第二十話 陽動
聖都エリュシオン、中央広場。
普段は市民の憩いの場であるはずのその場所は、今夜、異様な熱気と狂気的な殺気に包まれていた。
「大浄化祭」。
そう名付けられた粛清の儀式のために、広場の中央には巨大な祭壇が組まれ、その周囲には百本もの「処刑柱」が林立している。
柱の足元には薪が高く積み上げられ、油が撒かれているが、まだ火は点いていない。
祭壇の脇には、大きな鉄格子状の檻が置かれ、スラム街から連行された「汚染者」たち――亜人、病人、そして「浄化者」の教義に反する思想を持った人々が、恐怖に震えながら押し込められていた。
彼らはこれから順次、あの柱に括り付けられ、「聖なる炎」で焼かれる手はずとなっている。
「……見ろよ。あれが奴らの言う『慈悲』だとさ」
広場の外縁、建物の影に身を潜めたレジスタンス「黒猫」のリーダー、ガイルが吐き捨てるように言った。
祭壇の最上段には、白銀の仮面をつけ、豪華な法衣を纏った神官たちが並んでいる。
彼らは拡声魔法を使い、広場に集まった市民たちに向けて演説を行っていた。
「喜べ、選ばれし市民たちよ! 今宵、我らは不浄なるものを焼き払い、この世界をさらに純粋な楽園へと近づけるのだ!」
ワァァァァァッ!
市民たちの歓声が上がる。
その瞳には理性の光はなく、ただ与えられた「正義」という麻薬に酔いしれている。
檻の中から聞こえる子供の泣き声など、歓声にかき消されて誰の耳にも届かない。
「……許せません」
ガイルの隣で、フードを深く被ったリディア・クレセントが、ギリリと聖剣の柄を握りしめた。
その声は静かだが、心の底からの怒りに震えていた。
「罪のない人たちを焼き殺すなんて……。こんなの、正義じゃありません」
彼女のリュックサックの中では、アビス(犬)が冷ややかな視線で広場を見渡していた。
(……警備兵の数、およそ百。上空には監視用の小型飛空艇が三機。さらに祭壇の周りを固めているのは、一般兵とは格の違う魔力を持った精鋭部隊か)
アビスは冷静に戦力分析を行っていた。
正面からぶつかれば、レジスタンスごとき一瞬で消し飛ぶ戦力差だ。
彼らだけでは、警備兵の足止めにすらならないだろう。
(……だが、ここに「リディア」という規格外の駒が加われば、話は別だ)
レジスタンスが外周で騒ぎを起こし、その隙にリディアが中央で大暴れする。
そうすれば、敵の戦力は分断され、混乱が生じる。
これぞ最高の「囮」だ。
「……作戦通りに行くぞ」
ガイルが小声で指示を出す。
「俺たちが広場の外側にある『詰め所』や『資材庫』に火を放ち、敵の注意を外へ逸らす。警備兵が動揺した隙に、リディア、あんたが中央へ突っ込んで檻を破壊し、仲間を逃がしてくれ。……頼めるか?」
「任せてください」
リディアは力強く頷いた。
その若草色の瞳に、迷いはない。
「私が暴れれば暴れるほど、みんなが逃げるチャンスが生まれるんですよね? ……やってやりますよ! 派手に!」
(……そうだ。精々派手にやってくれよ、脳筋。テメエが粘れば粘るほど、俺様の仕事がしやすくなる)
アビスは、心の中でほくそ笑んだ。
リディアが暴れれば、城の警備も広場に集中し、裏口は手薄になる。
その隙に、アビスは単独で城の裏手に回り、地下への侵入ルートを確保するつもりだった。
「よし……。始めるぞ!」
ガイルが合図を送る。
瞬間。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
広場の四隅、警備兵の待機所や武器庫を狙って、火炎瓶や魔法弾が撃ち込まれた。
ドォォォォン!
爆発音と共に、広場の外縁から黒煙と火の手が上がる。
「な、なんだ!?」
「敵襲だ! レジスタンスだ! 外壁側だぞ!」
警備兵たちが慌てて消火と迎撃に向かおうとする。
市民たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、広場は一瞬でパニックに陥った。
「今です! 行きますよ、アビスさん!」
リディアがフードを脱ぎ捨て、燃えるような赤髪を露わにした。
彼女はリュックを地面に置くと、アビスに向かってウィンクした。
「アビスさんは、ここで隠れていてください。……私が、全部片付けてきますから!」
「ワン!(おう! 死ぬなよ!)」
アビスは、殊勝な(フリをした)鳴き声を上げた。
リディアは、ニカッと笑うと、聖剣を引き抜き、広場の中央へと躍り出た。
「そこの仮面の人たち! 処刑なんてやめなさい! 勇者の名において、私が相手になります!」
黄金色の闘気を纏い、一騎当千の勢いで突撃していくリディア。
その姿に、警備兵たちの注意が一斉に向けられる。
「あ、あれは! 手配書の『呪われた血』だ!」
「殺せ! ここで仕留めろ!」
ワラワラと群がる兵士たち。
さらに、祭壇の上にいた精鋭騎士たちも、獲物を見つけた猛獣のように動き出した。
(……よし。釣れた)
アビスは、その混乱を見届け、素早く身を翻した。
リディアの背中には目もくれず、彼は影に紛れて路地裏へと走り込む。
目指すは、城壁の根元に隠された「旧・地下大排水路」。
千年前、アビス自身が設計させた、城の深部へと直結する秘密のルートだ。
◇
城壁の裏側。
表の喧騒が嘘のように、そこは静まり返っていた。
警備兵の姿はない。予想通り、全員広場へ向かったようだ。
(……ククク。チョロいもんだぜ)
アビスは、城壁の根元、鬱蒼と茂る茨の茂みをかき分け、その奥にある「黒い穴」を見つけた。
それは、巨大な鉄格子で塞がれた、古びたトンネルの出口だった。
かつて城の生活排水や廃棄物を流していた「旧・地下大排水路」。
衛生環境の改善により数百年前に封鎖された、忘れ去られた汚物の通り道だ。
(……ここなら、人の目もねえし、警備もザルだ)
鉄格子は赤錆びてボロボロになっており、ツタが絡まっている。
一見するとただの廃墟だが、アビスにとっては勝手知ったる裏口だ。
彼は、鉄格子の隙間――犬の体なら余裕で通り抜けられるスペース――に身体を滑り込ませた。
中は、ひんやりとした冷気と、黴びた土の臭いが漂っている。
水は枯れており、床は乾いた泥に覆われていた。
(……汚ねえが、最短ルートだ)
アビスは、暗闇の奥へと足を踏み入れた。
この通路を遡れば、城の地下構造エリア、そして「魔力貯蔵庫」のある最深部へと繋がっているはずだ。
(……待ってろよ、俺様の魔力。今、迎えに行ってやるからな)
アビスは、犬の姿のまま、暗い排水路を疾走した。
リディアの安否?
知ったことか。
彼女は頑丈だ。
数十分やそこらは持つだろう。
その間に、全てを終わらせればいい。
◇
一方、広場。
そこは、一人の少女を中心とした嵐の渦中にあった。
「はあああああっ!」
ズドォォォォンッ!
リディアの一撃が、人々を閉じ込めていた鉄格子の檻をへし折った。
中から、縛られた亜人たちが転がり出てくる。
すかさず、潜んでいたレジスタンスたちが駆け寄り、彼らを保護して路地裏へと誘導していく。
「逃げてください! 早く!」
リディアは叫びながら、襲いかかる兵士たちに向き直った。
四方八方から突き出される槍の雨。
だが、リディアは聖剣を振るうことすらしなかった。
「邪魔ですッ!」
彼女は、聖剣の鞘を使って、迫りくる槍をまとめてなぎ払った。
ガガンッ!
金属音が響き、兵士たちの槍が飴細工のように曲がる。
そして、その勢いのまま、鞘の先端を兵士の腹に叩き込む。
ドカッ!
「ぐべぇっ!」
兵士がくの字に折れ曲がり、後方の味方を巻き込んで吹き飛んだ。
「くそっ! なんだこの女は!」
「攻撃が当たらない! まるで動きを読んでいるようだ!」
兵士たちが恐怖するのも無理はない。
リディアには、アビスという「頭脳」がいない。
だが、これまでの旅でアビスに叩き込まれた(強制的に覚えさせられた)回避パターンや、死線を潜り抜けてきた経験が、彼女の身体に染み付いていたのだ。
考えるな、感じろ。
今の彼女は、まさに「野生の勘」だけで戦うバーサーカーだった。
「調子に乗るなよ、小娘!」
頭上から、鋭い殺気が降ってきた。
リディアは反射的にバックステップで回避する。
ドォォォン!
彼女がいた場所に、青白い稲妻が突き刺さり、石畳を焦がした。
祭壇の上から飛び降りてきたのは、ひときわ豪華な、黄金の装飾が施された鎧を纏った五人の騎士たち。
聖騎士団の中でも選りすぐりの精鋭部隊、「聖堂近衛兵」だ。
「我ら聖堂近衛兵が相手だ。これ以上の狼藉は許さん」
隊長格と思われる騎士が、魔力を帯びたロングソードを構える。
その全身から放たれるプレッシャーは、以前戦ったベルンハルト隊長と同等か、それ以上だ。
他の四人も、それぞれ巨大な斧や、魔導杖を構え、リディアを包囲する。
「……五人ですか」
リディアは、聖剣を構え直した。
汗が頬を伝う。
これまでの雑兵とは違う。
彼らの目には、油断も慢心もない。
完全に「殺し」に来ている目だ。
「囲め! 『聖なる鎖』の陣形だ!」
隊長の号令と共に、五人の騎士が動いた。
杖を持った魔術騎士が、高速で詠唱を開始する。
「光よ、罪人を縛れ! 『光鎖』!」
地面から光の鎖が飛び出し、リディアの手足を狙う。
「っと!」
リディアは跳躍してかわすが、着地点にはすでに斧を持った騎士が待ち構えていた。
「潰れろ!」
巨大な斧が横薙ぎに振るわれる。
空中で回避できないタイミング。
だが、リディアは空中で身体を捻り、聖剣の腹で斧の一撃を受け止めた。
ガギィィン!
衝撃を利用して、さらに後方へと跳ぶ。
しかし、そこには隊長の剣が迫っていた。
「遅い!」
鋭い突き。
リディアの頬をかすめ、赤い血が滲む。
「くっ……!」
リディアは地面を転がり、なんとか距離を取った。
強い。
個々の能力も高いが、何より連携が完璧だ。
息をつく暇も与えられない。
隊長が冷ややかに笑う。
「貴様の動きは単調だ。獣と同じ。予測するのは容易い」
囲まれる。
じりじりと、死の包囲網が狭まっていく。
アビスがいれば、的確な指示でこの陣形を崩してくれただろう。
だが、今は一人だ。
(……いいえ。一人じゃありません)
リディアは、リュックを置いた路地の方角を一瞬だけ見た。
アビスは、もうそこにはいない。
きっと、安全な場所に避難して、この戦いを見守ってくれているはずだ。
あるいは、アビスのことだから、何か凄い作戦を思いついて、裏で動いてくれているのかもしれない。
「アビスさんは、私を信じて背中を預けてくれました」
リディアは、血を拭い、ニカッと笑った。
その笑顔に、騎士たちが怪訝な顔をする。
「だから、私も信じます。私がここで粘れば粘るほど、アビスさんの作戦が成功するんだって!」
リディアの全身から、黄金色の闘気が爆発的に膨れ上がった。
勇者の血が、危機に反応して活性化する。
彼女は、聖剣を両手で握りしめた。
小細工はいらない。
アビスがいないなら、アビスがいないなりの戦い方がある。
つまり――「全部、力ずくでぶっ壊す」。
「……上等です! まとめてかかってきなさい!」
リディアが踏み込んだ。
石畳が爆ぜるほどの加速。
「なっ、速い!?」
騎士たちが反応するよりも早く、リディアは魔術騎士の懐に飛び込んでいた。
「まずは、その鎖が邪魔です!」
聖剣の一閃。
魔法障壁ごと、魔術騎士の杖を粉砕する。
「ぐあっ!」
吹き飛ぶ魔術騎士。
陣形の一角が崩れた。
「貴様ッ!」
斧騎士と隊長が同時に襲いかかる。
だが、リディアは止まらない。
彼女は聖剣を振り回し、暴風のような連撃を叩き込んだ。
防御?
回避?
そんなものは必要ない。
相手の攻撃ごと、相手の武器をへし折る。
それが、リディア・クレセントの、脳筋流剣術だ。
「うおおおおおおっ!」
広場に、金属音と怒号が響き渡る。
一人の少女が、五人の精鋭を相手に、一歩も引かずに大立ち回りを演じている。
その姿は、まさに伝説の勇者の再来のようであり、同時に、制御不能の災害のようでもあった。
広場での激闘は、最高潮に達しようとしていた。
そして、その騒ぎが大きくなればなるほど、地下を進むアビスの足取りは、誰にも気づかれることなく、確かなものになっていく。
聖都の夜は、まだ始まったばかりだった。




