第十八話 解毒(後編)
魔導迷宮の最下層、人工太陽が照らす植物園エリア。
そこで繰り広げられているのは、世界で最も過酷で、かつシュールな「看病」の光景だった。
(……開けろ! 開けろってんだよ、この石頭!)
黒いポメラニアン似の犬――魔人アビスは、地面に横たわるリディア・クレセントの顔の上で、必死の格闘を繰り広げていた。
彼の口には、先ほど錬成した「特製ハイパー・アンチドート」が入ったガラス瓶がくわえられている。
だが、肝心のリディアは、毒による麻痺と苦悶で歯を食いしばり、口を固く閉ざしているのだ。
(……クソッ! 手が使えねえのがこんなに不便だとは……!)
アビスは、前足でリディアの顎をぐいぐいと押した。
だが、勇者の末裔の顎は、万力のように固い。
魔力切れでフラフラのアビス(犬)の筋力では、びくともしない。
「ウゥーッ! ワン!(飲め! 飲まないと死ぬぞ!)」
アビスは吠えたが、リディアの意識は戻らない。
彼女の顔色は、土気色を通り越して紫色になりつつある。
呼吸も、浅く、途切れがちだ。
一刻の猶予もない。
(……ええい、こうなったら!)
アビスは、リディアの顔の上に乗り上げた。
そして、前足の肉球をリディアの鼻の下(上唇)に押し当て、後ろ足をリディアの下顎にがっちりと引っ掛ける。
まるで、自分の体を「突っ張り棒」にするような体勢だ。
(……ぬんっ!)
アビスは、丸めていた背中を一気に伸ばし、全身のバネを使って上下に力を加えた。
小さなポメラニアンによる、決死のジャッキアップ。
ミシミシ……。
勇者の頑丈な顎が、アビスの背筋力に負けて、わずかに開き始める。
(……今だ!)
アビスは、わずかに開いた唇の隙間に、くわえていたガラス瓶の口を強引にねじ込んだ。
カチッ。
瓶が歯に当たる音。
成功だ。
瓶がストッパーとなり、口は開いたままだ。
アビスはリディアの顔から飛び降りると、瓶の底を前足で押し上げ、黄金色の液体を口内へと流し込んだ。
「……んぐ……」
リディアの喉が動く。
反射的な嚥下。
液体が食道を通り、胃へと落ちていく。
アビスは、最後の一滴まで慎重に流し込み、空になった瓶を横に放り投げた。
「……ハァ、ハァ、ハァ……」
アビスは、リディアの胸の上に突っ伏した。
心臓が早鐘を打っている。
魔力切れの倦怠感に加えて、慣れない肉体労働による疲労。
今の彼は、雑巾のように絞りきられた状態だった。
(……終わった……。もう、指一本動かせねえ……)
アビスは、薄れゆく意識の中で、リディアの顔を見つめた。
薬の効果は劇的だった。
紫色の顔色が、見る見るうちに赤みを取り戻していく。
苦しげだった呼吸も、深く、穏やかな寝息へと変わる。
解毒完了。
そして、「ハイパー」な滋養強壮効果により、彼女の体力も急速に回復しているはずだ。
(……世話が焼けるぜ、全く……)
アビスは、安堵と共に目を閉じた。
リディアの体温が、心地よい暖かさとなって伝わってくる。
泥だらけで、汗臭い少女。
だが、その鼓動は力強く、生きる力に満ち溢れていた。
アビスは、その鼓動を子守唄代わりに、深い眠りへと落ちていった。
◇
「……んんっ!」
リディアが目覚めたのは、それから数時間後のことだった。
彼女は、勢いよく上半身を起こした。
「……あれ? 私、生きてる?」
リディアは、自分の両手を見つめた。
痺れはない。
痛みもない。
それどころか、なんだか妙に体が軽い。
全身に力がみなぎり、病み上がりとは思えないほどの爽快感がある。
「すごい……。毒蛇に噛まれたはずなのに……」
彼女は、左手首を見た。
そこには、小さな噛み跡が残っていたが、黒ずみは消え、綺麗なピンク色の皮膚が再生していた。
「どうして……?」
リディアは周囲を見渡した。
そこには、空になったガラス瓶が転がっていた。
そして、自分の膝の上で、泥のように眠っている小さな黒い毛玉。
「……アビスさん?」
リディアは、アビスをそっと抱き上げた。
彼は、ぐったりと脱力しているが、その口元からは微かに「薬の匂い」がした。
リディアの脳内で、点と点が線で繋がる。
「……そうか。分かりました!」
リディアは、ポンと手を叩いた。
「私が倒れた後、アビスさんが一生懸命、薬草を探してきてくれたんですね! そして、この瓶に入れて、私に飲ませてくれた……!」
もちろん、アビスが「魔人に変身して」「高度な錬金術で」薬を作ったなどとは夢にも思わない。
彼女の想像の中では、小さな犬が健気に森を駆け回り、薬草を口で噛んで集め、看病してくれたという、涙ぐましい動物映画のようなストーリーが出来上がっていた。
「アビスさん……っ!」
リディアは、感動で目を潤ませた。
そして、眠っているアビスに頬ずりをした。
「ありがとうございます! あなたはやっぱり、世界一賢くて、優しいワンちゃんですね!」
アビスは、リディアの頬ずりに迷惑そうに顔をしかめたが、起きる気配はない。
リディアは、アビスをリュックに優しく収めると、立ち上がった。
「よーし! 元気百倍です! アビスさんのためにも、早くここを抜け出さないと!」
彼女の足取りは軽い。
毒の危機を乗り越え、絆(一方的な勘違いだが)を深めた一人と一匹は、植物園エリアを抜け、ついに迷宮の出口へと続く階段にたどり着いた。
◇
迷宮を抜けた先は、星空の下だった。
そこは、荒涼とした岩場の陰にある、小さな泉のほとり。
安全で、静かな場所だ。
リディアはそこで野営の準備を整え、焚き火を起こした。
パチパチと爆ぜる火の粉。
温かいスープの香り。
アビスはようやく目を覚まし、リディアから特盛りの干し肉(ご褒美)をもらって腹を満たしたところだった。
「今日はもう遅いですから、ここで休みましょう」
リディアは、毛布にくるまりながら言った。
彼女はすぐに寝息を立て始めた。
あの毒の後遺症もなく、むしろ薬の副作用(滋養強壮)で肌ツヤが良くなっている。
恐るべき回復力だ。
アビスは、焚き火のそばで、一人(一匹)起きていた。
炎を見つめながら、ふと、この数日間の出来事を振り返る。
ゴーレムのハッキング。
解毒。
どちらも、アビスが「三分解呪」を使わなければ切り抜けられなかった危機だ。
(……綱渡りだな)
アビスは自嘲した。
今はまだ、リディアの勘違いと運の良さで正体を隠せている。
だが、敵の本拠地、すなわちかつての自分の居城に近づけば近づくほど、誤魔化しは効かなくなるだろう。
そして何より、アビス自身の「焦り」があった。
(……俺様の力。……戻りが遅すぎる)
アビスは、自分の前足を見つめた。
「三分解呪」で使える魔力は、本来の力の百万分の一。
それは、ただ単に「蛇口が閉まっている」からだと思っていた。
だが、最近、解呪するたびに感じる「違和感」がある。
それは、魂の奥底にある「扉」の向こう側。
無限のエネルギーが渦巻く「異空間」との接続点。
そこに、何か「ノイズ」が混じっているような感覚だ。
―――五年前。
アビスは、記憶の糸を手繰り寄せた。
リディアの屋敷で、犬として飼われ始めた当初の屈辱的な日々。
「ハウス!」の呪いに縛られ、思考さえも犬に近づいていく恐怖の中で、彼は必死に自分を保とうとしていた。
夜な夜な行っていた「呪いの解析」。
それは、単に解呪方法を探るだけでなく、自分自身の「過去」を再確認する作業でもあった。
(……あの時、俺様は思い出したんだ)
アビスの脳裏に、遙か昔の記憶が蘇る。
古代文明が栄華を極めていた時代。
アビスは、その圧倒的な力で世界を蹂躙し、文明を一つ、また一つと破壊していった。
人々は彼を恐れ、そして最後には……封印した。
(……だが、妙だ)
アビスは、焚き火の炎の中に、過去の幻影を見た。
彼には、幼少期の記憶がない。
気づいた時には、すでに「魔人」として完成しており、破壊の力を持っていた。
親の顔も、生まれ故郷の風景も、何一つ覚えていない。
あるのは、燃え盛る都市と、逃げ惑う人々、そして自分に向けられる「恐怖」の視線だけ。
(まあ、俺様は最初から最強だったんだ。ガキの頃の記憶なんて些細なことだ。……だが、気に食わねえのは「そこ」じゃねえ)
アビスが引っかかっているのは、自分の起源ではない。
「浄化者」と呼ばれる連中の動きだ。
あの黒騎士の技術。
あの迷宮のゴーレムの構造。
それらは全て、アビスが滅ぼしたはずの「古代文明」の遺産だ。
なぜ、現代の人間がそれを使いこなしている?
そして、なぜ奴らは、アビスの存在をこうも正確に「解析」しているような動きを見せるのか?
(……あの聖剣もだ)
アビスは、リディアの傍らに置かれた黒い聖剣を一瞥した。
なぜ、あの剣だけが、アビスの力を封じることができるのか?
なぜ、あの剣は、アビスの魂の接続をコントロールする「鍵」として機能するのか?
それはまるで、アビスという存在の「仕様書」を知り尽くした者が作った、専用の「制御装置」のようではないか。
(……『浄化者』の連中は、何かを知っている)
単なる「魔族狩り」ではない。
彼らは、アビスという存在の「弱点」や「構造」を、アビス自身よりも深く理解しているフシがある。
まるで、アビスの過去――失われた記憶の空白地帯に、奴らが入り込んでいるかのような、生理的な不快感。
(……面白くねえな)
アビスは、牙をむき出しにした。
自分が何者であろうと関係ない。
俺様は魔人アビス。
全てを支配し、全てを破壊する絶対強者だ。
人間ごときに、知ったような顔をされてたまるか。
(……教えてやるよ、偽善者ども。テメエらがどれだけ俺様を研究しようが、どれだけ対策を練ろうが、計算通りにいくとは限らねえってことをな)
アビスは、立ち上がった。
迷いはない。
魔王城へ行けば、全ての答えがあるはずだ。
そこには、アビスが全盛期に築いた知識の宝庫があり、力の源泉がある。
そこへ戻り、完全な力を取り戻せば、失われた記憶も、敵の正体も、全て明らかになるだろう。
「……んぅ……アビスさん……?」
リディアが、寝言のように呟いた。
彼女の手が、無意識にアビスを求めて彷徨う。
アビスは、ため息をつきながら、その手のひらに自分の頭を押し付けた。
「ワン(……ここにいる。寝てろ)」
今はまだ、この暖かな手のひらの中で、力を蓄える時だ。
犬のフリをして、尻尾を振って、機を待つ。
それが、今の彼にできる、最大の反逆への準備だった。
夜が明ければ、旅は続く。
目指すは、大陸中央。
「浄化者」の本拠地にして、アビスのかつての居城、魔王城。
そこには、アビスが忘れている過去と、世界の真実が待っている。
リディアとアビス。
凸凹コンビの旅路は、いよいよ終盤戦へと突入しようとしていた。




