第十七話 解毒(前編)
「古代魔導迷宮」の最下層。
長い石階段を降りきった先に広がっていたのは、予想を裏切る光景だった。
明るいのだ。
遥か頭上、ドーム状になった高い天井には、巨大なオレンジ色の魔光石――「人工太陽」が埋め込まれ、昼間のような光を降り注いでいる。
そして、その光の下には、石造りの床を埋め尽くすほどの、鬱蒼とした亜熱帯のジャングルが広がっていた。
「うわぁ……! すごいです、アビスさん! 地下なのに森があります!」
リディア・クレセントは、目を輝かせて周囲を見回した。
巨大なシダ植物、天井まで届く太い蔦、そして色鮮やかな(毒々しい)花々。
かつてこの迷宮の居住者たちの食料生産と空気清浄を担っていた「環境維持プラント」。
それが、管理者を失ったまま千年の時を経て野生化した成れの果てだ。
(……フン。懐かしいこった)
背中のリュックサックから顔を出した魔人アビス(犬)は、鼻を鳴らした。
この人工太陽の魔力波長、そしてこの蒸し暑い空気調整。
すべて、かつて彼が滅ぼした古代文明の技術だ。
文明は滅びても、システムだけが馬鹿正直に稼働し続けている。
皮肉な光景だ。
「こっちから風が吹いてます! きっと出口ですよ!」
リディアは、アビスの感傷などお構いなしに、巨大な葉をかき分けて進んでいく。
その顔には煤と泥がこびりついているが、足取りは軽い。
だが、アビスの「危険感知センサー」は、ここに入った瞬間から警告音を鳴らしっぱなしだった。
(……おい、気をつけろよ。ここはただの植物園じゃねえ)
アビスは鼻をひくつかせた。
甘い花の香りに混じって、微かだが、鋭い刺激臭が漂っている。
神経毒の匂いだ。
このエリアには、古代の品種改良によって生み出された、凶悪な「生物兵器」の末裔たちが蔓延っている。
「あ! 見てください、アビスさん! 綺麗な花!」
懲りないリディアが、足を止めた。
彼女の視線の先、巨大な切り株の上に、青紫色の美しい花が咲いていた。
花弁の縁が金色に輝き、人工太陽の光を反射して妖しく煌めいている。
「あれ、図鑑で見たことあります! 『月光花』です! 滋養強壮に効く薬草ですよ!」
(……待て。違う)
アビスの目が鋭く光る。
鑑定眼発動。
あれは『月光花』の擬態だ。
正体は、『誘引魔花』。
不用意に近づいた獲物を、花粉で麻痺させて捕食する肉食植物だ。
「ワン!(近づくな! それは罠だ!)」
アビスが吠える。
だが、リディアの「薬草を見つけた喜び」は、アビスの警告よりも早かった。
「これがあれば、アビスさんの疲れも取れますね!」
彼女は、アビスのためを思って(というところが余計にタチが悪い)、その花に手を伸ばした。
その瞬間。
シュパッ!
花の根元の茂みから、紫色の影が飛び出した。
植物ではない。
花を餌場として待ち伏せしていた、別の捕食者だ。
「―――ッ!?」
リディアが反射的に手を引っ込める。
だが、影は速かった。
紫色の鱗を持つ、体長一メートルほどの細長い蛇。
「紫電蛇」。
その牙には、即効性の猛毒が含まれている。
ガブッ!
蛇の牙が、リディアの手首を掠めた。
浅い。
だが、皮膚を裂き、赤い血が滲む。
「痛っ……!」
リディアは顔をしかめたが、即座に反撃に転じた。
彼女は、噛み付いてきた蛇の胴体を、空いているもう片方の手で鷲掴みにしたのだ。
「よくも……アビスさんにあげるお花を……!」
バシッ!
リディアは、蛇を鞭のように振り回し、近くの岩に叩きつけた。
さらに、足で踏みつけ、グリグリとねじり込む。
哀れな蛇は、断末魔を上げる暇もなく、ミンチと化した。
「ふぅ。……びっくりしました」
リディアは、手を払い、何事もなかったかのように立ち上がった。
アビスは、リュックからその光景を見て、戦慄していた。
(……素手で毒蛇を叩き潰すなよ……。野生児か、お前は)
だが、問題はそこではない。
アビスの視線は、リディアの左手首に釘付けになっていた。
白い肌に、二つの小さな牙の跡。
そこから流れる血の色が、鮮やかな赤から、徐々にどす黒い紫色へと変色し始めている。
「ワン!(おい! 噛まれたのか!?)」
アビスが吠える。
リディアは、自分の手首を見て、あっけらかんと笑った。
「あ、大丈夫ですよアビスさん。ちょっと掠っただけです。これくらい、唾をつけておけば治ります!」
彼女は、本当に傷口を舐めようとした。
(やめろ馬鹿! 毒を吸い込む気か!)
アビスは、リディアの顔面に頭突きをして止めた。
こいつの危機管理能力はどうなっているんだ。
あの蛇はただの毒蛇じゃない。
古代文明が「対人兵器」として改造した、強力な神経毒を持つ変異種だ。
その毒性は、筋肉を弛緩させ、神経伝達を遮断し、最終的には呼吸中枢を麻痺させて死に至らしめる。
「……あれ?」
リディアの動きが、ふらりと揺らいだ。
彼女は、額に手を当て、瞬きを繰り返した。
「なんだか……急に、視界が……ぐるぐるして……」
(……毒が回ってきたか)
毒の回りが早い。
激しい運動(蛇を叩きつけた動作)で血流が良くなっていたのが仇になったようだ。
「アビス、さん……? なんだか、力が……」
リディアの膝が折れる。
彼女はその場に座り込み、リュックを降ろした。
その顔色は、見る見るうちに青白くなり、唇は紫色に染まっていく。
呼吸が、浅く、早くなる。
「はぁ……はぁ……。おかしいですね……。眠気が……」
「ワン! ワン!(寝るな! 寝たら死ぬぞ!)
アビスは、リディアの膝に前足をかけ、必死に吠えた。
だが、リディアの瞳の焦点は合っていない。
強力な麻痺毒が、彼女の強靭な肉体の自由を奪い、意識を泥沼へと引きずり込んでいるのだ。
ドサリ。
リディアは、湿った地面に横たわった。
完全に意識を失ったわけではない。
うつろな目は開いているが、指一本動かせない状態だ。
いわゆる、「金縛り」に近い。
意識はあるが、体は動かない。
そして、毒は確実に、彼女の心臓へと向かっている。
(……おい、呪い。どうだ? 『生命の危機』判定は?)
アビスは、自身の体内の安全装置を確認した。
……反応なし。
またか。
また、このパターンか!
即死性の物理ダメージや、心停止には反応するくせに、こういう「じわじわ系」の状態異常には反応が鈍い。
今の状態は、「瀕死」ではなく「重度の麻痺」と判定されているのだ。
放置すれば数時間後には呼吸が止まって死ぬだろうが、その「死ぬ直前」になるまで、強制変身は発動しない。
(……クソッ! 待ってられるか!)
数時間後?
そんなに待っていたら、毒が全身に回って、助かったとしても後遺症が残る。
それに、ここは魔物の巣窟だ。
動けない獲物が転がっていれば、血の匂いを嗅ぎつけた他の魔獣たちが、ワラワラと集まってくるだろう。
その時になって「完全復活」したところで、リディアの体は既に食い荒らされているかもしれない。
(……やるしかねえ)
アビスは、覚悟を決めた。
幸い、前回のゴーレム戦から二十四時間以上が経過している。
「三分解呪」のチャージは完了している。
アビスは、リディアの顔を覗き込んだ。
彼女の瞳は虚ろで、こちらの姿を認識できているかどうかも怪しい。
だが、念には念を入れる。
(……見えてるか? 脳筋。……聞こえてるか?)
返事はない。
ただ、浅い呼吸音だけが聞こえる。
アビスは、周囲を見渡した。
誰もいない。
魔物の気配はあるが、まだ距離がある。
(……今だ)
アビスは、リディアの視界に入らない位置――彼女の顔の後ろ側へと移動した。
そして、体内の魔力を練り上げる。
丹田に溜まった、二十四時間分の魔力の雫。
それを楔に変え、魂の遮断弁に打ち込む。
(……解呪ッ!)
カッ!
薄暗い植物園の中で、黒紫色の光が瞬いた。
四度目となる三分解呪。
犬の姿が消え、漆黒の魔人アビスがその場に立つ。
残り時間、三分。
出力、百万分の一。
「……さて。とっとと治してやるか」
アビスは、倒れているリディアの手首を掴んだ。
傷口は黒く変色し、腫れ上がっている。
本来のアビスであれば、最高位の治癒魔法「女神の慈悲」を一発かければ、毒はおろか、虫歯一本まで完治させられただろう。
だが、今の彼にそんな高度な魔法は使えない。
魔力容量が足りなさすぎる。
今の魔力で使える解毒魔法は、初級の「解毒」程度。
それでは、この強力な毒は中和しきれない。
「……チッ。魔法がダメなら、科学だ」
アビスは、瞬時に判断を切り替えた。
魔力が足りないなら、物理的な「薬」を作ればいい。
幸い、ここは古代の植物園跡地。
材料は腐るほどある。
そして何より、毒の発生源である「紫電蛇」の死骸が、すぐそこにある。
毒蛇の毒に対する特効薬は、その蛇の肝や毒腺から作れる血清だ。
「……時間はねえぞ。三分調理だ」
アビスは動いた。
まず、リディアが踏み潰した蛇の死骸を拾い上げる。
グシャグシャだが、肝臓と毒袋は残っている。
アビスは魔力で指先を鋭利なメスに変え、瞬時に解体した。
摘出完了。所要時間、十秒。
次に、周囲を見渡す。
解毒作用のある薬草。
中和剤となる鉱物。
そして、媒体となる水。
アビスの脳内データベースが、視界に映る全ての素材を検索し、最適なレシピを構築する。
(……『月光草』の根、『アイアン・リーフ』の汁、そしてこいつ(蛇)の肝。……いけるな)
アビスは、目当ての草をむしり取り、近くにあった手頃な大きさの岩のくぼみに放り込んだ。
すり鉢代わりだ。
石で叩き潰し、ペースト状にする。
そこに、蛇の肝を混ぜ合わせる。
水がない?
アビスは、近くのシダ植物の茎を切り、そこから滴る樹液を注ぎ込んだ。
この樹液には、微弱だが魔力伝導作用がある。
「……混ぜるぞ」
アビスは、右手に黒い魔力を纏わせた。
ここからが、魔人の腕の見せ所だ。
ただ混ぜるのではない。
魔力を「触媒」とし、さらに「熱源」として利用し、素材の化学反応を強制的に加速させるのだ。
いわば、魔力を使った高速錬金術。
「……燃えろ、『煉獄の炎』(極小)」
ボッ。
アビスの指先に、ライターの火ほどの小さな黒炎が灯る。
彼はその指を、岩のくぼみの中のペーストに突っ込んだ。
普通なら焦げるだけだが、アビスは魔力操作で「熱」と「成分の融合」を完璧にコントロールする。
ジュワワワワ……!
不気味な音と共に、ペーストが泡立ち、変色していく。
緑色から、紫色へ。
そして、透明な黄金色へ。
強烈な悪臭が漂うが、それが薬効成分が凝縮された証だ。
(……残り時間、六十秒)
額に汗が滲む。
百万分の一の魔力で、これほど精密な錬金術を行うのは、針の穴に糸を通しながら綱渡りをするようなものだ。
少しでも魔力供給が乱れれば、薬は爆発するか、ただのヘドロになる。
「……凝縮しろ」
アビスは、さらに魔力を注ぎ込んだ。
不純物を焼き飛ばし、純粋な解毒成分だけを結晶化させる。
水分が蒸発し、底に残ったのは、とろりとした琥珀色の液体。
「……完成だ。『特製ハイパー・アンチドート』」
アビスは、ニヤリと笑った。
この世界に存在するあらゆる神経毒を中和し、さらに滋養強壮効果まで付与した、魔人印の特効薬だ。
市場に出せば、金貨千枚は下らない代物。
それを、アビスは近くに落ちていた空き瓶(リディアが飲み干したポーションの瓶)に、指先ですくい入れた。
「……ふぅ。ギリギリだな」
残り時間、十秒。
アビスは、瓶を持ってリディアの元へ戻った。
彼女はまだ、苦しげに呼吸をしている。 顔色はさらに悪くなっている。
「……飲ませてやるよ。感謝しな」
アビスは、リディアの上半身を抱き起こし、口元に瓶を近づけた。
だが、その時。
パリンッ。
無情な音が響いた。
時間切れだ。
楔が砕ける。
「……しまった!」
―――プンッ。
視界が低くなる。
魔人の腕が消え、黒い前足に戻る。
支えを失ったリディアの体が、ドサリと地面に倒れる。
アビス(犬)も、その反動で転がり、瓶を取り落としそうになった。
(……あっぶねえ!)
アビスは、空中で必死に体を捻り、落ちてくる瓶を口でキャッチした。
ガチンッ! 犬の牙が、ガラス瓶をしっかりとくわえ込む。
割れなかった。
中身もこぼれていない。
(……セーフ……)
アビスは、地面に着地し、安堵のため息をついた(鼻息で)。
魔力切れの倦怠感が全身を襲う。
手足は鉛のように重い。
だが、目の前には、毒に侵され、今にも命の灯火が消えそうなリディアがいる。
薬はある。
だが、手のない犬の姿で、どうやって意識のない人間に薬を飲ませるというのか。
(……やるしかねえ)
アビスは、震える足で立ち上がった。
瓶をくわえ直し、決死の覚悟でリディアの顔へと歩み寄った。




