表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/25

第二話 三分間の(矮小な)復讐

 クレセント家の夜は早い。

 健康優良児そのものであるリディア・クレセントは、日課である夕食後の筋力トレーニング(アビスにとっては地獄の綱引き大会)を終えると、泥のように眠る。


「……すー……すー……」


 静かな寝息が、部屋に響いていた。

 昼間のあの暴力的なまでの元気さが嘘のように、その寝顔は穏やかで、忌々しいほどに整っている。

 一見すると、深窓の令嬢のようにすら見えるその無防備な姿。

 だが、部屋の隅、最高級の羽毛布団(もちろん犬用だ)の上でカッと目を見開いた黒い影――魔人アビスは知っている。

 この寝顔の下に、ドラゴンをも素手で殴り倒しかねない、凶悪な筋力が潜んでいることを。


(……寝たか)


 アビスは、極めて慎重に首をもたげた。

 ふかふかの布団が、カサリと微かな音を立てる。

 五年前、彼に与えられていたのは、煎餅のように薄っぺらい粗末なクッションだった。

 だが、この五年という歳月の中で、リディアの「飼い主」としての情熱は妙な方向へと進化していた。

 「アビスさんは寒がりですからね!」などと言って買い与えられた、この無駄に高級な寝具。

 それはアビスにとって、快適であればあるほど、「完全にペットとして飼い慣らされた」という屈辱の証でもあった。


 アビスは、音もなくその高級ベッドから抜け出した。

 その動きには、昼間の「ボール遊び」で見せるような、愛嬌たっぷりの愚鈍さは微塵もない。

 彼は忍び足(肉球のおかげで完全な静音だ)で部屋のドアへと向かい、器用に前足を使ってドアノブを回し、廊下へと滑り出した。


 目指すは、屋敷の最上階。

 埃っぽい、誰も使っていない屋根裏部屋だ。

 そこは、この五年間、アビスがリディアの目を盗んで夜な夜な通い詰めた、彼だけの「研究所」だった。


 ◇


 屋根裏部屋に到着したアビスは、埃まみれの床に座り込み(犬座りだが)、深く息を吸い込んだ。


(……長かった)


 アビスの脳裏に、この五年間の屈辱的な日々が走馬灯のように駆け巡る。

 お散歩、ボール遊び、ドッグフード、お風呂。

 そして、あの忌まわしき「ハウス!」の呪文による、絶対的な強制力。


 だが、アビスは諦めてはいなかった。

 昼間は無害な愛玩動物を演じながら、彼の頭脳は常にフル回転していたのだ。


 ―――「呪い」の解析。


 初代勇者がアビスにかけたこの呪い。

 その正体について、アビスは一つの結論に達していた。

 それは、アビスの魂と、力の源泉である「無限のエネルギーに満ちた異空間」との接続(リンク)を、強制的に「遮断」する術式だ。

 完全体のアビスは、その身体を通して、異空間から無尽蔵の魔力を汲み上げ、行使することができる。

 いわば、太いパイプの蛇口を全開にした状態だ。

 しかし、「ハウス!」の呪いは、そのパイプの途中に「勇者の(ことわり)」で作られた絶対的な「遮断弁」を設置し、強制的に閉め切ってしまうものだった。

 結果、魔力の供給を断たれたアビスの魂は、その存在を維持するために、最小単位のエネルギーで済む形態――すなわち、この無力な犬の姿へと強制的に圧縮されるのだ。


(……あのクソ勇者め。よくもまあ、こんな悪趣味な術式を組みやがって。パイプ自体を切断するのではなく、あえて『繋げたまま塞ぐ』ことで、生かさず殺さず封じ込めるとはな)


 だが、どんな完璧な遮断弁にも、経年劣化や構造上の「隙間」は生じる。

 ましてや、ここは魔力の満ちた隠れ里。

 アビスは、五年間という時間(千年以上を生きるアビスにとってはあっと言う間だったが)をかけ、ボールを追いかけながら、フリスビーをキャッチしながら、時にはリディアに腹を撫でられながら、その「弁の緩み」を探し続けた。

 そして。

 ついに、見つけたのだ。


(……遮断弁は、完璧ではない。ごく微量だが、魔力の漏出リークがある)


 犬の姿であっても、生命活動を維持できているのは、その漏れ出た魔力のおかげだ。

 いわば、閉じられた蛇口の隙間から、ポタ、ポタ、と水滴が落ちているような状態。

 アビスの計画は、こうだ。

 自身の内側に溜め込んだ、その「水滴」のような微弱な魔力を、二十四時間かけて丹田に集める。

 そして、集めた魔力を凝縮し、一つの強固な「(くさび)」を作り出す。

 その楔を、閉じられた遮断弁のわずかな隙間に打ち込み、テコの原理で強引にこじ開けるのだ。


(……だが、問題はその維持時間だ)


 遮断弁を閉じる「勇者の呪い」の圧力は凄まじい。

 アビスが作り出した「魔力の楔」は、弁をこじ開けた瞬間から、その圧倒的な圧力ですり潰され始める。

 楔は、パイプの「外側」にある、アビス自身の蓄積魔力で作られたものだ。

 パイプの中から流れてくる魔力で補充することはできない。

 計算では、楔が圧力に耐えきれず崩壊するまでの時間は、およそ一八〇秒。

 三分間。

 楔が砕け散れば、弁は再び無慈悲に閉ざされる。 そして、再び楔を作り出すための「魔力の水滴」を溜めるには、丸一日――二十四時間のチャージが必要となる。


 三分間。

 そのわずかな時間。

 だが、今の魔人アビスにとっては、それが、永遠にも等しい自由の時間だった。


「……フゥー……」


 アビスは、犬の姿で、人間のように深く息を吐いた。

 集中する。

 体内の奥底に、二十四時間かけて練り上げた漆黒の「楔」を感じる。

 五年間、爪に火を灯すような思いで完成させた、反逆の鍵だ。


(……いくぞ)


 アビスは、その魔力の楔を、自らの魂の奥底にある「閉ざされた扉」の隙間へと、思い切り叩き込んだ。


 ―――「解呪(ディスペル)ッ!」


 カッ!


 屋根裏部屋が、黒紫色の閃光に包まれた。

 バクンッ!

 心臓が、激しく脈打つ。

 全身の骨格が、メキメキと音を立てて軋み、拡張する。

 視点が、高くなる。

 短い四肢が伸び、黒い毛皮が消え、代わりに漆黒のコートが実体化する。

 感覚が、戻ってくる。

 指先の感覚。

 大地を踏みしめる、二本の足の感覚。

 そして何より、体内を駆け巡る、あの懐かしい力の奔流!


「―――フ、ハハハハハハハハッ!」


 アビスの口から、歓喜の哄笑が迸った。

 低い、理知的な、そして絶対的な自信に満ちた、魔人の声。

 「ワン」でも「キャン」でもない。

 人間の言葉だ。


「戻った……! 戻ったぞ! この俺様の、完璧な肉体が!」


 アビスは、自分の両手を見つめた。

 鋭い爪、長い指。

 窓ガラスに映るその姿は、紛れもなく、かつて世界を震え上がらせた「最恐魔人アビス」そのものだった。

 五年ぶりだ。

 実に、五年ぶりの復活だった。


「フハハハハ! 見ろ、この溢れ出る魔力を! この全能感を! やはり俺様は天才だ! あのクソ勇者の呪いを、自力でねじ伏せてやったわ!」


 アビスは、高らかに笑った。

 笑って、笑って、そして―――ふと、真顔になった。


「……ん?」


 アビスは、掌を握ったり開いたりした。

 何かが、おかしい。

 確かに魔力は戻った。

 異空間との通路(パス)は繋がった。

 だが。


「……なんだ、この、しょぼい水流(魔力)は?」


 蛇口は開いたはずだった。

 だが、そこから流れてくる魔力の量は、完全体の時の「激流」とは程遠い。

 例えるなら、チョロチョロと糸水のように流れる、節水コマ付きの水道のようだった。


「お、おい……嘘だろ……?」


 アビスは焦った。

 試しに、指先から魔弾(破壊魔法)を生成してみる。


 ボォォォッ!


 指先に、バスケットボール大の高密度の黒炎が顕現した。

 その熱量は、一撃で大岩を溶解させ、人間の兵士ならば数人を一瞬で炭化させるほどの威力がある。

 人間基準で言えば、宮廷魔術師クラスが長い詠唱の末にようやく発動できる「上級魔術」に匹敵するだろう。


「…………」


 だが、アビスは、その強力な黒炎を凝視し、心底がっかりしたように呟いた。


「……なんだ、この、ゴミは?」


 アビスは瞬時に脳内で計算(シミュレーション)を行った。

 現在の魔力出力値。

 完全体の魔力出力値。

 その比率は―――。


「……ひゃ、百万分の一……だと……?」


 愕然とした。

 百分の一ではない。

 千分の一ですらない。

 百万分の一。

 かつてのアビスならば、指先一つで山脈を吹き飛ばし、大陸の形を変えることさえ造作もなかった。

 それに比べれば、目の前の「上級魔術相当」の火球など、線香花火以下のゴミ屑でしかない。


「ふ、ふざけるなァァァァッ!」


 アビスは絶叫した(声量は抑えつつ)。

 これでは、「世界破壊」どころか、屋敷を半壊させるのがやっとではないか。

(……くそっ! 楔が小さすぎたか! あの遮断弁、どれだけ重いんだ!)


 こじ開けた蛇口は、全開には程遠かった。

 ほんのわずか、針の穴ほどの隙間を空けたに過ぎなかったのだ。


「……チッ! まあいい。百万分の一とはいえ、人間ごときには過ぎた力だ。今の俺様は『魔人』だ。あの屈辱的な『犬』ではない!」


 アビスは気を取り直した。

 時計を見る。

 残り時間は、あと二分と少々。

 楔が砕け散るまでの、貴重な時間。

 この三分間を、嘆いて過ごすわけにはいかない。


「さて……何をするか」


 世界征服は無理だ。

 リディアを殺すのもリスクが高すぎる(失敗すれば、今度こそ永遠に犬になる)。

 屋敷を吹き飛ばせば、自分も生き埋めだ。


(……復讐だ)


 アビスの脳裏に、閃きが走った。

 そうだ。

 この五年間、俺様を虐げてきた、このクレセント家に対して、相応の報復をしてやるのだ。

 俺様の恐ろしさ、俺様の邪悪さを、骨の髄まで思い知らせてやる。


「……フフフ。いいことを思いついたぞ」


 アビスは、邪悪な笑みを浮かべた。

 彼は屋根裏部屋を出て、下の階へと降りていった。

 足音は立てない。

 彼は、リディアの父、バルドル・クレセントの書斎へと忍び込んだ。


 バルドル。

 リディアの父親であり、この隠れ里の長。

 彼もまた、アビスにとっては憎き敵の一人だ。

 彼が、事あるごとにリディアに「初代勇者の偉大さ」を説くせいで、リディアの脳筋正義感が加速しているのだから。


 書斎の壁には、一枚の大きな肖像画が飾られていた。

 金色の額縁に入った、その絵。

 聖剣を掲げ、凛々しい表情で彼方を見つめる、金髪の青年。

 ―――初代勇者。

 かつてアビスを封印し、全ての元凶となった男。


 バルドルは、この肖像画を家宝として崇め、毎日、額縁をピカピカに磨き上げている。

 アビスにとっては、吐き気を催すだけのゴミだが。


「よう、宿敵(とも)よ。久しぶりだな」


 アビスは、肖像画の前に立った。

 残り時間は、あと一分。


「テメエのその、すました顔が、気に食わねえんだよ。……今の俺様のゴミみてえな魔力でも、これくらいならできるだろ」


 アビスは、人差し指を立てた。

 指先に、なけなしの魔力(百万分の一)を集中させる。

 それは、「物質変成魔法」――インクを生成し、対象に恒久的に定着させる術式だ。

 一流の魔術師でも数時間はかかる工程だが、腐っても魔人、アビスはそれを一瞬で構築する。


「喰らえ! 魔人アビスの、怒りの鉄槌を!」


 アビスは、指先を高速で動かした。

 キュッ、キュッ、キュッ!

 空中に描かれた魔法陣(極小)を通して、肖像画の上に、漆黒のインクが上書きされていく。

 初代勇者の、その凛々しい顔に。

 丸い鼻。

 垂れた耳。

 目の周りの黒いぶち。

 そして、額には、下手くそな文字で「ポチ」。


「…………」


 完成した。

 伝説の勇者の肖像画は、今や、間の抜けた「犬」の落書きによって、見るも無惨な姿へと変貌していた。

 しかも、アビスの魔力で定着させているため、通常の洗浄魔法では絶対に落ちない「呪いの落書き」だ。


「フ……フハハハハハ! どうだ! ざまあみろ!」


 アビスは、腹を抱えて笑った(小声で)。

 見たか。

 これが、魔人の力だ。

 バルドルが明日の朝、これを見たら、どんな顔をするだろうか。

 顔を真っ赤にして怒り狂うか?

 それとも、ショックで寝込むか?

 どちらにせよ、カオスだ。

 混沌だ。

 アビスが愛してやまない、負の感情の坩堝だ。


「……はあ、はあ。……やった。やってやったぞ……」


 ひとしきり笑った後。

 ふと、虚しさが込み上げてきた。


(……俺様は、何をやっているんだ?)


 かつて大陸全土を恐怖のどん底に陥れた魔人が。

 五年ぶりに取り戻した力を使って。

 上級魔術師並みの魔力を、無駄に精密制御して。

 やったことが、肖像画への落書き。


(……矮小だ。あまりにも、矮小すぎる……!)


 だが、これが現実だ。

 これが、今の彼にできる、精一杯の「世界への反逆」なのだ。


 その時。

 パリンッ。

 体内から、硬質な何かが砕け散る音が聞こえた。

 限界だ。

 楔が、砕けた。


 ―――プンッ。


 間の抜けた音と共に。

 アビスの視界が、ガクンと低くなった。

 漆黒のコートは消え去り、手のひらは、ぷにぷにの肉球へと変わった。


(……チッ)


 元の、無力な黒い毛玉。

 ポメラニアン似の雑種犬に、逆戻りだ。

 体内に残っていた魔力も、遮断弁が閉じたことでほぼ完全に供給を断たれた。

 後には、強烈な脱力感だけが残った。

 楔を作るための魔力も使い果たし、また一滴ずつ溜め直さなければならない。


(……だりぃ……)


 アビスは、よろよろと歩き出した。

 バルドルの書斎を出て、廊下を渡り、リディアの寝室へと戻る。

 ドアの隙間から体を滑り込ませ、自分のベッド(高級羽毛布団)へと潜り込む。

 リディアは、まだ静かな寝息を立てて爆睡していた。

 彼女は何も知らない。

 自分の飼い犬が、今しがた、世界の秩序(家の平和)を揺るがすような大罪(落書き)を犯してきたことを。


(……見てろよ)


 アビスは、布団の中で丸くなりながら、心の中で毒づいた。


(……今は、これが限界だ。だが、必ず。……必ず、もっとマシな復讐をしてやるからな……)


 アビス(犬)の目には、小さな、しかし確固たる意志が宿っていた。

 魔人の、初めての自力復活の夜は、こうして更けていった。


 ◇


 翌朝。

 クレセント家の屋敷に、バルドルの悲痛な叫び声が響き渡ったのは、言うまでもない。


「だ、誰だアアアアアッ! ワシの、ワシの聖なる勇者様の御尊顔に、こんな冒涜的な落書きをしたのはアアアアアッ!?」


 中庭で「お散歩」の準備をしていたリディアとアビス(犬)にも、その声は届いた。

「あら? お父様、どうしたのかしら?」

 リディアが首を傾げる。

 アビスは、その足元で、知らんぷりを決め込みながら、心の中でニヤリと笑った。


(フン! 精々吠えるがいい、人間どもよ!)


 その尻尾が、いつもより少しだけ、軽やかに振られていた。

 それは、彼にとって、五年ぶりの「勝利」の味だったのだ。

 ……あまりにも、矮小な勝利ではあったが。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ