第十九話 白亜の旧魔王城
長い旅路の果てに、その「都」は姿を現した。
大陸中央部に位置する広大なカルデラ盆地。
アビスにとっては、目を瞑っていても歩けるほど馴染み深い、かつての本拠地への道。
彼は、リュックサックの中から顔を出し、高揚感を抑えきれずにいた。
(……ようやく帰ってきたぜ)
アビスの鼻が、懐かしい大気の味を捉える。
この盆地特有の、濃密な魔力が淀む空気。
かつて、魔人アビスが世界を恐怖で支配した「魔王城」。
漆黒の黒曜石で築き上げられ、紫色の魔力光が走る、荘厳にして絶対的な闇の要塞。
その姿を拝むのは、封印されて以来、実に数百年ぶりだ。
(……見てろよ、偽善者ども。俺様が城を取り戻した暁には、テメエらが勝手に設置した家具なんざ、全部窓から放り投げて……)
丘を越え、盆地の全貌が見えた、その瞬間。
アビスの思考はフリーズした。
「…………は?」
アビスの死んだ魚のような目が、信じられないものを見るように見開かれる。
そこにあるはずの「漆黒の要塞」は、消えていた。
代わりに、そこに鎮座していたのは…。
白かった。
とにかく、白かった。
城壁も、塔も、尖塔の屋根に至るまで、全てが目も眩むような純白に塗り替えられていた。
さらに、城の至る所に、趣味の悪い金色の装飾や、「勇者の剣」を模した巨大なオブジェが取り付けられ、太陽の光を反射してギラギラと輝いている。
(……ダサい。……圧倒的に、ダサい……!)
アビスは、あまりのショックに嘔吐しそうになった。
俺様の城が。
あの計算され尽くしたゴシック様式の尖塔が。
闇に溶け込む迷彩効果も兼ねた黒曜石の壁が。
まるで、出来の悪いウェディングケーキか、巨大な豆腐の塊のような姿に変わり果てている。
「うわぁ……! すごいですね、アビスさん! 真っ白でピカピカです!」
リディア・クレセントは、アビスの絶望など露知らず、目を輝かせて歓声を上げた。
「あれが『浄化者』の本拠地ですね! 敵のお城なのに、なんだか神々しいです!」
(……神々しいだァ? 目が腐ってんのか、この脳筋は。あれはただのペンキの無駄遣いだ)
アビスはギリギリと歯ぎしりした。
許せない。
勝手に住み着くだけならまだしも、あんな美的センスの欠片もない改装を施すとは。
これは、魔人アビスに対する最大の侮辱だ。
(……ぶっ壊す。絶対にだ。あんな恥ずかしい建物、俺様の黒歴史になる前に瓦礫に変えてやる)
アビスの中で、世界征服よりも優先順位の高いミッションが生成された。
「魔王城原状回復(物理的破壊)計画」である。
「さあ、行きましょうアビスさん! 正面から堂々と……は、無理そうですね」
リディアが声をトーンダウンさせる。
盆地の入り口、旧魔王城(現・聖都エリュシオン)へと続く唯一の大橋には、蟻の行列のように長い検問の列ができていた。
白銀の鎧を着た兵士たちが、入城者を一人一人厳重にチェックしている。
そして、空には無数の飛空艇が旋回し、地上のネズミ一匹逃さないような厳戒態勢が敷かれている。
リディアの手配書は、ここにも当然回っているだろう。
(……チッ。正面突破は自殺行為だな)
アビスは冷静さを取り戻し、周囲を観察した。
聖都の周囲には、城壁に入りきらなかった人々が作ったと思われる、広大な「城下町」……いや、「スラム街」が広がっていた。
白く輝く聖都とは対照的に、そこはボロボロのテントや廃材で組まれた小屋がひしめき合い、土埃と腐臭が漂っている。
「……あれは?」
リディアも気づいたようだ。
「城壁の外に、たくさんの人がいます。……なんだか、様子が変です」
(……行ってみるか。あそこなら、検問もザルだろう)
二人は、街道を外れ、スラム街の方へと足を向けた。
◇
スラム街の空気は、重く、淀んでいた。
道端には、痩せ細った老人や、虚ろな目をした子供たちが座り込んでいる。
彼らの多くは、身体のどこかに欠損があったり、皮膚病を患っていたり、あるいは「人間以外の特徴」――獣の耳や、青い肌などを持っていた。
「……ひどい」
リディアが、リュックのベルトを握りしめ、小声で呟く。
彼女が見たのは、配給の列に並ぶ人々を、白銀の鎧を着た兵士たちが棒で殴りつけている光景だった。
「並ぶなと言っているだろう! 貴様ら『汚染者』ごときにやる食料はない!」
「そ、そんな……。子供だけでも、水だけでも……」
「うるさい! 聖都の美観を損ねるゴミどもが! さっさと失せろ!」
兵士が蹴りを入れる。
泥水をすすって生きているような人々を、聖なる騎士たちが嘲笑っている。
(……なるほどな)
アビスは、リュックの隙間から冷ややかな視線を送った。
「浄化者」の教義。
それは「世界から魔を排除し、純粋なる人間だけの楽園を作る」こと。
つまり、魔族はもちろん、魔力の影響を受けた亜人種や、病気や怪我で「完全」ではない人間もまた、彼らにとっては「不純物」であり「排除対象」なのだ。
(……効率的な選民思想だな。自分たちにとって都合のいい奴だけを壁の中に入れ、それ以外は壁の外で野垂れ死にさせる。……俺様が支配していた頃の方が、まだ平等だったぜ。全員、俺様の下僕として平等にな)
アビスの支配は恐怖によるものだったが、そこに種族差別はなかった。
アビスという絶対者の前では、全ての存在は等しくアビスの下僕。
それだけのシンプルなルールだった。
だが、こいつらのやり方は陰湿だ。
「正義」や「浄化」という綺麗な言葉で飾り立てながら、弱者を踏みつけている。
「……許せません」
リディアの背中から、黄金色のオーラがゆらりと立ち昇る。
彼女の「正義感スイッチ」が入った証だ。
(……おい、待てリディア。ここで暴れたら……)
アビスが止める間もなく、事態は動いた。
「きゃっ!」
前方で、小さな悲鳴が上がった。
見れば、犬の耳を持つ獣人の少女が、転んで兵士の足元に泥を跳ね上げてしまったようだ。
「き、貴様ッ! 我が神聖なる鎧を汚したな!?」
兵士が激昂し、剣を抜いた。
「この汚らわしい獣風情が! 万死に値する!」
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
少女が泣いて謝るが、兵士は聞く耳を持たない。
剣が振り上げられる。
(……チッ。あの馬鹿兵士、往来で子供を斬る気か?)
アビスが、こっそり影から魔法で介入しようとした、その時。
ドゴォッ!
鈍い音が響き、兵士が真横に吹き飛んだ。
民家の壁に激突し、白目を剥いて気絶する。
「……え?」
周囲の兵士たちが呆気にとられる中、その中心に立っていたのは、いつの間にか移動していたリディアだった。
彼女は、右手に持った聖剣(鞘に入ったまま)を肩に担ぎ、仁王立ちしている。
「子供相手に剣を抜くなんて、騎士の風上にも置けませんね」
リディアは、冷たい瞳で兵士たちを見回した。
「……恥を知りなさい」
「き、貴様! 何者だ!?」
「我ら聖騎士団に逆らうとは、反逆罪だぞ!」
残りの兵士たち――五人が、慌てて武器を構える。
(……やっちまった)
アビスは、リュックの中で頭を抱えた(前足で)。
潜入ミッションのはずが、到着早々、大立ち回りだ。
だが、不思議と怒りは湧いてこなかった。
むしろ、目の前のクズどもを吹き飛ばしたリディアの行動に、少しだけ「スッキリした」自分もいる。
(……まあいい。ここはスラムだ。目撃者を全員黙らせれば、騒ぎにはならねえ)
アビスは腹を括った。
「かかれ! この女を捕らえろ!」
兵士たちが一斉に襲いかかる。
だが、リディアにとっては、準備運動にもならない相手だ。
「遅いです!」
リディアが踏み込む。
剣を抜く必要すらない。
鞘による打撃と、足技だけの乱舞。
バコンッ!
ドカッ!
ズガンッ!
兵士たちが次々と宙を舞う。
所要時間、わずか十秒。
全員が地面に転がり、ピクリとも動かなくなった。
「……ふぅ」
リディアは、パンパンと手を払った。
スラムの住人たちは、ぽかんと口を開けてその光景を見ていた。
聖騎士団が、こうも一方的にやられる姿など、見たことがなかったのだろう。
「あ、あの……」
助けられた獣人の少女が、恐る恐るリディアに近づいてきた。
「あ、ありがとうございます……お姉ちゃん」
「どういたしまして。怪我はない?」
リディアが屈み込み、優しく少女の頭を撫でる。
その光景は、一見すると心温まるものだが、アビスにとっては「時限爆弾のスイッチが入った」瞬間にしか見えない。
案の定、スラムの奥から、ざわざわと人の気配が近づいてくる。
増援か?
アビスが警戒した時、現れたのは兵士ではなかった。
ボロボロのローブを纏った、目つきの鋭い男たち。
彼らは、倒れている兵士たちを一瞥し、そしてリディアを見た。
「……おい、あんた。派手にやったな」
リーダー格と思われる男が、低い声で言った。
敵意はない。
だが、油断ならない空気を纏っている。
「こいつらが起きる前に、ここを離れた方がいい。……案内する。ついてこい」
「え? どちら様ですか?」
リディアが首を傾げる。
「俺たちは『黒猫』。……このふざけた聖都に抗う、レジスタンスだ」
◇
リディアとアビスは、男たちに連れられ、スラムの地下深くにある隠れ家へと案内された。
そこは、かつての下水道を改造した広大な空間で、薄汚れた亜人や、傷ついた逃亡者たちが身を寄せ合っていた。
空気は湿気と絶望で淀んでいる。
(……フン。負け犬の巣窟か)
リュックの隙間から周囲を見回したアビスは、鼻を鳴らした。
傷を舐め合い、地上への恨み言を吐くだけの弱者たち。
かつてアビスが支配していた頃なら、視界に入れる価値すらない雑魚どもだ。
「俺は、レジスタンス『黒猫』のリーダー、ガイルだ」
先ほどの男――ガイルが、粗末な椅子に座り、リディアに向き合った。
彼は、狼の耳を持つ獣人だった。
「単刀直入に言おう。俺たちは今夜、ある作戦を決行する。あんたの力が欲しい」
「作戦?」
「ああ。……今夜、聖都の中央広場で『大浄化祭』が行われる。スラムから攫われた同胞たち百人が、見せしめとして『聖なる炎』で焼かれることになっている」
「なっ……!?」
リディアが絶句する。
「百人……!? そんなこと、許されるわけが……!」
「俺たちは、処刑が始まる前に広場へ突入し、仲間を奪還する。……だが、戦力が足りねえ。特に、奴らの精鋭部隊に対抗できる戦力がな」
ガイルは、縋るような目でリディアを見た。
「あんたなら、あるいは……。どうだ? 手を貸してくれねえか?」
リディアは、迷わなかった。
彼女は立ち上がり、ガイルの手を強く握り返した。
「もちろんです! 私にできることなら、何でもします! そんな酷いこと、絶対にさせません!」
熱い正義感。
王道の勇者ムーブだ。
だが、その背中のリュックの中で、アビスは冷ややかに嗤っていた。
(……馬鹿が。自殺志願かよ)
アビスの計算は冷徹だ。
相手は、あの大規模な聖都の警備兵団と、精鋭部隊とやらだ。
対してこちらは、装備も訓練も足りない烏合の衆。
正面から突っ込めば、リディアといえども無事では済まない。
最悪の場合、捕らえられるか、殺される。
そして――「リディアの死」は、即ち「アビスの完全な敗北(永遠の犬化)」を意味する。
(……止めるか?)
アビスは一瞬、リディアの服を噛んで引っ張ってでも止めるべきか迷った。
だが、すぐに思い直した。
ここで逃げても、ジリ貧だ。
自身の魔力回復は遅々として進まず、追手は強力になっていく一方。
現状を打破するには、リスクを冒してでも「何か」を変える必要がある。
(……待てよ?)
アビスの脳裏に、ある邪悪で、かつ起死回生の図式が浮かび上がった。
今夜、広場で派手な戦いが起きれば、どうなる?
聖都中の警備兵が、広場に集まる。
幹部連中も、リディアという「大物」を狩るために広場に釘付けになる。
つまり。
「城の他の場所(特に地下)」は、ガラ空きになる。
(……これだ)
アビスの瞳に、鋭い光が宿る。
城の地下深くには、かつてアビスが封印した「魔力の貯蔵庫」が眠っているはずだ。
もし、アビス自身がそこへ辿り着き、あの膨大なエネルギーを直接取り込むことができれば……?
(……いける。あの貯蔵庫のエネルギーを起爆剤にすれば、勇者の呪い(遮断弁)を、内側から強制的に破壊できる!)
呪いが解ければ、リディアという「鍵」への依存はなくなる。
彼女が生きようが死のうが、アビスは完全な魔人として復活できるのだ。
問題は、「時間」だ。
リディアが広場で戦い、敵を引きつけている間に、アビスが地下へ潜入し、魔力貯蔵庫にアクセスして呪いを解く。
もし、アビスが呪いを解く前に、リディアが力尽きて死んでしまえば――その瞬間、アビスの永遠の犬化が確定する。
(……賭けだな)
アビスは、リュックの隙間から、相棒の横顔を見上げた。
燃えるような決意に満ちた、頼もしくも危なっかしい横顔。
(いいか、リディア。テメエは最高の囮だ。あの馬鹿でかい声と、派手な剣技で、敵の注目を一身に集めろ。……そして、死ぬなよ)
アビスは、心の中で念じた。
(絶対に、死ぬんじゃねえぞ。……俺様が、地下で用事を済ませる『その時』まではな)
これは共闘ではない。
命懸けのタイムトライアルだ。
リディアの耐久力が尽きるのが先か。
アビスが呪いを解くのが先か。
「アビスさん! 行きますよ!」
リディアが気合を入れる。
彼女は、自分がアビスの「時間稼ぎの駒」にされたとは露知らず、相棒の同意を求めてくる。
「ワン!(おうよ! 暴れるぞ、脳筋!)」
アビスは、軽快に吠えてみせた。
尻尾を振りながら、その内面では冷や汗をかいている。
頼むから長生きしてくれよ、俺様の生命線。
決戦の時は、今夜。
勇者は「正義」のために。
そして魔人は「己の運命」を書き換えるために。
それぞれの目的を乗せて、白く塗り固められた屈辱の城への潜入作戦が始まろうとしていた。
◇
その頃。
聖都エリュシオン、最上層の「天守閣(旧魔人の玉座)」。
純白の壁と、豪奢なステンドグラスに囲まれた部屋で、一人の男が玉座に深く腰掛けていた。
金色の髪。
碧眼。
その顔立ちは、バルドルが毎日額縁を磨いていたあの肖像画――「初代勇者」そのものであった。
「……来たか」
男は、手元の水晶玉に映るスラムの様子を見下ろし、静かに呟いた。
その手には、白く輝く美しい長剣――アビスを封印した黒い聖剣と対をなす「白い聖剣」が握られていた。
「魔の王と、穢れた我が末裔よ。……待っていたぞ」
彼の瞳には、慈愛も正義もない。
あるのは、プログラムされた機械のような、冷徹な「使命」の光だけ。
「システム、起動。……『魔』の完全排除を開始する」
男が立ち上がると、その背後で、巨大な機械仕掛けの天使像が、ギギギ……と音を立てて動き出した。
アビスたちが向かう先には、単なる兵士たちとは次元の違う、伝説そのものが待ち構えていた。




