第二話 三分間の(矮小な)復讐
クレセント家の夜は早い。
健康優良児そのものであるリディア・クレセントは、日課である夕食後の筋力トレーニング(アビスにとっては地獄の綱引き大会)を終えると、泥のように眠る。
「……すー……すー……」
静かな寝息が、部屋に響いていた。
昼間のあの暴力的なまでの元気さが嘘のように、その寝顔は穏やかで、忌々しいほどに整っている。
一見すると、深窓の令嬢のようにすら見えるその無防備な姿。
だが、部屋の隅、最高級の羽毛布団(もちろん犬用だ)の上でカッと目を見開いた黒い影――魔人アビスは知っている。
この寝顔の下に、ドラゴンをも素手で殴り倒しかねない、凶悪な筋力が潜んでいることを。
(……寝たか)
アビスは、極めて慎重に首をもたげた。
ふかふかの布団が、カサリと微かな音を立てる。
五年前、彼に与えられていたのは、煎餅のように薄っぺらい粗末なクッションだった。
だが、この五年という歳月の中で、リディアの「飼い主」としての情熱は妙な方向へと進化していた。
「アビスさんは寒がりですからね!」などと言って買い与えられた、この無駄に高級な寝具。
それはアビスにとって、快適であればあるほど、「完全にペットとして飼い慣らされた」という屈辱の証でもあった。
アビスは、音もなくその高級ベッドから抜け出した。
その動きには、昼間の「ボール遊び」で見せるような、愛嬌たっぷりの愚鈍さは微塵もない。
彼は忍び足(肉球のおかげで完全な静音だ)で部屋のドアへと向かい、器用に前足を使ってドアノブを回し、廊下へと滑り出した。
目指すは、屋敷の最上階。
埃っぽい、誰も使っていない屋根裏部屋だ。
そこは、この五年間、アビスがリディアの目を盗んで夜な夜な通い詰めた、彼だけの「研究所」だった。
◇
屋根裏部屋に到着したアビスは、埃まみれの床に座り込み(犬座りだが)、深く息を吸い込んだ。
(……長かった)
アビスの脳裏に、この五年間の屈辱的な日々が走馬灯のように駆け巡る。
お散歩、ボール遊び、ドッグフード、お風呂。
そして、あの忌まわしき「ハウス!」の呪文による、絶対的な強制力。
だが、アビスは諦めてはいなかった。
昼間は無害な愛玩動物を演じながら、彼の頭脳は常にフル回転していたのだ。
―――「呪い」の解析。
初代勇者がアビスにかけたこの呪い。
その正体について、アビスは一つの結論に達していた。
それは、アビスの魂と、力の源泉である「無限のエネルギーに満ちた異空間」との接続を、強制的に「遮断」する術式だ。
完全体のアビスは、その身体を通して、異空間から無尽蔵の魔力を汲み上げ、行使することができる。
いわば、太いパイプの蛇口を全開にした状態だ。
しかし、「ハウス!」の呪いは、そのパイプの途中に「勇者の理」で作られた絶対的な「遮断弁」を設置し、強制的に閉め切ってしまうものだった。
結果、魔力の供給を断たれたアビスの魂は、その存在を維持するために、最小単位のエネルギーで済む形態――すなわち、この無力な犬の姿へと強制的に圧縮されるのだ。
(……あのクソ勇者め。よくもまあ、こんな悪趣味な術式を組みやがって。パイプ自体を切断するのではなく、あえて『繋げたまま塞ぐ』ことで、生かさず殺さず封じ込めるとはな)
だが、どんな完璧な遮断弁にも、経年劣化や構造上の「隙間」は生じる。
ましてや、ここは魔力の満ちた隠れ里。
アビスは、五年間という時間(千年以上を生きるアビスにとってはあっと言う間だったが)をかけ、ボールを追いかけながら、フリスビーをキャッチしながら、時にはリディアに腹を撫でられながら、その「弁の緩み」を探し続けた。
そして。
ついに、見つけたのだ。
(……遮断弁は、完璧ではない。ごく微量だが、魔力の漏出がある)
犬の姿であっても、生命活動を維持できているのは、その漏れ出た魔力のおかげだ。
いわば、閉じられた蛇口の隙間から、ポタ、ポタ、と水滴が落ちているような状態。
アビスの計画は、こうだ。
自身の内側に溜め込んだ、その「水滴」のような微弱な魔力を、二十四時間かけて丹田に集める。
そして、集めた魔力を凝縮し、一つの強固な「楔」を作り出す。
その楔を、閉じられた遮断弁のわずかな隙間に打ち込み、テコの原理で強引にこじ開けるのだ。
(……だが、問題はその維持時間だ)
遮断弁を閉じる「勇者の呪い」の圧力は凄まじい。
アビスが作り出した「魔力の楔」は、弁をこじ開けた瞬間から、その圧倒的な圧力ですり潰され始める。
楔は、パイプの「外側」にある、アビス自身の蓄積魔力で作られたものだ。
パイプの中から流れてくる魔力で補充することはできない。
計算では、楔が圧力に耐えきれず崩壊するまでの時間は、およそ一八〇秒。
三分間。
楔が砕け散れば、弁は再び無慈悲に閉ざされる。 そして、再び楔を作り出すための「魔力の水滴」を溜めるには、丸一日――二十四時間のチャージが必要となる。
三分間。
そのわずかな時間。
だが、今の魔人アビスにとっては、それが、永遠にも等しい自由の時間だった。
「……フゥー……」
アビスは、犬の姿で、人間のように深く息を吐いた。
集中する。
体内の奥底に、二十四時間かけて練り上げた漆黒の「楔」を感じる。
五年間、爪に火を灯すような思いで完成させた、反逆の鍵だ。
(……いくぞ)
アビスは、その魔力の楔を、自らの魂の奥底にある「閉ざされた扉」の隙間へと、思い切り叩き込んだ。
―――「解呪ッ!」
カッ!
屋根裏部屋が、黒紫色の閃光に包まれた。
バクンッ!
心臓が、激しく脈打つ。
全身の骨格が、メキメキと音を立てて軋み、拡張する。
視点が、高くなる。
短い四肢が伸び、黒い毛皮が消え、代わりに漆黒のコートが実体化する。
感覚が、戻ってくる。
指先の感覚。
大地を踏みしめる、二本の足の感覚。
そして何より、体内を駆け巡る、あの懐かしい力の奔流!
「―――フ、ハハハハハハハハッ!」
アビスの口から、歓喜の哄笑が迸った。
低い、理知的な、そして絶対的な自信に満ちた、魔人の声。
「ワン」でも「キャン」でもない。
人間の言葉だ。
「戻った……! 戻ったぞ! この俺様の、完璧な肉体が!」
アビスは、自分の両手を見つめた。
鋭い爪、長い指。
窓ガラスに映るその姿は、紛れもなく、かつて世界を震え上がらせた「最恐魔人アビス」そのものだった。
五年ぶりだ。
実に、五年ぶりの復活だった。
「フハハハハ! 見ろ、この溢れ出る魔力を! この全能感を! やはり俺様は天才だ! あのクソ勇者の呪いを、自力でねじ伏せてやったわ!」
アビスは、高らかに笑った。
笑って、笑って、そして―――ふと、真顔になった。
「……ん?」
アビスは、掌を握ったり開いたりした。
何かが、おかしい。
確かに魔力は戻った。
異空間との通路は繋がった。
だが。
「……なんだ、この、しょぼい水流は?」
蛇口は開いたはずだった。
だが、そこから流れてくる魔力の量は、完全体の時の「激流」とは程遠い。
例えるなら、チョロチョロと糸水のように流れる、節水コマ付きの水道のようだった。
「お、おい……嘘だろ……?」
アビスは焦った。
試しに、指先から魔弾(破壊魔法)を生成してみる。
ボォォォッ!
指先に、バスケットボール大の高密度の黒炎が顕現した。
その熱量は、一撃で大岩を溶解させ、人間の兵士ならば数人を一瞬で炭化させるほどの威力がある。
人間基準で言えば、宮廷魔術師クラスが長い詠唱の末にようやく発動できる「上級魔術」に匹敵するだろう。
「…………」
だが、アビスは、その強力な黒炎を凝視し、心底がっかりしたように呟いた。
「……なんだ、この、ゴミは?」
アビスは瞬時に脳内で計算を行った。
現在の魔力出力値。
完全体の魔力出力値。
その比率は―――。
「……ひゃ、百万分の一……だと……?」
愕然とした。
百分の一ではない。
千分の一ですらない。
百万分の一。
かつてのアビスならば、指先一つで山脈を吹き飛ばし、大陸の形を変えることさえ造作もなかった。
それに比べれば、目の前の「上級魔術相当」の火球など、線香花火以下のゴミ屑でしかない。
「ふ、ふざけるなァァァァッ!」
アビスは絶叫した(声量は抑えつつ)。
これでは、「世界破壊」どころか、屋敷を半壊させるのがやっとではないか。
(……くそっ! 楔が小さすぎたか! あの遮断弁、どれだけ重いんだ!)
こじ開けた蛇口は、全開には程遠かった。
ほんのわずか、針の穴ほどの隙間を空けたに過ぎなかったのだ。
「……チッ! まあいい。百万分の一とはいえ、人間ごときには過ぎた力だ。今の俺様は『魔人』だ。あの屈辱的な『犬』ではない!」
アビスは気を取り直した。
時計を見る。
残り時間は、あと二分と少々。
楔が砕け散るまでの、貴重な時間。
この三分間を、嘆いて過ごすわけにはいかない。
「さて……何をするか」
世界征服は無理だ。
リディアを殺すのもリスクが高すぎる(失敗すれば、今度こそ永遠に犬になる)。
屋敷を吹き飛ばせば、自分も生き埋めだ。
(……復讐だ)
アビスの脳裏に、閃きが走った。
そうだ。
この五年間、俺様を虐げてきた、このクレセント家に対して、相応の報復をしてやるのだ。
俺様の恐ろしさ、俺様の邪悪さを、骨の髄まで思い知らせてやる。
「……フフフ。いいことを思いついたぞ」
アビスは、邪悪な笑みを浮かべた。
彼は屋根裏部屋を出て、下の階へと降りていった。
足音は立てない。
彼は、リディアの父、バルドル・クレセントの書斎へと忍び込んだ。
バルドル。
リディアの父親であり、この隠れ里の長。
彼もまた、アビスにとっては憎き敵の一人だ。
彼が、事あるごとにリディアに「初代勇者の偉大さ」を説くせいで、リディアの脳筋正義感が加速しているのだから。
書斎の壁には、一枚の大きな肖像画が飾られていた。
金色の額縁に入った、その絵。
聖剣を掲げ、凛々しい表情で彼方を見つめる、金髪の青年。
―――初代勇者。
かつてアビスを封印し、全ての元凶となった男。
バルドルは、この肖像画を家宝として崇め、毎日、額縁をピカピカに磨き上げている。
アビスにとっては、吐き気を催すだけのゴミだが。
「よう、宿敵よ。久しぶりだな」
アビスは、肖像画の前に立った。
残り時間は、あと一分。
「テメエのその、すました顔が、気に食わねえんだよ。……今の俺様のゴミみてえな魔力でも、これくらいならできるだろ」
アビスは、人差し指を立てた。
指先に、なけなしの魔力(百万分の一)を集中させる。
それは、「物質変成魔法」――インクを生成し、対象に恒久的に定着させる術式だ。
一流の魔術師でも数時間はかかる工程だが、腐っても魔人、アビスはそれを一瞬で構築する。
「喰らえ! 魔人アビスの、怒りの鉄槌を!」
アビスは、指先を高速で動かした。
キュッ、キュッ、キュッ!
空中に描かれた魔法陣(極小)を通して、肖像画の上に、漆黒のインクが上書きされていく。
初代勇者の、その凛々しい顔に。
丸い鼻。
垂れた耳。
目の周りの黒いぶち。
そして、額には、下手くそな文字で「ポチ」。
「…………」
完成した。
伝説の勇者の肖像画は、今や、間の抜けた「犬」の落書きによって、見るも無惨な姿へと変貌していた。
しかも、アビスの魔力で定着させているため、通常の洗浄魔法では絶対に落ちない「呪いの落書き」だ。
「フ……フハハハハハ! どうだ! ざまあみろ!」
アビスは、腹を抱えて笑った(小声で)。
見たか。
これが、魔人の力だ。
バルドルが明日の朝、これを見たら、どんな顔をするだろうか。
顔を真っ赤にして怒り狂うか?
それとも、ショックで寝込むか?
どちらにせよ、カオスだ。
混沌だ。
アビスが愛してやまない、負の感情の坩堝だ。
「……はあ、はあ。……やった。やってやったぞ……」
ひとしきり笑った後。
ふと、虚しさが込み上げてきた。
(……俺様は、何をやっているんだ?)
かつて大陸全土を恐怖のどん底に陥れた魔人が。
五年ぶりに取り戻した力を使って。
上級魔術師並みの魔力を、無駄に精密制御して。
やったことが、肖像画への落書き。
(……矮小だ。あまりにも、矮小すぎる……!)
だが、これが現実だ。
これが、今の彼にできる、精一杯の「世界への反逆」なのだ。
その時。
パリンッ。
体内から、硬質な何かが砕け散る音が聞こえた。
限界だ。
楔が、砕けた。
―――プンッ。
間の抜けた音と共に。
アビスの視界が、ガクンと低くなった。
漆黒のコートは消え去り、手のひらは、ぷにぷにの肉球へと変わった。
(……チッ)
元の、無力な黒い毛玉。
ポメラニアン似の雑種犬に、逆戻りだ。
体内に残っていた魔力も、遮断弁が閉じたことでほぼ完全に供給を断たれた。
後には、強烈な脱力感だけが残った。
楔を作るための魔力も使い果たし、また一滴ずつ溜め直さなければならない。
(……だりぃ……)
アビスは、よろよろと歩き出した。
バルドルの書斎を出て、廊下を渡り、リディアの寝室へと戻る。
ドアの隙間から体を滑り込ませ、自分のベッド(高級羽毛布団)へと潜り込む。
リディアは、まだ静かな寝息を立てて爆睡していた。
彼女は何も知らない。
自分の飼い犬が、今しがた、世界の秩序(家の平和)を揺るがすような大罪(落書き)を犯してきたことを。
(……見てろよ)
アビスは、布団の中で丸くなりながら、心の中で毒づいた。
(……今は、これが限界だ。だが、必ず。……必ず、もっとマシな復讐をしてやるからな……)
アビス(犬)の目には、小さな、しかし確固たる意志が宿っていた。
魔人の、初めての自力復活の夜は、こうして更けていった。
◇
翌朝。
クレセント家の屋敷に、バルドルの悲痛な叫び声が響き渡ったのは、言うまでもない。
「だ、誰だアアアアアッ! ワシの、ワシの聖なる勇者様の御尊顔に、こんな冒涜的な落書きをしたのはアアアアアッ!?」
中庭で「お散歩」の準備をしていたリディアとアビス(犬)にも、その声は届いた。
「あら? お父様、どうしたのかしら?」
リディアが首を傾げる。
アビスは、その足元で、知らんぷりを決め込みながら、心の中でニヤリと笑った。
(フン! 精々吠えるがいい、人間どもよ!)
その尻尾が、いつもより少しだけ、軽やかに振られていた。
それは、彼にとって、五年ぶりの「勝利」の味だったのだ。
……あまりにも、矮小な勝利ではあったが。




