、慎重に移動を開始した。

 目指すは地下最深部。

 「魔力貯蔵庫(マナ・タンク)」が存在するエリアだ。


 ◇


 城内の警備は、予想通り手薄だった。

 リディアの陽動が効いているのだろう。

 すれ違う兵士たちは皆、慌ただしく地上の方角へと走っていく。

 アビスは、そんな兵士たちの足元を、ただの「迷い込んだ小動物」のフリをしてやり過ごし、あるいは物陰に隠れてやり過ごした。

 順調に進んでいた、その時だった。

 地下第三階層。

 かつてアビスが「禁呪研究区画」として使用していたエリアに差し掛かった時、異質な「臭い」が鼻をついた。

 消毒液のような薬品臭。

 焦げた鉄の臭い。

 そして、僅かに混じる腐った肉のような臭い。

(……なんだ、この臭いは?)

 アビスは眉をひそめた。

 ただの研究室の臭いではない。

 もっと、生理的な嫌悪感を催すような、命を冒涜するような臭いだ。

 アビスは、臭いの元凶と思われる、厳重な鉄扉の前で足を止めた。

 扉には「関係者以外立入禁止・最重要浄化施設」という札が掛かっている。

(……『浄化施設』だと? ……怪しいな)

 アビスの勘が告げている。

 ここは、ただの研究室ではない。

 もっとろくでもないことをしている場所だ。

 扉は厳重にロックされており、犬の力では開きそうにない。

 だが、その扉の横、床に近い位置に、換気用のダクトが設置されていた。

 格子状の蓋がされているが、そこから悪臭が漏れ出している。

(……ここだな)

 アビスはダクトに近づき、前足の爪を格子の隙間に引っかけた。

 留め具が錆びていたおかげで、ガコン、と音を立てて格子が外れる。

 アビスは、その狭く暗い穴の中へと身を滑り込ませた。

 数メートルほど這い進み、出口の格子越しに中の様子を覗き込んだ瞬間。

 目に飛び込んできた光景に、アビスは息を呑んだ。

(……おいおい。マジかよ……)

 そこは、広大な工場のような空間だった。

 高い天井まで届く巨大な円筒形の水槽が、林のように立ち並んでいる。

 水槽の中は、緑色の培養液で満たされ、その中には「何か」が浮いていた。

 それは、人間ではなかった。

 かといって、魔物でもない。

 全身を漆黒の甲殻で覆い、手足が異様に肥大化した、異形の戦士たち。

 先日、山岳地帯でリディアが戦った「黒騎士」だ。

 それが、数十、いや百体以上、この水槽の中で「製造」されていたのだ。

(……やっぱりか。あの黒騎士は、古代文明の『生体兵器技術』のコピー品だとは思っていたが……まさか、ここまで大規模な量産ラインを作ってやがったとはな)

 アビスは、ダクトから飛び降り、水槽の列を歩きながら観察した。

 だが、驚くべきはそれだけではなかった。

 工場の奥、ベルトコンベアのようなラインの上では、白衣を着た研究者たちが、何やら作業を行っている。

 アビスは、物陰に隠れながら近づいた。

「……検体番号四〇四、魔力回路の接続完了」

「定着率、七十%。……低いな。これでは使い物にならん」

「仕方あるまい。素材が『汚染者(アンクリーン)』の子供ではな。魔力耐性が低すぎる」

「チッ。やはり、純粋な魔族の成体を使わねば、上位機種は作れんか」

(……『素材』……だと?)

 彼は、ベルトコンベアの始点を見た。

 そこには、麻袋のようなものが山積みにされていた。

 袋の口からは、獣人の耳や、青白い肌の手足が覗いている。

 動かない。

 だが、死んでいるわけではない。

 微かに痙攣している。

(……こいつら、まさか)

 アビスは全てを理解した。

 「浄化者(ピュリファイア)」たちがスラム街から連れ去った「汚染者(アンクリーン)」たち。

 彼らは、処刑されるのではない。

 彼らは、この「黒騎士」を製造するための「生体部品」として利用されていたのだ。

 魔力回路を埋め込まれ、自我を破壊され、肉体を改造され、兵器へと作り変えられる。

 それが、「浄化」の正体だった。

(……吐き気がするぜ)

 アビスは、強烈な不快感に襲われた。

 彼は魔人だ。

 倫理観など持ち合わせていない。

 だが、こいつらのやり方には美学がない。

 命をただの「資源」としてしか見ていない、冷徹で事務的な冒涜。

 そして何より。

(……古代文明の遺産(技術)を、こんな下劣な真似に使いやがって……!)

 それが許せなかった。

 かつてアビスが君臨した時代、ゴーレムや生体兵器は「芸術品」だった。

 機能美と、魔術的な洗練があった。

 だが、目の前のこれはなんだ?

 継ぎ接ぎだらけの肉体に、無理やり機械を埋め込んだだけの、醜悪なガラクタだ。

「……成功です! 今度のロットは安定しています!」

 研究員の一人が、歓声を上げた。

 彼の目の前には、一体の黒騎士が完成し、起動実験を行っていた。

 黒騎士の目が赤く光り、ギギギ……と腕を動かす。

 その手には、白く輝く剣が握られている。

(……あれは?)

 アビスの目が、その剣に釘付けになった。

 ただの剣ではない。

 微弱だが、特殊な波長を感じる。

 魔を断ち、術式を無効化する、対魔族特化の波長。

「『量産型・聖剣』の出力、良好。これなら、伝説の魔人が復活したとしても、数で押し切れます」

「ああ。我らの悲願、『完全なる浄化』も近いな」

(……『量産型・聖剣』だと?)

 アビスは、怒りを通り越して呆れ返った。

 伝説の聖剣までコピーしやがったのか。

 しかも、あんな安っぽい模造品として。

 これは、単なる軍備増強ではない。

 奴らは本気で、「魔」という概念そのものを、物理的に、徹底的に、この世界から消し去ろうとしているのだ。

 アビスという存在も含めて。

(……上等じゃねえか)

 アビスは、牙を剥き出しにした。

 ここで暴れて、この施設を破壊してやりたい衝動に駆られる。

 だが、今はまだその時ではない。

 ここで騒ぎを起こせば、地下への道が閉ざされる。

 まずは力を取り戻すことだ。

 完全な力を取り戻し、その上で、このふざけた施設ごと、奴らの思い上がりを粉々に粉砕してやる。

(……首を洗って待ってろよ、三流科学者ども。テメエらが作ったそのガラクタが、本物の『魔人』の前にどれだけ無力か、教えてやる)

 アビスは、殺意を押し殺し、静かにその場を離れた。

 だが、その瞳に宿る怒りの炎は、決して消えることはなかった。


 ◇


 研究区画を抜け、さらに深く潜る。

 空気は冷たくなり、周囲の壁も、白いペンキで塗られた安っぽいものではなく、古代のままの黒曜石がむき出しになった通路へと変わっていった。

 ここから先は、まだ「浄化者(ピュリファイア)」の手が完全には入っていない、「旧魔王城」のオリジナルエリアだ。

(……懐かしい匂いだ)

 アビスは、湿った空気の中に、濃密な魔力の気配を感じ取った。

 近づいている。

 「魔力貯蔵庫(マナ・タンク)」。

 この城の動力源であり、アビスが全盛期に溜め込んだ、世界の魔力の貯蔵庫。

 その量は計り知れない。

 国を一つ消し飛ばすどころか、大陸の形を変えるほどのエネルギーが眠っているはずだ。

(……あれさえあれば)

 アビスの足取りが速くなる。

 あれさえ手に入れば、リディアという「鍵」に依存することなく、自力で呪いをねじ伏せられる。

 完全体に戻れる。

 そして、あの地上の偽善者どもを、一瞬で消し炭にできる。


 長い螺旋階段を降りきると、そこには巨大な扉があった。

 高さ十メートルはある、黒鉄の扉。

 表面には、複雑な魔方陣と、アビス自身の紋章が刻まれている。

 封印は解かれていないようだ。

 「浄化者(ピュリファイア)」たちも、この扉を開けることはできなかったらしい。

(……ククク。当たり前だ。この扉は、俺様の魔力パターンでしか開かねえ生体認証式だ)

 アビスは、扉の前に立った。

 前足を、扉の下部に当てる。

 そして、自身の微弱な魔力を流し込んだ。

 認証コードは、「絶対支配」。


 ゴゴゴゴゴ……!


 重低音と共に、数百年ぶりに扉が動いた。

 埃が舞い上がり、隙間から冷たい風が吹き出してくる。

 開いた。

 アビスは、高鳴る鼓動を抑えながら、中へと飛び込んだ。

「……やっとだ。やっと、俺様の力が……!」

 アビスは、広大な空洞の中心へと走った。

 そこには、巨大な水晶の器があり、その中には、液体化した魔力がなみなみと……。

「…………あ?」

 アビスの足が止まった。

 思考が停止した。

 そこにあるはずの、「なみなみと注がれた魔力の海」は。

 ……なかった。

 巨大な水晶の器は、空っぽだった。

 底の方に、わずかに澱んだ魔力のカスがこびりついているだけで、あとは空虚な空間が広がっているだけだった。

「……な、なんだ、これは……?」

 アビスは、震える声(鳴き声)を漏らした。

 枯渇している?

 あり得ない。

 あの魔力は、数百年放置した程度で干上がるような量ではない。

 誰かが持ち去った?

 いったい、どうやって?

(……吸われたのか?)

 アビスは、器の底を見た。

 そこには、アビスの記憶にはない、新しい「パイプ」のようなものが設置されていた。

 それは、地下のさらに深層へと伸びており、そこから強制的に魔力を吸い上げるような構造になっていた。

 そして、そのパイプは、最近設置されたものではない。

 少なくとも数年前ほど前から、稼働していたような形跡がある。

(……数年……前?)

 アビスの脳裏に、電流が走った。

 数年前。

 それは、リディアがアビスの封印を解いた時期だ。

 アビスが目覚めたと同時に、何者かがこの源泉に細工をし、魔力を吸い上げ始めたということか?

 誰が?

 何のために?


 その時。

 背後で、重い音がした。


 ゴゴゴッ!


 開いていたはずの扉が、唐突に閉ざされたのだ。

 完全な密室。

 そして、天井の四隅から、赤い光が灯った。

 侵入者検知システム?

 いや、違う。

 これは、「獲物」を待ち構えていた罠だ。

「―――お待ちしておりました、アビス様」

 虚空から、冷ややかな声が響いた。

 それは、機械音声のようでありながら、どこか人間味のある、聞き覚えのない声だった。

「まさか、正面の扉から堂々と入ってこられるとは。……やはり、貴方様の認証コードは生きていたのですね」

「ワン!(……誰だ、テメエは!)」

 アビスは周囲を警戒しながら吠えた。

 姿は見えない。

 だが、気配はそこら中に満ちている。

 この部屋全体が、いや、この城全体が、一つの「意思」を持っているかのような不気味さ。

「私は、この城の管理システム。……そして、『あの方』の忠実なる下僕です」

 床がスライドし、無数の機械兵――黒騎士のプロトタイプのような人形たちがせり上がってきた。

 アビスを完全包囲する。

 魔力切れの犬一匹に対して、あまりにも過剰な戦力。

「貯蔵庫の魔力は、全て『あの方』の覚醒と、聖都の改修、維持に使わせていただきました。……残念ながら、貴方様にお渡しできる残飯はございません」

(……ハメやがったな……!)

 アビスは悟った。

 最初から、泳がされていたのだ。

 リディアの陽動も、手薄な警備も。

 全ては、アビスをここまで誘い込み、確実に捕獲するための罠。

「さあ、参りましょう。貴方様の飼い主である『勇者の末裔』も、間もなくこちらに到着される頃です。……「あの方」が、玉座の間でお待ちです」

 機械兵たちが一斉に襲いかかってくる。

 アビスは牙を剥いたが、無駄な抵抗だった。

 魔力のない犬の体では、鋼鉄の腕を振りほどくことすらできない。

 アビスは、無情にも、完全に拘束されようとしていた。

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